エルサレム独り旅(44)

 地下にあるオールイトディスコは宿泊者は入場無料なので社会見学のつもりで行ってみた。そのホールはさほど広くなくファションショーで設けられているような「お立ち台」が中央にあり、何人かの女性がその上で踊っている。ホールは暗く来場者の若者達でごったかえしている。飲み物(ビール、コーラなど)が飛ぶように売れ、たばこの煙でむせかえっている。座る席は見当たらず、皆立って踊ったり、段上で踊っている人を見ている。

 音楽の音量はけたたましく大きく、私の限界を超えている。私は10分ほどでそこを退散して部屋のベッドに戻った。しかし、窓から入ってくるディスコの騒音でなかなか寝付けない。これでは体調が維持できないので予定を一日早め、ユダの荒野のツアーの後でキブツに帰ることにした。

 午前3時すぎ、宿の係員に起こされてツアーに出発、2台の乗合タクシーに分乗して、先ず同じような宿に行き参加者を拾い、車は暗夜をつっきって南のマサダの要塞に向かった。ツアーの中には韓国人らしい若者たちもいる。5時過ぎにマサダに到着した。下車し入場ゲイトのある金網に囲まれた所まで歩いて行き 8 シェケルの入場料を支払って歩いて頂上まで登って行くのだ。

 空が少し白みかけた中をヘアピン状の草木のない石ころだらけの道を登り続ける。高さは400m、途中で何人かの体格の良い欧米人が立ち止まり手を膝について嘔吐している。

エルサレム独り旅(43)

 シオン門からヤッフォ門まで歩いて行き、その近くの店で軽い夕食を摂った。ピタパンに羊の肉と野菜を挟んだもの(5 シェケル)と目の前で生の人参を搾ったコップ一杯のジュース(3シェケル)合計約300円だ。そこから宿に帰ることにした。

 ヤッフォ通りの左側の店舗を見ながら歩くことにした。すると直ぐにイスラエル聖協会の店があったので躊躇することなく中に入った。そこに聖書に出てくる地のポスターがあったので三種類1枚づつ買った(10ドル)。

 聖書全巻朗読のカセットテープ(ヘプライ語)もあった。旧約聖書は一巻7ドル、全巻で350ドル、新約は全巻で 30ドルで買えるという。私は旧約の詩が欲しいと言うと詩は人気があり、今在庫切れだと言われた。日本から注文してくれたら発送できると店長の男性(イスラエル聖協会の長)は言って名刺をくれた。

 宿に戻ると明朝ユダの荒野を巡るツアーがあり、費用は50シェケルだという。早速申し込んだ。出発は朝3時半。寝るには早いので地階のオールナイトディスコの見物に行った。

エルサレム独り旅(42)

 別れ際にその若い牧師が「あなたはユダヤ人伝道をどう思いますか」と尋ねてきた。私は当時の自分の理解していることを話した。「主イエス様が命じられたのは全世界の数である。旧約のイスラエル(神の民)は現在の教会である。イスラエルの祝福を祈ることは、新約時代は教会の祝福を祈ることである。

 今はキリストを信じた者たちが神の契約の民であるのだから。ただ終りの時、ユダヤ人の信仰が回復するというのも神のご計画である。だからユダヤ人伝道に神からの召しを受けたならそれに携わったらいい」と。彼は「そうですね」と言い互いに住所と氏名を交換し握手して別れた。

 この頃も日本からの旅行者が少なかったので彼らに会え久々に日本語で話せたので嬉しかった。ユダヤ人に対する見方は 16年後の今は随分違ったものとなっている。ユダヤ人も異邦人もどちらもイエスキリストによってのみ救われ、真の神の民となるのである。そこには何の区別もなくキリストに於いて一つであり、共にアブラハムの子孫とまで断言されている(ガラテヤ 3:26-29)。

 しかし他方ユダヤ人と異邦人は召しに於いては明確に区別されている(ローマ 11:25-29)。異邦人はユダヤ人に対して誇り高ぶってはならない。(ローマ 11:8-24)。異邦人数会はユダヤ人教会に対して恩義があり、支援する義務さえもあるということを(ローマ 14:26,27)。

エルサレム独り旅(41)

 聖墳墓教会堂の奥深く続いているトンネル状の空間。所々にランプがあり薄暗い中を歩いて行った右側に大きな岩を掘った洞窟。その奥行きは浅いが、ここでコンスタンチヌスの母へレナがキリストが架けられた十字架の破片を発見したと伝えられている(AD330年頃)。

 この場所は会堂の地下部分で聖ヘレナ聖堂と呼ばれている。この場所まで見学に来る人は少なく黙想するには良い場所である。こにには司祭達の姿も無く、時々若いカップルとすれ違っただけであった。

 この会堂から出てヤッフォ門に向かったが着いてみたらシオン門であった。そこでダビデ王の墓(大きな棺)を見てカメラに納めてからアパルーム(最後の晩餐とペンテコステの部屋)に向かった。その途中5人の日本人グループと出会った。

