再びキブツ生活(9)

 7/18(月)朝食後エロンとハビーバー老夫妻宅の除草作業である。今日は玄関までの通路脇に生い繁った雑草を根から引き抜くことにした。

 エロンはその時85歳、バルト三国のエストニアからのアリアー(帰還者)だ。彼が私に話して聞かせたところによると、1934 年に彼が現在地に入植した時はひどい荒地で、石ころと蛇とさそりだけの地であったという。体よりも大きな石を朝から晩まで働いて取り除いて畑作りをし、夜はテントで疲れ果てて寝る。

 アラブ人の襲撃からキブツを守るために徹夜の警戒を毎晩交代でする。そういう苦難を通して今のマアニットが築かれて来た。エロン自身は植樹の担当であった。その当時は井戸も水道も無かったので雨期に天から降ってくる雨だけを頼りに雨期の期間だけ木を植えたそうだ。現在のキブツは木々の林に囲まれ、まるでエデンの園のようになっているが、当初は一本の木も生えていなかったという。

 彼は私に自分の手と足を見せた。両膝、両肘、手の指の関節の全てが団子のように醜く大きく膨らんでしまっている。体の全ての部分が傷んでしまっているという。このキブツの先輩達は皆、体がこんなにボロボロになるまで働いてきたのだ。現在の環境は与えられたものではなく勝ち取って得たものなのだ。(土地は正当にアラブ人地主から買い取ったものである。)しかし、今のキブツの若者たちはエロンたちの労苦を全く理解していないのだという。

再びキブツ生活(8)

 7/14(木)今日も墓地の除草作業。続々と陶器の小片が出土してくるので拾う。くすんではいるが彩色されている物や取っ手の一部とみられるものも混じっている。

 この日南アフリカの景勝地ケープタウンから来ていた姉妹が帰国して行った。妹(18才)は4ヶ月、姉(22才)は2ヶ月間の滞在であった。この二人は非喫煙者だったが、このキブツに来て、女性の喫煙者が多いのに驚かされる。

 ヴォランティアの女性の半数近くが喫煙し、キブツ住民の女性にも喫煙者が多い。それに比べると男性の喫煙者は数えるほどしか見当たらない。それは食堂での食後の情景を見るとよくわかる。又、ヴォランティア女性の多くが手や足にタトウ(入れ墨)としているのにも驚かされた。

 男性にもいたが欧米人にとってはタトウは単なるアクセサリーの一種なのだろう。それに性的タブーも殆んど無いようで、その経験を求めてヴォランティアに来ているように見えた。これらはキブツの青年たちも同様のようで、長老格の方々が嘆いておられた。

 イスラエルの兵役は男女共にあるために兵役中に妊娠する女性が極めて多く、その中絶費用は全額国が負担する制度ができている。年間万単位の胎児が暗に葬られているのが現在のイスラエルだ。

 ユダヤ教のラビたちは胎児を人間とは認めないので中絶は宗教的に合法と認めている。神の法よりも人間の欲望や都合が大手を振っている社会は世界中を覆っており、このイスラエルも例外ではない。

再びキブツ生活(7)

 7/12(火)、キブツの墓地の除草作業。キブツの墓地は居住地域の南西にある小さな丘の上にあり、この丘も遺蹟の丘(テル)らしい。雑草を根ごと引き抜くとローマ時代の物と思われる模様入りの土器(つぼ)の破片が一緒に出てくるのだ。それらを拾い集めて持ち帰ることにした。

 墓石を見て回り墓石名を見ると、アブラハム、イツハク(イサク)、ヤアコブ(ヤコブ)など旧約聖書中の人物と同名のものもちらほらあり(当然のことだが)、へブライ語のその文字を見ると思わず立ち止まってじっと見てしまう。

 7/13(水)今日はキブツの庭担当前任者(名前は聞かなかったが 65年前ルーマニアから帰還した人)の家の庭の除草を頼まれた。そこはジャングルのように草木が蔓延ってしまっていた。その大半はブラウンベリーの棘だらけの木で、それをすべて刈り取った。

