エルサレムへの旅(36)終

 12時40分博物館内のレストランで昼食をとった。ライスと魚、ほんの少しの野菜とドリンク(スプライト)で30 シェケル(1200 円)。味は今一つでかなり高額なので驚かされる。博物館前から路線バスでエルサレムセントラルステーションまで行き、そこから2:30発ハデラ行きに乗り換えた。

 エルサレムからアヤロンの谷の方へカーブの多い急な下り坂を90〜100Km/hで走るバスにも驚いた。周囲の景色は素晴らしかったが眠気に襲われる。ハデラからはタクシーでキブツに戻った。夕方 5 時頃であった。直ぐに夕食を済ませ、私を除く三人はギブツでお世話になった人々へのお別れの挨拶回りに出かけて行った。その後、食堂で食事をしていた他国のヴォランティアと記念写真を撮ってから部屋に戻って最後の反省会をする。

 3月 22 日(火)朝4時にS師と二人の姉妹はキブツを出て帰国の途に着かれた。いよいよ今日から日本人は私一人の生活が始まるのだ。身の引き締まる思いと主の導きへの期待が重なる。今朝の仕事は7時からの予定であったが迎えの車が来ず、早い目に朝食を済ませて 8 時から作業を始めた。ビワ畑での摘果作業であった。午後 2 時過ぎまで働いたが、南アフリカから来たパットが風邪気味で足に傷を負ったので日本から持参していた風邪薬と塗り薬をあげた。

エルサレムへの旅(35)

 死海写本館展示物の中で印象に残ったものは、クムランの洞窟から発見されたイザヤ書全巻の羊皮紙の巻物と詩篇第 151篇のコーデックス。共に BC2~3世紀のもので信じ難いほど貴重な資料だ。私たちの手元にある旧約聖書詩篇は 150篇までなので、どのような文章が書かれているのか興味は大いにあるのだが、悲しいかな私には全く歯が立たない。その他ナホム書注解などである。エンゲディから発見されたものではバル・コクバ手紙である。

 そこを出て隣接の土産店を見たが全体的に割高値なので何も買わずに出た。本館では先ず特別展示があり、「エルサレムでの生活の今と昔(1900年頃から)」を見て歩いた。そこから民族美術館、子供館、聖書・考古学館を観て回った。美術館では時間的余裕がないので絵画を中心に速足で見たが、モネ、マスネ、ルノワール、ゴッホなどの絵画が目線の高さでガードマンはいるが、ガラスや防護柵なしに展示されているのは驚かされた。直かに名画に接する事ができるのだ。子供たちがそのフロアで走り回っているのに。

 考古学館ではエジプト、シリア、アッシリア、イスラエルの BC4000〜AD400 年頃までの出土品が大量に展示されており、とても半日で見て回る事は出来ない。ここでは小さな女性像(アシュラ)と子牛の偶像の多さに旧約時代をリアルに見せ付けられる体験をした。

エルサレムへの旅(34)

 夕食後ホテルに戻った私たちは恒例の夜のミーテイングをした。主を賛美し、み言葉に聞く。S師はゼカリヤ書を開いてショートメッセージを語られた後、このツアーの明日からの予定の説明をされた。明日がキブツ最後の日で明後日の早朝には私以外のメンバーは帰国の途につかれるのだ。

 3月21日(月)朝7時半からホテルで朝食。パンとコーヒー、魚の酢づけ、フルーツドリンクなどであった。9時すぎにホテルをチェックアウトしてバスでイスラエル博物館に向かった。イスラエル博物館は旧市街のヤッフォ門の西方約2.3kmにあるクネセット(国会議事堂)の道路を挟んだ南側にある。エルサレムの右も左も全く分からなかった私であったので、連れて行かれる所へただ付いて行くだけであったがクネセットとイスラエル博物館が隣接していることを知ることができた。双方とも充分な広さを有する緑豊かな美しい敷地だ。

 入館の手続きをするとロビーでしばらく待ってから荷物を全てインフォメーションに預けた。そして先ず写本館に向かった。この建物の外観はクムランから発見された死海写本が納められていた壷の蓋を模って造られていることで有名である。館内は写本が発見された洞窟をイメージしてかなり暗い照明である。私は光による展示写本の劣化を防ぐためではないかと思った。展示物はそれほど多くなかった。

エルサレムへの旅(33)

 鶏鳴教会はシオン山の頂から東へ 200m 程下った傾斜地に建てられている。曲がった道を下っていくと少しばかり広い駐車場があるが、車は一台も駐車していない。そこから教会堂の方へ行くところに大きな鉄柵があり、それが閉じられていたので、その先へは進めなかった。日曜日は休館日であったのだ。鶏鳴教会は大祭司カイアファ邸跡と推定されている場所で、主イエスがここでユダヤ人による裁判を受けたのだ。

 弟子のペテロが三度「私はイエスを知らない」と否んだ時に鶏が鳴いたという福音書の証言からこの名がつけられた(マタイ 26:57-75)。仕方なく私達は坂を上ってシオン門まで戻り再び徒歩でダマスコ門まで行き、そこからホテルへ行って荷物を持ち出した。