 男性2人女性3人、全員が若い。聞いてみると彼らは千葉県下の教会の人々で、一人は牧師であった。彼らは3年前にも来て、今回は二回目でエジプトから車でシナイ半島を走り抜けて来たのだと云う。そのレンタカーでイスラエルを周遊中なのだ。今オリープ山にある一人一泊 70ドルのホテルに泊まっているようだ(私の宿は一泊4ドル)。彼らはこの後ガリラヤ地方をドライブして回る予定だと言った。

エルサレム独り旅(40)

 聖墳墓(ホーリースクウェア、イエスキリストの墓とされる場所)を見学するために私も行列に並ぶことにした。暫く並んでいると墓の前まで進んで来た。墓は少し高い位置にあるので入口に行くのに石段を上って行く。

 石段の下にも上にも両側に司祭が立っていて見学者を見守っている。狭い入口から体を屈めて入ると狭い部屋があり、その中央に石の祭壇のようなものがあり、見学を終わった人はその左側から出て行き、これから見学する人は右側を通ってが置かれている隣の部屋に入ってゆく。

 棺は右側にあり前後と右側の壁にぴったりと納まっていて左側の空間はとっても狭くすれ違うのもままならない程である。ここにも司祭がいて早く見終えるようにと急かしている。棺の石はめのう石のようで光沢があり、橙色の縞模様が入った立派なもので手で触れるとすべすべしている。この部屋には一度に4~5人しか入室できないので、ゆっくり黙想などしている時間は無く、次の見学者のために短時間で見学を終えなければならない。

 墓を出て更に奥の方へ歩いて行くことした。まるで地下鉄のトンネルを歩いているようで奥の方は低くなっていて下って行く。暫く進んで行くと床にモザイクが残っていて絵が描かれている。更に下った所に巨岩を刳り貫いた洞窟があった。

エルサレム独り旅(39)

 聖墳墓教会のゴルゴダの丘で暫く立ち止まって、途切れる事のない巡礼者達を見せてもらう事にした。東欧からの巡礼者達は女性の衣装で推測できるが、その殆んどが十字架像の前で膝まづきキリストの足か床に接吻して行く。カトリックではなくオーソドックス(ギリシャ正教)系の姉妹方であろう。

 イスラエルに来て各地の遺蹟を見て回る事は素晴らしい体験である。それと共に諸外国から来る観光客や巡礼者達との出会いも興味深いものがある。園の墓や受胎告知教会等では巡礼者達がそこで礼拝(ミサ、聖餐式)している光景を見ることができる。

 ゴルゴダの丘から降りると十字架から降ろされたキリストが安置されたと云うステーションがあり、そこを通り過ぎて行くと右手に聖墳墓(キリストの墓)がある。その見学者達の長い行列がいつも途切れる事もなく続いている。神父達は常にその行列に目を光らせている。

 ノースリープや膝頭が見える衣類を身に着けている女性を除く為である。キリストの墓はとても広い空間(敷地)の中にある、天井も非常に高い、会堂のドームの真下にあるのだろう。

 薄暗く空気は湿っぽく冷んやりして、香の煙で霞んでいる。堂内は工事中で多くの足場が組まれていて、雑然としていた。

エルサレム独り旅(38)

 エルサレム行きのアラブの路線バスの運転手が私にいろいろと話しかけて来た。アラブの路線バスに乗る東洋人が珍しいのだろうか。日本がパレスチナ自治政府に多額の支援をしているためか、イスラエルのアラブ人の日本人に対する見方はすこぶる友好的である。

 バスは 11時50分にエルサレムのバスステーションに着いた(園の墓の東側に隣接している)。ダマスコ門を通って旧市街に入って行くと丁度昼時になったのでヤッフォ門の方に向かった。食事に良い店が多くあるとガイドブックに書かれている。

 しかし、その途中に聖墳墓教会があったので、内部をゆっくり観察してみようと中に入った。薄暗い堂内を歩いているうちに、お腹の具合が怪しくなってきた。トイレを捜したが見つからないのでガードマンや神父に尋ねてようやく用を足すことが出来た。ベツレヘムで飲んだジュースが多過ぎたようだ。ここのトイレは和式に似ているがずっと粗末で不潔だった。

 そこからゴルゴダの丘とされている所へ戻り(正面入口のすぐ右手)、狭い階段を上った。そこにはキリストの彩色の十字架像が立てられている。特設の床から下を覗いてみると岩の上にこの十字架が立てられていることがわかった。ここへは世界中から巡礼者が次々と訪れて来ている。

エルサレム独り旅(37)

 ボアスの野の畑の中に入って撮影することを拒まれた私は仕方なく道向いの雑貨店に入った。そこでりんごジュース缶とマンゴージュース(1000cc)を買って飲み、残りをペットボトルに移し店主と歓談した。彼が私の職業を聞いたのでキリスト教の牧師であることを告げた。

 すると彼は「クリスチャンはとても正直だ。あなたはその指導者だからもっと正直な人だよ」と言って感心する。この村にはアラブ人のクリスチャンが大勢住んでいるが、彼らが良い証を立てていることが判った。私は「あなたはクリスチャンか」と尋ねると「違うムスリムだ」と答えたので「どうして?」と尋ねると下を向いて困った表情をした。

 最後に彼は「ユダヤ人は欧州からどんどん移住して来てテルアビル、ロッド、ハイファを現状のようにしてしまったが、アラブ人こそがずっとここに住んでいて数も多かった。現状は良くない」と語った。これがアラブ人たちの標準的な見方であろう。

 その店を出て、来た道を戻ることにした。暫く歩くと路線バスが通りかかったので、それに乗り「エルサレム」と行き先を告げると中継所まで乗せてくれた(0.5 シェケル、15円)。そこでエルサレム行きに乗り替えてエルサレムに戻って行った(1.5 シェケル、45円!)

