最後の2週間(55)終

キブツ滞在の最後の夜となった庭での結婚式。

 私たちが招かれたエロン夫妻のテーブルの周囲を見回わすと、ヘレナ、ヨハナン、アブラハム、ハバ、エリエゼルの家族のテーブルがあり、彼らと最後の記念写真を撮った。

 私たちは翌朝出発時刻が早いので 9時半には部屋に戻りベッドに就いたがなかなか寝付けなかった。結婚式の宴は深夜になっても祝いの音楽が鳴り響いていた。

 8/24(水)午前4時前に起床し4時半にはヨハナンの運転でキブツの車に乗ってベングリオン空港に向った。空港には5時半に到着した。ヨハナンには半年間の感謝と今朝の運転の御礼を手渡した。

 空港での出国のための荷物のセキュリティチエックの厳しさは相当なものであった。私たち夫婦の荷物(トランク)は未だ若い女性兵士がチェックしたが、私が片言のへブライ語で語りかけ「ヘブライ語で聖書(旧約、タナフ)を読みたくて学んでいる」と言うと緊張していた顔に笑みを浮かべ、10分ほどで終わった。

 飛行機の離陸予定は8時10分であったが実際に離陸したのは9時10分、1時間遅れであった。イスラエルでは珍しいことではないそうだ。そのためにロンドン到着が遅れ、東京への連絡便が、私たちのために出発を遅らせて待っていてくれた。荷物の積み替えは間に合わず、後日、宅配で自宅に届けるということであった。

 13時05分にロンドン・ヒースロー空港を出発、26日(木)午前9時すぎに成田空港に着陸した。空港には木村兄が迎えに来て下さっていて、朝食をごちそうして下さった。(詩121:8)

最後の2週間(54)

 キブツ内の結婚式は野外で執り行われるのが一般的だ。乾期(4月下旬~10月末頃)には雨の心配は皆無だし、広い庭があるので会場に人が入り切れない心配も無用。エアコンの必要も無い。しかし都会ではこういうわけには行かない。

 数年前、階上の式場が抜け落ちて新郎新婦を含む多数の死傷者が出たこともあった。(日本でも報道された)結婚式では楽器の演奏にあわせて多勢が踊り回るので、余程床が補強されていないと危ない。野外ではこの心配もない。

 午後になるとキブツの若者達が会場設定をし始める。長方体に固めた乾草を積み、その上にぶどうやバナナなど様々な果物を乗せて飾りつけをし、ワインやビールやジュースのビンを並べ、多くの丸テーブルと椅子を設置する。木から木へ又食堂の窓枠などに電線を渡し電球を付ける。

 またラビと会衆の前で二人が誓約する場所を設定する。一辺が1.5m程の布の四隅を四本の棒の先端に付け、4人の男性がその棒を持って式の間中支える。これをフッバ(天蓋)と呼ぶが、これは新婚家庭を象徴し、その貧弱な造りが家庭の危うさを表わしているのだという。

 結婚式の流れは以前に書いたので省略させて頂く。私たちはキブツ住民のエロン、ハヴィーバー夫妻のゲストとして招待され、共にテーブルに着いて、式を祝福する仲間に加えて頂いた。(黙示録19:7-9)

最後の2週間(53)

 ナザレのタクシー運転手はキブツ・マアニットを知らなかったがハデラの近くであることを説明してから料金の交渉をし、70シェケルで合意した。キブツに着いたのは12時55分で昼食にギリギリ間に合った。

 午後はプールで泳いでから衣類を洗濯。夕方になってハバさんに会うと、「明日の夕方、キブツで結婚式があるのよ」と教えて下さった。夕食後、ヨハナン宅を訪ね、明後日(24日)の早朝4時半にベングリオン空港まで車で送ってほしいと頼むと快くOKしてくれた。

 ヨハナンには日本からの土産としてタオル2枚と黒糖を持参した。続いてヘレナ宅を訪ね醤油と「コマと紐」などを差し上げてから、コマの回し方を手ほどきした。その後アブラハム宅を訪ね、部屋に入れてもらい8時40分まで話し込んだ。アブラハムにば”えびあられ”を持参した。

 ユダヤ人はえびは宗教上食べないが、アブラハムには「シュリンプ入りのライスクッキーだ」と説明した。彼は全く意に介さず、美味しいと言って食べていた。

 8/23(火)明日の帰国に備えて妻は荷物の整理を始めた。昼食後、日本の家族にヘレナ宅から電話させてもらう。元気にしているようだ。夕刻になってヘレナがB.A 社(ブリティッシュ・エアーライン)に電話をしてくれると「私の座席がある」ということで、急遽、私は妻と一緒に帰国するために慌てて荷造りをした。

 私の座席が取れないということで私は暫く滞在を決めていたのに 12時間後にはキブツから去る事になったのだ。夕食後、7時半から食堂横の芝生の庭でキブツの若者の結婚式が始まる。

最後の2週間(52)

 巡礼者たちが最後の讃美を終えて退場した後も私たちは暫く会堂に残って見学し、主イエスがここで安息日に礼拝を捧げられたことに思いを馳せた。それから会堂を出ると、会堂守りの青年が私たちが出て来るのを(扉を閉めるため)待っていた。

 そして私たちが外に出て行くと怪訝な面持ちで見送っていた。私たちはそこから更に路地を上って行き途中の果物店でぶどうとマンゴーを買い突き当たりまで行った。

 そこからアーケードがなく急に明るくなる。すぐ向かいに衣料品店があったので中に入り、妻が長女への土産にドレスを一着買って外に出ると、アラブ人の老人数人が座っていて私たちに声を掛けてきた。

 「マリヤの泉を見たかい?」「ノー」と答えると「案内してあげるよ」と言う。「ノーサンキュー」と言うと「お金は要らないよ」と言う。私たちは固辞しつつそこを離れてバス停に向った。

