キブツへの道(23)終

 イスラエル政府発行の旅行者ガイドブックによると、タクシー料金は、通常の料金メーターによるものと、都市間料金が公定で決められていることが書かれている。空港からキブツまでの約50kmの料金がいくらであったかは、私は知らない。

 道路は舗装されているが歩行者用エリヤなどはなく、40年ほど昔の日本の道を走っているような感覚である。道路の両側には、時折、オレンジやグレープフルーツ畑なども見られ、緑が多くまさにシャロンの野を走っているといった風情である。

 のちに知ることになるのだが、このシャロン平野は 100年前(19世紀)には数km歩いても人っ子ひとりいない荒廃した地であったなど想像することも出来ない美しい地になっている。ユダヤ人入植者の開拓の苦労話は、のちにキブツ住民や地誌などで知らされることになる。

 マーク・トゥエンや徳富蘆花の聖地紀行(巡礼)文などには、その当時の荒廃した聖地を目の当たりにして嘆息している記事が残されているという。

 タクシーで50分ほど走ってゆくと、前方左手に巨大な煙突が3本並んで立っているのが見えてくる。すると車内がどよめき、「あの煙突がキブツに近づいた目印だ」という。ハデラの町の地中海岸沿いにある工場の煙突である。

 このハデラから右折し東へ10km行くと目的地であるキブツ・マアニットがある。

キブツへの道(22)

 私は200ドル分の両替を申し出て、約600シェケルを受け取った。当時のレートでは1シェケル40円弱であった。

 両替窓口から通路を通って空港の外に出るとバスのロータリーやタクシー乗り場があり、前方の道路を車が行き来している。所々に棕櫚のような街路樹があり、雨に濡れて生き生きとしている。空気はひんやりと湿っていて気持が良い。

 タクシー乗り場や、バス、自動車などは日本とはかなり様子が違っている。ツアーリーダーは、タクシードライバーらしき男性としばらく交渉をしている。そしてようやく私たちはタクシーに荷物を積み込んで乗車した。時間はもう朝7時を過ぎていた。

 イスラエルのタクシーはドイツ製ベンツの9人乗りのものが多く、私たちの乗ったのもそれであった。ツアーリーダーによると、イスラエルでタクシーを利用する時は、事前に必ず料金の交渉をしておかなければ法外な料金を請求されることがあるという。法律で料金は規定されているが、それを守らないドライバーが多いのだという。

 車は北に向かってシャロン平野の真中を走って行く。時おり雨がザーッと降ってくるが、空は明かるい。

キブツへの道(21)

 広いグラウンドのような空港には、私たちが乗ってきたBA機 (ブリティッシュ・エアーライン)のほか、イスラエルのエル・アル機など数機があちらこちらに止まっていたが、ジャンボ機は無く、中型や小型機だけである。

 その地面を歩いて空港の建物内に入り入国手続きをした。窓口は(確か)2ケ所しかなく、同じ飛行機から降りた人々が長い列を作って並んでいた。正統派のユダヤ教徒、私たちのような外国からの旅行者だけでなく、イスラエル国内の家族や友人と抱き合って再会を喜び合っている人々も何組かあり、イスラエルへの帰還者(移住者、アリアー)らしき人々もいた。

 かなりの時間並んでようやく私の番になった。窓口の向う側には無愛想な女性がおり、私が差し出したパスポートと飛行機の中で書いた入国用の書面に押印したり書き込んだりして私に戻してくれたがその間一言も語らず、怒っているような表情であったのが印象的であった。

 そこからベルト・コンベヤで運ばれて来る旅行カバン受取所へ行き、その後、両替窓口に行ってドルからシェケルに替えてもらった。

 ツアーリーダーは、空港の銀行窓口での両替は手数料も高く、発換率も低いので必要最小限にとどめるように、との忠告があった。エルサレムのダマスコ門外に札束を持って両替しているパレスチナ人から両替すると最も率が高いのだという。

キブツへの道(20)

 イスラエルの地に初めて立って空を仰いだ時、「あゝ、この地をかってアプラハムも歩いたのだ」という思いが心に差し込み、又、日本に残してきた家族や教会への思いが交差し、急に胸が熱くなり、思わず目から涙がこぼれ落ちていった。

