独りヴォランティア(63)終

 キブツ滞在が長くなるに従ってキブツ側のヴォランティアに対する様々な配慮(福祉)が除々に分かってきた。つい先日までは奴隷か使用人のように扱われている様に思い、自由が少なく飼われているような窮屈さを感じていた。

しかし今日、係のレビに会って話してからはこのキブツが配慮に満ちている事が判かり、心が開放されたような気分になった。それと共にヴォランティアに対して与えられているこのような配慮について、どうしてS師は日本のヴォランティアに対して伝えず、受けさせなかったのか理解に苦しんだ。

 S師はいつも「キブツに迷惑や負担をかけてはいけない。それがクリスチャンとしてキブツの人々への証しになる」と口癖のように語っておられた。しかし、これは逆に躓きになっているのだ。「日本人のクリスチャンはクレイジーだ(狂っている)何が楽しくて働いているのだろうか、あんな風にはなりたくない」と陰口を叩かれているのだ。キリストの福音に生きる事と、証しについて考えさせられる。

独りヴォランティア(62)

 ペタフ•ティクバの町並は閑静で平屋の一戸建ての家々が規則正しく並んでいる。各々の庭には木々が植えられており緑に囲まれている。これがアラブ人の家との明確な違いだ。

 フラワーショップは広大である。ガラスの温室内で苗の売買がなされているが、温室の外側の苗床は際限のない程広い。どこまで続いているのか判らない程だ。その向う側の彼方(東方)にはサマリヤの山並みが見える。この地がかつてはマラリヤが大発生する沼地であったとは、今は想像できない程美しい土地になっている。

 今日は午後の作業はしなくてもいいとアブラハムが言ってくれたので午後は部屋に戻って昼寝をしてからへプライ語の学習。夕方、ヴォランティアハウスに行って作業靴の交換などをした。兵役に行ったアロンに代ってレビ(女性)が私達の担当になっていた。彼女が「どんな物でも必要なものがあれば必ず言うように!作業の希望も遠慮せずに言うように」と言ってくれた。

 この日まで作業場は全てアロンが決めるとばかり思っていたが自分で希望を出すのが、このキブツのシステムであった。又、作業靴も自分の足のサイズに合ったものをヴォランティアハウスの棚にある靴から自由に選んで使えば良いのだ、と言うことを知った。後にレビがトイレ用洗剤や、それに類する物を私の部屋に届けてくれたので驚かされた。

独りヴォランティア(61)

 6/12(日)早朝は庭の除草作業、朝食後は花の苗の買付けのためにペタフ・ティクバへ車で出かけた。運転はアブラハム。彼の兄嫁も同行した。ペタフ・ティクバはテルアピブの北10km、シャロン平野南部にある人口12万人の都市である。「開拓村の母」と呼ばれるこの町は150年前にはひどい沼地であった。

 イスラエルで最初の農業開拓村であるこの村の創設者達の一人てあるソロモンは「友よエルサレムの城壁を出て大地に帰ろう。我々の父祖たちは、この約束の地を耕し、その収穫物を神に捧げたのだ」とユダヤ人達に呼びかけたのであった。

 彼らは 1878 年にこの沼地を購入して開拓を始めたが努力の限界を超えた過酷故に一度はエルサレムに退去しなければならなかった。首まで泥に浸かっての作業、翌年のマラリアの大流行により多数の死者発生。大雨による川の氾濫で家屋と畑の流出のためであった。

 大半の人々が開拓を断念したが、三人が再度不屈の精神で開拓に向かい、遂に1882年にロシアからの移民を受入れるまでになった。この地の開拓の成功によって全イスラエルで建国に向かっての開拓が進められる基が据えられたのであった。”ペタフ・ティクバ”は「希望の門」の意味でホセア書から取られた(2:17)。

独りヴォランティア(60)

 6/1(水)日本から私のカメラとフィルムが届いた。

 6/2(木)早速キブツ内を写真に撮って回る。糸杉、古代の墓を閉じる石、レバノン杉、いちじく桑、いなご豆の木など。

 6/3(金)カナダからのヴォランティア、ユダヤ人のヒレルが隣室に来た。黒髪、濃く太い髭、大きな鼻、大きく黒い目と、アッシリアから発掘された石のリレーフに描かれた男性の顔に酷似しているので驚かされた。20代前半の若者でへプライ語も話し、現在アラビア語を学んでいる。

 6/4(土)安息日、ヒレルの部屋の掃除を手伝う。その後カメラを持って裏の丘へ行き、古代の水貯め井戸、ぶどう搾り槽やとうごまの木などを撮る。

 6/6(月)ヒレルが私にヘプライ語で語りかけてくれる。ヘプライ会話の手ほどきをしてくれる。感謝。

 6/9(木)今日はシクラメン畑の球根を機械で掘り起こし篭に集める作業であった。午前の休憩時間にアプリコット(杏)を食す。美味であった。昼食後、部屋に帰る途中、通路を工事している人がいたので「シャローム」と声を掛けると英語で応答してきた。彼らは毎日ベエルシェバから車で2 時間かけて働きに来ている人達でベドウィン人だという。

独りヴォランティア(59)

 私達を車に乗せたヨハナンは、以前一度行ったキブツのバナナ畑で働いているアラブ人の家へ連れて行った。今回は収穫したバナナの一部を贈り物として持参したのだ。今日は紅茶のもてなしを受けた。丁度土釜でパンを焼くところであったので見学させてもらった。丸形で薄いピタというパンである。焼きたてのほかほかのピタをオリーブ油と香菜(乾燥して粉末にした緑色のもの)を混ぜたものに浸して食べさせて下さった。おつまみとしてカボチャの種も出された。