 「マリヤの泉」は主の母マリヤがいつも水を汲みに来た泉のことで偽典のヤコブ原福音書に書かれている。ナザレの高台にあり、現在その泉の上にギリシャ正教会の聖ガブリエル教会堂がある。ヤコブ原福音書には、この泉にマリヤが水を汲みに行ったときに天使ガブリエルの御告げを受けたと記されている。

 もし、そうなら少し下にある受胎告知教会と重なり合ってしまう事になる。実際は時間があったのでマリヤの泉も見たかったのだがアラブ人には嫌な思いをさせられる事が何度もあり、金銭を求められる事もあったので用心した。バス停に戻るとバスの到着まで 30分あったのでタクシーでキブツまで戻ることにした。

最後の2週間(51)

 妻は近くのマーケットへ夕食の食材を買いに行った。しかし夕食を調理する体力がないということで外食をする事にした。昨夜のホテルとは別のホテルに行き、そこで30 シェケルの料理を注文して食べた。

 8/22(月)朝のデヴォーションは列王記上8:54 ~61(ソロモンの民への指示)、マタイ福音書5:17 ~20(律法の実践)が朗読され全員が所感を語った後、リーダーが短くまとめを語った(7:30~)。 8時に朝食タイム、9時にチェックアウトをした。 ゲストハウスの献金は壁に掛けてある小さな箱に投入する。

 ナザレ行きのバス停まで歩いて上って行くと、バスの発車まで 20分ある事が判り、乗り合いタクシー(シェルート)でナザレまで行く事にした (一人 10シェケル)。ナザレのバスステーションで下車し、ツーリストオフィスでバスの時刻表を入手してから、受胎告知教会に向かった。

 南側に店舗が並ぶ石畳の上を上って行き、教会のゲイトから敷地内に入るが、女性は上がノースリーブであったり、足の膝が見えると会堂には入れないので、そこで身づくろいをしてから会堂内に入った。

 続いて同じ敷地内にある聖ヨセフ教会に行き、ヨセフとマリヤの家の水溜めの穴などを見学してからそこを出た(詳細は前述済み)、再び細く暗い石畳の道を少し上るとシナゴグ教会がある。 入り口の柵が閉じていたので入れなかったが、そこへ東欧からの巡礼団が20名程やって来た。

 すると会堂守らしい青年がその柵を開いて彼らを中に入れたので、私たちも彼らについて中へ入って行った。巡礼団はそこで讃美と祈りとメッセージの時(礼拝)を持ったが、私たちは隅で見学していた。堂内がかなり暗かったので、誰一人私たちのことを不審に思わなかったので幸運であった。(ルカ4:17~30、1:26~38、2:39、40,51)

最後の2週間(50)

 路上でのスターンズ師の話は長時間に及び、会話を殆んど理解できない私は適当に相槌を打ちながら聞いていたのだが、暑さの中で立ったまま眠気がさして来てしまい、途中からしどろもどろになってしまった。

 その後、最も高い場所まで上って、そこからガリラヤ湖の風景に見入った。そして記念写真も撮った。そこから湖岸に降りて行き、スライド映写のホールに行き、ガリラヤの歴史をスライド映像(英語のナレーション付き)で見せてくれた。

 このホールはメシヤニックグループが経営しているのか、イエス・キリストのことも詳しく紹介していた。ここでユダヤ人たちに伝道しているのを私たちに見せてくださったのだ。英語の外にヘブライ語やロシヤ語などのバージョンもあるという。このホールにはエアコンがあり実に快適であった。

 この上映は1グループで50シェケル(当時のレートで約 1,800円)であったがスターンズ師が支払って下さった。午前に行ったタプハの土産物店で妻は2匹の魚と5つのパンがかごに入った絵の小皿を購入したが、その際スターンズ師が店の男性と何か立ち話をしておられた。

 それで私たちの買物は全て 2割引で買うことができた。この店もメシヤニックグループの経営であろうか、私たちが牧師夫妻であることを伝えて下さったのだと思った。

 このようにイスラエル国内で「イエスはメシア」と信じるユダヤ人達は様々な迫害の中にあっても同胞たちの為に日々懸命に伝道している姿を、スターンズ師は私たちに見せて下さった。

 スターンズ師は夕方8時前に私たちをゲストハウスに送り届けてくださった。朝9時過ぎから11時間近くも、私たちと行動を共にしてくださった。

最後の2週間(49)

 スターンズ師夫人が備えて下さった昼食はイスラエルの定番料理であった。白身魚のトマト煮、をピタパンに入れて食するものだ。私たちはここで15:30頃まで語り合うことが出来た。

 その後私たちはスターンズ師の案内で、ティベリアでメシヤニックジュー(イエス様を「ユダヤ人のメシア」と信じるユダヤ人たち)が経営する工場に向った。工場の敷地には入らず、建物横の道路で立ったままでスターンズ師はこの工場が出来るまでに至った経緯を話してくださった。

 イスラエル国内ではユダヤ人が「ナザレのイエス」をメシヤと信じると多くの場合、職を失うことになる。正統派ユダヤ教のラビによる圧力が事業主に加えられるために、解雇せざるを得なくなるのだという。

 食料品を扱う会社にメシアニックジューが働いていると、その会社の製品はコーシェル(律法適合食品)の認定を取り消すと脅かすのだ。イスラエル国内では経営が成り立たなくなるのは明らかなので仕方なくクビにするのだ。イスラエルではコーシェルの認定をする機関は 100%正統派が握っている。

 そこでメシアニックの信徒たちはガリラヤ地方では協力し合って養鶏をしたり、ぶどう畑を作ってワイン作りなどをしているが、どんなに安全なオーガニック(自然)栽培ものでもコーシェル認可が得られず、経営は難しいという。

 長時間説明して下さるのだが、その一部しか理解(英語が)できなかったのが残念であった。

最後の2週間(48)

 カファルナウムの次にタプハへ行く。「七つの泉」という意味の地で、このガリラヤ湖畔には「パンと魚の増加(ルカ 9:10~17)教会堂(5世紀頃)」と「ペトロ召命(マタイ 18~20、ヨハネ 21:15~19)教会堂」が木々に囲まれて建っている。