 このベングリオン空港の名はイスラエル初代首相、ダビデ・ベングリオンに因んでつけられた名前であるが、少し以前まではロッド空港と呼ばれていた。日本赤軍が空港ロビーで銃を乱射し、多数の死傷者を出し、床が血で染ったあの凄惨な事件が起った時には、”ロッド空港”と日本でも報道されていた。

 それはロッドという町のすぐ近くにこの空港があるからである。国道一号線を挟んでその北側に空港、南側にロッドの町がある。ここはイスラエルのほぼ中央にあり、シャロン平野の南端、シェフェラー(ユダヤの低地、ペリシテ人の地)の北端に位置している。

 新約聖書では”ルダ”と呼ばれ、ペトロはこの町を訪ね、8年間も床についていたアイネアを癒したことを伝えている(使徒 9:32~35)。現在の人口は4万人で、2万人以上の人々が航空機産業に従事している。

 後に、考えてみると、聖書にはアブラハムがこの空港近くを歩いた記事はなくペトロやパウロが何度か行き来した地であることに気付いた・・・。

 けれどもこの時の涙は生涯忘れることはないであろう。この私が何千年にも及ぶ神の救いの働きが成されたこの地に今立ち、しかも、その測り知れない神の救いの中に入れて頂いて居るという感動の故に湧いて出た涙なのだから。

 現在この空港はテルアビブ国際空港と呼ばれることが多い。

キブツへの道(19)

 夙川の教会の家を出てから48時間を要して(成田での一泊を含めて)ようやくイスラエルの地に到着した。飛行機の出入口からタラップを降りて空港の地面の上に立った。

 ベングリオン空港は未だ近代的な空港施設が整っておらず、飛行機から降りると、入国手続きのカウンターまで地面を歩いて行くのである。ようやく昨年(2005年)立派な搭乗口と飛行機出入口までの通路を伴う施設が完成したということを雑誌の記事で知った。

 2月27日の午前6時前のベングリオン空港は未だ日の出前で、空はすでに白んでいたが、黒い雲の塊が低く垂れ込みながら西から東へと走るような速さで流れている。雨は落ちていなかったが地面は濡れ、空気はひんやりして湿っていた。

 4月までは雨期であるので直前まで雨がこぼれていたのであろう。飛行機での長時間の旅を終え、ほっとして、飛行機のそばで立ち止まって周囲を見回し、空を見上げると、ぐっと内からこみ上げるものがあり、思わず涙ぐんでしまった。

キブツへの道(18)

 この飛行機も私の座席は通路側で窓から眼下を見ることができなかった。外は暗間であるが、灯火は見えるし、イスラエルに近付く頃は、空が白みかけていて海岸線などを見ることが出来る。これも残念であった。

 機内のテレビは米国の映画「ビヴァリーヒルビルズ」を上映していた。私が高校生の頃「じゃじゃ馬億万長者」という30分番組があったが、同じ原作で最近映画化されたもののようだ。とても面白いストーリーで好きな番組であったので、懐かし思いを抱きながら画面に見入っていた(英語版であったので言葉は理解できなかったが)。

 飛行機はアルプス山脈を超えるためか、かなり揺れた。ストンと落ちるように揺れたり、機体がミシミシ音を立てたりして乗り心地はすこぶる悪い。何度もヒヤッとさせられ、真夜中を過ぎても緊張のために眠ることができなかった。

 飛行機がイスラエルに着陸した時、多くの場合、機内から拍手が湧き起こり、時には、イスラエル国歌「ハ・ティクバ」(希望)が歌われるということをS師は語っておられた。

 離散地から父祖の地、神の約束の地に帰り着いた感動がそのようにさせるのだ。私たちの飛行機がベングリオン空港に着陸した時は、拍手が湧き起こっただけであった。1994年2月27日(日)午前5時40分のことである。

キブツへの道(17)

 ロンドン・ヒースロー空港での乗り継ぎの長い時を経て、イスラエル行きの搭乗口に入って行った。ご存じのようにイスラエルはパレスチナアラブ人との紛争を抱えているために飛行機による出入国のチェックは非常に厳しい。

 私たちが日本を出発した日の朝刊で米国籍のユダヤ人がイスラエルのヘブロン (アブラハム、イサク、ヤコブ、サラの墓)の礼拝所で銃を乱射したために多数のイスラム教徒が死傷したことが報じられていたので、ツアーリーダーのS師はとても心配されていた。このために日本ではイスラエル行きを自粛するようにとの政府からの情報が出されたと聞いている。