 そしてダマスコ門前のタクシー乗場から乗車して新市街に向かいキングスホテルにチェックインした。ここはエルサレムの北部で近代的な町並みでホテルも高級である。

 部屋で少し休憩をとった後、夕食のために市街に出かけた。その光景は大阪の中心部と殆ど変わらない。道路は歩道も車道も大阪の御堂筋並みの広さがあり建物も高層ビルである。私達は軽食店でイタリアンを食べた。私はスパゲティナポリタン、野菜スープ、いちごジュースを注文して約1500円であった。スパゲティはセモリナ粉ではなく安物のうどんのように腰のないものであった。

エルサレムへの旅(32)

 「最後の晩餐の部屋」の建物の一階部分の入口は閉められており、現在何に使われているのか分らなかった。そこから棟続きの建物を右に曲がるとダビデの墓と言われる部屋に行き着く。そこは薄暗く、その左側の部屋の低い鉄柵の向こう側に特大の棺が濃い赤紫色のビロードのような布で覆われて安置されその布の正面の中央に 30cm 大のダビデの星が白色で刺繍されてある。その周囲に小さなヘブライ文字で何か書かれている。最初の文字はダヴィドと読める。

 ここには年輩のユダヤ教徒らしき人がたむろしている。多分、管理している人々であろう。伝えられるところによればダビデの墓は紀元 135 年のバルコクバの乱の時にローマ軍によって破壊されたことが伝えられている。近年の調査によると、この建物は1世紀頃に建てられたシナゴーグ(ユダヤ教会堂)であったらしいという。こんなシオン山上にダビデの墓が設けられているとは考え難い。私達は10分程でここを離れ鶏鳴教会に向かった。

エルサレムへの旅(31)

 「最後の晩餐の部屋」の建物の前に来ると一見して後代の建物であることが判る。現在の建物は十字軍がビザンチン時代の教会跡に建てた「シオンの丘の聖母マリア教会」の一部である。16世紀以降、イスラム教のモスクに用いられていたが、1948年のイスラエル独立後からはイスラエル政府の管理下に置かれ、宗教の区別なく誰でも自由に出入りできるようになっている。私たちも裏の階段を上って2階の部屋に入って見学したが、主イエスと弟子たちの最後の晩餐のままの部屋ではないので、見学する意味を感じなかった。

 しかし、その土地の上に建てられたものだとすれば興味深い。最後の晩餐(ルカ 22:7~38)の部屋はペンテコステの聖霊降臨の部屋(使徒1:13~2:4)と同じ場所で、マルコの母マリアの家のことであり、初代エルサレム教会の集会所(使徒 12:12〜17)となっていたと考えられる。このマルコの従兄弟バルナバ(コロサイ4:10)はレビ人であった(使徒4:36)ので、マルコの家系もレビ人か祭司であったと考えられる。

 彼の家が神殿に近いシオンの丘の上にあったのも不思議ではない。この直ぐ下には大祭司カヤパ邸跡と言われる鶏鳴教会もある。マルコの父の名が明記されていないのも、神殿に仕える者であったためであろうと思われる。これらのことは、私が帰国後に推理したことである。

エルサレムへの旅(30)

 シオン門はシオンの丘へ通じているので、この名で呼ばれているが、アラブ人達はダビデの門と呼んでいる。1948年のイスラエル独立戦争時にヨルダン軍に包囲されてしまったユダヤ人地区の住民を救出するためにイスラエル義勇軍がこの門から城内に侵入したが、敗北し多くのユダヤ人が虐殺された。その後 1967年の第三次中東(6 日間)戦争で旧市街(城内)がイスラエルの占領下になり再移住が成されたのだが、門に残る無数の銃弾痕がその戦闘がいかに激しいものであったかを物語っている。門周辺の壁面は痛々しい程害われている。

 私たちはこの門から城壁の外に出た。この辺りがシオンの丘であり、マリヤ永眠教会、最後の晩餐の部屋(アパルーム)、ダビデの墓などがある。ダビデ王や主イエスの時代はこの辺は城壁内にあったが、現在は門の外になってしまっているのには事情がある。現在の城壁やシオン門を再建したのはオスマン・トルコ帝国のスレイマン大帝で 1537〜1541年のことである。大帝は石工に昔の城壁を忠実に再建す るように命じたのだが、石工は誤って古代の重要な部分(シオンの丘やダビデの町)を城壁の外にしてしまったのだという。その為にエルサレム旧市街の南半分が城壁外になってしまっている。

 私たちはマリヤ永眠教会の高い石壁に添った道を通って最後の晩餐の部屋と言われている建物に向かって歩いた。その道はそれ程広くなくやや左へと曲がっていた。

エルサレムへの旅(29)