 私たちは「パンと魚の増加教会堂」の右横の庭の木々の間を通り抜けて湖岸近くに出た。そこには小さな野外礼拝所が設けられてあった。会衆の座席は背もたれのない木のベンチが 2列ほど湖の方に向って座るように置かれてあり、説教壇は細い木の柱の上に聖書を置く小さな板が乗せられている簡素なものである。

 今日は聖日なのでスターンズ師は私にショートメツセージを語るようにと促されたので、先ず一曲さんびをしてから湖を背にして短く話した(日本語で)。その後、湖岸に出て、妻は浅瀬に入り、ガリラヤ湖水の感触を楽しんでいた。

 ここで13:00少し前までゆっくり寛ぎ、記念写真も撮った。昼食はスターンズ師宅に招かれ、夫人の手料理を頂いた。スターンズ師宅はティベリヤの小高い丘陵にある団地の2階にあり、裏の窓からはガリラヤ湖が一望できる良い立地であった。

 ただ、直ぐ近くに電柱と太い電線が複数あったのが惜しいと思った。御夫妻と昼食を囲みながら親しく団欒できたのは得難い恵みの時間であった。この出会いを与えて下さった押方師に感謝。

最後の2週間(47)

 夕食を摂るためにゲストハウスを出るとすぐにエデンというホテルがあったので、そのロビーで食事が出来るかどうか尋ねた。OKという返事だったので何とか夕食にありつけた。

 8/21(日)午前8時から英語での賛美タイム、8時35分から朝食、果物(りんご、ぶどう、マンゴー)と少しのハム、パンとジャムとマーガリンがテーブル上に並んだ。

 9時15分にスターンズ師が車で迎えに来て下さり、今日はガリラヤ湖周辺を案内してくださることになった。昨夕から今朝までとても気温が高い。スターンズ師が先ず向った場所は祝福の山の教会堂であった。

 主イエスの8つの祝福(マタイ 5:3-10)に基づいて8角堂の会堂が建てられている。妻たちは会堂の中を見学しに入ったが、私は以前に来ているので、スターンズ師と外周の回廊を一周した。この場所からのガリラヤ湖の眺望は格別である。

 湖の北端から南端、東西の湖岸を一望できる。すぐ下にはカファルナウムやタプハの建物や木々も見える。山の斜面を羊の群れを導いてゆっくり歩く羊飼いの姿はカメラに納めた。

 続いて向ったのはカファルナウムである。湖岸まで下って進路を東にとり、少し車を走らせると左側に見えてくる。主イエスと弟子たちのガリラヤでの活動拠点であり、ペトロの妻の実家があった場所である(マルコ1:21-30)。

 3世紀頃のユダヤ教の会堂(シナゴーグ)と住居の一部が発掘されていて会堂南側の道は湖岸まで続いている。ペトロの姑の家の跡とされる所は後に教会堂となり、春に来た時には基礎部分が見れたが、今回はその上に会堂が建っていた。

最後の2週間(46)

 ティベリアの中央バスステーション脇でタクシーを降りた私たちは、近くにあった公衆電話でスターンズ師に到着したことを伝えると直ぐに車で迎えに来て下さった。

 ガリラヤでの私たちの宿泊場所はスターンズ師が手配して下さったドイツ人宣教師が運営しているゲストハウスである。夕刻 4:30には着き、玄関に入ると数人の男女のドイツ人が暖かく迎え入れて下さり、私たちには一階の玄関左側のとても清楚で明るく落ち着いた感じのゆったりした広めの部屋に案内された。

 ここでの宿泊は何泊しても無料で、チェックアウトする時に備え付けの箱に自由献金をすれば良いというのである。一年でも可だというので驚きである。実際、私たちが行った時、台湾の牧師老夫婦がすでに一年近く滞在しておられるということであった。

 私たちは朝からずっと見学して来たので夕食まで部屋でゆっくりと休むことにした。しかし7時になっても夕食の声がかからないのて尋ねてみると、ここは夕食はないので自分たちで調達するように言われた。

 ここでは朝食と宿泊だけを提供して下さるということであった。慌てた私たちは、どこかマーケットかレストランがないか尋ねてみると、今日は金曜日で夕方から安息日なので午後から全ての店は閉っているが、前のホテルでは今からでも食べられるかも…と言う。

最後の2週間(45)

 ヘルモン山はシリア、レバノンとイスラエルの国境を跨ぐアンチレバノン山脈南部にある峰々の総称名である。最高峰は 2814mで、その名はヘブライ語で「聖なる山」という意味。

 フェニキア人はこの山をシリオンと呼び(詩 29:6)アモリ人はセニルと呼んだ(雅歌4:8)。冬季には雪が深く積もりスキー場として人気のスポットになっている。山頂辺りには夏にも積雪が残り、この雪解け水はヨルダン川の最大水源になっている(エレミヤ16:14口語訳、詩篇 133:3)。

 キリストが変貌したのはこの山とされている(マタイ 17:1-8)。その頂上に立ってみたかったがスキー用リフトに乗って一時間以上要し、寒さ対策もして来なかったので、ここで引き返すことにした。

 地図では周囲を周る道路が書かれているので、一周してみたかったのだが、どのような道で、どれだけ時間が要するのか安全はどうなのかなど事前に調べていなかったのでこれも断念した。

 そこで私たちは来た道を引き返し山を下った。ガリラヤ湖のすぐ北まで戻ると、そのまま今夜宿泊するティベリアへ直行するのでなく、湖の対岸(東のゴラン高原麓)を通った。

 カファルナウム、ベトサイダ、ゲラサ、キブツ・エンゲブ、そしてヨルダン川を渡ってティベリアに着いたのは、夕方4時であった。タクシーから降りると外気がすごく暑いのに驚かされた。

 ティベリアの8月の平均最高気温は37.1度とガイドブックには書かれてある。主イエスと弟子達は夏はこのような暑さの中で生活しておられたのだという事を体験する事が出来た(マタイ20:12,10:42)。