エルサレム独り旅(36)

 ベイト・サフールのアラブ人の教会を出たのは、すでに礼拝が終って挨拶し合っていたのだと思ったからである。しかし当日の日記を読み直してみると聖誕教会を出た時刻は8時50分であった。

 そうすればまだ午前10時頃である。通常の教会の礼拝が始まる時刻だ。もしかすれば礼拝前であったのかもしれない。聖誕教会ではすでに礼拝が進行中であったので、この時間には礼拝が既に終わっていたと勘違いしてしまったのだ。今、この文章を書いていて気付いた。残念なことをした。絶好の機会であったのに。

 更に南に下って行くと、若い女性が子供達 10人程を先導して歩いていた。先程の教会堂とは比較にならない程大きな会堂の壁面伝いに歩いていたので教会学校の先生と子供達なのだろうか。そこは素通りして歩いて行くと「シェパーズフィールドへようこそ」という立看板が目に入った。

 この辺りから平坦な土地がずっと広がっていた。そこをカメラに納めて歩いて行くと刈入れが終わった麦畑のような地が道の右側に広がっていた。ここがボアズの麦畑であったのかと思わせられるように私には見えた。

 この畑の中に入って写真を撮ろうとすると、その道向かいにある店の初老の男性が私を見ているのに気付いて、私は彼に手の動作で「そこに入っていいか」と尋ねると彼は首を横に振ったのでその店に入ることにした。

エルサレム独り旅(35)

 ベツレヘムの聖誕教会の南に隣接している地域はベイト・サフールというアラブ人の村である。アラブ人の他の村々と似た雰囲気があるが、どこか清潔感が漂い家々の敷地も広く見える。洋風の建物が並び、庭も手入れされている家が多い。

 道を歩きながら周囲を見渡すと教会らしき建物が三つも見える。道の左側にある教会の前まで来ると、礼拝に集まって来ている人々がいたので、そこに立ち寄ってみることにした。

 教会堂の入口は道路に面してはおらず、教会の敷地の露地を数メートル入った右側にある。左側は柵に囲まれた駐車場で、その柵の上には鉄パイプ製の星のモニュメントが建てられている。聖夜の星をシンボルとしているのであろう。

 教会堂の玄関からロビーに入ると、そこに多くの人々がおり、その奥の礼拝堂にも多くの人々が集まっていた。私が驚いたのは、この教会の雰囲気に全く違和感を覚えなかったことだ。

 日本の何処にでもある福音派の数会と同じなのだ。簡素な講壇と、その左側には奏楽用のオルガンがあり、礼拝後の報告をしているような感じであった。私は誰かに語りかけようとしたがアラビア語ではどうにもならないし、私に感心を示してくれる人も皆無だ。牧師に合いたいと思ったが断念して外に出た。

エルサレム独り旅(34)

 聖誕教会の東側に添って南北につながっている道を南に向かって歩き始めた。全く初めての道で地図を持たずに歩くのだが、以前ベツレヘムに来た時に聖誕教会の裏(南)側から見た美しい野(畑)を目指すことにした。

 道はかなり急な下り坂だ。道のすぐ右が聖誕教会に隣接しているが、左側はかなり深い谷である。絶壁という程ではないが、すり鉢状の傾斜で高所恐怖症の私が下を覗き込むと身がすくむ程である。

 2000 年前の夜に羊飼い達が飼葉桶に寝かされている幼な子を捜し歩いた所は、こんなに深い谷のある危険な地形であったということが、ここに来て見て初めて判った。

 当時は道が今ほど整備されていなかったであろうから、容易な事ではなかったと想像される。しかし、キリスト(救い主)にお会いするためには、どんな困難をも乗り越えて行く価値がある。キリストの恵みを知る価値は測り知れず、どんな犠性を支払ってでも、それを捜し求てゆくことの大切さを羊飼い達から教えられる思いがした(ローマ 8:18、フィリピ3:7,8)。

 聖誕教会の敷地から少し下った所に小さな商店があったので、ここに入ってドリンクを買い求めて喉の渇きを潤す事ができた。更に少し下って行くと道が左右に別れていたのでどちら側に行こうか少し迷ったが、美しい野原の方に行きたかったので右側の道を歩いて行く事にした。

エルサレム独り旅(33)

 ベツレヘムの聖誕教会ではすでに聖日礼拝が行われていた。聖堂の一番奥の聖壇横まで進んで行った。聖壇とその上部には多くのろうそくが点灯され司祭たちが礼拝を進行していたが何をしているのかよく判らなかった。ギリシャ正教会の礼拝らしい。聖壇の右横にはろうそくを献納するスペースがあり礼拝出席者が次々とろうそくを点灯して、その場所に献納して席に向かってゆく。