 聖墳墓教会を半ば素通りで見学した後、私達はその正面玄関を出て、石段を上ってそのまま真直ぐ南へ歩いて行った。土産物店が並んでいたが、どこにも立ち寄らず、ゆっくりした足取りで進んでいく。突き当たりまで行くとダビデ通りに出た。そこを右に曲がり西に歩いて行く。ここは狭く暗い石畳の上り坂の道で、左右にいかにも古い土産物店などが、あふれるばかりの商品を並べて売っている。

 キリスト教徒地区なのでキリスト教徒向けの商品(木彫りのもの)が多い。この道をただひたすら黙々と歩いて行く。200mほど歩くと急に明るい広場に出た。ここはヤッフォ門前広場であった。この門の南側にはダビデの塔があり、現在はその一画が歴史博物館(有料)になっている。この塔はダビデには全く無関係で現在ある塔は 1655 年に建造されたものだという。元々は BC20 年にヘロデ大王がエルサレム防衛のために、ここに要塞を築き3つの尖塔を建てた。

 それは壮麗を極めたもので、史家ヨセフスも絶賛していると言うが、現在の塔はただの塔にしか見えない。私たちはここも素通りし、城壁に沿うようにして南へ歩いて行った。こからがアルメニア人地区で、アルメニア正教関連の建物が左手に続くが殺風景な通りである。200mほど行くとアルメニア博物館があるがそこも素通り。その先 100m は何もなく道なりに左に曲がって 100m 行くと今度はシオン門に出た。

エルサレムへの旅(28)

 聖墳墓教会はキリストが十字架に架けられたカルヴァリの丘と遺体が収められた墳墓跡とされる場所に建てられた会堂である。この会堂内にカルヴァリの丘とキリストの墓とされる場所があるのだ。会堂内部はローマカトリック、ギリシャ正教、アルメニア正教、エチオピアのコプト正教などの区分に分離され管理されている。私たちはそのコプト正教会の入口から入場したのだ。コプト教会の礼拝堂は古めかしく、それほど広くはなく薄暗い。

 続いて他の区域に入って行ったが、会堂内は相当に広く、多くの見学者が行き来している。ゴルゴダの丘と言われる所も長い行列ができていて、私たちは並ばずに会堂から出た。ガイドの説明がなければ、どこが何かよく判らない。私たちが出た所は正面玄関のようで広い幅の前庭があり、その先は広い石段になっている。聖墳墓教会の地面は現在の町の地面より 10m 低いということが、この石段を見ることで納得できる。

 この会堂内は当時のカルヴァリの丘や園の墓の雰囲気を想起させてくれるものは皆無のように思った。むしろ先に訪れたゴードンのカルヴァリと園の墓の方が当時を偲ばせる雰囲気を残していた。主イエスキリストの十字架と復活は福音の核心である。しかし、この教会堂で見たものは、その抜け殻に思えた。この場所で静かに黙想するには相当の努力を要するであろう。

エルサレムへの旅(27)

 ヴィア・ドロローサは主イエスの時代は現在の道より約10mも地中に埋まっている。ローマ帝国がエルサレム市内の建物を徹底的に破壊してしまい、その瓦礫の上に今の建物が構築されているからである。

 キリスト時代の町を発掘し再現しようとすれば、現在の建造物を全て除去し、土を10m堀り起こさなければならず、その様な事は現実的に不可能である。1967年の第三次中東戦争でエルサレムの旧市街(城壁内)をイスラエルがヨルダンから奮還した際、旧ユダヤ人居住区からイスラム教徒を排除したのだが、建物全部を取り壊して 10m 下まで発掘することはしなかった。ほんの一部分だけ掘り起こし、主イエス時代の地面を調査しただけである。

 私達は第七ステーションを過ぎた所で右折し、細い路地のような所に入り、石段を上がりながら左折したり右折したりして鉄壁の小さな門をくぐって中庭のような所に出た。その庭は花らしきものも植えられておらず、殺風景で塵っぽい感じがした。ただ、壁近くに大きなからし種の木らしきものが枝を広げて垂れ下がっている。淡いセピア色の空間だ。その庭の右手の小さな入口から建物の中に入って行った。そこはコプト・オーソドックス教会の領域で聖墳墓教会堂の一部であった。

エルサレムへの旅(26)

 ダマスコ門から城内に入ると活気に満ちた空間であった。人々が行き交い、じっと立ち止まっていることが難しいほどである。

 道幅は充分に広い。その両側は店が並び、更に道の中央にも露店が続いていて青果や雑貨を売っている。そのために通路は狭くなり、人々は前に歩く人をかき分けながら前進して行かなければならない。道は石畳でゆるやかな下り坂になっている。この辺りはアラブ人(イスラム教徒)地区で彼らの生活の中心の市場なのであろう。エルサレム旧市街は四つの地区に分かれており、最も広い地域(約4割)、ダマスコ門周辺から東側全部と神殿跡がイスラム教徒地区とされている。