最後の2週間(44)

 このフィリポ・カイサリヤでペトロが主イエスに「あなたはメシア、生ける神の子です。」告白したのであった。私たちはこの公園内にある小さな食堂で昼食を摂り、3時間程の時を過ごし、12時40分にここから出発してヘルモン山に向った。

 運転手のフェミは道を知らないらしく、公園の係員に尋ねていた。車は右や左にハンドルを切りながら山を上り始める。途中の見晴らしが良い所で車を止め写真を撮ったりしながら進んで行くとキブツと思われる集落があり、庭にピンクの花が絨毯のように美しく咲いている所があったのでそこでも写真を撮った。

 中腹まで行くと左側の谷の向う側の緑の木々が繁る斜面に峻立している「ニムロデ」と名づけられた十字軍時代の要塞が見えてくる。更にその先には美しい滝があり、そこで小休止して写真を撮った。そこには新婚カップルも居てやはり写真を撮っていた。

 この滝は主イエスと弟子たちも見たのであろうか(マタイ 17:1)更に進んで行くと頂上に登るスキー用のリフトの乗場に着いた。これより上は車では行けないので、ここから頂上を眺めることにした。真夏なので見物客は私たちの他、僅かであった。

最後の2週間(43)

 テル・ダンでは時間の関係などで公園内には入らず、金網の外から写真を撮ってから、すぐ東にあるバニアス国定公園に行った。入場料は一人11.5 シェケル(約400円)である。

 公園入口から入るとすくに右側に発掘された建物の基礎部分を見ることができる。発掘された場所は極く狭い範囲であるが、昔ここには住居があったことが判る。現在はこの周囲には戸建ての住宅は見当たらない。

 少し歩を進めると、そこには極めて美しい水場がある。乾期の後半で水が乏しいイスラエルでここだけは別天地である。水晶のように澄んで輝く透明な水が約 20mもの幅で東から西方向へと流れている。

 この流れのすぐ東側は石垣の壁になっていて行き止まりであるが、その石垣の下からヘルモン山からの地下水が泉となって滾々(こんこん)と湧き出ているのである。妻がその石垣の下に下りて泉の湧き出し口を確かめた。

 その泉は石垣のいたる所から湧き出ていた。その幅の広い流れは所々に堰(せき)が設けられていて極く低い(数10センチの)滝のようになって実に美しい。

 京都の鴨川の流れにも似ている。そこには青々とした水草が生い茂り、生命の水を彷彿させる光景である。ここが新約のフィリポ・カイサリヤである(マタイ16:13)。

最後の2週間(42)

 メギドからエズレル平原を突き抜けてタボル山で北進し、ガリラヤ湖から 10km程西側を85号線まで行く。85号線で進路を東に取り(右折し)、8km程でコラジン(マタイ 11:21)である。そこから北へ(左折し)90号線で最初の目的地に向かう。

 テル・ハツォール(ヨシュア11:1,10)の直ぐ東を通過し、レバノン国境に隣接するキブツ・ダンまで行き、運転手のフェミはこのキブツの中の芝生の駐車場にタクシーを止めた。

 彼は私たちに「ちょっと買物をしてくるから、ここで待っていてくれ」と言い残して、息子と二人で建物の中へと入って行ってしまった。このキブツは良質の革靴等の製造で国内ではよく知られていて、直売もしているのだという。

 30 分程して彼らは戻って来たが、こんな貸し切りタクシーは日本では考えられない。私たちがフィベにテル・ダンに行ってくれるように頼むと彼はキブツの敷地の東側の道を更に北側へと車を走らせた。

 両側には雑草が生え、車がどうにか一台通れる細い道を暫く進むと、鉄網の柵が現れる。ここがイスラエル最北の町と言われたテル・ダンの遺蹟である(サムエル記上 3:20)。

 イスラエルのダン部族がこの地を獲得した次第については、士記17章、18章、ヨシュア 19:47に詳しく記されてある。北イスラエルの初代の王ヤロブアムは、このダンとベテルに金の小牛の偶像を置いて民に礼拝させたのであった。(列王記上12:28-30)。この時の祭壇跡が近年発掘されているので、私は一度ここに来て見たかったのである。

最後の2週間(41)

 カルメル山麓のエリヤの洞窟からハイファのバスステーションまで徒歩で行き 17:55 のバスでハデラに戻り、キブツに帰着し部屋に戻ったのが19:45であった。

 8/19(金)タクシーの予約が取れなかったのでガリラヤ湖行きは明日に延期し、今日は一日キプツでくつろぐ。妻は17:30、キブツのプールへ泳ぎに行った。

 8/20(土)今日はタクシーでガリラヤに行く。8:00 出発。車はドイツ製ベンツで9人乗り。乗客は私たち3人だけなのでゆっくり座れる。運転手のフェミ氏はアラブ人で、助手席に息子さんを乗せてやって来た。今日は土曜日でイスラエルは休日なのでちゃっかり息子と旅行気分で仕事をするようだ。

 私たちはこの車を今日一日貸し切りで予約し、ガリラヤ一帯を巡回してもらい、夕刻に湖畔最大の町テイベリヤで降りる事になっている。

 運転手のフェミ氏は3月にS氏達とエリコや死海を回ってエルサレムまで行った時にも雇った人なので私とは顔見知りである。

 キブツのヨハナンやヘレナの紹介で、キブツの人々が信頼して利用している運転手なので安心して良いという事である。タクシーはガリラヤ湖へ行く時のいつもの道を通って走って行った。

 マアニットから直ぐ北のキブツ・バルカイの横を通って国道65号線に出て右折。北東に 20km、谷間の道を上り切るとメギド(列王下23;29,30)だ。

最後の2週間(40)

 カルメルのケーブル駅の展望台で暫く地中海を眺めていると、結婚式衣装を身に着けた若いカップルが駅から出てきた。地中海を背景にして記念写真を撮るようだ。

 私たちはハイファのバスステーションに向うため崖の小径を降りてゆくことにした。一度、ツアーの人々と来ているので不安はない。地中海を眼前に見ながら岩場を下って行くと、丁度中程の所に岩を繰り抜いた水溜めの井戸の口が開いている。