 そのために搭乗前のチェックはとても厳しく、バッグの中身も全て係員に見せなければならなかった。更に金属チェックで、私が通るとブザーが鳴るので、身体チェックも一度ではパスせず、結局ブザーの鳴る原因がわからないまま、ようやく搭乗を許可された。

 イスラエル行きの飛行機は、東京からロンドンまでのものに比べるとずっと小型で、機内は狭く感じられ、天井も低かった。周囲を見回してみると、黒服に黒帽子の明らかにユダヤ教正統派と思われる人々が多数おられたので、いよいよイスラエルに行くのだ、という実感が湧いてきた。

キブツへの道(16)

 BA機は2月26日(土)午後5時にロンドン・ヒースロー空港に着した。東京とロンドンとの時差は9時間あり、搭乗時間は約12時間であった。ここでイスラエルのベングリオン空港行きに乗り換えである。出発時間は午後10時40分、待ち時間は約5時間半ある。

 東京からの到着ゲイトとイスラエル行きの出発ゲイトの建物が別棟なので、先ず空港内のバスで移動する。待ち時間は何もすることがない。土産物店を歩いてみるが30分も見ればもう充分である。

 あとは待機室のベンチで休むだけである。他の参加者は皆ベンチで仮眠をしてしまい、私一人眠ることが出来ず、薄暗いそのホールでボーッと待っていた。こういう時間は何か良い読み物をバッグに入れておくことが大事だと思った。読書すると眠くなるであろうから・・・。

 近くを見回してみると30才代の日本人男性が腰掛けていた。彼の所に行って声を掛けてみた「どちらまで?」彼は「イスラエルです」と言う。「観光ですか」と尋ねると「仕事です。花の買付です。日本には無い花で日本人が好みそうな花を捜しに行くところです」と答えてくれた。

 ガイドブックには「イスラエルは日本の四国ほどの面積だが、特殊な地形と気候のため植物の種類は2250種もある。ヨーロッパで最も多いイギリスで1750種、デンマークの1600種を超える。日本の園芸業者の多くはイスラエルに買付に行く」と書かれている。今回のツアーを通してはじめて知ったことの一つである。

キブツへの道(15)

 キブツ・マアニットが何故日本人クリスチャンが勤勉に働くことを知ったのか。それは、以前S師がキブツ労働体験ツアーに参加し、その際にその働きぶりが評価されたからだ。

 このようなヴオランティアならば大歓迎、ということで、年齢等制限なく受け入れましょうと、特別に扱ってくれることになったそうである。S師はその所属する教団が古くからイスラエルの回復とユダヤ人の救いを祈りつづけ、S師自身も自分がそのために何か出来るようにと主に求めておられたのである。

 そして主がその祈りを聞いて下さり、このようなツアーが毎年実行出来るようになったのだ。先駆者、開拓者たちの祈りと労苦の恩寵はその後に続く人々には計り知れないものがある。

 電気、鉄道、医学なども同様で現代人の私たちは、先人の努力の賜物により、どれだけ便利な生活を享受していることか!印刷機の発明により、今私たちは各自で聖書を所有しているのである。そして主イエス様が十字架上で救いの道を開いて下さったが故に永遠の命の恵みに日々生きることが出来るのである。

 私の命も、後々の子孫や社会に何らかの貢献が残されるようにと祈るものである。機中でそのようなことを私は思い巡らしつつS師の話に聞き入っていた。(創世記 12:1~3)

キブツへの道(14)

 機内でS師はこのツアーの由来について話して下さった。外国の労働ヴォランティアに関して、受け入れるキブツと受け入れないキブツがあること。受け入れる場合、通常資格制限があり年齢が18才から32才までで健康な人、英・仏・独語のいずれかが語れ(日常会話が可能であること)、共同生活が可能な協調性があること、更に最短で何ケ月か以上働ける人であることが要求される。

 日本のイスラエル大使館でもこの条件で募集しており、語学と協調性のテストのためにミニキャンプもしている。この基準だとS師もK師も私も年齢制限で引っ掛かってしまう。

 しかし、これから向かうキブツ・マアニットでは、日本人のクリスチャンであるならば、どんな人でも喜んで受け入れてくれる。その理由は日本人のクリスチャンは皆真面目に良く働くことを知っているからである。以前のツアーでは80才を越えた牧師でも歓迎され、その人はシクラメン畑の除草をした。