 その雑踏の中を真直ぐ歩いてゆくとヴィアドロローサの第七ステーション辺りに出る。ヴィアドロローサ(悲しみの道)とは主イエスが十字架を背負わされ刑場のゴルゴタまで歩かされた道のことを言う。第一ステーションは主イエスが死刑判決を受けた場所で現在はアラブ人の小学校敷地内にある。そして最後の第十四ステーションは聖墳墓教会内の主イエスの墓とされる場所である。第七ステーションは主イエスが十字架を背負って二度目に倒れた所とされ、ここにはフランシスコ会(カトリック)の小聖堂がある。この辺りから西側はキリスト教徒地区で、旧市街の北西地区全体を占めている。

エルサレムへの旅(25)

 ベツレヘムの生誕教会堂の裏側は、幅 20m程の雑草の生えた空地になっており鉄条網の簡素な柵で囲まれてある。その空地に沿った細い道を東に向かって歩を進めると、左手のその空地の奥の方からガサガサと物音が聞こえてきた。その方に目を向けると数人の人影が雑草の合間から見え隠れする。よく目を凝らして見ると、どうやら先程メンジャー広場でイスラエル兵に投石して、兵士に追われて逃げていった少年達である。

 彼等はじっと私を見つめているのが判ったので、私は咄嗟に左手を挙げて彼等に手を振ってみた。すると彼等はそこに立ち上がって私に向けて笑顔で手を振ってくれるではないか。私も笑顔で応え、足を止めることなくそのままそこを通り過ごした。平静を装ったが心は動揺し、足は地に着いた感がしなかった。

 会堂の東側に出て左折しメンジャー広場に向かった。この道は南側がかなりの下り坂になっていた。私は北側に上って行き S 師達が待って下さっている所に戻った。この広場からアラブのタクシーでエルサレムのダマスコ門まで帰ったが、帰りのタクシー代は行きより 10 倍以上も料金が高かった。タクシーを下りた私達はダマスコ門から旧市街(城壁内)に入りヴィアドロローサ(悲しみの道)に向かった。

エルサレムへの旅(24)

 繁盛しているのか、どの土産店も清潔で立派な店構えである。しかし子供達の投石騒ぎの為か、店内にもこの通りにも客らしき人の姿は全くなかった。生誕教会の裏側まで歩を進めてゆくと前方がパノラマのように開け、聖書に書かれているベツレヘムの野と思われる光景が目に飛び込んでくる。口では表現できないような感動を覚えた。

 正面下方にはベイトサフール村の家々が不規則に立ち並び、アラブ人の町には珍しく木々の緑が多くある。クリスチャン家庭が多いからであろうか、教会堂の十字架が所々に見える。教会堂の周囲にも木々が茂っている。土地はなだらかな傾斜面で、遠くには小麦畑のような白っぽい平面の場所が見える。

 私はすぐにルツ記にあるボアズの畑を想起した。ルツが麦の落ち穂拾いをした畑である。少年ダビデもきっとあの辺りを駆け回って遊んだのであろうと思うと胸に込み上げてくるものを感じた。左手の方は少し傾斜がきつく高くなっており木々が更に多く、家屋はほとんど見えない。キリスト生誕の夜、羊飾いたちが野宿をしていたのもあの辺りであろうか。是非ともあの辺りに行ってみたいという強い衝動が私の心を走った。もちろん今日は無理であるが。心ゆくまでこの光景を眺めていたいと思ったが、他の人々が待っているので急がなければならない。

エルサレムへの旅(23)

 アラブ人の少年達を追って行ったイスラエル兵達は皆若く見え、メンジャー(かいばおけ)広場は一瞬緊迫した状況になった。それでも私たちはここで昼食をとる事にしていたので、広場に面した食堂で、店頭のパラソル付きのテーブルを囲んでその椅子に腰を下ろした。

 リーダーのS師はこの状況にひどく動揺され、早々に食事を終え、このベツレヘムを去ろうと言われた。ツアーメンバーの安全を危惧なさったのである。しかし私はS師にせっかくの機会なので、私が生誕教会の外回りを一周見て回る時間を下さるように頼んだ。S師は渋々であったが了解して下さったので直ぐに一人で歩き始めた。

 まず、生誕教会の北西方に行きその角の駐車場の小さな広場の奥へ行き西側の景色を眺めた。家屋の向こう側に荒涼たる山々丘々が彼方に見える。家屋が邪魔をして満足できる光景ではなかったが、少し高い所から見ればきっと壮観な景色であろう。そして、そこから生誕教会の西側の細い道を南に向かって歩き始める。左側は教会敷地の高い石壁、右側は土産店が何軒か並んでいる。店内にはオリーブの木を彫って作った色々のサイズの置物(飼い葉おけの主イエス、ヨセフとマリア、羊飼い、博士達の家畜小屋のもの)などがあった。

エルサレムへの旅(22)

 この洞窟は聖誕教会に隣接するフランシスコ会(カトリック)の聖カテリーナ教会の地下まで繋がっている。この洞窟内でヒエロニムス(342 頃〜420)が聖書全巻をヘブライ語とギリシャ語からラテン語に翻訳した。