 これが今日午前の休憩で 11時半から昼までバナナの樹の切り倒し作業を再開した。昼食までに一列全部切り倒す事ができた。午後は昨日に続いてバナナの収穫に用いたトレーラーのクリーニングである。汚れや錆を落としてペンキを塗り直すのだ。その作業で出る塵埃は中途半端ではない。マスクは無いので鼻の中が真っ黒になってしまう。

 作業後、部屋に戻りャワーを浴びて鼻を洗浄するが、何度洗っても真っ黒い鼻汁が出てくる。口からも汚い唾が出て来るのには参ってしまう。まさに(俗に言う)3Kの作業である。

独りヴォランティア(58)

 朝食後は収穫し終えたバナナの樹の切倒し作業。この作業は重労働だ。直径 20~30cmはあるバナナ樹を根元近くから切り倒すのだ。刃渡り70cmもある剣で切ってゆくのだが、一本切り倒すのにかなりの労力と時間が要る。

 そこで試しに侍が竹を一刀切りする仕方で振り下ろしてみた。すると見事に一打で切り倒す事が出来、作業はどんどん進んだ。私のこのやり方を見たヨハナンは目を見張って「ミラクル」と叫び、他のヴォランティア達を呼び寄せて私の仕事ぶりを見せた。いい気分であった。

 しかし太陽が高くなってくると大変な暑さだ。喉は乾き、頭は朦朧とし、全身は脱力感に襲われる。口からは自然と「主よ影(雲)を、水を!」との声が出る。そこへヨハナンが車で来て「乗れ」と言う。時間は10時25分、休憩だ。そこで冷たい水を思い切り飲むことができた。

 イスラエルの乾期の暑さは尋常ではない。この経験でマタイ 20:12.を実感し、詩篇 121:5、6「主はあなたを覆う影・・・昼は太陽があなたを打つことなく」の意味を解することが出来た。

独りヴォランティア(57)

 キブツ・マアニットには常時、アラブ人も出入りしている。ここではアラブ人もユダヤ人もとても友好的に暮らしているように見える。昼食時には何人ものアラブ人がキブツの住民と談笑しながら食事をしている。

 とうもろこし畑の除草作業の為に来た十数名のアラブ人達は臨時に雇われた人達だ。アラブの村には良い働き場が少ないので、キプツでの仕事が入ると喜んで働きに来るのだと云う。ヨハナンが言うには「ユダヤ人を雇うより、アラブ人を雇う方が人件費が安く、半額以下で済む」のだそうだ。

 それでもアラブ人達は自分達の村で働くよりは10倍もの収入(時給)になるのだ。ユダヤ人の下で仕事を得ているアラブ人達は、アラブ人社会の中では高給取りで、良い家を持つ事が出来るのだ。同じ距離でもイスラエルのタクシーでは 40 シェケル要るのにアラブのタクシーでは 1.5 シェケルであった事を思い出す(ベタニアからエルサレム旧市街のライオン門まで、車は同じベンツの9人乗り)。

 イスラエルの地にキブツが出来てから、キブツでの仕事を求めるアラブ人達がパレスチナの地に殺到し、この地のアラブ人人口が急激に増加した理由が、これでよく理解出来る。この人達の多くがイスラエル建国の混乱で難民となって、「自分達は先祖代々この地に住んでいた。」と主張する事で、ユダヤ人達が苦労して開拓した農地を自分達のものだと主張している人々も多くいるのが現実なのだ。

独りヴォランティア(56)

 朝食後、2日前に収穫し箱詰めしてあったバナナをヨーロッパへ輸出するために少し北にある別のキブツへ車で輸送するのに同行した(車への積み込みと積み降ろし作業のため)。そのキブツではバナナの他にグレープフルーツの有機栽培もしていた。ここもバナナとグレープフルーツの今シーズンの収穫は終わっていたが、収穫されずに木に残っている果実があったので尋ねてみると自由に持ち帰っても良いと言う。15個程貰った!

 このキブツには19世紀にアフリカ(スーダン)から連れて来られてアラブ人の奴隷となっていた人々が住む村から働きに来ている黒人達がいた。現在、彼らは自由人となっているが、肌の色が黒いという理由だけで嫌われ大きなハンディキャップを負わされて来た人々だ、とヨハナンは話してくれた。キブツ住民はこのような人々に仕事を提供し、彼らの生活支援をしてきたのだという。このキブツでの仕事ぶりはマアニットとは大いに違っていた。バナナの箱詰め作業の速度はマアニットの3分の1程で、実におおらかな仕事ぶりだ。

 無農薬の為か小バエが大量に飛び交っている。選外品の果実はマアニットではバナナもアボガドもキブツ住民用にしていたが、ここではバナナは大房ごと、グレープフルーツは落果したまま捨て置かれている。しかし、畑自体は雑草も少なくきれいに管理されており、バナナの果も美品であった。

 5/31(水)トウモロコシ畑の早朝除草作業は 26 日(木)から続いているが、なかなか進まないので今日で終了。朝食後はアラブ人の村人を雇って除草を終えた。彼らは鍬を用いて上手に除草をしていた。

独りヴォランティア(55)

 5/29(日)今朝は5時集合、5時半からとうもろこし畑の雑草取りの作業だ。ヴォランティア全員が刈り出され横一列になって広大な畑を一人一畝づつ、素手で雑草を取ってゆく。一畝の長さは100m以上もあり、雑な作りで土が細かく砕かれていない。

