エルサレムへの旅(6)

 マサダの要塞を足早に立ち去り、今来た道を引き返し、車は北に向かい、死海北端から南へ5kmにあるクムランへ行く。クムランは死海写本が発見された地として世界的に有名な所だ。私たちはこの公園内に入り、発掘されている遺蹟などを見た。

 周囲はすべてマサダ同様真っ茶色の世界だ。発掘されたのは2000年前のエッセネ派(祭司階級を中心とした人々)の隠遁生活跡で英語の説明プレートが立てられているが、時間の関係でS師による説明もなく、ただ見て歩くだけで、よくわからない。

 大きく深い谷のすぐ向う側に聖書の写本が発見された洞窟の一つがある。書籍などで見た写真でおなじみのものだ。ここで発見されたイザヤ書の写本は世紀の大発見と言われるにふさわしいもので紀元前1〜2世紀のものである。それまでに現存していたイザヤ書最古の写本よりも1000年も古いものだが、その文章はほとんど相異がなく、聖書伝承の正確さが立証される結果となった。

 私たちはクムランの土産物店を見てからエルサレムに向かうのだ。私はキブツを出発する際にらくだのズボン下(下着)を着ていたので、暑くて参ってしまった。死海沿岸の3月下旬の平均最高気温は30度近いのである。

エルサレムへの旅(5)

 死海西 の道路は舗装されていて快適そのものである。しかも道が起伏に富んでいて低い所では死海海面に近く高い所では数百メートルにもなり、そこから見下ろす死海の光景も美しい。

 私たちの車は死海北端から南へ40kmほど下ったエンゲディに着いた。この地はサウル王に追跡されたダヴィデが逃げ回った地の一つとしてよく知られている(サムエル上24章)。

 私たちはその国立公園には行かず、その近くにある死海の海水浴場に車を止めた。そこにビニールシートを敷いて、昼食をとる。キブツから持参したパンと水と、日本からの缶詰めなどを食べた。その後、水着に着替えて海水浴を楽しんだが、私は平服のまま水辺で石拾いをした。

 エンゲディから私たちは南へ約20km車で走ってマサダに向かった。マサダはアラム語で要塞という意味で、やはりダヴィデはここへも来て身を隠したという(サムエル23:14)。ここは周囲を絶壁で囲まれた高さ400mの山で天然の要塞である。時間の関係で下から眺めるだけで上には登らなかった。周囲は全く荒涼とした世界だが、ロープウエイで頂上迄行けるようになっている。ダヴィデの時代はこの辺りはどんなであっただろうか。

エルサレムへの旅(4)

 エリコから車で15kmほど南へ下ると死海の北西端に出る。周囲は茶一色の荒野である。車は死海の西岸に沿って走る(国道90号線)。ヨルダン王国との国境線は、ちょうど死海の中心部なので東岸はヨルダン王国の領土である。

 車の左窓から見える死海は道路から遥かに離れた所に見え、すこぶる穏やかな海面で、深青色が美しい。対岸には標高1000mを越えるモアブの山々が靄(もや)の彼方に霞んで 聳(そび)え立っている。

 死海北東端は標高が少しばかり低く、約800mくらいで、その辺りがモーセ最後の地、ネボ山やピスガの峰のあるあたりである。その時代はルベン族の相続地であった。死海は南北78km、東西18km、水面の標高は海面下 398mで、世界で最も低い場所である。しかし、ヨルダン川上流のガリラヤ湖から水利のために汲み上げる水量が過多のため、死海に流入する水の量が減少し、年々水位が下がり、現在は海面下400mを超えている。

 私たちが走っている道路際まであった水が、現在、遥か彼方にまで退いてしまっている。かっては、この道路も水面下に沈んでいたそうである。車の右側は高さ100mは遥かに越える断崖絶壁が延々と続いている。この雨季には降雨によりワジ(水無川)が突如として上流からの鉄砲水で溢れ、車が押し流され、死者が出ることもあるのだ、とS師から聞かされる。

エルサレムへの旅(3)

 旧約時代のエリコの遺蹟は予想よりずっと小さく、その広さは学校の運動場よりも狭いと思われる。城壁で囲まれた町ではあったが巨大都市ではなかったのだ。ガイドがいないので、歩いて見て回っても、どれが何か、さっぱりわからない。ただ、ここがヨシュアによって滅ぼされたカナンの地の最初の町であったということ、それは目に焼きつけることが出来た。

 この丘(テル)の上からの眺望はすばらしい。360度 パノラマで周囲を見渡すことができる。この地は海面下 350mに位置するために亜熱帯気候で、バナナやなつめやしなどがよく実り、周囲にはそれらの畑が点在し、緑がたくさんある。

 この遺蹟のすぐ東側にエリシャの泉(列王下 2:18~22)があり、そこからの湧き水がこの町を潤しているのだそうだ。その泉を見る時間がなく、ここでの滞在は30分足らずで、更に南に向かった。次の目的地は死海である。エリコの町を出ると周囲は茶一色の世界である。

エルサレムへの旅(2)

 トゥルカルムはシャロン平野では、パレスチナアラブ最大の町で、ここからもイスラエルへのテロリストが多数出ていて、日本のテレビでも時々この町が放映されている。運転手はアラブ人のフィベだがタクシーはイスラエルの会社のものなので、ナンバープレートの色でそれがわかる。

 フィベはサマリヤ地方を通り抜けて車を走らせるのだが、アラブ人の町や村の無い道を選んで走るのだ。そうしないと石を投げつけられたり、何が起こるかわからないからである。幸いなことにこの日の朝は雨でトゥルカルムの町中に人影があまり見られなかったので私たちは無事に通過できた。

 タクシーは南東方向に進み、サマリヤの山の中の道を走る。はじめて走る道なので(フィベは知り尽くしているが)私にはどの辺りを走っているのかさっぱり判らない。高い丘の頂きで小休止をし、山並みを眺める。そこで記念写真を撮ってもらった。

 巨大な建物跡の一部らしい石が残されている。車は峠を下り始めるが、南に進むごとに山肌が茶色っぽくなり、緑が減ってくる。そして平地にたどり着くと、そこはエリコの旧約時代の遺跡(テル)であった。そしてS師が入場料を支払って下さり、そのテルの上にのぼって行った。

エルサレムへの旅(1)

 いよいよ明日からは二泊の予定でエルサレムに出かける。深夜だが、そのための荷造りなどをして備えた。その後に帰国する他の三人は、帰国後のイースター礼拝の聖餐式用の種なしパン(マッツァ)を分け合って持ち帰る備えなどもしていた。

 3/19(土) 安息日、明け方から雨が降り始めた。7:40 アラブ人運転手フェミ氏のタクシー(9人乗りのベンツ) に私たち四人とフェミの奥さんも同乗してキブツを出発する。南へ少し走るともうそこはヨルダン川西岸地域でパレスチナ人地区である。道幅は広く一応舗装されているが両端は整備されておらず、1950年代の日本の道を思い出す。

 早朝のためか人の姿は見えない。車はすぐに或る家の前に停車し私以外の三人は下車してその家に入っていった。土産としてアラビックコーヒーの豆を買うのだ。S師はアラビックコーヒーの出し方をフェミから聞いてメモを取っていた。 1.5kgで15シェケル(約600円)、安い買い物だ。車は更に南下しトゥルカルムの町中を走り抜ける。雨のせいか町は薄暗く人影もまばらで、道幅はとても狭い。