 ここの庭には、びわ、グレープフルーツ、ペカーンナッツの木などの他にさまざまな花が植えられていて、この時はダリヤが美しく咲いていた。

 キブツでは度々停電が発生したが、今日も午後から夕方 6時半になっても停電のままなので夕食は中央食堂で食べることにした。パン2切れといちごジャムとレタスだけであった。7時40分になって電気が回復したが9時頃まで何度も停電した。

再びキブツ生活(6)

 拳式後には祝宴があり、その最後に再び七つの祝福が唱えられる。安息日や祝日の挙式は禁じられている。喜びを混ぜてはならないからである(旧約聖書では混ぜることは汚れること、分離することは聖別することとされる)。

 また新月(大陰暦の月初め)とオーメルの期間(過越祭から七週祭〈シャブオット・ペンテコステ〉までの期間)、又は畏れの日々にも挙式はしない。結婚年齢は男子は13歳以上、女性は12歳以上であれば「大人」とみなされ、結婚は有効とされる。旧約聖書では多妻は禁止されてはいないが、11世紀初頭に発布された「禁止令」以降は殆んどのユダヤ社会では多妻は見られないという。以上が前掲書の要約である。

 この夜の結婚式の模様を一部始終、強いライトの下で2台のビデオカメラで収録していた。それもビデオ編集機まで持ち込んでの本格的なもので、ショー的要素満点だ。祝宴は夜を徹して行われ、歌や様々なアトラクションが登場するのだが、私には翌朝の作業が控えているので祝宴が始まるとすぐに部屋へ戻って休んだ。

 7/8(金)、日没後、キブツ内のべイト・ハビーバーでモロッコから帰還したユダヤ人たちの演奏とダンスの公演があった。私は所用があって最後の 5分少々しか見ることが出来なかった。5人の男性が踊り、管楽器と太鼓を演奏していた。

再びキブツ生活(5)

 フッパの下に来た二人にラビは杯のワインを祝福して二人に飲ませると、花婿は花嫁の右手の人差指に指輪をはめながら「見よ、モーセとイスラエルの律法に従い、この指輪によってあなたは私のために聖別された」と唱える。ラビはクトゥパ(誓約書)を読み、花婿はクトゥパを花嫁に手渡して婚約式(エルシン)は終わる。

 式の後半は「ニスイン」(結婚)と言う。昔は婚約と結婚の間には一定の期間があった。マタイ福音書 1:18、ルカ福音書 1:27のマリヤとヨセフはこの婚約期間中であり、同居は許されなかったが公的には夫婦と認められていたのである。だから当然「シドゥヒン」(結婚式)と「ニスイン」とは別々に行われていたが、今日では一連の儀式として一つになっている。

 ラビは二杯目のワインの杯を祝福し「婚姻の七つの祝福」という頌栄を唱える。その詩は「我らの神、宇宙の王なる主よ、ぶどうの実の創造主であるあなたは誉むべきかな」で始まり、「花婿を花嫁をもって喜ばせるあなたは誉むべきかな」で終わる。最後に花婿がガラスのコップを踏み砕くという見せ場がある。結婚の喜びの時においても、神殿の崩壊以来、ユダヤ人の味わってきた悲しみを忘れないためにと説明されているが結婚の脆弱性や今なお購いを必要とする世界を象徴するものとも言われる。

再びキブツ生活(4)

 ユダヤ人の結婚式は 15世紀以降は習慣的にラビが司るようになり、現在に至っている。そして二人の結婚が公になるために公的祈り「ミシヤン」に必要な最小限 10人の成人男子の臨席が一般的に受け入れられており、今回のキブツでの挙式もそれは充分に満たされている。当人二人だけとか少数の身内や友人だけの挙式はユダヤ人の間では、有効と見做されていないようだ。