 とうもろこしの苗はせいぜい 10cm 程しか伸びていないのに雑草はずっと大きく根も張っているので、仕事はなかなか捗らない。私だけではなく他の若いヴォランティア達も同じだ。1時間も作業を続けると全身の筋肉や関節が痛んで悲鳴をあげる。8時前にひとまず作業を中断し朝食に向かった。2時間以上も作業をしたのだが、除草できたのは数十メートルだけであった。

 とうもろこしの苗は弱々しく茎の上に土の塊が少し被るだけで曲がってしまい、真直ぐに伸びる事ができない。だが、一方雑草は逞しく硬い土にも勢いよく根を張り成長も速い。下手に引き抜こうとすると土の地ごと持ち上げてしまったり、とうもろこしの苗ごと抜いてしまう事になる。

 主イエスは、私達を畑(土地)に譬えておられる(マタイ 13 章)が、アーメン(その通り)だと思う。私達の心の善意や良い習慣は弱く、なかなか根付かないが、悪意や悪習慣は強力で簡単に根付いて蔓延(はびこ)る。それを抜き去るのは難しく、善意を育むのは容易ではない。主が手入れして下さらないと誰一人雑草に打ち勝てないのだ(ヨハネ 15:1-3)。主の手入れ(介入)を受け入れる者だけが愛(善意)の結実を得られるのだ。(ヨハネ 15:6-12)

独りヴォランティア(54)

 ヴォランティアの日帰り旅行から戻って夕食後、洗濯物の件でジャンに訪ねてみた。この3ヶ月間ずっと自分の衣類や寝具を手洗いで洗濯し、自分で干していたのだ(日本人のヴォランティアは全員その様にしていたのだが、他のヴォランティアは誰も自分で洗濯していなかったのだ)。

 ジャンはこう答えた「洗濯物は木曜日の朝8時迄にネットに入れて決められた所(トラクターの荷台)に置いておけば、午後には戻ってくる。勿論、費用などは要らない」と。S 師はどうしてこの事を教えてくれなかったのだろうか、配給される作業着や靴や日用品のことも知らなかった。無知の故に3ヶ月間も要らぬ労をし、貴重な水も浪費してしまった。キリストの救いの福音も同じことだと思う。知れば、その恩恵に与かり要らぬ不安や心労からも開放されるのだ。しかし、それを伝えてくれる人がいなければどうにもならない(ローマ 1:14)。

 5/26(木)今日でキブツ滞在 3 ヶ月になった。朝、洗濯物を出しておくと、午後には戻って来た。湿気が少し残っていたが上出来である。

 5/27(金)今シーズンのバナナの収穫は今日で終り。1ケース 15Kg入りを94 ケース収穫し、機材一切を収納室に納める。次の収穫は9月のこと。

独りヴォランティア(53)

 ロスチャイルド家の三兄弟は、夫々ドイツとイギリスとフランスに銀行を構え、ヨーロッパの金融界に多大な影響を及ぼしていた。シオニズムに協力して支援し続けたのは、フランスのエドモンド・ロスチャイルドであった。

 ルーマニアから入植して来た人々にエドモンドが支援してこの地にぶどう園が出来、現在は人口約5,000人の町になっている。それで、この町の名はエドモンド達の父の名ヤコブにちなんでジクロン・ヤコブ(ヤコブの記念)と呼ばれるようになった。ユダヤ人であるエドモンドは、その妻と共に父祖の地であるイスラエルに葬られることを望み、ここに葬られた。

 そして、その周囲が美しい公園となり、町の人々によって大切に管理されているのだ。この公園でキブツが準備してくれた昼食を摂り、その後高台に上って、そこからの風景を楽しんだ。正面の地中海はエメラルドグリーンで美しい。海岸の手前には沢山の養魚池が陽光を受けて銀色に輝いている。その後、私達は海岸まで下りて行き、そこで暫くの時間を過ごした。若者達は海に飛び込んで遊泳を楽しんでいたが、私は周囲の眺望を楽しんだ。

 北と東はカルメルの山並み、南は美しい海岸線と、その彼方にはハデラの町の三本の煙突が見える。そこからの帰途、或るキブツに立ち寄り錦鯉の養殖槽とワニの養殖池を見学して午後五時過ぎにマアニットに戻り着いた。

独りヴォランティア(52)

 ジクロン・ヤアコブはカルメル山脈南西端麓の小高い斜面にある村落である。カイザリアの北約25km、地中海岸の東 10km 足らずの所にあり、地面の大半は岩である。この場所に入植したユダヤ人達は大変な労苦を強いられたと聞く。この地を購入した際、アラブ人地主に見せられた土地はこことは全く別の耕作に適した一等地であった。その為にこの土地の為に支払った代金は当時のニューョークの地価に相当する非常に高額なものであった。

 しかし、地主が入植者達を連れて来た所が現在の場所であったのだ。カルメル山の斜面の岩ばかりの土地で緑の全く無い不毛の地である。けれどもユダヤ人達は想像を絶する努力の末、緑豊かな村に作り上げ、イスラエル有数のぶとう畑とワイン製造工場を建て上げた。この工場のワインはカルメルワインの銘柄で知られている。

 先ず、私達は簡単な工場見学をしてから、この村と工場の設立の経緯を説明するスライド映像を見せてもらった。ビデオによる動画ではなく、スライド写真を巧みに組み合わせ編集した見事なもので、日本では見た事のない手法のものである。

