キブツ到着(14)終

 団長のS師は或る特定の人に焦点をしぼって福音を伝えたい旨を語られた。あと二人の女性の中で名古屋から参加されたM姉は既婚の若い方で、教会生活に何か問題があって、自身の信仰のリフレッシュを求めて参加されたという。

 最後に東京から参加された宮本姉は、ご自分で「エターナルラブ・イスラエル」というユダヤ人への宣教団体をたてあげたばかりの若い独身の方でこのツアーの常連の人、団長と同じヴィジョンを抱いてこのキブツに来られたのであった。それぞれの抱負を語り終えると明日の予定が告げられ、祈りをもって礼拝と反省会は終わった。

 イスラエルでの一日目はこのようにして終わり、私たちはそれぞれの部屋に別れた。その後シャワーを浴びてべッドに入る。シャロンの野の最初の夜はなかなか寝つけなかった。窓の外からはいろいろな音が聞こえてくる。すぐ近くからは虫の音、少し離れた所からはハデラからメギド方面に行き交う車の音、近くの工場の騒音(終夜操業)。

 明日の朝は早い。早く眠らなければと思いつつ、いつの間にか寝入っていた。

キブツ到着(13)

 礼拝メッセージの聖書個所と話の内容は思い出せない。2月27日(日)~3月8日(火)までの日記をイスラエルで紛失してしまったため、最初の10日間は手帳の予定表を見て思い出しつつ書くことをご了承頂きたい。

 午後6時から夕食、共同食堂に行くが、人は疎らである。外国からのヴォランティアが大半で、キブツ住民は殆どいない。自宅で食事をしているのであろう。食堂にはパンと野菜だけしかないので、私たちは日本から持参したマグカップラーメンなども食べた(S師が持参)。

 キャラバンに戻ると7時から今日一日の反省会である。これは毎日欠かさず、ツアーメンバーが帰国する前夜まで行われた。賛美と祈りをもって始め、その日一日の証し、反省翌日の予定、今後のスケジュールの打ち合わせをして祈りをもって閉じる。

 遅い時には夜10時半を過ぎることもあった。司会は毎日順番制である。最初の夜は今回のツアーに対する抱負を述べ合った。私は一年間の滞在を希望していること、その間へブライ語を少しでも多く学びたいということを語ったように思う。

 この時点ではキブツ側は私の働きぶりや滞在態度などを見てからその期間を決めるということなので、精一杯働くことを抱負として語ったかも知れない。年配のK婦人牧師は、キブツの多くの人と知り合って、キリストの救いをお伝えしたいと語られた。

キブツ到着(12)

 このキャラバンと呼ばれる10棟の建物は、元はソ連(ロシア)からイスラエルに大量に移住したユダヤ人たちをこのキブツにも受け入れるために建てられたものである。しかし、それらの人々は、ここでの生活を嫌って全員出て行ってしまったので、今は外国からのヴォランティア用住居になっているのだ、とS師は私に教えて下さった。

 建物そのものは古くはないが、以前に入居していた人たちがかなり乱雑に使用したようで窓の網戸は破れ、カーテンもなく、床も汚れていた。ハエや蚊や虫が多くいるので、先ず網戸を応急修理し、カーテンの代わりに普通の布を押ピンで固定して吊した。

 更に床掃除をしベッドを整えてから、荷物の整理をしてようやく一段落つけることができた。そのベッドに横たわって1時間ほど休息をとってから、この日は日曜日なので、午後4時から主日礼拝である。

 外は雨で濡れているので、私たちの部屋で行うことに決めた。小さなテーブルを囲んで5人が椅子に腰を掛け賛美を歌い、感謝の祈りをささげた。メッセージは団長のS師である。

キブツ到着(11)

 私とS師に用意された宿泊所はキブツの東端に10棟ほど設置されているキャラバンと呼ばれている建物の北端の棟であった。一棟で2戸、私たちは、その右側で、左側は南アフリカからの青年ヴォランティア男女二人の部屋である。

 この建物は高さ1mほどの細いL字鉄骨を4隅と中央に立てた上に、プレハブのような組立式の箱の形の建物をのせて固定しただけのものである。電線と上下水道管とボルトを外せばどこへでも移設できる簡易住居で、室内を歩くだけで建物全体が揺れ動く難儀な代物である。