 その左側の洞窟の中へ下りて行くと、そこは既に礼拝者たちでぎっしり詰まっていて奥までは入って行けない。ここは主イエスが聖誕された場所とされる洞窟で、そのスポットには大きな星形金属プレートが床に設置されている。

 この洞窟内もろうそくが多数点灯されていて極めて空気が濁っているが、礼拝者全員が起立して、古い聖歌を無伴奏で詠唱している。私は石段に腰を下ろして暫く聴いていたが延々と続き、いつ終わるともわからないし、又極めて空気が悪く室温も高いので礼拝の最後まで留まることができなかった。

 ここはアルメニア教会の礼拝所らしい。私は先に来た時に見たベツレヘムの野に向かって歩いて行くことにした。

エルサレム独り旅(32)

 王家の墓の見学を終えてエルサレム旧市街の北東の城壁にあるヘロデ門に向ったが、空腹を覚えたので、アラブ人のレストランで夕食を摂ることにした。アラブ人の店としては清潔そうで十分に広い空間があるが客は私だけである。

 英語が不得手な私は片言の英語とボディラングイッジで適当に注文すると相手も判ってくれてピタ(パン)、野菜サラダ、きゅうりとししとうのピクルス、鶏レバーの炒め物(含、玉ねぎ)、それとサラダにかける柔らかいチーズを持って来てくれた。

 このサラダ用のチーズはキブツの朝食でも毎朝自由に食べられるので、イスラエルでは最も日常的に好まれている物のようだが、見た目も味も小麦粉を水で溶いたようで美味とは思えなかった。(後日、妻は「これは特級品でとても美味しい」とお気に入りであった。)

 食後へロデ門、ダマスコ門、新門と城壁に添って歩き、ヤツフォ通りを北に向かって安宿へ帰り着いた。とても充実した一日であったが疲労も大きかった。しかしシャワーを浴びるとすっきりした。

 6月19日(日)4時半に起床、身仕度をして7時半に宿を出てダマスコ門前まで歩き乗合タクシーでベツレヘムに向かった。(2 シェケル 60円)、タクシーはメンジャー広場まで行ってくれる。そこは生誕教会に隣接していて、すぐ南側が教会の敷地だ。

エルサレム独り旅(31)

 王家の墓の入口の少し手前に入口を塞ぐ大きな丸石を転がす溝があり、その左手に丸石が立てられた状態で置かれてある。その石はめのう石のようで光沢があり、斑の小豆色をしている。高貴な人物の墓と思われる。

 そう言えば聖墳墓教会のキリストの棺の蓋石もこれと同じ光沢のある色であった。墓の中を覗いて見たが真暗闇で全く何も見えない。しかし相当広い穴である。フラッシュをたいて写真を撮ってみた。日本に帰国してからそれを見ると、その穴は大きな四角い部屋になっていて、その壁に幾つもの穴があり、多くの棺を納めることができるタイプの墓であった。

 ガイドブックによると最近の調査でこの墓が紀元45年頃のものでメソポタミアの女王ヘレナとその家族のものではないかという説が出たらしい。更に「暗いので懐中電灯は必携。できるだけ複数で行くようにしたい」とも書かれてあった。

 私は何の準備もせず一人で来てしまったが、無知ほど怖いものはない。只、この墓は聖書の時代のこの地方の高貴な人物の墓がどんなに立派であったかを知るのに最良の遺跡であるので、見に来た価値は大いにあった。

エルサレム独り旅(30)

 園の墓のベンチにを下ろしてゆっくり休憩をとった。ここから 500mほど北にある「王家の墓」と呼ばれている場所へ行くことにした。ここはユダ王国時代の王たちが葬られている墓地と言われているからである。

 入口で入場料 3 シェケルを支払い左側の壁に添って歩いて行き左に曲がると両側が石壁に囲まれた広い通路に出た。地面は舗装されておらず所々に雑草が生えている。私の他には誰も客はいないようだ。

 道は少し下っていて、両側の石壁を見ながら歩いていると、右側の壁に四角い穴が開いているので近寄って中を覗いて見た。中は空洞で、どうやら古代の墓穴らしい。園の墓やキブツにある墓に比べるといかにも小さく、入口を閉じる丸石もない。

 その様な穴がそこに数基並んで掘られていたが、その内の二基の中には雨水が貯まっていた。数十mの道を下り切ると左側に広い敷地があり、その広場の西側に大きな門構えの石造物がある。

 二本の太い石柱に支えられた鴨居が上にあり、そこにはイスラエルの産物であるブドウやいちじくなどが彫られている。その下まで行くと右側には崩れた石造物が無雑作に置いてあり左側には墓の入口が開いている。

エルサレム独り旅(29)

 喉が渇いたのでダマスコ門近くでアイスキャンディとシャーベット 2個を買ってから園の墓に向かった。ダマスコ門から 5分程の所にあり、アラブのバスステーションに隣接している。

 午後2時10分に着いたがここも昼休みが 2時30分まであり、入口が閉まっていた。20分間待ってから開門したので入って行くと、窓口の女性に「チャイニーズ?」と尋ねられた。「ジャパニーズ」と答えると日本語の小さなパンフレットを手渡してくれた。