 その後でワインの試飲をさせてもらった。赤、白、ロゼ、スパークルの四種類を試飲したが、とても甘口で特にロゼとスパークルは香りも抜群であった。スパークル1本と小瓶の詰め合わせセットを 40 シェケルで購入した。スパークルー本(720ml)で 8 シェケル(280円)だった。

 次に私達はロスチャイルド記念公園を見物した。この公園の中に奥深い洞窟があり、その最奥にロスチャイルドと彼の妻の墓があり、その洞窟内も見学する事ができた。

独りヴォランティア(51)

 5/23(月)この日は休みを取って滞在延長のビザを申請しにハデラに出かけて行った。スウェーデンから来ているハンズとアンドリューがこの日アッコへ観光に行くついでに、ハデラの政府事務所まで案内してくれたので大いに助かった。

 手続きを終えてからハデラの街を歩きながら店々を見て廻った。イスラエルの植物の本(39シェケル)、名所のシール、果物(メロンと桃)を買った。メロンは2個で60 アゴロット(何と24円)だ。帰って部屋で食べてみたがメロンも桃もとっても美味しい。イスラエルの果物は最高だ(苺は不味かったが)。

 キブツの小学生達が一泊でマサダに行くと云うのでヨハナンに同行させてもらえるか尋ねてもらったが、許可は貰えなかった。残念!

 5/25(木)昨夜、急に今日朝からヴォランティア旅行に出掛けるとの連絡が入った。8時に小さなバスでハデラとハイファの中間にあるズィクロン・ヤアコブに向かって出発した。その途中でローマ時代の円形劇場のある遺跡に行って見学をした。

 先ずこの遺跡の解説ビデオを観賞してから円形劇場内に入って行った。カイザリヤの大劇場に比べると小劇場だ。カイザリヤから5マイルしか離れていないこの場所に何故こんな劇場があるのか。或る学者はローマ兵の傷病者の療養地ではなかったか、と説明していると言う。20 世紀になってから発掘され、住居跡も発掘されたが、私達はこの劇場だけを見て、目的地に向かった。

独りヴォランティア(50)

 創世記37章で17歳のヨセフは父ヤコブの使いとして、家畜の遊牧をしている兄たちの無事を見届けるためにヘブロン(エルサレムの南 25km)からシケム(エルサレムの北 55km)へと旅立った事が記緑されている。ところが兄たちはシケムよりも北 25kmのドタンまで移動していた。

 その道のりは100km を越える旅となった。ところがヨセフはこのドタンで兄たちによってエジプトに向かっている隊商に売り飛ばされてしまうのだ。その前に穴に投げ落とされた事が書かれている。この穴がこの地方に多く散在する貯水用の穴であると考えられている。乾期にはこの水は使い尽くされ空井戸となる。ヨセフがこの旅をしたのは乾期の終り頃(9~10月)か。南部には牧草がなく、ヤコブの家畜は北部の牧草を求めて移動した事からも、この事が推測できる。この貯水用の穴がドタンだけでなくイスラエル各地にあり、キブツ・マアニットにも残されているのだが、これはすでに書いた。

 私は再度この穴を観察した。そしてこの穴の周囲を枯れ草を踏み分けながら歩き回って見る事にしたのだ。そこには死海近くのクムランの遺跡を見たのと同じ様な浴槽型の水槽らしきものがあった。幅3.5m、長さ7mの石造りで2つに分割されていて石段で中に降りられるようになっている。

 ユダヤ人の儀式用清めのミクベと呼ばれるものかも知れない。更にその近くに墓穴らしきものが三箇所、直径30cm に丸く刳り貫いた石、住居跡らしきものが多く、土の中から顔を覗かせている。

独りヴォランティア(49)

 5/20(金)今朝はバナナ畑で収穫済の木の切り倒しと柿畑での作業。この数日はきつい作業が続く。一日でバケツ一杯の汗を流しているのではと思うほどである。この重労働が15 年来悩まされてきた体の右半身の凝りを解しているようだ。右耳の痛みが和らぎ、右歯茎の浮腫みが無くなり、右上半身のひどい凝りが薄らいでいる。満身の力を込めて大なたを振ってバナナの木を切り倒す作業が鈍った右半身を生き返らせているのだ。

 体調の回復を願い軽作業の日々で健康を取り戻したいと考えてキブツの労働ヴォランティアに来た私であった。しかし予想外の重労働がその回復をもたらしているのだ。私の思いを越えた神のなさり方に御名をほめたたえる(エフェソ 3:20、ローマ 28:28、イザヤ 55:8-11)。

 この日、ビザ更新用印紙代 40 シェケル(1400 円)をキブツの郵便局に渡し、117シェケル(4000円)で作業靴を買った。滞在のための必要経費だ。夕方 6時半から安息日の食事を摂り、その後キブツの子供達と遊んだ。日本から持参した駒回しと柔道を少しばかりしてから、アブラハムと会話して部屋に戻り日本への手紙を書いた。

 5/21(土)夕方になって、3月にヨハナンが連れて行ってくれたキブツの南西にある丘へ一人で行ってみる事にした。そこにはヤコブの子ヨセフが兄から投げ込まれた水貯め用の井戸(水槽)と同型のものがあったので、それをゆっくり観察し、又その周囲にあるものも見てみようと思ったのだった。

独りヴォランティア(48)

 エルサレムには午後6時に着いた。ヨハナンは私達をセントラル・バスステーションに降ろして娘さんの所へ行った。ヨハナンとは10 時半にここで待ち合わせる事にして、私達はヤッファ通りを歩いて旧市街のダマスコ門を目指す事にした。途中でサンドイッチ店で軽食を摂った。二枚にスライスした丸パンに挟む具材を夫々が指示して注文する。私は何を選んだかは忘れてしまったが、誰かがツナ(まぐろ)を注文した事は憶えている。