 鉄製の階段を上って建物に入ると、そこが狭い居間で右側に炊事用の流し、その横にシャワーとトイレがある。電気のみでガスはない。入口のドアの鍵と冷蔵庫は壊れていて使えない。しかし古くはない。奥の方のもう一つの部屋が寝室でパイプベッドが両側に置かれ、その間のわずかな空間に荷物を下ろした。

 窓からはシャロンの野や丘が見渡せ、野の草花を心ゆくまで眺めることが出来る。しかし今はそれらをゆっくり眺めている時間的余裕はなかった。

キブツ到着(10)

 前回「キブツ在住のユダヤ人は聖書を読んだこともなく、よく知らない」と書いたが、LCJEニュース4月号に次のような記事が掲載されていたので一部転載させていただく。“それは敬虔なユダヤ人の間にさえ、旧約聖書のいろいろな部分が全く知られていないということです。ユダヤ教は一般教徒が個人で聖書を読むことを奨励しませんのでシナゴーグでの朗読が唯一、聖書を知る手段となります。”(C. クリンゲンスミス)。

 キブツ在住のユダヤ人のほとんどは安息日や祝祭日にそのシナゴグに行く人はほとんどありません。ですから、ほとんどのユダヤ人は、旧約聖書を自分で手に取って読んだことがなく、敬虔なユダヤ教徒でさえそうなのだというのです。

 敬虔なユダヤ教徒とは安息日を守り、安息日にはシナゴグ (ユダヤ教会堂)に行って毎週礼拝をささげている人のことです。その上、シナゴグで朗読される旧約聖書はトーラー(モーセ五書)は全部ですが、他の書は一部だけです。

 そのような訳ですから旧新約聖書を何度か通読しているキリスト教徒は、ほとんどのユダヤ教徒よりも旧約聖書に精通していることになるのです。ユダヤ人と聖書の話しをしても、うまくかみ合わないのも、このような事情があったわけです。

キブツ到着(9)

 ユダヤ人なのだから、当然自分たちのルーツである旧約聖書、ヤコブの第三男レビについて知っていると思っていた私の早とちりであった。日本人であっても古事記を読んだ人は少ないと思う。

 古事記は約1300年前のものだが旧約聖書の場合は3000年も前のものである。しかも多くのユダヤ人がそれらを歴史としてではなく単なる古い神話と考え、あまり関心を持っていないのは、殆どの日本人の古事記や日本書記に対する思いと同じなのだ。

 過越しの祭りなど聖書が命じている三大祭りや、安息日などに関しては、国の祝日、ユダヤ人の習慣として守り祝ってはいるが、キブツ在住のユダヤ人の殆どは旧約聖書を持っていないし読んだこともなく、よく知らない、ということを、そこに住んで彼らと接してみて、はじめて知ったのである。

 入所手続きを終えた私たちは宿泊施設に向かった。ヴォランティアストア(事務所)から東の方へ細い道を歩いて行く。数分ほど行くとヴォランティアストアと同じような平屋の横長の建物がある。築50年は経ている古い家だが、二軒長屋の右側が女性三人の宿舎、私とS師の宿舎は更にその東の、日本では見たことのない珍しい建物であった。

キブツ到着(8)

 アロンの補佐役として同じく若くて小柄な女性がおり、名前はレビと言った。アロンは終始無愛想で事務的な対応で歓迎的な態度を示さなかった。レビはそうでなかったので、私は彼女の名前のことで話しかけてみた。「聖書ではレビは男性の名前だが、あなたは女性ですが、レビという名前なのですね」と。彼女はそれには何も答えず、とまどった表情をしただけであった。

 私たちはそこで入所手続きの書類に必要事項を書いてサインをし、貴重品を預けた。その後、右隣の薄暗い部屋に入り、棚に並べられている作業着と作業靴の中から自分に合うサイズのものを選んで取るように言われた。すべてが古くてよれよれのものだ。靴も足に合うサイズのものがなく、小さなものしかなかった。仕方なく適当なものを選んで持ち出した。

 かなり後でわかったことであるが、アロンが無愛想に接したのは、外国人ヴォランティアの中にはかなり無軌道な若者たちがおり、横暴な振るまいをするので毅然とした態度で接する必要があったということだ。又、レビが名前のことで返事できなかったのは、キブツの若者のほとんどが、旧約聖書を読んだことがなく聖書のレビに関して知らなかったのである。

キブツ到着(7)

 昼時になって共同食堂に戻り、昼食をいただいた。キブツでは昼食がいちばんの食事だ。キブツ最初の昼食だが3月6日(日)までの8日間の詳細を書いた日記を現地で遺失してしまったので、この昼食のメニューは思い出すことができない。