 そこには、この場所が英国人司令官ゴードンによって見出され(1883年)たこと、ここが主イエスの園の墓(ヨハネ 19:41)と確信し、英国の信徒達などの募金によつて買い取られた経緯などが書かれている。そしてこの園の案内見取り図なども書かれていて利用者には助けとなる。日本語のものも備えられていたのは驚きだ。

 トイレに行ってから売店に行き「聖書の花」などの本を2冊購入してからゆっくりと園を散策した。園の所々デヴォーションや小集会用のテーブルと椅子やベンチが備えられていて、どれもが木陰の下にある。

 墓の前には小さな広場があり、その後方の少し高い位置にベンチが並んでいて数十人で野外礼拝ができる様になっている。そこからは直ぐ前に墓の入口を見ることが出来る。

エルサレム独り旅(28)

 問答無用で投石してきたアラブ人少年たちと私の目があった時、彼らはすぐさま屋上の物陰に身を隠した。つい先程ベタニアでアラブ人青年たちの厚意を受けた私は、この狂ったような少年たちの行為に戸惑いを覚えながら、ベテスダの池を捜すことを今回は諦めてエッケホモの教会に向かった。後でわかったのだが、この時は昼食時間で門が閉じられていたのだ。

 「エッケホモ(この人を見よ)」教会は、ベテスダの池がある聖アンナ教会から真っ直ぐに西へ200m程歩いた所の右側にある。ノートルダム・シオン女子修道院の建物がローマ総督ピラト官邸跡にあり、現在はエッケホモ教会の名前で呼ばれているのだ。この場所で主イエスがピラトによる審きを受けたのだという。(ヨハネ 19:5)

 勝手に中へ入って行ってよいのかわからなかったので、ロビーからドアのガラス越しに礼拝堂を覗いてみた。奥にある祭壇の後ろに十字架に架けられた主イエスの像が見えたが、5分ほどでここを去り、園の墓へ行くことにした。園の墓はS師たちとのツアーで一度訪れており、もう一度ゆっくり見たい所である。ダマスコ門から出てアラブ人に 50ドルをシェケルに両替してもらった。145シェケルであった。

エルサレム独り旅(27)

 ライオン門で出会った青年と門の内側で腰を下ろして30分ほど語り合う。日本語で話すのは3ヶ月ぶりである。彼はヴィアドロローサを見たかったのでそこで別れ、私はベテスダの池を捜すことにした。

 ライオン門のすぐ近くにあるはずなのだが、なかなか入口が見つからない。そこでここだと思う建物の裏側に行ってみることにした。右側の道に入ると両側が店舗が並ぶ狭く薄暗い露地で、アラブ人たちでごったがえしていた。

 日本人(東洋人)が珍しいのか、私がへブライ語の文字が書かれた帽子をかぶっているためか、怪訝な顔で私を見る人が何人かいたが、全く気にかけないで歩いた。すぐに右に折れる道があったので、そこへ入ってゆくと左側は三階建ての住宅が並び、右側は大きな鉄製の壁である。

 少し歩いてゆくと「カキーン」という鋭い金属音がして私の顔の横を何かが通った気配がし、続いて三度同じ音がした。周囲を見渡すと前方の三階の家の屋上から子供が私に向けて思い切り投石しているではないか!それも一人だけではない。

 咄嗟に私は大声で「警察を呼ぶぞ!」と繰り返し叫んでいると、一人の婦人がその家の玄関から飛び出して私の元に駆け寄り「赦してくれ」と繰り返して頼んだ。私はすぐそこから立ち去った。

エルサレム独り旅(26)

 昼食を終えて、彼らと別れを告げた私は元来た道を歩いてエルサレムに戻ることにした。今度は急な坂を上ることになる。ラザロの墓の入口向いの土産物店に立ち寄って何か良い物がないか捜してみた。聖書時代と同じ形のランプが1ドルで置いてあったので、視覚教材として用いられると思い1個だけ買った(マタイ 5:16)。

 オリーブ山上まで戻ってから、そのまま下るのではなく、山上の大通りを北(スコーパス山の方向)へ少し歩いてみることにした。しかし、これといった見るべきものが何もないので、そこから下って行くことにした。旧市街の城壁が左下に見える所まで来てしまったので道なき斜面を滑るようににして下って行った。

 中腹辺りまで来ると、馬の調教場らしき所があり、その下を横切って更に斜めに下って行くと白い石がゴロゴロ転がっている所があった。この辺りは火打石が産出すると何かの本に書かれてあった。

 聖書の時代にはランプに火を灯すのに火打石を用いたのであろうが、このオリーブ山腹の石を用いていたのであろう。ようやくキドロンの谷に辿り着いたのはベタニヤを出て1時間20分後であった。谷から旧市街のステファノ(ライオン)門まで上るのはきつかったが、そこで日本人の青年に出会った。

エルサレム独り旅(25)

 ベタニヤ村を見ながら廻り歩いていると、頭上から声が聞こえて来るので上を見上げた。二人の若者が窓から顔を出して私に呼びかけていた。よく聞いてみると「ここに上がって来い、一緒に昼食を食べよう」と言っているようだ。一瞬戸惑ったが「ありがとう」と答えて石段を上って玄関口迄行くとドアが開かれたので中に入った。