 写真店があったので私はビザ延長申請用の写真を撮ってもらう事にした。地下室への階段を下りて行くと簡素なスタジオがあり、そこの椅子に座ってカメラに向かった。写真家は私に何度も「スマイル・スマイル」と言って私に笑顔を求めたのが印象に残っている。

 ダマスコ門まで来ると、その内側のアラブ人の店を見て歩いただけで約束の時間に遅れないように来た道を引き返した。途中 15分間、以前にS 師達と歩いた時に夕食を摂った店の前のベンチでドリンクを飲んで休んだ。

 キブツに帰着したのは深夜丁度 12時であった。エルサレムのセントラルバスステーションから旧市街までは徒歩で約 30 分である事が分かった。これで次回は一人で訪れても大丈夫だ。ここを歩いたのは今回が二回目である(この後、何度も歩く事になる)。

 私達は経験を重ねる事で体で覚える事ができる。私は自分で歩いたエルサレムやベツレヘムへの道はもう覚えてしまっていて、今、行っても歩く事ができる。聖書を繰返して読み、同じ箇所を繰返して学ぶ事もそれに通じる。一度よりは二度、二度よりは三度回を重ねる毎に頭と心に深く刻まれ、より自分のものになるのだ。

独りヴォランティア(47)

 5/18(木)K 兄からの便りが届いた。夙川教会最後の聖日礼拝後の出席者写真と彼の第二子(長女)の写真が同封されてあった。長男同様とても可愛い赤ちゃんだ。妻が驚くほど痩せて写っている。集会のご用と引越しの準備が余程大変だったのであろう。

 ヨハナンがエルサレムに住んでいる娘に会いに行くと言うのでヴォランティア仲間三人と車に乗せてもらって、夕方4時半にキブツを出発した。途中、地図を手に聖書と関わりのある地を注意深く車窓から観察した。シャロンの野を南進し、テルアヴィブから東に向きを変えるとまもなく左側にベングリオン空港が見える。右側の少し向こうに見える町がロッドである。ベングリオン空港はロッド空港ともテルアヴィブ国際空港とも呼ばれているのは、この位置にあるからであろう。

 ロッドの街は遠景でしか見えないが高層ビルなどが見える。かってはこの辺りはシャロン平野とユダの低地(シェフェラー)の境界でロッド(リダ、ルダ、使徒 9:32~)はシェフェラーの最北端の町である。エルサレムから巡回して来たペトロがこの町で中風のアイネアを癒しヤッファへと進んで行ったのであった。

 ここはエルサレムから50km、ヤッファへは20kmである。ヨハナンは運転しながら「ここからはアンティークなものが多く発掘されている」と語った。更に東へ 20km 走るとエマオやキリヤト・エアリムの辺りを通りそこから上り坂になりアヤロンの谷を抜けて行く。(ヨシュア 10:12、サムエル上 14:31、6:21〜、ルカ 24:13)

独りヴォランティア(46)

 5/16(月)昨タからシャブオット(七週の祭)に入った。イスラエルの三大祭の一つで小麦などの収穫祭で祝日(休日)だ。先の過越祭から七週間後の祭なのでこの名で呼ばれるが 50 日目なので五旬節(ペンテコステ、使徒2:1、20:16)と新約聖書では書かれている。

 この日の午前中はアリーザと娘、孫娘と一緒にアリーザの運転でカイザリヤ近くの地中海岸へ行き、彼女たちの行楽に付き合ったが、ただ海を眺めているだけで退屈な数時間を過ごした。祝日であったので多くの人々が海辺へ遊びに出掛けていた。遊具などは設置されておらず、のんびりと海を見たり子供達と走り回ったりするだけだ。アリーザはカイザリヤに行くと言ったので、てっきり遺跡に行くのだと思って同行させてもらったのだが当てが外れた。ただ地中海の光景は美しく心が癒される。

 夕方6時から工場前の広場でキブツのハグ・シャブオットのセレモニーがあった。会場には大きな立方体に束ねられた干草がきれいに積み重ねられ、キブツで収穫された産物などが次々と運ばれて行進してゆく。バナナ、アボカド、びわ、鶏、牛・・・。そしてそれぞれごとに歌とダンスで神への感謝を表すのである。使用されているアンプとスピーカーはヤマハ製、カセットデッキはオンキョー製であったのには驚いた。

独りヴォランティア(45)

 5/13(金)昨日から今日にかけて西風になり涼しくなった。今回の東風はわずか一日か半日程度でしかなかったが野はより黄色っぽくなり、るりたまあざみは完全に枯れてしまい、こげ茶色になった。芝生は一日中スプリンクラーで注水し、水の流れが出来るほどだが黄色くなってきている。しかし別種のあざみは、されいな黄色い花を咲かせている。イスラエルの気候は生物にとっては厳しい。

 キブツのユダヤ人の大半は無神論者だ。彼らは欧州で耐え難い苦難を受けやっと戻って来たイスラエルの地もひどい荒地で、岩や石、荊、さそり、毒蛇、野獣、沼地と風士病 (マラリヤなど)でその開墾は困難を極めた。想像を絶する重労働と自然との闘いを経てようやく美しい農地や住宅地にすると今度はその地を奪取しようと攻撃して来るアラブ人の略奪隊との戦いがあった。「現在のようにしたのは私だけの努力によるものだ。神は何もしてくれなかった。この国を造り上げたのは神ではなく私たちである」という強い主張をする。しかし、それでもその背後に神の導きがあったと私は信じている。