 式そのものは二部に分かれていて、前半は婚約の儀式で「エルシン」又は「キドゥシン」と呼ばれる。「エルシン」は申命記 20:7にある「エラス」(婚約する)からきている。「キドゥシン」は「ヘクデシュ」(奉献する)からきており神殿に捧げられた物は他の用途に用いることができないように、花嫁は夫以外の男性には禁じられた存在となったことを示唆するものである。

 この婚約式で「クトッパ」(婚約誓約書)の作成をする。この誓約の中で花婿は、もし離婚することになった時に女性に支払う金額をこの誓約書に書き込むことになっている。誓約書に二人が署名すると、花婿は花嫁の所へ案内されて花嫁の顔のヴェールを下ろす。

 花嫁が聖別されて未来の夫ものとなったことを示すためである。この後花婿は彼の父と花嫁の父に伴われ「フッパ」という天蓋の下へ移動する。続いて花嫁も両方の母に伴われてフッパの中に入る。

 フッパは一辺が1.5m前後の四角い布で、その四隅を棒の柱で支える。それを四人の男性が柱を持って支えるのだ。これは二人の新家庭の象徴である。その貧相な造りが家庭の平和の脆さを象徴するのだ。

再びキブツ生活(3)

 7/14(月)午前中は庭の除草作業。日差しは厳しく、昼前にもなると作業着を突き抜けて熱が背中をジンジンと焼き付けてくる。しゃがんでの作業なのでそれほど重労働ではない。西(海)側からの風が心地良い。

 昨日、妻がキブツに来る日程(8/11-24)が判明したのでキブツ側(アロン)に伝えた。昼にミニマーケットで土産用のオリーブオイルを三本購入し箱詰めにした。

 7月6日(水)庭の花の植え替え作業、乾燥で固くなった石だらけの土地を掘り起こす作業は大変であった。午後、荷物を船便で一箱発送した。重さ16Kgで送料 5700円(155シェケル)もする。日本に着くのに2ヶ月かかる(9月上旬)という。

 7月7日(木)ようやく食堂前の花壇をきれいに出来た。エストニアからの帰還者エロンとハビーバー夫妻が通りかかって「日本に帰ったら、あなたはプロの庭師になれるよ」と声をかけてくれた。そして今夕、このキブツで結婚式があることを教えてくれた。そういえば昨夜から食堂横の庭の芝の上にテーブルを並べたりライトを設置して準備をしている。

 今日、島崎藤村の『破戒』を読み終えた。以前ここで働いていた日本人が事務所の本棚に残していった文庫本である。

再びキブツ生活(2)

 6/27(月)午前中はシクラメン畑で球根の収穫作業だ。専用の特殊トラクターで球根を掘り起こし車上まで引き上げてから布袋に穫り入れる。同時にローマ時代の土器の破片も出土するので、それは自分の作業服のポケットに入れて、土産物として持ち帰る。

 午後、日本の家族に電話をした。先の手紙で妻が、8月に家族と教会員でキブツを訪れると書いてきたためだ。諸事情により子供達は連れて来ない方が良いと伝えた。

 6/29(水)庭の除草作業、体調が今一つ優れないので、この日の作業は午前中に終わらせてもらった。毎日へブライ語文法の学びを続けているが「ヒーレク」という言葉に出合った。「部分、分け前」という意味である。

 私はすぐにこれは使徒パウロが彼の手紙でしばしば用いている「分、部分」(ギリシャ語のメロス)と同じ意味ではないかと思った。キリストの体である教会、私たちはそれぞれが分担してその働きを担っている。神はそれぞれに一部分を分け与えてキリストの体なる一つの教会を形成させておられる、と教えている。(ローマ 12:3-8、コリントI 12:12-28、エフェソ 4:16)。

 一人では体は完全な形ではない。一地方教会だけでもキリストの体は完全ではない。それぞれが互いを必要としているという正しい自覚と謙虚さが不可欠なのだ(ローマ 12:3、ヨハネ 17:22,23)。

再びキブツ生活(1)