 ワンルームの板敷きの部屋で、東側の窓際に小さな鍋が置かれていた。二人は私をその鍋の近くにくるようにと言い、三人でその鍋を囲むように床の上に腰を下ろした。鍋の横に一枚の皿があり、その皿に鍋からスープのようなものを注いで、それぞれが自分で丸いピタパンを裂いてそのスープに浸して食べるのだ。

 鍋の中にはトマトやたまねぎが入っていた。緊張のためか食欲がなくパン一枚で胸が一杯になった。彼らは私に「どこから来たのか、今どこに滞在しているのか」と尋ねて来たが、彼ら自身は「自分たちはヘブロンから来たパレスチナ(アラブ)人だ」と言った。

 食後紅茶と水を出してくれたが、金銭等の何も要求されなかった。私はお礼に日本から送ってもらった手作りクッキーひと箱を渡した。聖書時代からの「旅人をもてなす」伝統が生きている。

エルサレム独り旅(24)

 会堂横の通路は十分な広さがあり、床は土のままで中央にオリーブ搾り用の巨大な石器が置かれている。その横には床に油槽が掘られており、そこに不思議な形をした長い木製の器具も設置されてある。

 天井は岩を刳り貫いた凸凹だらけのドーム型になっていて、この場所が以前は住居に隣接した作業場であったことが判る。更に奥の方へ歩いて行くと左側に床の高さが私の顔の辺りの小礼拝室があった。とても清潔で静まるのに好ましい空間であるが、ここには入ることが出来ず、この通路もここより奥には入って行けなかった。

 この土地はフランシスコ会が所有管理している。この敷地を出て周囲を歩いてみることにした。古い洞窟やアラブ人のものと思われる多くの墓や発掘されていないまま大半が土に埋まっているドーム状の建造物の上の部分が露出している。

 この教会堂のすぐ上に位置する場所には半ば崩れてしまっている石を積み重ねた塔の廃墟があり、不気味な姿を曝している。ベタニヤの人々はここをライ病人シモンの家の跡(マタイ26:6)と言っているが、十字軍時代のものだそうだ。

 ベタニヤには殆んど考古学的な発掘調査が成されていないのが残念だ。その殆んどが私有地で今もアラブ人が住んでいるのだから仕方ないのであろうか。

エルサレム独り旅(23)

 この神父は何も語らず、私のすぐ後ろでじっと立っている。私は振り向いて彼の顔を見ると、目と目が合ったが優しい表情で、何か言いたげな顔をして私を見ている。そこで私はテーブルの上の募金箱にシェケルのコインを一枚入れると、ほっとした様な表情でどこかへ去って行かれた。

 ロビーから礼拝堂に入って行った。明るくて広い礼拝堂だ。正面の祭壇には墓の中に横たわっているラザロとその左に天使がリレーフで彫られている。縦 1m横幅 2m少々はあるだろうか。その後ろには6本の燭台と 1m以上ある白く長いろうそくと、その中央に十字架のキリスト像が金色に輝いている。

 その上にはラテン語で「私こそは、甦りであり命である」(ヨハネ11:25)の御言葉が金色で鮮やかに書かれている。更にその上にはドーム状の壁に合わせて半円形の大きな色彩画が描かれている。中央には右手をかざしたキリスト。その左右にキリストの方を向いて祈るマルタとマリヤの後姿、その両隣にはキリストの12弟子の姿である。

 この会堂はフランシスコ会のものだが、床にはビザンチン時代のモザイク画のタイルも残されている。この礼拝堂でしばらく黙想してからロビーに戻り、その左側にある通略へ歩いて行った。

エルサレム独り旅(22)

 急坂の上から南東方向を見渡すと東方にはユダの荒野が見え、その中にユダヤ人の入植地らしい場所が見える。すぐ前にはベタニヤ村と、崩れてしまっている古い遺蹟、いくつかの教会堂がある。

 私は50mほどの急坂を滑るようにして下った。坂を下り終わった所で道が分かれ、直進は上り坂、左の道は更に急な下り坂が続いている。左折して坂を下って歩いて行くと数 10mほど下った所で左側の土産物店の中から、店主らしいアラブ人婦人が出て来て、私に英語で何かを語りかけて来た。

 店の真向かいにある岩に掘られた穴の入口を指差して、大声で「2.5 シェケル(約70円)」と叫ぶ。どうやら、ここがラザロの墓の入口らしく、その入場券を支払えと言っているようだ。あまりの強引さに不快感を抱いて素通りした。

 その穴の入口には「ラザロの墓(英字)」のプレートが貼り付けてあった。ラザロについてはヨハネ福音書 11章に詳しく書かれている。そこから少し下ってゆくと右側に大きな教会堂があり、その敷地に入る鉄柵の戸口が開いていたので、そこから入って行った。

 前庭(通路)は古めかしい。右側には昔の家畜小屋や物置場と思われるスペースがあり、左側がマリヤとマルタの家の記念会堂の入口である。入口から入るとロビーかあり、そこにテーブルが置かれていて、この教会堂のパンフレット(手帳サイズの二つ折り 4ページ英文)が置かれていて、その横に募金箱が置かれている。パンフレットを一枚もらって正面の礼拝堂に入ろうとすると、一人の神父が近づいて来た。