 彼の訳は「ヴルガータ」と呼ばれ、カトリック教会はこれを聖典として用いてきたのである。ヒエロニムスは翻訳に15 年もの年月を要したが、このベツレへムで地上の生涯を終えた。彼は信仰的理想が高く厳格な精神の持ち主であったが、怒りっぽく反対者達を侮辱したり、その毒舌は野蛮で無礼なものであった為、多くの人に嫌われたという。しかし友人や弟子達には深い愛情を示したため彼を慕う人々もいた。その中にはローマの貴族の末亡人パウラという・人もいた。

 彼女の資産がヒエロニムスのベツレヘム滞在の全ての必要(費用)を満たしたと伝えられている。パウラの死後ヒエロニムスは彼女の遺骨を見ながら翻訳を続け完成させた。聖カテリーナ教会堂の前庭には彼の石像が立てられているが、その足元にはパウラの骸骨像も置かれてある。

 私達は彼の石像を見てからメンジャー広場に戻った。その時アラブ人の少年たちがイスラエル兵達に対して、この広場で投石をしていた。その石の一つが S師の頭の直ぐ横をかすめていった。少年たちが逃げると数名のイスラエル兵がゴム弾銃を構えながら追っていったのある。

エルサレムへの旅(21)

 洞窟への入口も会堂の入口と同様にとても狭く、腰を屈めながら階段を10 段ほど下りてゆく。出てくる人とすれ違うことは不可能ではないが、かなり窮屈である。洞窟の幅は約2m、高さも2m、奥行きは間仕切りがされていて不明だが見学できるのは 10m ほどの長さである。中は灯火で少し明るい。

 主イエスの生誕の場所とされている所は入口の階段を下りて左に向いて、そのすぐ左側の岩壁の下側にある。そこは1mほど岩がくり抜かれ、その床に金属製の大きなベツレヘムの星が埋め込まれてある。その星の中央は丸くくり抜かれ、そこが主の生誕のメモリアルポイントとされている。

 当時の家畜小屋のほとんどは洞窟であり(貧しい人々の住居でもあった)マリアとヨセフが泊まった所もこのような洞窟であったと思われる。ここに会堂が建てられたのが主の生誕後350年も経ているので、考古学的には同定されるには至っていない。

 ベツレヘムにはこのような洞窟が他にもあって、学者達の意見もまちまちである。カトリック系の文献には、この生誕教会の一画にはへロデ大王によって殺害された幼児たちの多数の骨が残されていることに言及しているものがある。

エルサレムへの旅(20)

 ベツレヘムは主イエス様の生誕地として有名である。「ああベツレヘムよ」をはじめ多くのクリスマスキャロルでも歌われている。ルカによる福音書によれば、主イエスは家畜小屋の中でお生まれになったのであるが、この生誕教会はその場所の上に建てられたと伝えられている。この会堂の祭壇の地下にある洞窟こそが、その家畜小屋の跡だと言う。

 この教会堂は最初紀元 326年にローマ皇帝コンスタンティヌスによって建てられたのだが、その建物は現存せず、ただ床にその時代の古いモザイクの一部が残されており、観光客は誰でも見ることができる(この会堂は入場無料)。現在の会堂の形は6世紀のユスティアヌス帝時代のものだそうだ。

 私たちは前庭の右隅にある小さな入口、大人が身を屈めて一人ようやく入れるその入口をくぐり抜けてその会堂の中に入った。その会堂内は天井が高く石の柱が何本も並んであり、会衆は千人も入場できるほどの広さがある。堂内はかなり薄暗く床下の古いモザイク画も灰色に見える。会堂の右側を長い行列の後についてゆっくりゆっくり亀よりもゆっくり進んでいく。ようやく祭壇脇まで来ると、その直ぐ先の左側の洞窟を降りて行く入口があった。

エルサレムへの旅(19)

 嘆きの壁広場の見物も極短時間で済ませ、そこから旧市街の中を歩いてダマスコ門に戻り、門の外にある乗り合いタクシーでベツレヘムに向かう。このタクシーは8人乗りで満席になれば出発する。私たち4人とアラブ人4人が乗り込んだ。

 運賃は驚くほど安く、一人2シェケル(80円)、ダマスコ門前から西へ城壁に沿って少し進んで新門を通過し、ヒンノムの谷の手前で左折、城壁に沿って南へ走るとすぐにヤッフォ門、そこをそのまま南へ進んでゆく。

 この道がヘブロン街道で、その途中にベツレへムがある。道幅は広く車は混んでいない。車窓からの風景は、特に書くほどのものはない。ベツレヘムの街に入ると、車は左のわき道に入り、細い道を左右にカーブしながら走り、暫らくすると上り坂になる。その坂を登り切って右折すると広場に出る。

 その広場の中央が駐車場である。この広場はメンジャー広場で南側に生誕教会、西側は土産物店、北側にはツーリスト事務所、東側には食堂などがある。私たちは直ぐに生誕教会に向かった。とても古くて大きな石造りの会堂であるが、景観はグロテスクでお世辞にも美しくない。メンジャー広場から会堂前の広場に何の柵もなく、そのまま通じている。