 6/24(金)、5:57起床キブツでの日常生活に戻ったが、旅の疲れのためか朝起きるのが辛い。今朝も作業開始直前の目覚めだ。ベッドから飛び起きて隣室のヒレルを起こし、作業に向かつた。今日は日没から安息日なので仕事は午前中で終わる。

 バナナ畑で切り倒した株の芯抜きとトレーラーのペンキ塗りをした。朝、バナナ畑に隣接する畑に数人のアラブ人が働きに来ていて、耕された畑から石を除く作業をしていた。

 ヨハナンの話によると、彼らに支払う日当は数人一纏めで頭領(ブローカー)に渡すのだそうだ。全員分1日で60シェケル(2200円)で、一人一人にいくら渡っているのか知らないという。

 パレスチナ地域では10シェケル(370円)というから、キブツで働くと6倍の俸給になり、喜んで働きに来てくれるそうだ。しかしユダヤ人を雇えば、この何倍もの日当になるのだという。

 キブツでの労働ボランティアには生活用品一式付きで一ヶ月お小遣いとして100 シェケル(3700円)が支給され、キブツ内の店でのみ使用できるクーポン券 10シェケル分がもらえる。これで結構充分暮らしてゆけるのだ。

 今日は午後 3時からキブツデイということで近くのキブツシェフィイムに行くことになった。住民とボランティアの有志が大型バスに乗っていく。大プールが二槽、大すべり台が7~8基、波を起こすシステムもあり、本格的な施設がある。

 安息日は入場料38 シェケル(1400円)、平日22 シェケル(800円)もするが今日は無料開放日(キブツ構成員のみ)なのだ。

エルサレム独り旅(53)終

 テルアヴィブバスステーションで乗換えてバデラまで行く。急行バスでなく、道路も混んでいたので予想外に時間を費やし、バデラ到着が17時45分、そこで再度乗換え、最寄のバス停キヴァッド・ハヴィーバーで降りてキブツまで歩く。

 途中キブツに戻る乗用車が通りかかったので同乗させてもらって 3 日ぶりの帰宅となった。何もなくてもやはり自室はくつろげる。べッドに腰をかけて今回のエルサレム行きを思い返してみた。

 ヒンノムの谷、キドロンの谷、ゲッセマネの園、オリーブ山ベトファゲ、ベタニヤ、ベツレヘムのボアズの野を自分の足で歩けたこと。ベツレヘムのベイト・サフールにはアラブ人のキリスト教会があり、多くの兄姉が聖日礼拝に集まっているのをこの目で見る事が出来た事。

 エルサレムのアラブ人の子供や青年たちの心がとても荒れていること。オリーブ山を越えてベタニアまで歩いて1時間で行けるが、とても急な坂道が多かったことなど十数項目を日記に書き留めた。

 しかし見る事が出来なかった所も多くあり、ヘロデ王家の墓、エンカレム、旧市街の城壁の上を歩くこと、ヘブロンやベテル、シロも行ってみたい所であった。しかし無事に帰って来られたことを主に感謝した。

エルサレム独り旅(52)

 クムランでも死海対岸のモアブの山々、ピスガの峰辺りをカメラに収めた。死海は蒸発する水蒸気のためにいつも対岸が霞んで白っぽく見える。15 分でクムランを発って次に向かったのはエリコの食堂であった。ここで昼食を摂ってこの荒野ツアーは終了するのだ。エリコについては先に述べたので省略する。

 ヤッフオ通りのシオン・スクェア(KIKALZION)前の宿に着いたのは午後2時半だった。すぐに荷物をまとめてチェックアウトし、最寄のバス停から乗車、エルサレム・セントラルバスステーションに向かった。

 イスラエルの路線バスは車内放送のサービスがないので注意を怠ってはならない。バスの前部から乗車した時に運転手に降車駅を告げ、着いた時に教えてくれるように頼んでおく。しかし運転手はそんな事にかまっていられないのか忘れてしまうのか、教えてくれた事は一度もなかった。