エルサレム独り旅(21)

 ベテファゲコンベントの南にある小高い丘の上にある教会堂へは結局行くことなく、左側の道をベタニヤに向けて歩き始めた。後で聖書を読んでいると「イエスはそこから彼ら(弟子たち)をベタニヤ辺りまで連れて行き・・・彼らを離れ、天に上げられた」(ルカ 24:50,51)と書かれてあるのに気がついた。

 イエス様が昇天された場所はオリーブ山頂ではなく、べタニヤの近くであったとルカは録している。この丘の東斜面がベタニヤ村なので、キリスト昇天の場所はこの丘の上であったのかも知れない。次回訪れる機会が、もしあれば是非上って見たい丘である。

 左に折れて東に向かう道は左側は竹林、右側は高い石壁が続いていてとても静かで人一人通っていない道だ。一人で歩いていると自分の足音と竹の葉の擦れる音だけが高い石壁に反射して響いてくる。何か寂しく不気味な気分になる。そこを通り過ぎると正面に民家が見え、左側に畑があった。その畑に入って東側の景色を見たが、残念ながら死海は見えなかった。

 道に戻って道なりに右に曲がると急な下り坂で、まるですべり台のような道だ。何かにすがらないと下までそのままずるずると滑り落ちてしまうほどの坂なのだ。主イエス様と弟子たちはこんな急な坂道を上り下りしてベタニヤとエルサレムの往復をなさったのか!と思い、ここに来て良かったという実感が湧いてきた。

エルサレム独り旅(20)

 アラブ人に教えてもらった小さな売店の横の細道をくぐり抜けると両側を石壁で挟まれた通路があり 10mほど進むと直角に左側に折れ、そのまま真直ぐ行くと少し広い道に出た。

 その道は弧を描くように丸く右側に曲がっている。左側はオリーブ山側になっていてアラブ人の家々がぎっしり建ち並んでいる。右側は深い谷になっている。谷の向う側には遠くに建物の集落が見える。ベツレヘムがある方向だ。

 一本道を少しづつ下りながら歩いて行くと道が南側に向く辺りで左右に道が別れている。真直ぐに南へ下ってゆく道と左に折れて東の方向に行く道だ。さあ、どっちの道を行けばベタニヤに通じているのか。

 分岐点の少し手前で立ち止まって迷っていると、すぐ後ろに座っている老人の男性が居る。彼は巨大な鉄製の扉の前に居た。その扉にはペンキでベテファゲコンベントと大きく書かれていた。「あっ!ここがベテファゲなのだ」と私の心がときめいた。

 イエス様がエルサレムに入場する時に乗った子ロバを調達された村だ(マタイ21:1,2)。「聖書に書かれてあるとおりだ!!」思いがけないベテファゲ村との遭遇に私の心は高鳴ったのである。その感動の冷めやらぬうちに私はその老人にベタニヤへの道を尋ねた。

 その老人は左に折れる道を行くようにと教えてくれた。そして彼に礼を言って左に折れて行こうとしたが正面にある丘の上に新しい教会堂が建っているのが見えた。あの教会堂はどういうものであるか、行って見てみたいと思ったが、この丘の頂上まで行く気力が湧いてこない。足はだるく、喉も乾ききっている…。

エルサレム独り旅(19)

 オリーブ山上の昇天会堂を再度見てカメラに収めておこうと思って敷地の門前まで行ったが、ここで土産物を売っているアラブ人青年が両手を広げて行く手を遮り、「入るな」と言う。ここは入場自由(無料)のはずであるが、アラブ人地域では何が起こるかわからない。シロアムの池でも同様の経験をしていたので、無理を通さず引き下がることにした。

 さてオリーブ山の東側のベタニヤへはどう行けば良いのであろうか。しばらくたたずんで周囲を見ていると、一人の小柄な初老の男性が近づいて私に話しかけてきた。「何か捜しているのか」と言ったので「ベタニヤへ行く道を知りたい」と答えた。すると「すぐそこに抜け道があるよ」と小さな売店を指さした。「その店の左側の細道を抜けて行くとベタニヤへ行ける」と言う。

 彼は私に「あなたは誰か」と尋ねたので「私は日本から来た教会の牧師だ」と答えた。彼は「私も牧師だ。アパルーム(最後の晩餐の部屋)で週二回祈り会をしている」と言って名刺をくれた。その上「私は安い宿を知っている。ゲッセマネの園のすぐ近くだ。一泊10シェケル(約300円)」と教えてくれた。私は礼を言って、彼が教えてくれたべタニヤの道の方へ歩いて行くことにした。

エルサレム独り旅(18)

 キデロンの谷を渡るとすぐ正面がゲッセマネの園跡とされる場所である。オリーブ山西麓のこの辺一帯は昔はオリーブ畑が広がっていたと伝えられているが、現在はゲッセマネの園跡とされる狭い場所にしか残されていない。

 ここは以前にS師たちと訪れているが北側にある庭の小さな入り口を通って中に入った。高い鉄柵に囲まれたオリーブ畑に樹齢二千年とも言われる古木が8本グロテスクな幹を曝している。その奥には万国民の教会堂が建っている。4世紀に建てられた会堂跡の上に 1919年に再建された巨大な建物で入場料は要らない。