 直径30cm程であろうか、その穴の中へ雨水が流れ込むように岩に浅い溝が穴の周囲上方に刻まれている。勿論この井戸は現在は利用されている様子は無いが昔の人々にとっては大変貴重なものであったに違いない。

 エリヤやエリシャたちも乾期にはこの井戸水を利用していたのであろうか。こんな急斜面の岩場に巨大な水溜槽を繰り抜く作業に携った人々が居たのだ。水の必要の為とはいえ、古代人の努力の凄さに驚かされると共に、旧約聖書時代の生活現場の一端に触れる体験をさせて頂いた。

 更に下って行くと、緑の木々の中へ入って行く。そこにはエリヤの洞窟がある。アバブ王を逃れて預言者エリヤが身を隠していた場所の一つと信じられており、現在は祈祷所として全ての宗教の人々に開放されている。妻が中に入って行き見学して来た。

最後の2週間(39)

 カルメル会修道院総本山の大会堂はカルメル山最北西端(海抜150m)に位置しており、預言者エリヤとエリシャが居たと伝えられる洞窟の上に建てられており、その洞窟は聖堂奥の祭壇後方にある。この聖堂は入場が自由で祭壇後方の洞窟内にも自由に入れる。

 私は二度目の訪問だが入口にも会堂内にも誰も居なかったので自由に見学できた。預言者エリヤもエリシャもカルメル山を活動拠点の一つとしていたので、この洞窟を寝床としていた可能性は充分あると思う。

 この会堂を出て道路を渡るとカルメル山の最北端にあるケーブル駅があり、又展望台になっている。眼下にはハイファの町と港が見え、正面には地中海が水平線の彼方まで見渡すことができる。

 バアルの預言者たちとの勝負に打ち勝ったエリヤがカルメルの頂上に上り、地にうずくまって祈り、雨の到来を主に願ったのはこの場所ではなかったか、と私は直感した。従者がエリヤに「手の平ほどの小さい雲が海の彼方から上って来ます」と言った(列王記上18:44)記事の情景はカルメル山北端のこの辺りが最も相応しいからである。

 カルメル山上から海の彼方を最も見渡されるのがここである。因みにバアルの預言者と戦った場所はここから南東 15kmのムフラカの高台(海抜 482m)とされ、そこにはエリヤの石像が立てられている(私は写真でしか見ていない)。是非行って見たかったが夕方になっていて時間に余裕がなかった。

最後の2週間(38)

 カイザリヤ国立公園のゲイトを出た私たちはバス停に行き時刻表を見た。次のバスの到着まで何んと3時間もある。バスの本数が少ないということは聞いていたが、真昼の太陽の下で3時間も待つことは考えられない。思いあぐねているうちに30分過ぎた。

 すると一台のタクシーが通りかかったのでそれを止めて運転手と交渉するがハイファ(カルメル山)には行かないと言う。私たちは何とかカルメル山上まで行ってもらえないかと頼み込み、運転手は渋々だが同意してくれた。

 私たちは東洋人であり、英会話が片言しか話せないのが不安だったのかも知れない。とにかくタクシーは地中海沿いに北上しハイファの町からカルメル山上にまで上ってくれた。

 しかしカルメル修道会の建物ではなく、2km程南にあるバハイ教の寺院に行き、そこで私たちを下車させた。あとは路線バスで行けと言う。ハバイ教の寺院とその庭園は広大で非常に良く管理されていて美しい。

 しかし私たちは預言者エリヤの洞窟を見たかったので直ぐ近くのバス停でバスを待った。バスは直ぐにやって来たので、それに乗り二駅目で下車した。するとそこはカルメル修道会の総本山ステラ・マリス・カルメリット修道院の直ぐ近くであった。

最後の2週間(37)

 カイザリヤの海辺を北に歩いて十字軍時代の要塞跡の遺蹟群を目指した。海に突き出た所にある四角い石造りの建物に行くと、その1階は土産物店で、ここで発掘されたコインなどが売られており、2階は食堂であった。

 そこで私たちは昼食を摂ることにした。私と妻はビーフステーキ(34シェケル、約1,000円)を注文した。イスラエルの牛肉は完全な血抜きがされているので美味でないと言われるが、この店のステーキはすこぶる美味!その上ボリュームも特大サイズで感動ものであった。妻は食べきれずに持ち帰った。1階の店では皿を土産として買った。

 十字軍時代の要塞はローマ時代の遺蹟の中にあってローマ時代の町の5分の1の規模にすぎない。13世紀のもので十字軍がこの地を支配できたのは47年間(1218~1265)だけであった。

 当時の街路、教会堂、秘密通路などが残っているが、最大のものは要塞跡である。それは大阪城の石垣と堀の形に似ていて巨大なものである。私たちは更に北側に歩いて行き、ローマ時代の導水橋が彼方に見える所まで行った。しかし真夏の炎天下にそれ以上歩いて行くことは無理だと判断し、そこから引き返すことにした。

 カルメル山から9kmにわたって2本の高架式の導水橋が建造されている。飲料用と農地の灌漑用と考えられ、ヨーロッパの各地にも同型のものが残されているが、京都の南禅寺にも同型のものがあり、ここは現在も機能している。私たちは公園を出てカルメル山に行くことにした。

最後の2週間(36)

 カイザリヤの円形劇場の地下部分は劇場の舞台裏であり出場者(人や獣)の控え室と通路から成っている。控室は鉄柵で囲まれている。

 その後私たちは広い舞台の上に立って歌ったり、観客席の最上階まで上って、舞台で大声を出して歌っている人の声を聞いたり、周囲の風景を眺めたりしていた。

 正面の西方向は青々とした地中海が水平線の彼方まで左右に広がっている。所々には白い波飛沫が立っている。北側はハイファ港からアッコに至る海岸線が弧を描いて左側へと湾曲している。