 おかげでカイザリヤでは一駅乗り過ごしてしまった。バスに乗車した時、大声で降車駅を告げたことが良かった。それを聞いていた乗客の婦人が私が気付かずに座席に座っているのを見て教えてくれたので急いでバスから飛び降りて事なきを得た。

 そしてそこから 3 時発のバスでテルアヴィブへ向かう。2階バスの上階からの眺望は最高だ。アヤロンの谷、エマオ、ロッド(ルダ)をカメラに収めた。

エルサレム独り旅(51)

 クムランへは主イエスは一度も訪れず、彼らは福音を聞くことなく、ローマに滅ぼされてゆきます。私たちは神の賜物と召しを軽んじてはなりません。自分が救いに導かれた教会、教団が先ず私が神に召された所です。その所にどのような欠陥があったとしても、そこが主によって私(あなた)が置かれた場所です。困難な問題がそこにあっても、それゆえにこそ、神が私をそこに召しておられると信じることが、神の召しを受け入れることです。

 自分の見た判断だけでいるべき場所を離れ、自分にとってより良い場所(教会、教団)へ移っても、そこに私に対する神の御心(祝福)はないと考えるべきです。場違いな所にいても、自分にとっては良く見えても、神の私へのご計画はそこには存在しないのです。

 エヴァが蛇に欺かれて一線を越えてしまったように、自分が洗礼を受けた数会を安易に去ることは、神の計画を乗り越えてしまうことです。進学、就職、結婚、転勤、病気、入院、被災などで転居した場合の転籍は仕方がありません。私はクムラン集団のことから、これらのことを学ばせて頂いたことを感謝しています。

 神を畏敬しつつ謙虚に歩み続けることは容易ではありません。自分にとってよりよく見える場所への誘惑は常に目から入ってくるのです。

エルサレム独り旅(50)

 「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」(ローマ11:29)「ただ各自は、主から賜わった分に応じ、また、神に召されたままの状態にしたがって歩むべきである。これがすべての教会に対してわたしの命じるところである。」(口語訳コリント第1、7:17、20、24)。

 後徒パウロは神がご自分の民に与えた賜物(能力、職分、持ち場)と召し(任職)とは取り消されることがない(存続しつづける)ことを明確に示した。ユダヤ人として召された(生まれた)人、既婚者が信者となった後の婚姻関係。奴隷で信者となった人々の立つべき信仰姿勢について述べている箇所である。

 今のままの状態で主にお仕えすることが、それらの人々への主のみこころ(ご計画)である、と。ユダヤ人として祭司家系に生まれ、主の聖所で仕えることが神の律法によって定められてしまっている者たちが、現在のエルサレム神殿も大祭司たちも腐敗し尽されているという理由でエッセネ派の祭司たちは、召された持ち場を捨てて荒野のクムランに下り、そこで新たな清い共同体を作り、神の律法に仕えて生きる道を選んだのである。

 それでも他の多くの祭司にちはエルサレムにとどまり、律法が命じている日々の神殿での務めを忠実に執り行っていたのである。その一人がサカリヤである。神がメシアの到来の福音を告知したのはクムランではなくエルサレムであった(ルカ1:5~17)。

 このことは、私たちに、とても大切なメッセージを伝えているように私は思っている。主が私を召して下さった所(教会、教団)にとどまって主にお仕えすること、これが主のみこころ、原則なのだ。

エルサレム独り旅(49)

 クムランは20世紀最大の考古学的発見とされている。600巻にも及ぶ死海文書と称される聖書写本などが発掘された所として有名な場所である。発掘品にはほぼ完全な形のイザヤ書(2巻)と詩篇(1~151編)も含まれている。

 この写本発見を契機に洞窟周辺から多くの住居跡も発掘され、この住民はクムラン宗団と呼ばれている。イエス様の時代に聖書に出てくるファリサイ派とサドカイ派の他にエッセネ派もあった事がヨセフス(1世紀頃のユダヤ人歴史家)の書物によって知られていた。