エルサレムへの旅(18)

 入場のための検問は、所持品は当然の事(バッグの中も)ボディチェックも入念に行われる。それを1m程の銃を肩に提げた若い兵士5〜6名が鋭い目つきで行っている。本物の銃をこんなに近くに見るのは初めての事だし、兵士達の表情が硬く険しいので検問されている間、私はかなりの緊張感を覚えた。

 壁の前の広場はかなり広い。昔は壁の前は細い通りになっていて、直ぐ傍まで家屋が建っていたのだが 1968年の6 日戦争でエルサレムの旧市街がユダヤ人の手に堕ちた後、それらの建物が取除かれて現在のようになった。

 ユダヤ人達にとっては、この場所が聖地なのである。壁から50m程の所に低い鉄柵が設けられ、壁の前まで同様の鉄柵で左右に区別されてある。左側が男性用の祈り場、右側は女性用である。その中に入るには男性は頭に何かを被らなければならない。野球帽でもカウボウイハットでもハンカチでもタオルでも何でもよい。宗教的なユダヤ人男性はキッパという布製で円形の被り物をしているが、この祈り場の入口には紙製の簡易キッパが用意されていて、誰でも自由に使えるように配慮されている。

エルサレムへの旅(17)

 エルサレムで最も知られている名所の一つ「嘆きの壁」に行くのに、最も便利な門が糞(ふん)門である。この門の外側には、いつも観光ツアー用大型バスが何台も列を成して停車している。

 イスラエル(エルサレム)観光に来る人は必ず立ち寄る場所だからである。門から入って真直ぐ100m 程歩いて行くと「嘆きの壁」広場に入る検問所があり、そこで手荷物などの検問を受ける。そのすぐ手前の右手には神域(黄金のドーム)に行く細い通路もある。その周辺には、発掘によって出士した遺跡があり、ローマによって破壊された建造物の残骸の一部が見える。

 「嘆きの壁」はヘロデ王によって大修復された第二神殿の神域の西側の外壁を指す。現在の壁の高さは約 20m、長さは約60mで、下から7段目までの巨石がヘロデ時代のものである。その石の大きさに驚いてしまうが、主イエスの弟子達(当時のユダヤ人たち)も同様であった(マルコ13:1)。

 地中には、まだ17段(21m)埋まっていると言うのだから更に驚く。キリスト時代の地面は、20m以上下なのだ。石の間から細長い枝葉の雑草の様なものが生えている。それは、詩篇51 編で歌われている「ヒンプ」だと知らされると、またまた驚かされる。夜露がヒソプの葉から滴り落ちるのが、この前で祈るユダヤ人たちの涙のようで、「嘆きの壁」と呼ばれるのだという。

エルサレムへの旅(16)

 ゲッセマネの園はオリーブ山西の麓、そのすぐ下はキドロンの谷、ここで主イエスが逮捕された(マルコ 14:32、ルカ 22:39、ヨハネ 18:1)。

 北側の古い石壁の小さな門から中に入ると巨大なオリーブの古木が8本植えられた庭(園)である。その古木は樹齢2千年と言われ、幹は怪獣の下半身のようでグロテスクな形状である。これらは鉄柵で囲まれていて、見物人はその周囲を歩いて見て回るのである。

 柵の周囲にはバラの花が咲き乱れている。「ゲッセマネ」はヘブライ語で「油搾り」の意で収穫したオリーブの果を搾ってオリーブ油を作った場所である。この敷地の南には万国民の教会堂がある。4世紀の会堂跡に1919年に再建されたもので多くの国からの献金で建てられたので万国民の教会と呼ばれている。

 会堂内は真昼でもかなり暗く、祭壇の前に、主イエスが血の汗を流して祈ったという岩がある(ルカ 22:44)。それで別名「苦悶の教会」とも呼ばれている。とても大きな会堂だ。

 S師たちにとってはもう何度も訪れている場所なので短時間で見学を終え、タクシーで糞(ふん)門に向かった。この門は南側の城壁にある。南城壁には二つの門があるが、糞門は東の方(西側はヤッフォ門)である。

エルサレムへの旅(15)

 正面にイスラムの黄金のドームのモスクを眺望するオリーブ山の展望台、そこから5mほど下った山の斜面に、私たちは腰を下ろした。そこで主日礼拝を守るためである。その場所は展望台からは死角になっていて、私たちの声は聞こえても姿は見えない。

 そこで私たちは主を贅美し聖書を開いた。箴言 3:5, 6「心を尽して主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」この箇所からS師はメッセージを語られた。

 主イエスはこの辺りからエルサレム神殿を見て弟子たちにその滅亡を予告されたのであろうと語りルカ 21:20を読まれた。この場所に立つと、イエスがオリーブ山からエルサレムを見て、預言し、又涙を流された理由がわかるような気がする。ここはエルサレムより少しばかり高い位置にあり、エルサレム全体を見渡すことが出来るのである。