 海岸のハイファの町のすぐ右手には、急斜面でそり立つカルメル山の北西端があり、その山並みは円形劇場の真東から南東方向まで伸びる山脈となっている。

 山の手前からカイザリヤまでは、バナナやグレープフルーツ畑の緑に覆われていて、所々に住宅地が見える。南側にはハデラの町の象徴となっている巨大な三本の煙突が地中海岸にせり出すように立っている。空と海の青、山と畑の緑は絶景である。

 円形劇場を後にして私たちは海岸の波打ち際を北に向って歩いて行った。砂浜には大きな巻貝の貝殻が所々に転がっている。岸の右側は現在発掘中で布が張られていて隠されている。(私たちの帰国後に、この辺りからヘロデ王の宮殿、彼の死後にはローマ総督の官邸となったものや、劇場や闘技場跡などが新たに発掘された。)

最後の2週間(35)

 8/18(木)今日はカイザリヤ(キサリヤ)とカルメル山(ハイファ)に行く計画をしている。7:00朝食、7:35 キブツ出発、8:40ハデラに到着、ハデラへは路線バスを利用した。ハデラのバスステーション からカイザリヤ行きの路線バスに乗って8:55に出発。

 自動車で行けば 15分も要らない距離だが、途中、住宅地を経由しながら走るので遺跡公園に着いたのは9:45であった。車内アナウンスが一切ないので一駅乗り過ごしてから乗客の婦人に教えられて下車し歩いて一駅戻った。

 8月の日差しが容赦なく私たちを照りつける中をようやく公園の入場ゲイトにたどり着いて入場料を払い、英字とヘブライ字のパンフレットを受け取り広大な公園内に入った。直ぐ目の前の左側には高く聳えるローマ時代の巨大円形劇場があるので、先ずそこを見ることにした。

 フェニキア人の小さな町であったこの地をローマ皇帝アウグスト(ルカ2:1)から譲渡されたヘロデ大王(ルカ1:5,マタイ2:1-19)は12年費やし壮大な港湾都市に改築し完成させたのは紀元前10年のことであった。そして町の名をローマ皇帝(カイサル)への敬意を表して「カイザリア」とした。その際に建造されたものの一つがこの円形劇場である。

 何世紀も海岸の砂の中に埋もれていたものを1960 年代になってようやくイタリヤの調査隊によって発掘され、現在は修復されて演劇やコンサートが行われている。

 この半円形の野外劇場は直径 170m、高さ30m、収容人員は4000人、観客席がすぐ前の海に面しているので、海風により音響効果が抜群である。舞台と観客席との間には溝があり、舞台から猛獣が観客を襲えないようにしてあり、地下室にはライオンなどの檻も残されている。私たちは先ずその地下から見て回った。

最後の2週間(34)

 ナブルスの町を車で走ると、「ヨセフの墓」の案内標識があったが、運転手の青年はその場所を見つけることが出来ず、やがてヨルダン川方面へと下って行ってしまう。途中で民家に立ち寄り婦人に何か尋ねているが、それでも分からないらしい。

 私たちはこれでは希望する場所の見学は無理だと判断し、すぐにキブツに戻ることにした。時間を無駄にするだけだからである。ナブルスからセバスティア(サマリヤ、ここも見学したかった)の直ぐ西を北上し、ドタンの谷(ヨセフが兄たちにエジプトに売られた所)を通過し、ジェニンの街(パレスティナ人のテロリスト養成所がある町)を通過すると検問所があり、若いイスラエル兵が銃を手にして車を止めて青年を尋問した。そこからメギドを通ってキブツに戻ったのは昼過ぎであった。

 この計画は完全な失敗であった。サマリヤ地方にあるベテルやシロをも含めた旧約時代の遺賾を見る絶好の機会であったが、タクシーを用いる方が賢明であったことが、この経験を通してよく判った。

 夕食後へレナ宅を訪ねアップルケーキとジュースの接待を受けた。この家の電話を借りてK姉は英国在住の地姉に電話をかけた。その後食堂に戻ってティベリアに住んでおられるスターンズ師に電話をし、三日後の土曜日にティベリヤへ二泊の予定で行くことを伝えた。(スターンズ師は米国のアドベントの神学校で教えておられた方でリタイアした後、奥様がユダヤ人であるのでイスラエルに滞在しておられる押方師より連絡先を教えて頂いたので連絡を取ることが出来て感謝であった。)

最後の2週間(33)

 ナブルスの町の中央広場に到着した。パレスチナ最大の人口を擁する町だけあって、この町の中央広場はベツレヘムのメンジャー(飼葉桶)広場よりもかなり広く見える。

 周囲を見回しても高層住宅・建築と言われるものはなく、地面も舗装はされておらず、どこかのどかな地方の町の風景で、イスラエルと争う急先鉢のテロリストが潜伏しているようには表面的には見えない。

 私は車から下車するとすぐさま周囲の山々を見渡した。この町がエバル山(標高940m、呪いの山、申命記 11:29,27:4,13 ヨシュア 8:33。ここではヨシュアが築かせたと考えられる自然石で建造された祭壇が近年発掘された。(ヨシュア8:30,31)とゲジリム山(標高881m、祝福の山、申命記 11:29他、士師9:7、キリストとサマリヤの女性との会話ヨハネ 4:20,21)の間に挟まれた谷にある町であることを知っていたからである。しかしその方向までは知らなかったので、どちらがゲリジム山なのか、その時には判らなかった(ゲリジム山は南側)。

 私たちは暫くこの町を散策することとし運転手の青年と集合時間を決めて歩き始めた。広場には多くの店が屋台を広げていた。最初の果物店の長身の壮年の店主は私たちを見て、日本人だと知ると笑顔で両手を差し出し、握手で歓迎の意を表してくれた。