 とにかく、そういう理由で日本人のクリスチャンであるならば年齢に関係なく大いに歓迎すると言って いる。期間も一ヶ月足らずでも良いという内容であった。 このように語られたS師のキブツでの働きぶりがどのようなものであるか、私は数日後、まのあたりにすることになる。

キブツへの道(13)

 このキブツ・ツアーの参加者は私を含めて五人。簡単に紹介すると、先ずS師。キリスト兄弟団の九州の教会の牧師で、このツアーを11年前から企画し毎年この時期に催行しておられる。

 キリスト兄弟団は古くからユダヤ人の救いを祈り続けている教団なので、このツアーの目的も当然ユダヤ人(キブツの住民)に伝道することである(ということを後で知った)。

 次に同じ教団の婦人教職K牧師。中年の明るい方である。S師とK師は英会話が堪能である。三人目はM姉。名古屋の教会員で既婚の若い女性。四人目は東京の宮本姉。今回で連続四回目の参加。エターナルラブ・イスラエルというユダヤ人伝道団体を作り、現在日本とイスラエルでユダヤ人にキリストの救いを伝える働きに奔走しておられる若い宣教師である。

 私たちは飛行機に搭乗してから、ゆっくり自己紹介をしあい、旅の祝福を主に祈った。何せ中継地ロンドンのヒースロー空港まで12時間も座り続けるので、時間はたっぷりある。私の楽しみの一つは窓から眼下にシベリア、ロシア、北欧の地形を眺めることであったが、シートが窓際でなく、願いはかなわなかった。

キブツへの道(12)

 イスラエルに向けて出発するその日までに、転居準備も含めて全てのことが整えられ、順調であったのは今思い返してみても実に不思議なことで、主のお支えがあったことを強く覚える。

 背後で多くの方々の祈りがささげられていたと思い感謝に堪えない。そして残される家族のこと、引っ越しのことも一切主に委ねて、不思議な平安の内に家を出た。夙川教会の山口兄が車を出して下さり家族とともに伊丹空港に向かったが、到着してみると西村師夫妻、押方師、玉造教会の徳山姉が見送りに来て下さっていた。

 そこで、このツアーのリーダーであるS師と、他の参加者と合流し羽田空港に向けて出発。家族と別かれる時、長女がひどく精神的に落ち込んでいるのが気にかかった(当時、小学一年生)。

 羽田に着くとすぐに成田に向けて車で移動し、ホテルにチェックインしたのが夕方7時であった。そこで一泊し、翌朝、ホテルに木村兄(夙川教会員で東京在住)が訪ねて下さり、旅の無事を主に祈って下さった。

 その後成田空港に向かい、午後2時にロンドン・ヒースロー空港に向けてブリティッシュ・エアーラインで飛び発った。

 このように家族や多くの兄姉、同労者の祈りと励ましに包まれて送り出された 私は生まれて初めての海外旅行、未知の体験の中に身を投じることになったのである。

キブツへの道(11)

 1993年12月13日(月)にパスポートと自動車学校合宿 倉吉行のバス予約券を受け取りに神戸に出向き、翌14日はあすか野教会と家内との契約のためにあすか野教会へ出かけた。そこで契約がまとまり、家内は4月1日からあすか野教会で仕えることが決った。

 20日になって キブツ・ツアーの責任者から連絡があった。参加手続きはしたが、滞在期間の延長に関しては、先方は、私の人物を見てから決定する、ということであった。

 金剛と夙川のクリスマス、年末の諸集会、金剛との送別会も無事終わって1994年を迎えた。

 1月5日に倉吉に行き、27日に卒業試験にパスして夙川に戻り、2月1日に試験場で受験し、自動車運転免許証を取得することが出来た。この間、山崎師、河口師にいろいろお世話になり、倉吉教会の聖日礼拝(午後)に二度赤碕教会の礼拝に一度出席させて頂いた。