 ここで少し休憩してから、オリーブ山頂を目指して登り始めた。大変急な坂でハーハーと息をたて、手を太ももに当てがいながら登りつづけた。この坂はダビデ王も主イエス様も登った道であろう、とその頃の情景を胸に描きながら歩いた。

 ダビデ王は息子アブサロムから逃れるために「ダビデは頭を覆い、はだし(素足)でオリーブ山の坂道を上って行った。同行した兵士たちも皆、それぞれ頭を覆い、泣きながら上っていった。」と録されてある(サムエル下 15:30)。

 また、主イエス様も受難の週にベタニヤからエルサレム神殿へと何度も弟子たちと往復なさった道だ(マタイ 21:17,18他)。そして私はまさに今、かって主が弟子たちと歩まれたその道を辿ってベタニヤまで行こうと企だてているのである。そしてようやく山頂にある昇天会堂まで登りきることが出来た。

エルサレム独り旅(17)

 城壁伝いに道なき道を歩いてライオン門前まで行った。この門は高さ 5m、横幅 4mほどの門で、その周囲の城壁はシオン門ほどではないが、おびただしい銃弾痕が痛々しく残されている。第三次中東(7日)戦争の際、イスラエル軍はこの門から城内に突入して、旧市街全域を占領し、1900年に亘るエルサレムの異邦人支配を事実上終結させたのであった。

 このライオン門前から石畳の道をキロドンの谷の方への下り歩いた。谷の部分はオリーブ山との間に石橋が架けられている。橋のすぐ南側に木々に囲まれた建物の屋根が見える。これがギリシャ正教の「ステファノ教会」らしい。エルサレム教会の執事で伝道者であったステファノがユダヤ人たちから石打で処刑され殉教したのが、この場所であると伝えられている(使徒7:57-60)。

 そこは橋の上から見下ろして見るだけで通り過ごした。又、橋の北側には 100mほど向うの谷底にマリヤの墓の教会堂が建てられている。主イエスの母マリヤの埋葬と昇天を記念した会堂だ。もし、ここが墓だとすれば、イエスの母ではなくマルコの母である可能性の方が高い、と私は考えている。この辺りはマルコの家のオリーブ畑であったと思われるからだ(マルコ 13:32,51,52、使徒 12:12)。ここも素通りしオリーブ山の頂上を目指した。

エルサレム独り旅(16)

 発掘されたヘロデ王時代の数々の遺蹟を見ながら糞門の前を通り過ぎて、なお城壁伝いに歩いて行くと同様の遺蹟が発掘されている。更に城壁の南東の角近くは、城壁が北へ数十メートル 90度の角度で折れ、そして又、数十メートル東に続き、キロドンの谷の手前で旧市街の南側の城壁へとつながってゆく。

 この辺りは数多くの発掘物を見ることが出来るが、道路側からは柵があって中へ入って見ることはできない。ここは、旧約時代には、オフェルと呼ばれていた場所でエルサレムの要害であった(歴代下 27:3、33:14、ネヘミヤ3:26,27、11:21)

 ここは神殿で働く人々が住んだと書かれている。現在ここは城壁の内側も含めて南の壁考古学公園となっている。私はそこから更に北側へ南壁に添うように歩き続け現在は閉じられている黄金門のすぐ前まで歩いて行った。

 この周辺はアラブ人と思われる多くの古い墓石が立てられている。黄金門はアラブ人によって石のブロックで完全に塞がれている。私は更に城壁に添って北のステファノ(ライオン)門まで歩いて行った。

 この門の上にライオンの像が刻まれているのでライオン門と呼ばれているが、この門外でステファノが殉教したことからステファノ門とも呼ばれている(使徒 7:54-60)。

エルサレム独り旅(15)

 神殿詣のための水浴による体を清める行為はキリスト時代のユダヤ教では当然の義務とされていた。三大祭の際には何十万人もの参詣者が訪れたエルサレム神殿には、その周囲にかなりの数の水浴(沐浴)のためのプール(ミクべ)が必要であったと思われるが、この発掘跡にはそれを物語るように多数のミクべを見ることが出来る。

 岩を刳り抜いた横長の洞穴の入口の天井の高さは1mほどしかない。横幅は数メートル。入り口の部分から奥は石段が数段下り、その奥が水槽になっている。すべてのミクペには現在は水がないので、体を屈めて中まで入ってみた。かなり狭く窮屈な空間だ。

 天井が低く立ち上がることが出来ないので、こんな所に何人もの人が次々と水に浸かるのは、さぞ大変なことだったろう。水はすぐに不潔になったであろうから清めるというよりもかえって体が不潔になったのではなかろうか。うわべだけの単なる儀式がいかに空しいものであるか、ということを思い知らされる。

 当時のユダヤ教では外出から帰宅した時にも足を洗い、食事の際には手を洗うことが義務づけられていたようだが、それは「衛生上」のことよりも「宗教上」の行為であった。清潔な水を得ることが、現在よりも困難な時代にはなお更のことだ(ヨハネ13:5、ルカ7:44、マタイ 15:2)