 他の店々も同様に笑顔で接してくれた。30分ほどして車に戻り青年に「ヤコブの井戸」(ヨハネ4:5,12、創世記33:18-20)と「ヨセフの墓」(ヨシュア 24:32)を見たいと告げると、彼は車を走らせた。しかし彼はその場所を全く知らなかったのだ。

最後の2週間(32)

 8/17(水)この日はキブツに働きに来ているアラブ人の男性に車でサマリヤ地方を案内してもらうことになっており、期待に胸を膨らませつつ目を覚ました。

 キブツのカープールで待ち合わせ時間は 7時半。しかし待っても待っても車は来ない。8時半になって来た車は約束した本人ではなく、その息子の青年であった。

 彼は時間に遅れたことを謝ることもなく「どこへ」と尋ねたので私は「ナブルス(シェケム)へ」と伝えた。彼の車のナンバープレートはパレスチナ人のものであるのでヨルダン西岸のどの町へ行っても一応安心できる。

 ヘブライ語会話を教えて下さったドフ氏に私たちが近々ナブルスに行くことを伝えると「最も危ない町だから、決して行かないように」と忠告してくれたが、隣にいた別の住民は「あなた達は日本人だから何の問題もないと思うよ」と言ってくれた。

 ユダヤ人にとっては現在のナブルスの町はこの上もなく危険な町となっている。ここはかって北イスラエルの中心地であり(列王上 12:1)、先祖アブラハムやヤコブらの縁の地でもあった(創世記12:6,33:18)。

 私たちはキブツから 574号線を南へ 20kmにあるパレスチナ人の町トルカルムに入り、そこから東へ57号、60号線で(30kmの)シェケムへと向った。途中からサマリヤの山々へ上り坂をカーブしながら走ってゆく。

 真夏の乾期にも拘わらず所々に緑の草木が繁っている。泉から流れ出る水があるのだろう。ヤコブの息子たちが夏に羊の群れをへブロンから100kmも離れたシェケムや更にその北 50kmのドタンまで導いたのも、この牧草を与えるためであった(創世記37:12-17)。

最後の2週間(31)

 ベテシャンまであと 3kmという所で左折しギルボア山麓に沿って進路を北西に取る。ギルボア山はエズレル平原の南端に位置し、東西に 18km伸びる海抜 536mのなだらかな山である。この山上でサウル王とその王子ヨナタンがペリシテ人との戦いに敗れ戦死を遂げたのであった(サムエル上31章)。

 この辺りはハロデの泉から湧いて流れた水がヨルダン川に注ぐハロデ川があるのでその豊富な水を利用しいくつもの溜め池を造って魚を養殖している。イスラエルの中でも緑の多い地域であるが、このエズレル平原は古代からしばしば戦場となった。

 ギデオンやデボラという土師たちが活躍した舞台がこの辺りである。夕陽が西に沈むのを見ながら車は西に進み、メギドの交差点を過ぎる頃は辺りが暗くなりかけていた。メギドから南西に山あいの谷を下って行くとキブツがあるシャロンの野である。

 キブツに帰着したのは夜の8時半であった。この日ヨハナンは14時間かけて 500kmも走ってくれたのである。キブツの車の使用料(ガソリン代を含めて)として請求されたのは150 シェケル(約5000円)であった。ヨハナンには帰国の際空港で別途お礼を手渡した。実に内容の濃い一日ツアーであった。

最後の2週間(30)

 車が南東へ進むに従い、道は大きく左右にカープし、その下り坂は急峻になり恐ろしい程である。その途中、道が太く膨らんでいる所でヨハナンは車を止め、私たちを下車させて、この荒野の谷の壮絶な風景を見せてくれた。

 柵も何も無いその向うは底知れぬ巨大な谷であり、その向うは高さが数百メートルもある巨大な岩盤の絶壁である。下を見ようとすると、体が吸い込まれそうな恐怖感に襲われる。この大自然の迫力の前に圧倒されて言葉も出ない。

 イスラエルを訪れることがあればエリコとエルサレムの間にあるワジ・ケルトの峡谷とこのアラッドから死海に下るこの大峡谷を見て頂きたい!。エリコからエルサレムへの道は主イエスと弟子たちも歩いた所であり、このアラッドから死海への道は旧約時代にイスラエル兵がエドム人との闘いの度に歩いたであろう道なのだ(歴代下25:11,14)。

 この大峡谷は地図ではメツァド・ツォハルという地名になっている。そこから私たちは死海沿岸まで下ってから進路を北に取り 90号線を死海西岸沿いに 35km先のエンゲディ海水浴場に着いた。死海南部では湖水の中に塩の結晶があちこちに見えたが、エンゲディには見られなかった。

 エンゲディの西側は高台になっていて、このユダの荒野をサウル王に追われたダビデが部下たちと共に放浪した所である(サムエル上24:1,2)。私たちはここで水着に着替えて「死海浮遊」体験をすることが出来た。

 ここからはキブツへの帰路を只管走り続けるのである。エンゲディからエリコを通過し、ヨルダン川に添って北上しベテシャンまで。ここはサウル王最期の地である(サムエル上 31:10-12)。

最後の2週間(29)

 昼食を終えた私たちは、全てを任せてヨハナンの導くままに車で移動した。折角ベエルシェバまで来たのだから”アブラハムの井戸”と呼ばれている(創世記 21:25-31)史跡を是非とも見たかったのだが、そこには立ち寄らず国道60号線で進路を北東に向けた。

 直ぐ右側に古代遺跡テルベエルシェバがあり、現在も発掘中とのこと。BC12世紀以降イスラエルがヨシュアによってカナンの地に定着(ヨシュア記 19:1,2)以後の城壁、住居、巨大な祭壇、深さ 40mもある井戸(雨水溜め)などが発掘されている。

 そこを素通りして荒野に進んで行くと所々に野生の鹿が歩いていたり、ベドウィンの天幕が見られる。10km 少々走るとショケットジャンクションがあり、そこを右折し、国道31号線を東に向う。それから 25km程行くと左側の遠方にテル・アラッドの茶色の丘が見えてくる。