 倉吉教会の皆さんからは、イスラエル行きのために献金まで頂いて、主にある交わりの暖かさに感謝した。

 その後は、25日の出発日までに、あすか野への引っ越しのための私の荷物の荷造りに励み、近隣の教会の牧師に挨拶にも出かけた。

 一麦西宮教会のS師は私たちのために熱祷を主にささげてから、多額の支援金を手渡され、驚愕! 師の信仰と愛に歩んでおられる姿をまのあたりに見て敬服の思いを抱いた。

 アドベントの多くの方々からも援助を受け、(主は 旅の必要をことごとく満たし)全てが整えられて、その日、2月25日を迎えることが出来た。

キブツへの道(10)

 「後のことは私に任せ、あなたはイスラエルへ行って思いっ切り充電してきなさい」という思いもよらぬ家内の言葉で、私の淡い願望は一気に現実となる。

 あすか野教会との話し合いは、私ではなく家内との契約で進められ、金剛キリスト望み教会との兼牧は、この年の年末限りであったので、私はすぐに、このキブツツアーを申し込み、キブツ滞在が一年間でも可能であるかどうかも合わせて尋ねてみた。

 その間も兼牧、神学校の講義、クリスマス諸集会の準備など、忙しい日々の中で、パスポートの申請、教団実行委員長への挨拶と報告、あすか野教会との話し合いなど息をつく間もないほどであった。

 更にこの機会に自動車運転免許も合宿で取得しておこうということになり、1月5日から27日まで鳥取の倉吉に行くことにした。その間の夙川の礼拝メッセージは家内が担当し、3月の一ケ月も家内がすることになる。

 金剛との兼牧の3年間も夙川と金剛での礼拝メッセージを月一回づつ家内が担っていてくれたが、まさにこの頃は家内の支えもあっての私の歩みであった。

(この頃ではなく、この頃もと言うべきか。)

キブツへの道(9)

 「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており・・・」(ヨハネ 10:14)

 1993年も晩秋になり、あすか野教会も私たちのことを前向きに考えて下さり、1994年4月1日から赴任する方向に進みはじめた。その頃になって私は家内に例の「キブツ奉仕ツアー」のパンフレットを見せた。

 すると家内は二つ返事で「行って来なさい。是非行きなさい。あとのことは何も心配しないで私に任せたらいいよ」と言うのである。夙川での13年間ほとんど休むことなく働き続け、朝夕刊配達から集金、ミニコミ紙の配達もし、この3年は金剛教会との兼牧、神学校での講義など一日の休みもなく働いてきたことを家内は見ていた。

 私は疲労の極みにあり目、耳、喉、肺の具合が悪く、特に耳は鼓膜に穴を開け管を通す処置を受けたばかりであった。私はこのままの体調であすか野に行くのに自信がなく、キブツの軽作業で体調を回復させてから行きたいと思った。

 又、神学校で旧約を教えるのにヘブライ語の初歩を学んでおく必要も感じていた。そこで一ヶ月だけでなく、一年ほど滞在したいと願うようになり、家内にその思いを伝えると二つ返事で「そうしなさい。あとのことは心配しないで私に任せて行ってきなさい」と言ってくれたのである。

キブツへの道(8)

 1993年、阪神宣教祈祷会の会場が兄弟団西宮教会で行われた時のこと。少し早い目に会場に着いたので、礼拝堂入口の受付カウンターの上にあるパンフレット類を見せてもらっていた。そこに第10回「キブツ奉仕と聖地研修の旅」の案内もあったのである。

 期日は1994年2月26日(土)~3月23日(水)の約一ケ月間。

 その案内文を読んでみると「午前中と午後1〜2時間の軽作業、その後の時間と休日には聖地旅行や余暇を楽しむことが出来ます。可能な限りエルサレムやベツレヘム、カイザリヤ、ガリラヤ湖や死海を見学します」とあり、応募資格は「信者及び求道者、年齢を問いません」という。

 こんな「イスラエル旅行もあるんだ・・・」と思いつつ私はこの案内書を一部もらって帰ることにした。この時は未だ1994年4月からの奉仕先は未定であった。

 11月3日(水)に教団定期総会が萱島キリスト教会で行われた。その会議の休憩時間に会堂後方のソファーに実行委員会のメンバーが何かを話し合っておられるのを、そばに居た私は何げなくその会話を聞いていた。