 これは私自身への自戒でもある。昔労をして成し遂げたことは、自分の努力の結果であって、神が入り込む余地などなかったと思ってしまう。そして自分の業績を誇示したくなるのである。そして神を自分の後に追いやるのである。この日の午後は作業が休みなので、キブツ内を散策してまわった。

独りヴォランティア(44)

 5/12(木)午後の作業を終えると例によってヨハナンがキブツの周辺を車で巡回してくれた。今回は小川のほとりに行った。雨季が終っていたので水は淀んで溜っていた。青鷺などの鳥が水辺で餌を捜していた。空を見上げると鷲が高い所で風に乗ってゆうゆうと飛んでいる。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲の様に翼を張って上る」(イザヤ 40:31)の聖句を思い起こす。周囲を見るとピーナッツ、トウモロコシ、香草などの広大な畑だ。ピツァの香料となるハーブを収穫している所や、熱帯植物を栽培している畑なども見て廻った。

 キブツに戻るとヨハナンがいいものがあると言って私を食堂裏に連れて行った。そこには一本の桑の木があった。現在の私の部屋の前の巨大な柔の木は葉だけが繁っているが、ここは赤黒い果や末だ緑色の果が沢山付いている。その完熟した果を採って食べてみるとジューシーで甘く、とびっきりの美味しさである。日本でも家の庭で実った桑の果を食べたことがあったが酸味の中に微かな甘味があり食感はザラザラしていたが、ここの果は口に入れると全てがジュースになって口の中で溶けてしまうのだ。

 私の驚き様と感激した顔を見たヨハナンは満足そうであった。私は「タイームメオッド(おいしい)、トダラバ(ありがとう)」と言ってヨハナンに感謝した。

独りヴォランティア(43)

 この雌ろばのムタールは小柄で薄赤茶色、体全体はとても清潔そうで可愛い。人懐っこく寂しがりやさんである。彼女は人の傍にやって来ては仕事の邪魔をし、びわの実を食べてしまう。何度もすり寄って来るので鼻の上を撫でたり首筋を探ってやったりすると喜んでもっともっとと要求してきたり、満足して離れて行ったりする。試しにと背に乗ってみた。その乗り心地はすこぶる良く、温かいビロードの上に座ったような初めて経験する感触であった。

 主イエスが最後のエルサレム入場をなさる際に、ベトファゲで調達した子ろばに乗ってオリーブ山を下って行かれた時(マタイ 21:1~7)も同じような感触を味わわれたのであろうか、と思った。この日は午後になって東風が吹きはじめ暑くなったため午後の作業は取り止めになった。

 私の部屋の机上にキブツで手に入れた羊の写真を立てて置いてある。イラストなどで見る羊はどれも可愛く描かれている。 しかし、この写真で見る羊の顔はどう見ても不細工である。じっと見つめていると吹き出してしまうほど滑稽である。目は顔の大きさと釣り合いが取れないほど小さく左右に離れすぎ、鼻も長く太すぎる。何とも間の抜けた顔立ちだ。

 英語でも羊は主体性のない、とんまな、間の抜けた人を指す言葉らしいが、主イエスは人を羊に喩えなさった(ヨハネ 10:11)。それでも人間にとって羊は価値の高い財産である。同様に神は人間を価値高い存在と見て下さっている。しかし神の手元から失われた時、どんな価値が残るか、この写真の羊を見ているとそのことをつくづく思わされるのである。

独りヴォランティア(42)

 5/10(火)畑でのこの日の作業が終わって庭で白髪の老人と親しく談じた。彼は40年程前にチェコから帰選したという81歳になるドフ氏。彼は私が庭で作業をしていると、よく声をかけて下さった人である。明日もチェコから帰還してくる人々がいるという。彼が言うには「エジプトの現在と昔とは違う。今はアラブ人に支配されているが、昔(2000 年前)は黒人(コプト人)の国であった」「アダム(人・赤土)のダムは血という意味」等等。

 5/11(木)午前3時過ぎから何度も目が覚めてしまう。仕方なく目覚し時計が鳴る前に起床した。それは窓の外からの小鳥たちの囀り声が中途半端でないからだ。一羽一羽の囀りはとっても愛らしく綺麗なのだが、その数が(音量が)凄いのだ。その上に遠くの鶏舎から雄鶏の鳴き声まで聞こえてくる。未だ明け方前の三時台なのに・・・。

 主イエスが「朝早くまだ暗いうちに・・・起きて・・・祈っておられた」(マルコ 1:35)にも、この様な天然の目覚し時計によるものであったのではないか、と思わせる。この日の仕事場であるびわ畑の柵の中に雑草を食べさせるために一頭のロバが放たれていた。彼女の名はムタールでヨハナンに懐いていた。

独りヴォランティア(41)

 5/4(水)今日は「罪」について学ぶことがあった。朝、目が覚めて目覚し時計に目を向けると、その時計は背を向けていた。私はこの時、「罪」とは何かということを瞬時に理解した。便利な時計がそこに置かれてあっても、人に背を向けていては何の役にも立たないということを。人間も神に対して同じだ、と思ったのである。

 どんな素晴らしい能力を有していても、神に背を向けていれば、神にとっては何の役にも立たない。神の方に向き直ること、これが悔改めである。神に応答してゆくことの大切さを、この時計を通して教えて頂いた。又、時計が正しい方向を向いていても、それを遮るものが置かれていても同様だ。神と私との間に、その交わりを遮断する何かを置いて神を見えなくさせる、神に近づくことを妨げてしまうこともある。