 昼食の時にはバイキングコーナーの左奥の場所にその日のメイン料理が置かれてあり、ヴォランティアの当番の若者がステーキなどを皿の上に盛ってくれる。

 昼食後、食堂を出てヴォランティアハウスに向かった。幅1.5mほどのセメントで固めた細い道を北へ3分ほど歩く。道の両側には木々が植えられており、処所に建物や分かれ道がある。糸杉やレバノン杉も植えられている。

 ヴォランティアハウスは古い平屋の細長い建物で、右端の戸口を開けて中に入った。その正面には質素な木製の事務机があり、その向こうの壁には文書棚、机の左壁には本棚がある。これが外国からのヴォランティアがキブツ側と話し合ったり、事務手続きをしたり貴重品(パスポートや現金など)を預かってもらったりする場所である。

 机の向う側には、真っ黒な頭髪と黒い瞳、ひげが濃くてキリッとした男前の顔立ちの、背の低い若者が座っている。彼がこの年の外国からのヴォランティアの世話を担当している。キブツの住民で、名前はアロンと言った。

キブツ到着(6)

 アリーザの休養の事情は昨年キブツ内で発生した自動車事故によるものであるという。先ほど私たちが車で通ったキブツ敷地内の直線道路で、インドから来ていたヴォランティアの女性レオナがこの事故で死亡。

 この若いヴォランティアの死によるショックがあまりにも大きく、周囲の人たちが彼女に休むようにとすすめたために今年はその係から離れているとのことであった。こういう事故があったので道路上に盛り上げ個所が設けられ、スピードを抑えるようにしてあったのか、と思った。

 更にアリーザは「あなた方は毎年多額の費用でイスラエルに来て、労働をしてくれているのだから、今回はゲスト待遇で、一切労働はせず、観光を楽しんだらいい」と言ってくれた、とS師は語った。

 しかしS師は「キブツには労働を通して伝道するために来ているのだから、この提案に応じる気持ちは全くない。働くことによって証しをするのだ」と言われる。私たちは今年も喜んで働かせてもらうと言ってこの申し出を辞退したという。

キブツ到着(5)

 グループ、リーダーから順々に彼女の家に入らせて頂くと、そこはかなり狭いダイニング・キッチンで、私たち5人が入ると身動きもとれないほどである。正面の壁には大きな食器棚が置かれていて、その前に食事テーブルと椅子、左奥がキッチンだ。

 正面左のドアから背の低い老人が出てこられ、英語で挨拶をした。このツアーは毎年このキブツを訪れているので、私とK婦人牧師は初対面だが、他の三人はすでに顔馴染みで、手を取り合ったりして再会を喜び合っている。

 お茶を出して下さる間、お湯を沸かすところから始めておられるのか、かなりの時間、じっと黙って椅子に座り続けていた。明かりも暗くて、窮屈なので居心地が悪い。

 ようやくお茶が出されて、改めて挨拶と簡単な自己紹介をすると、リーダーのS師とその老婦人とが英語で会話をしはじめた。約2時間会話が続いたが、時々S師がその要約を日本語で私たちに話して下さる。

 この女性はアリーザさんでアメリカ国籍のユダヤ人ということだ。昨年までこのキブツに住みながら、外国人ヴォランティアの担当をしていた人で、今年は全ての仕事を休んでいるのだという。彼女の表情も話し方も、とても暗い感じがした。

アリーザさん(中央)と、吉川牧師夫妻。

キブツ到着(4)

 先に食堂の北側の壁は全面が窓になっていることを書いたが、その幅は20mもあるだろうか、その高さは天井から床まで4mはある。しかし、その窓の一部、食堂の一番奥の天井近くのガラスが割れている(あえて割ってある?)。

  何とそこからすずめが出入りしているのである。天井の一部が破れていて、天井裏に巣を作っているのであろう。何羽ものすずめたちが自由に出入りしているのである。キブツでは動物や生き物がとても大事にされているのだ。日本では先ず見かけることはないこの光景に私は見入ってしまった。

 朝食を終えると私たちは荷物を持って食堂を出た。食堂横の芝生の敷き詰められた広い庭を通ってキブツ住民の宅地の中へと私たちは歩いて行った。

 多くの木々が植えられ、花壇もきれいに手入れされていて、いろいろな花が咲いている。ちょうどシクラメンが満開でピンクのじゅうたんのように見え他にアイリス、ヒヤシンス、からし菜など、又、周囲の野には赤いポピー、白や黄色の草花が一面広がり咲いている。

