聖書素読でいつも思うことは、新聖歌120番「十字架より叫び聞こゆ」の讃美歌です。
「神の愛と忍耐 キリストの十字架の苦しみ罪の赦し なんという恵み! なんという恵み!」
それほど難しくない事のように思ってしまいますが、なかなかどうして…。聖書を通読する目的で「聖書素読」を兄弟姉妹と共に続けさせて頂いております。これは、背後の祈りと助けなくしては、成し得ない事と思っています。
聖書素読スタートの頃は、神学校で学んだと同じように、創世記から始めて、たったかたったか読み進めていくだけの一時間。二人の姉妹たちと、共に過ごす日曜日の夜の礼拝堂は静かでした。母の危篤の知らせを受けたのは、素読の時。「私達で読みますから、すぐに行って下さい」この言葉に押し出されるようにして、夜行列車で山形県へ。翌朝父に見守られつつ、母は洗礼を受け、その三日後に眠りにつきました。信仰の友の祈りに支えられました。
火曜日の午前中のクラスは、私自身が少し慣れ始めた頃にスタートしました。訳の違う聖書を開いたり、その箇所に相応しい地図をながめたり、時には聖書の世界に思いを馳せたりしました。ある年の夏休みには、宿題を出すように導かれ「マルコによる福音書の主イエスの語られた全ての言葉をノートに書き出す」と言う宿題です。書き出してみて分かった事は、主イエスのお言葉の多いことには驚かされました。また、北イスラエルと南ユダの王様の年表を指で押さえながら、最後まで読み進めた時の感動を、今も忘れることができません。
また、火曜日午前中後半の素読は、受洗後クラスの意味合いもあったような気がします。3年間も続きました。聖書の言葉を読むと共に、いろいろなことを教えられた大切な時でした。
水曜日の午前中は、三人の子供のお母さん。上の二人は幼稚園。その間に赤ちゃんを連れての聖書素読でした。私自身の四人の子育ての時と重ねていたように思います。読みたい本も聖書も読めない苦しい経験?(子育ては楽しいものでしたが…)私達夫婦は応援したいと思いました。幸雄牧師はベビーシッターをして私達を助けてくれました。祈りと助けに支えられての素読。他にも様々な性格の素読に向き合い、反省することも多々ありました。
これからも、共に聖書の御言葉に聴き深く根を下ろして行けたら嬉しく思います。
あすか野キリスト教会牧師 吉川美喜