 今日は柿畑の除草作業をしたが、どの畑にも厄介な雑草が蔓延っている。その代表格はあざみと昼顔だ、他に衣類に種がくっつく何種類もの草、小麦、野生人参、美しい花を咲かせるものもある。しかし、どれも柿畑では邪魔な雑草にすぎないものである。これら全てはあるべき所にあれば良いものなのだ。雑草でさえ、このキブツではよい牧草として刈り取られて用いられる。しかし、柿畑では有害植物となる。私達も主がそこに居なさいと言われる所に留まり、そこで主にお仕えすることが大切なのだと。(コリントⅠ 7:17,24)

独りヴォランティア(40)

 私の部屋の壁には多くの落書が残されている。先住者の手によるものであるが全て英語である。フレッドへの暴行と放火でキブツから退去処分を受けた英国人ヴォランティア三人組も書いている。自分達を退去させたアロンと南アフリカ人達への不満と中傷である。

 夕食後二人のヴォランティアが私の部屋を訪ねて来て暫く話してから帰って行った。彼らはその落書きを真剣な目でじっくり読んでいた。二人の内、一人は南アフリカ人であった。彼らは私に質問してきた。「何故こんなに長く家族から離れてここに居るのか」と言う。私は牧師であること、神学校で(旧約聖書も)教えていること、それ故にヘブライ語を学んでいると話した。彼らは納得して出て行った。英国人と南アフリカ人との確執があった結果、今私はこの部屋で平穏に生活することが出来ている。全ての背後に主の御手の導きを覚えさせられる。

 5月3日(水)柿の若木畑の除草と施肥作業「良い果実を得るためには良い肥料を充分供給してあげること、除草、水と太陽の光。どんな良い苗木を植えても手入れが悪ければ甘い実は得られない」とヨハナンは言う。人間も同じだ。神が与えて下さる最良のもので充分満たされてこそ、甘き御霊の実を結ぶ者とされる。教役者と呼ばれる者が先ずこの祝福にあずかることをなくして、主の羊たちを養うことはできない(テモテⅡ 3:16、17、コリントI 3:5-9)。農作業から学ぶことは多い。

独りヴォランティア(39)

 ペテロもパウロもヨハネもその時代、その所で主からの召しを受け従って行った。そして彼らは今は居ない(文書は残されているが)。その時代の人々も殆んどの町々も今は存在しない。その痕跡だけは僅かに残されているだけである。

 このキブツの中にもその頃の遺物が残され、石柱、石棺、石器類が掘り出されている。ここにも主イエスの時代に人々が住んでおり家屋や町並みがあったのだ。主の弟子(使徒)達もかつてここで福音を宣べ伝えていた事であろう(例えばフィリポ、使徒21:8、ここはカイザリヤから 15km ほどの距離である)。初代のクリスチャン達が住んでいた事も想像できる。

 その時代から様々な人々が生き、そして死んでいった。主はそれら全ての時代に弟子達を召し福音を伝えさせなさったのである。そしてそれは今も継続され全世界にまで拡大している。そして今、私は主に召されて、2000年前にかつての弟子達が福音を伝えたであろうこの地の上に立ってここに住んでいる人々アブラハムやヨハナンやヘレナに福音を語っているのだ。

 私もまた主の遠大なご計画の中に生かされている。主の召しに素直に自発的に(喜んで)お従いし、主にお仕えする生涯を全うできるようにと祈ってこの聖日の礼拝を終えた。夕刻になってキッチンから貰ってきたタイ米を炊いてみた。とても美味しく炊けたので明日からは夕食はこれにしようと決める。

独りヴォランティア(38)

 4/29(金)体重が減り続けているので食べるように努めているため、胃に負担が掛かかっている。唇の左脇が荒れ始めた。

 4/30(土)今日は安息日だがびわの果の注文が入ったので早朝から収穫作業をすることとなった。胃が悲鳴をあげ始めた。神経性急性胃炎だ。睡眠が不足すると何時も起こる。食べるものを控えて休む他ない。午後(作業後)薬を服用すると胃の痛みは治まった。S 病院で処方して貰ったものを日本から持参していたものである。この薬は私にはよく効くのでとても助かっている(現在も)。

 5/1(日)作業後、聖日礼拝の時を持つ、創世記を読んで祈る。祈りと黙想の中で「私は今、ここでこんなことをしていていいのか。家族があり、(教会での)働きもある。」という思いが過る。しかし直ぐに「だが今の時も又必要なのだ。今、私には分からないが、後になれば主の御旨だったときっと分かる。主が開いて下さった道なのだから(ヨハネ13:7)。アブラハムの25年間(75〜100歳)も、ミディアンのモーセも、エジプトでのヨセフもサウルからの逃亡中のダビデもさぞかし同じであったろう。永遠者である主と結ばれているのだから、すべてを委ねることが最善なのである」という確信が訪れて来た。かって神は、ヨセフを唯一人でエジプトに送られた。奴隷として売り飛ばされて…。しかし、主はヨセフと共に居て下さった。そして今私は独りでこのキブツに居る(創世記 39:2、21)

独りヴォランティア(37)

 4/28(木)6時起床、午前中はびわの果の収穫、午後はバナナの出荷用箱の組立て作業をした。これらの作業中にヨハナンが「今、咲いている野の花が春の終りに咲く花々だ」と教えてくれた。ピンク色、赤紫色、黄色、白色の野菊やタンポポに似たもの、野生人参、タチアオイなどが周囲に咲いている。