 このクムラン宗団がエッセネ派だというのが現在では定説になっている。サドカイ派はエルサレム神殿に仕えている祭司団の人々であったが当時の政権と癒着し腐敗しきっていたグループであった。イスラエルの貴族階級で富裕で利権を守るために様々な汚職・犯罪を繰り返し行い主イエスを殺してしまう。

 一方、エッセネ派は同じ祭司家系でありながらエルサレム神殿を支配する祭司たちとは一線を画し、神の前に聖別された生き方を貫徹しようと、神殿に訣別し荒野のクムランで新たな共同体を形成した人々であったことが判明している。

 しかし彼らも1世紀終り頃にローマによって滅ぼされたが多くの貴重な文書を洞窟に隠して後世に残したのであった。しかし、神は分離したクムランにではなく、エルサレムの祭司ザカリヤにみ使いを遣わし(ルカ 1:5-20)、洗礼者ヨハネを遣わされたのであった。

エルサレム独り旅(48)

 ゲートからダビデの滝まで徒歩で 30分、戻る時間を30分とすると残りは 30分。この時間をどう過ごすか、が思案のしどころである。ここでゆっくり休んで滝を見ているか。上空を鷹らしい鳥がとんびのように上昇気流を利用して大きく羽を広げて々とゆっくり浮かんでいた。

 滝と鳥のウォッチングも良いが、日差しがきつい。左側にある高い丘を見上げると、そこを登って歩いている人が見えた。その道は滝の上に続いている。ここまで来たのだから出来ることなら滝の上を見てみたい、というのが本音である。

 そこはまさしくサウル王から逃げ回ったダビデと家来たちが歩いたであろう場所だからである。僅か30分だから片道15分しかない。どうみても 15分では上まで登り切れないように見えた。その上、少し前にマサダを登ったばかりで、この日差しである。結局この滝を見ることで満足する外なかった。

 次に私達は死海文書が発見されたクムランの遺蹟に向かった。エンゲティから北へ30km、エリコから南へ 15kmの位置にある。エルサレムから東へ 30km 少々だからそれ程離れてはいない。死海北部の西岸にあるが、ここでの見物は15分だけ、土産物店を見るだけだ。

エルサレム独り旅(47)

 この「ユダの荒野」ツアーは参加者に当日の行き先や、タイムテーブルなど一切告げられていないので、どこを見るのか、いつまでそこに居るのか、行って見るまで分からないのだ。エンゲディ国立公園での滞在時間は約一時間半、ガイドはつかず完全自由行動である。公園ゲイトを潜って死海を背にして西の方向に歩いて行く。左側は金網のフェンスがあり、その向こう側に木が所々に生えていて、長い角が後ろに反り返ったガゼルが数頭私の方を見つめている。

 それを横目に見ながら緩やかな登りの道を大きな石と丈の高い草を避けながら歩いてゆく。ここは雨期には水が流れて死海に注ぐワジ(水無川)だ。直ぐ下には水分が含まれているので草が繁っているのだ。

 更に歩いて行くと右側が岩壁になり、その上部に所々洞窟のような穴が開いているのが見える。そしてこの辺りから足元に水の流れが見られる。今は乾期なのでこの流れは途中で土中に浸み込んで死海にまでは届かない。

 かってダビデが主君サウル王の手を逃れてこの場所に身を隠したことがサムエル記上に記されている(24章)。ここは古くからオアシスとして知られていて、古くから栄えた町があり、その遺蹟も発掘されている。

 今はキブツエンゲディがあるだけである。真青な空の下、後方を振り返ると彼方に青い死海が見える。更に歩いて行くと目の前に大きな滝が出現する。「ダビデの滝」と呼ばれているもので30分ほどの道のりだった。

エルサレム独り旅(46)

 マサダの頂上は細長いグランドのようで、周囲は低い壁で囲まれている。北側にはサウナなどの施設跡が残され、その下にはヘロデ大王宮殿跡もある。南側は中央辺りから一段低くなっており南端近くにも建物の壁跡が残っている。