 私たちはそこから徒歩でケデロンの谷の方(西)へ下って行きゲッセマネの園とそこにある万国民の教会(堂)へ行った。その道は古い石畳だがとても急な坂で両側は石壁で囲まれている。幅は2mほどであろうか、広くはない。

エルサレムへの旅(14)

 昇天記念会堂の敷地内は草木一本生えていない殺風景な空間で園の墓とは対象的である。会堂から出ると門番の少年がテーブルに聖地のポスターや絵葉書を小さな机の上に並べて「ワンダラー、ワンダラー」と懸命に売り込もうとしている。

 見学無料のはずの場所に門番が居るのが不思議だと思っていたが、これが目的だったのだ。ここでは誰も何も買わなかった。そこから南西方向に少し歩くと、エルサレム旧市街と黄金のドーム(神域)が真正面に展望できる絶景の場所がある。グラビア写真(旅行パンフレット)などで見る風景である。

 正面にはイスラム教徒によって閉じられた黄金門が見え、右側の遠方にはステファノ(ライオン)門も見える。城壁の左方向には旧約時代のダビデの町だが、今はアラブ人の家屋がびっしりと建ち並んでいる。それは左に行くほど低くなっている。城壁に囲まれた旧市街の向う側には近代的な高層ビルが見える。ここは最高の観光スポットであろう。

エルサレムへの旅(13)

 エルサレムの神殿の丘の東側にはケデロンの谷があり、そのすぐ向う側は3つの峰を持つ丘陵が南北に横たわっている。北の峰はヘブライ大学のあるスコーパス(展望)山(829m)、真中の峰がオリーブ山(815m)、南の峰が滅亡の山(列王下 23:13、747m)である。

 オリーブ山の頂上にはキリストの昇天記念会堂があるので私たちは先ずそこを見学した。ドーム型の屋根を持つ石造りの8角形の小さな会堂である。この会堂の敷地は高い石垣で囲まれていて西側に門がある。

 入場は無料だが、アラブ人少年が門番のように入口に立っている。その門から敷地に入ると正面にその会堂があり、正面に入口がある。中は照明設備はなく小さな窓から入ってくる光だけである。

 そこにあるのはそこから主イエスが昇天した(使徒 1:9) という岩だけである。その岩にはイエスが昇天した際に出来た足跡のくぼみらしきものがある、というのだが、笑ってしまう。ここが昇天地だという確証は何もないが、4世紀にはここに会堂が建てられたのだという。現在の会堂は十字軍によって再建されたものを1835年に修復したものだ。

エルサレムへの旅(12)

 この夜の反省会でS師は「モーセがネボ山から約束の地カナンを見たと聖書には記されている(申命記 34:1~4)が、そこが蜜と乳の流れる地であるかどうかは肉眼では確かめられなかったであろう。今日のような晴天でも、あんなにかすんでいてぼんやりとしか見えないのだから、多分モーセは、心の目、信仰の目で見たのであろう。私たちも信仰の目で主の御国を見よう、又見ることが出来る者でありたい」という感想を述べられた。

 確かに死海の周りの空気はいつもかすんでいて対岸の山々がぼんやりとしか見えない。高気温のため海水が蒸発し、その水蒸気のためそうなるのである。しかし聖書には「主はモーセにすべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダンまで、・・・・・」「わたしは、あなたがそれを自分の目で見るようにした」と明確に記されている。

 堺の西村牧師がネボ山に行かれた時、珍しく空気が澄んでいてカナンの地を北から南まで見渡せたと私に語って下さったことがある。主はモーセにすべての土地が見渡せるようにされた、とわざわざ念を押すように書かれてあるのだから、事実そうであったと私は信じている。自分の目で見たことや経験したことを絶対化するのでなく、謙虚に神のみ言葉に聴くことの大切さを私は尊重したいと思っている。翌朝(3/20)は5:50起床。朝食後アラブのバスでオリーブ山に行った。

エルサレムへの旅(11)

 園の墓の見学を終えて売店に行った。この店の価格はカイザリヤの店より、少し安価である。私たちはそこから旧市街のダマスコ門前までゆっくり歩いて行った。ダマスコ門はシリアのダマスコに通じているので一般的にダマスコ門と呼ばれているが、ユダヤ人たちはサマリヤのシェケムに通じているのでシェケム門と呼んでいる。

 旧市街の8つある門の中で門構えが最も大きく立派な造りである。私たちは門の外の階段部分に腰を下ろし、行き交う人々をぼんやりと見ながら夕食時間までの時を過ごした。食堂はかなり薄暗い地下の部屋であった。

 料理はアラブ料理と思われるもので、量は多くなく軽食程度のものである。夕食の時、アラブ音楽のライプ演奏があり、三人の演奏家が弦楽器と打楽器と歌で、熱のこもった演奏が途切れることなく続いていた。私はしばらく聴いていたいと思ったが、たばこの煙が充満し、明日の朝も早いということで、食べ終えると、他のメンバーとすぐに部屋に戻った。そしてここでもいつものように反省会をした。司会は私、S師がショートメッセージをされた。