 私たちが訪ねたのは老婦人の家であった。彼女の家の周囲は屋根ほどの高さの木々に囲まれ、玄関口まで緑がいっぱいである。彼女は私たちを玄関口の部屋に迎え入れてくれた。

キブツ到着(3)

 食事はバイキング形式で完全なセルフサービス。キブツ初体験の私は全く要領が分からないのでツアーグループの後ろをくっついて歩き、先ずトレイを取り、その上に皿、カップ、スプーンなどの食器を乗せ、各種の生野菜、ヨーグルト、ジャムを取り、パンの場所に向かった。

 直径10cmほどの半円形の食パンを1cm少々の厚さにスライスしたものを2枚トースト機に入れ、出てきたものを取って、最後にドリンクコーナーに行く。コップにホットコーヒーを入れ、ミルクを足して、砂糖の小パックを取って、食堂の奥の中ほどのテーブルに着いた。

 生野菜をどのようにして食べたらよいのかよくわからない。レタスはそのまま食べられるが玉ネギやピーマンは生で食べたことがない。玉ネギは外皮を剥いて4分の1にカットしてあるだけである。

 他のメンバーはスライスしてパンに挟んで食べていたので、私もそうして食べたが美味とは言えない。ヨーグルトもそのままでは食べにくいので苺ジャムを混ぜて食べた。後で知ったのだが、野菜は全部ナイフでみじん切りにし、水で溶いた小麦粉のような味がするチーズをかけて食べるのが正しい食べ方だった。

 食堂の北側の壁は全面が窓で部屋は明るい。

キブツ到着(2)

 キブツの共同食堂は平屋のコンクリート製で大きな箱型の建物である。建物に入ると小さなロビーのような玄関があり、連絡用の掲示板や電話機などがあり、そのロビーの向う側には洗面手洗い所、更にその奥にはトイレがある。

 ロビーの右手には大食堂の入口があり、自動ドアで出入りする。犬も自由に出入りしている。大食堂は400~500人が食事できるテーブルと椅子があり、手前左手に食物コーナーがあり各自バイキング形式で食器や食物、飲み物を取ってゆくのである。

 朝食とタ食は食物コーナーの中ほどにトレー、皿、カップ、スプーン、フォーク、ナイフなどの食器などの置かれたテープルがあり、それを囲むように手前には乳製品(バター、ジャム、ママレードチーズ、ヨーグルト、チーズとヨーグルトは数種類づつある)と生野菜(レタス、きゅうり、ピーマン、玉ネギなど)が並べられている。

 奥の右手には早い時間にはゆで卵やスクランブル・エッグがあり、その横に20cmほどの長さの食パンとパンのスライス機、パン焼き機(中型のコンベア式)が置かれている。

 食堂中ほどの左手には、熱湯、ミルク、水などのコーナーがあり、コーヒー、紅茶、砂糖、サッカリンなどが並んでいる。毎朝、同じメニューである(夕食は乳製品なし)。

キブツ到着(1)

 タクシーは公道からキブツの私道と思われる道へと右折した。道路の両側には丈の高い樹木が植えられていて、林の中を走っているような印象を受ける。

 道路に2ヶ所ほど、10cmほど盛り上げてある箇所があり、その前で車は徐行し、ガクンと車体が揺らされて、そこを越えてゆく。直線道路なので、スピードの出し過ぎを防止する安全策である。

 500mほど走ると右手に小さな守衛小屋のような建物があり、ここがキブツの入口なのかな、と思った。何のチェックを受けることもなく、そこを素通りして、更に数百メートル進むと、キブツの玄関口にある停車場に着いた。

 正面(西側)が少し高くなっているなだらかな斜面の広場で、大きな路線バスも楽々とハンドルを切って回れるほどの広さがある。私の手帳には朝8時半頃到着とメモされている。

 タクシーを下車し荷物を降ろして、私たちは急いですぐ先にあるキブツの中央(共同)食堂に駆け込んだ。降雨のためだけでなく、朝食時間に間に合うためであった。通常、朝食は8時から8時半までに済ませ、すぐ仕事場へと向かうのである。

 こうして私たちはイスラエルでの最初の食事を慌ただしい雰囲気の中で食したのであった。

キブツ ”マアニット” の全景