独りヴォランティア(15)

 この日、バナナの木の手入れ作業を午後3時に終えた私は部屋に戻り、昨夜へプライ語会話教室の後でドフ氏から聞いたことを思い返した。ドフ氏が語るところによるとイスラエルの多くの宗教家(ユダヤ教徒)はもはやトーラー (モーセ五書) がモーセによるものと信じていないのだという。イスラエルのヘブライ語学者が明確にしたところでは、モーセ五書のヘブライ語はバロン捕囚時代のそれも非常に後期のよく整理されたヘブライ語であるという。

 旧約聖書の中で最も古い時代のヘプライ語で書かれているのは、ヨシュア記、そしてダニエル書が最も新しい時代のものであり、紀元前2世紀頃のアラム語も多く含まれている。更にエズラ・ネヘミヤ記もその時代のヘブライ語とアラム語だという。

 私はその研究に基く著作時代はかなり正しいと思わされた。日本語も昭和初期、明治初期、江戸時代、奈良時代それぞれ専門の学者がそれらの時代の文章を見れば、それがおおよそどの時代のものか推定できるのと同様だと思った。しかし、それだからといってモーセ五書がバビロニア捕囚期に創作されたものと断定することはできない。エズラ時代のイスラエル人にとっては読むことは難しくなっていたであろうモーセ時代の書物や口伝をエズラ達、律法学者達が当時のヘプライ語に精確に訳し編さんした可能性が高いように思う。

 今から千年前の「源氏物語」も現在の一般人には現代訳でないと読めないようにモーセの時代はエズラの時代よりも900年も前なのだから。後世に編さんされたとしても神の言葉としての価値は何ら減じることはない。それは編さん者達が、神の言葉を信じ怖れる人々であったからである。