 ここもヨシュアが率いるイスラエル軍が征服したカナン人の町であり(ヨシュア 12:14)、ここにはモーセの義兄弟ホハブの子孫が定住したことが士師記に記されている(1:16)。そこから10km東に進むと現在のアラッドの町がある。

 この町はまだ新しく 1961年にユダヤ人の若者たちが入植したのだという。ベエルシェバとアラッドには主イエスをメシヤとじるユダヤ人会衆が集会をしているが、ユダヤ教徒から激しい妨害活動が起こっている事が知られている。

 アラッドを通過して暫く走るとハトゥルリムの三叉路に差し掛かるが、更に東へ直進すると、海面下 400mの死海に向けて道は下りはじめる。死海まで約 15km、その標高差は 900mもある。

最後の2週間(28)

 ベイト・ギブリン国立公園の見学を終えて、私たちは国道 35号線を西に向った。6km程走ると南側には考古学で有名なテル・ラキシュがあるがそこは素通りした。ラキシュ(ヨシュア 10:31,15:39)は、アッシリヤとバビロニヤによって二度に亘って滅ぼされたがユダ王国時代の聖書の記述を裏付けるものが出土している。

 アッシリヤのニネベの王宮跡からセンナケリブ王がBC701 年にこの町を攻撃した時のレリーフが出土し、現在は大英博物館に所蔵されている。この前後の様子はイザヤ書 36,37章に詳しく記されてある。レリーフの写真も考古学誌で見る事ができる。

 そこから更に西へ 5km程行くと道路の直ぐ北(右)側に茶色いテル(丘)が見えてくる。周囲は樹木が生えているが一目見て遺蹟と分かる丘である。ここはその昔ペリシテ人の都市国家ガドがあった所とされ現在その南側にキリヤト・ガドというユダヤ人の町がある(ヨシュア 11:22,サムエル上 5:8など)。

 そのテルの横を車で通過すると国道40号線との交差点に差し掛かる。そこを左折し 40号線を南に下る。そこから 30kmでネゲプの町ベエルシェバだ。この近くの土壌、耕された畑の土は血のような赤い色をしている。アダマ(土)はエドム(赤い)と語源は同じである(創世記2:7、25:25、30)。因みに血はダム」である。

 ここは、なだらかな平原ですこふる暑い。私たちはここで昼食を摂った。極く小さな食堂で軽食を注文したが各自の皿に特大で激辛の唐辛子のピクルスが三本盛られていた。

 私は辛味が好物なので 3本とも食べてしまったが、店の主人が「お前は食べたのか?」と仰天していた。妻とヨハナンはそれには全く手をつけなかったが…。

最後の2週間(27)

 地下の巨大な水溜槽が満水になると、このマレシャの町が乾期(5月~10月)に使用する水の全てが賄えるのだという。このような巨大な水槽はイスラエルではエルサレムの北西 9kmにあるギブオン(槽の深さ27m)やエズレルのメギド(長さ70mの地下水道トンネル)等が発掘されているが私は見ていない。

 ここに貯えられた水は真夏でも冷たい(マタイ10:42)とヨハナンは私たちに説明するが、それを裏付けるように、外の酷暑に比べこの空間は実に冷んやりしていて半袖の上着では寒いほどである。

 その隣には鳩の養殖場後の大きな部屋があり、今も発掘された入口から入って来た鳩たちがここに住み着いている。神殿に献げる犠牲用の鳩を育てていたのだろうか(ルカ 2:24)。この他、この遺蹟からはBC3世紀から AD1世紀頃の住居、コインや美しい彩色画が描かれた墓地(本物は博物館で保存、ここにあるのはレプリカ)や巨大な洞窟となっている石切り場跡などが出土している。

 この石切り場の直ぐ近くには食用のサボテンの食べ頃の実を多数つけた私の背丈よりもずっと高い見事なサボテンの木が自生していた。マレシャのテルの丘の斜面には大きなテントが張られ現在も発掘作業をする人々を見ることも出来た。

 車に戻る途中には十字軍時代の巨大な石造りの建造物の一部が残されている横を通り過きた。この場所は近くのテル・ラキシュと共に聖書時代の遺蹟の宝庫で、今後どのようなものが発掘され、国立公園としてどのように整備されてゆくか楽しみである。

最後の2週間(26)

 エラの谷から更に10km南下し、国道38号線の終点、東西に走る 35号線と交わる所がベイト・ギヴリン国立公園である。ヨハナンはここで駐車し私たちを下車させた。

 真夏の太陽が容赦なく照りつける乾ききった土地、その炎天下で暫く待たされた私たちの所へ戻って来たヨハナンは私たちを公園の入口らしき所へ導いて行った。

 入口と言っても門も柵もない所に電話ボックスのようなサイズの粗末な料金所があり、そこでヨハナンは私たちの入園料を支払った。ここの売り物は古代遺跡のテル・マレシャであることが後で判った。マレシャは旧約聖書の所々で登場するユタ部族の町である(ヨシュア 15:44、歴代下11:8、14:9、20:37、ミカ1:15)。

 発掘は現在も進行中で、国立公園に指定されて間もないようだ。公園を囲むフェンスは未だ全く設置されていない。発掘が済んだ所には、解説が書かれた金属製のしっかりしたプレートが設置されている。

 ヨハナンは私たちをどんな所へ連れて行こうとしているのか、私たちにはさっぱり分からない。只、茶色の凹凸だらけの乾燥した地面の上を彼について行くだけである。

 草木一本も生えていない小さな丘のような所まで行き、そこに掘られた横穴から中へ入って行く。中は真っ暗闇だが所々に裸電球が灯してある。狭い土の階段を下りて行くと、横に小さな空間があり、その床には1m位の穴が掘られている。

 ヨハナンによると、これは宗教的な潔め用のミクベ(水浴場)だという。更に下って行くと、そこは冷気の漂う広大な空間であった。天井の高さは数十m、直径は50mはあるだろうか。これはこの町の巨大な水溜めの井戸で冬の雨期に降った雨をここに集めておくのだ。