 それは、あすか野キリスト教会が来春以降無牧になることに、どう対処しようかという相談であった。私は咄嗟にロをはさみ、私は来年3月で夙川教会から出なければならないこと、それで、あすか野教会に赴任出来ないか打診して頂きたいと申し出たのであった。

キブツへの道(7)

 このY青年は、なんとハーベストタイム主催のイスラエル旅行のセミナーに参加し、そのセミナーで用いられた資料を私に見せてくれたのだった。しかし、その時の私は時間的にも経済的にもイスラエルへのツアーに参加するここなど考えることも出来ない状況であったので、ざっと目を通しただけであったが、『つのぶえ』紙は興味深く読ませてもらった。

 『つのぶえ』は現在も続けて読ませてもらっている。Y青年はその年の春に大学を卒業、就職し、研修期間中で、研修所のある西宮に来ていたのだか、半年間の研修が終わると東京の職場に配属されたので上京して行った。

 その後数年して教会堂の家主が1994年3月末で家を空けて欲しいと申し出て来られた。期限には未だ2年以上あつた。教会員は市内外の不動産店を回って移転先を捜したが難しいことがわかり、夙川教会は解散することになった。

 そして1994年3月末で、あすか野キリスト教会が無牧になることが判明し、あすか野教会との話し合いで(教団実行委員会が仲介して下さった)その年の4月1日から私が牧師(主任牧師)として赴任することが決まったのだ。

 阪神地区には超教派の阪神宣教祈祷会という福音派の集まりがあり、ほぼ月一回教会持ち回りで集っていた。兄弟団西宮教会もその祈祷会に加わっていた。

キブツへの道(6)

 ちょうどこの頃、一人の青年が夙川教会を訪ねて来た。日曜日の礼拝が終わって教会員が帰った直後であったが会堂内に案内し、昼食を勧めると、素直に応じてくれたので、食事をしながら会話をした。

 彼の住んでいる所は同じ西宮市内であったが、教会からは遠く、とても歩いて来れる距離とは思えないが歩いて来たという。しかも何となく教会に行ってみたかったのだそうで、家内は無気味がり、私に小声で「帰ってもらったら?」と言う。

 彼の住居から夙川教会までの間にはいくつもの他の教会があるのにわざわざわかりにくい場所にある私たちの所に訪ねてくるのは不可解と思ったらしい。夙川教会には金銭を求めて来る人がしばしば訪ねて来て困っていた時期でもあった。しかし、彼はその後、忠実に礼拝を守り、後にあすか野教会で受洗するまで主に導かれることになる。

 彼が或る時、教会に一冊のファイルを持参し私に見せてくれたのである。その中の一つは『つのぶえ』誌で、中川健一牧師が発行しているユダヤ人宣教の情報紙、もう一つはイスラエル旅行に関するかなり詳しいセミナーの文書であった。

キブツへの道(5)

 作曲家H氏が或る時、私にY氏ご夫妻を紹介すると言い、電話で連絡をとってくれたので一人で訪問させて頂いたことがある。Y氏は元神戸女学院の院長、現在は同女学院の名誉院長で、当時は西宮市内にお住いであった。

 ご夫妻は熱心な原始福音(神の幕屋)の信徒であり、集会の指導者でもある。お訪ねすると快く笑顔で応接間に迎えて下さり、原始福音に入信された証しを聞かせて下さった。そして帰り際に原始福音の経営するミルトス社の「聖書の世界」というVTR三巻セットを貸して下さった。

 このVTRは以前から見たいと思っていたが高価なもので買えないでいたので、大いに感謝して借りて帰った。そのVTRには聖書に登場するさまざまな土地や遺蹟などが年代順に紹介されていた。

 それらの多くがイスラエルの地であったが、鑑賞後の感想はイスラエルには聖書時代の遺蹟が多くあるのだなあという程度であった。小さなブラウン管の中からの映像は一部だけのスポット映像なので臨場感に欠けるからであろう。

キブツへの道(4)

 その青年作曲家H兄は、私との面談で何度も創作意欲が湧いてこないことを訴えなさるので、キリストの福音について話してから、「福音」はギリシャ語で「エヴァンゲリオン」と言うことを私は彼に伝えた。

 それによって彼は新たなインスピレーションを受けたようで、今まで作曲した小品などをまとめ、「エヴァンゲリオン」という作品(組曲)として発表した。それはすぐに女子パウロ会によって彼のピアノ自演でCD化され発売された。