エルサレムへの旅(10)

 園にある墓の内側は天井が低く、鉄柵で2部屋に区切られている。柵の向う側には入れない。その一番奥に棺が設けられているが蓋石は無くなっており石製の棺も一部壊れている。墓の中はこの他、特に見るべきものは何もないが、ただ入口の扉の裏に「彼はここに居ない。復活した」(ルカ 24:6)と英語で書かれたプレートが貼り付けられているのが印象的であった。

 墓の前方はコンクリートで敷き詰められたやや広いスペースがあり、更にその向う側には高い木々に囲まれた少し広いベンチ付きの集会所のような場所がある。ここは墓よりも数メートル高い位置にあり、この所のベンチに腰を掛けて黙想することも出来る。とても快適な空間である。

 以前に述べたように、この頃の私はイスラエルの聖書に関わる事跡にそれほどの関心がなく(健康の回復とヘブライ語の学びが主目的)、 ガイドブックも所持しておらず、日記にもそれほど詳しく書き残していないのが悔やまれる。

エルサレムへの旅(9)

 ゴルゴタの丘と主の墓は、4世紀にコンスタンティヌス皇帝の母へレナがパレスティナ巡礼の際に見つけた聖墳墓教会が旧市街の城壁内に既にある。考古学者、歴史学者、カトリック、ギリシャ正教等はここを支持している。「園の墓」は学者によるともっと古い第一神殿時代(B.C.7 世紀頃)のものであろうと言う。

 しかし、ここの岩の丘がしゃれこうベそのものだということと、そのすぐ近くに園と墓があることが注目され、1860年に、ここが真実のゴルゴタではないかと言う人が現れた。更に第一次世界大戦中に英国軍人ゴードンも同調したことから「ゴードンのカルバリ」と呼ばれるようになったのだという。

 現在は英国のプロテスタント系の教会が管理し、主にプロテスタントの信徒が多く訪れている。私たちは、そこでゆっくりしゃれこうべの岩を見てから、木々の間の道を歩いて墓の前の広場に来た。墓の入口の右側の部分の岩が壊れていてコンクリートブロックで修理されている。それが雰囲気を壊してしまっている印象を受けた。来場者があまり多くなかったので、私たちはすぐに墓の内側に入って見ることが出来た。

エルサレムへの旅(8)

 両側を石壁に囲まれた路地を50mほど歩いてゆくと右側に「園の墓」の入口がある。そこから入るとすぐ左手にこの園の事務所の窓口がある。女性の事務員から明るい声で「あなたのお国は?」と声をかけられたので「日本」と言うと日本語のパンフレットを下さったのには驚いた。

 この施設は入場無料で、この小さなパンフレットも無料であった。この「園の墓」はヨハネの福音書 19:41「イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった」から取られた名である。園の名にふさわしく緑に包まれた小公園だ。

 背丈の高い木々をぬうように石の小径が続いていてその両側には小木や草花がぎっしりと植え込まれている。その所々に小集会が出来るようにベンチが設けられている。私たちはその庭の一番奥まで歩いて行った。そこには屋根付の木製のテーブルとそれを囲んでベンチが置かれている小さな展望台のようなものがあった。その先の下方を見ると、そこはアラブ系のエルサレムのバスステーション(ターミナル)である。そしてその左手に巨大な人の頭蓋骨のような岩が私たちの眼前に迫っている。両目や口に当る部分が空洞になっていて、まさに「しゃれこうべ」(ゴルゴタ、ヨハネ 19:17)だ。

エルサレムへの旅(7)

 タクシーはクムランから5kmほど北上し死海北西端まで戻り、そこから進路を西に向け、エルサレムに上ってゆく。エルサレムの標高は約800m、死海との標高差は1200mもある。距離は約35kmなのでかなりの上り坂である。

 茶色の岩山を上りつづけて行くと途中にベドウィン(遊牧民)のテント(濃い茶色)やその周囲に黒や薄茶色の山羊や羊たちが見える。エルサレムに近付くとアラブ人の村と思われる地域に入り、舗装されていないガタガタ道を走る。街並みは古く雑然としている。オリープ山を回る道とは別の道を通ってエルサレム市街に入って行くようである。

 やがて車は旧市街のダマスコ門までやって来た。そこから北へ400mほどの所にある古い旅館の前に停車した。今夜はここで宿泊するのだ。アラブ(パレスチナ)人の経営する宿である。宿の中は薄暗く、部屋も古く、ドアもガタついている。壁はひび割れて、ベッドも古い。きっと料金は安価なのであろう。この宿の利点は旧市街に近いということだ。

 部屋に荷物を置いた私たちは、すぐ外に出て歩き出した。そこから東へ5分も歩かないうちに園の墓(ゴードンのカルバリー)と呼ばれている所に来た。