 午後2時からヨナハンが車に何人かのヴォランティアを乗せてキブツの周辺を案内してくれた。周辺の地形、植物類、村や町とその歴史などを説明してくれるのだが、英語なので殆んど理解できない。東の方に見える小高い山の辺りがヤバドの町で、その向う側にドタンの野があるのだという。(ヨセフが兄たちからエジプトに売られた所、創世記 37:17)これだけは聞き取ることができた。ヤバドの辺りは小高い山、谷とむき出しの白っぽい岩石がごろごろしている。所々に低い木々が点々と見える。

 今私が立っている足元にはあざみ、茨、野草がまばらに生えているが、ヨセフの時代も今とそれ程の違いはなかったのではないか。父ヤコブが当時住んでいたへブロンからシェケムまでは約100km(道路地図で 98km)、シェケムからドタンまでは 80km、ヨセフは独りで 180km 山道を旅して歩き、そのあげくに兄たちから虐待を受けたのだ。「神はそれを善に変え・・・、今日のようにしてくださったのです。」(創世記 50:20)

独りヴォランティア(36)

 私たちを乗せてバスは再び走り出した。ゴラン高原(バシャン)から北ガリラヤ高地を下ってエズレルの野へとまっしぐらに。主イエスと弟子たちもゴラン高原(フィリポカイザリヤ)から北ガリラヤ高原を通ってガリラヤ湖まで下り、そこからヨルダン川添いの道をエズレルの野の東端を通ってユダヤ(エルサレム)へと向かわれたのであった。

 私たちのバスはヨルダン川とは逆の方向タボル山から西へエズレルの野の真中を通り抜けて、カルメル山の南端にあるメギドの丘の南の谷を通り抜けてシャロン平野へと山合いの谷を下って行くのである。エズレルの野にはモレの丘がありその麓にはシュネムの村、ナインの村、エンドルの村々がありギデオンの勇士で有名なハロデの泉もある。

 その南にはサウル王が戦死したギルボアの山並みが見え、その彼方(南)にはヨセフが兄たちにエジプトに売られて行ったドタンの野がある。その向こうはサマリヤ、シェケム、シロ、ベテル、エルサレムへと続いているのである。

 いつかこの辺りを巡り回ってみたいという強い思いが心の中に湧き出てきた。その思いを背にバスはシャロンの野を走りつづけ、幾つかのキブツを回って次々と人々を降ろし、最後にアマニットに到着したのは夕方7時前であった。

独りヴォランティア(34)

 このツアーはヘルモン山(ゴラン高原)の自然観察が目的であった。様々な植物、動物、鳥類、石、砂などをガイドが説明して歩き回るのだ。小さな水晶や鉄の小塊のようなもの多数転がっている。鉄の小塊を手に取って表面の砂を除くと黒く輝く鉄の様なものが現れるのだが、手の中で見る見る赤茶色に錆びてゆく。

 山頂を見上げると地中海からの風に流されて来る大きな真白い雲の塊が頂上を打ちつけては東の方へ流れ去ってゆくのが見えた。流れてゆく速度はかなりのものであり雄大な光景であったので、暫く目を凝らして眺めていた。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。・・・ペテロがこう話しているうちに、光輝く雲が彼らを覆った。『これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け』と言う声が雲の中から聞こえた」(マタイ 17:2、5)が私の心の中に浮かんでいた。

 私たちは小休止をはさんで7時間も道なきところを登り降りしながら歩き回った。ヘルモンあざみ、樫、杉、野生チューリップ、クローバー、からし菜、名も知らない白い花、いたるところに様々な獣の糞もあった。

 イスラエル政府公認ガイドはそれらすべてについて解説していたが、彼の風貌は若くしたゴルバチョフのようで声も話す時の口元もそっくりであった。バスに帰り着いたのは夕方4時頃であった。参加者の大半が高齢者であったが、皆さん健脚であるのに驚かされる。

独りヴォランティア(33)

 ヘルモン山中腹で下車し歩き始めたのは午前 9時頃であった。キブツでは既に夏であったので半袖の上着でバスに乗ったのだが、ヘルモン山には寒風が吹き付けていた。あまりの寒さに震え上がっているとキブツ住民の男性の一人が自分が着ていた厚手のジャンパーを私に差し出し「これを着なさい」と言って下さったのでご厚意に甘えた。山頂付近を見上げると僅かだが残雪が見えた。

 マタイやマルコによる福音書では、主イエスはフィリポ・カイザリヤから三人の弟子達を連れて高い山に登り、そこで変貌しその後エルサレムに向かい過越祭に十字架に架けられた事が記録されている。この高い山がヘルモン山だとすれば(私はそう信じているが)主イエスの一行がこの山に登られたのは2月か3月頃になる。

 4月23日でもこの寒さなら、更に厳しい寒さの中、至る所に積雪が残っている山中に入って行かれた事になる。そのようにまでしてヤコブ、ヨハネとペテロの三弟子にだけは、どうしても見せなければならない事がこの山上で示されたのだと、その重大性を知らされた思いがした(マタイ 17:1-13、マルコ 9:2-13)。

 同じ季節にここに来てみて初めて知った福音書の記事の背景である。私たちツアーの一行は舗装された道路に別れを告げて山中に入ってゆく。先ずガードレールを乗り越え雑草を踏み分けながら谷間へとガイドに続いて下ってゆく。谷底まで下ると谷の向こう側の斜面を登り始める。ガイドはその所々で止まってその近くの植物や地質、地形についてヘブライ語で説明してくれるのだが、その内容は私には全く理解できなかった。