 それ以後、彼は夙川教会の礼拝に出席するようになり、奏楽もして下さった。クリスマスなどの特別集会には、彼のピアノ特別演奏をしたり、彼の音楽教室の先生が来て、ヴァイオリン、チェロ、フルートなどの演奏もして伝道を助けて下さった。

 彼は或る時、「日本中を伝道して回りましょう。吉川さんがメッセージを語り、私がピアノを弾きます」とまでヴィジョンを語って下さった。私の四人の子供たちもピアノを習わせてもらうことになったが、私たちが生駒に来てからは交わりがほとんどなくなってしまった。

 彼は今も作曲家、演奏家として活躍中で、「エヴァンゲリオン」の後「雅歌」のCDを出版し、現在は宮沢賢治の詩への作曲を続けておられる。

キブツへの道(3)

 或る日、一人の青年が夙川教会を訪ねて来られた。お話を伺うと、彼は作曲家兼ピアニストで、近くで音楽教室を経営しているとのことである。そして作曲がうまく進まず困っているという。

 更に彼自身のことを話されるには彼は10代で単身フランスへ音楽留学をしたこと、そこで大病を患ったが、不思議に癒され、その時「イスラエルへ行け」という声を聞いた。そこで彼はイスラエルに行き、音楽を学びいろいろな経験をして帰国したのだという。

 そして日本で今の仕事をしているのだが、内的にユダヤ人に強く結ばれている人である。夙川カソリック教会の会員(ご両親の関係で)だが、ユダヤ人のために祈っている「聖イエス会」や「原始福音(幕屋)」とも関係しているという。

 彼は、ロシア系ユダヤ人でフランスで活躍した画家シャガールに傾倒していた。そしてシャガールの作品に因んだ曲を何曲か作曲し、神戸の美術館でシャガール展が催された時には、会場でその作品をピアノで演奏しそれが新聞やテレビでも紹介された。

 私は彼からユダヤ人のこと、イスラエルのことなどを何度となく聞くことになった。

キブツへの道(2)

「闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1:2)

 夙川教会には毎月キリスト教書店の方が営業に来られ、何冊かの書籍を置いて行かれた。それらに目を通し、気に入ったものを購入していた。それらの中に、夙川の近くの大学の教授が執筆されたイスラエル滞在記があり、捨い読みをさせてもらった。

 その文章の中に「イスラエルに行ってもバスツアーで史蹟を巡回するだけでは充分とは言えない。そこに住み、主イエスが住まれた地に住み、歩まれた道を歩いてみてこそ福音書の主とその弟子たちの心情により近づける」というようなことが書かれてあり、この一文が私の心の奥深くに刻まれた。

 イスラエル行きが決まりかけた時、キブツワーキングツアーの期間が約1ヶ月であったが、私一人そこに残って一年間滞在しようとしたこと、又、イスラエルに行ってから、エルサレムでヒンノムの谷を歩き、神殿近くからシロアムの池へ、ライオン門からオリーブ山を越えてベタニヤまで歩いたのもこの本にどれほど影響を受けたか、わかって頂けると思う。この教授はナザレからガリラヤ湖まで歩いた時の感動を書いておられた。

キブツへの道(1)

「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(箴言 19:21)

 何故、牧師がイスラエルのキブツで6ヶ月間もワーキング・ヴォランティアとして滞在することになったのか、と不思議に思われる読者も多いと思う。実際、私がイスラエルに出発する前に私に非難めいた言葉を投げかけた同僚の牧師もいた。しかし、私にはそれなりの理由(事情)があったのである。

 牧師でなくても聖書にそれなりの関心を持つ人ならば、1948年に独立を勝ち取ったイスラエルに無関心な人は少ないと思う。しかし、実際にそのイスラエルに行くことを考えるとなると話は別である。1980年から夙川教会に赴任し、4人の子供を与えられ伝道牧会に携わっていた私がイスラエル行きを考えることは全くなかったし、又、そういうことは非現実的ですらあった。

 アドベントの先輩の牧師が何人かイスラエルへツアーで行かれたことを聞いた時にも、私にはどこか遠い世界の出来事としか思えなかった。しかし、イスラエルへの想いは私の心の中に少しずつ蓄積されてゆくことになる。