 少し時間があったので周囲をゆっくり一周して見て回った。未だ日の出前なので辺りは薄暗い。東側の中央辺りを歩いていると、死海対岸の(旧約時代の)モアブの山並からオレンジ色の朝日が昇って来た。あまりに美しい光景であったので何枚もカメラに収めた。

 モアブの山から昇る朝日は4千年前のアブラハムも、3千年前のダビデも見たかも知れない。太陽が昇ってしまうと暑くなるので、その前に急いで下って降りる事にした。日差しは見る見る強くなり地表に着いた時には日陰を捜さなければならなかった。集合場所に着くと2台あった車が1台しかなく、次の場所へは1台の車がピストンして2隊に分かれて送るという。私は後発に回され、かなり長い時間マサダの下で待たされた。

 車が来たのは8時過ぎ、次に向かったのはエンゲディの死海の海水浴場であった。9時に着いて海水浴。私は水着を持参していなかったので、記念の小石を拾い集めていた。続いて直ぐ近くのエンゲディ国立公園に行った。入場ゲイトで8.5シェケルを支払って入園した。ここでは11時半まで自由見学ということだ。

エルサレム独り旅(45)

 天然の要塞マサダは死海南部沿岸から約4km西の荒野に屹立している岩山である。四方が高さ 400mの絶壁で頂上は平坦な台地である。周囲の砂地が長年の風雨で削り流されたような地形である。

 マサダの東側の大きな谷の向こう側はマサダと同じ高さのユダの荒野の台地がへブロンまで続いている。死海の水位が現在より数百mも高かった頃に侵食されて、この巨大な岩の部分だけが残されたのかも知れない。

 マサダの西側(死海に面した方)は日光や風で岩が少しづつ砂礫化して崩れ落ちたのが積もって絶壁を覆って少しなだらかな斜面を作っている。私は今、この斜面につけられた小道を登っているのだ。

 かってサウル王に追われて逃亡生活を送っていたダビデがユダの荒野を巡っていた時に
留まった要塞の一つがこのマサダであったとも伝えられている。後にヘロデ大王がここを自分の要塞としてサウナ付きの宮殿に大改築し現在はその廃墟が残されている。

 現在はロープウェイで頂上に行ける。息をハアハア言わせながらようやく、そのロープウェイの駅まで辿り着くことが出来た。そこからは階段を少しづつ上って行くと頂上に到達できた。

エルサレム独り旅(44)

 地下にあるオールイトディスコは宿泊者は入場無料なので社会見学のつもりで行ってみた。そのホールはさほど広くなくファションショーで設けられているような「お立ち台」が中央にあり、何人かの女性がその上で踊っている。ホールは暗く来場者の若者達でごったがえしている。飲み物(ビール、コーラなど)が飛ぶように売れ、たばこの煙でむせかえっている。座る席は見当たらず、皆立って踊ったり、段上で踊っている人を見ている。

 音楽の音量はけたたましく大きく、私の限界を超えている。私は10分ほどでそこを退散して部屋のベッドに戻った。しかし、窓から入ってくるディスコの騒音でなかなか寝付けない。これでは体調が維持できないので予定を一日早め、ユダの荒野のツアーの後でキブツに帰ることにした。

 午前3時すぎ、宿の係員に起こされてツアーに出発、2台の乗合タクシーに分乗して、先ず同じような宿に行き参加者を拾い、車は暗夜をつっきって南のマサダの要塞に向かった。ツアーの中には韓国人らしい若者たちもいる。5時過ぎにマサダに到着した。下車し入場ゲイトのある金網に囲まれた所まで歩いて行き 8 シェケルの入場料を支払って歩いて頂上まで登って行くのだ。

 空が少し白みかけた中をヘアピン状の草木のない石ころだらけの道を登り続ける。高さは400m、途中で何人かの体格の良い欧米人が立ち止まり手を膝について嘔吐している。

エルサレム独り旅(43)

 シオン門からヤッフォ門まで歩いて行き、その近くの店で軽い夕食を摂った。ピタパンに羊の肉と野菜を挟んだもの(5 シェケル)と目の前で生の人参を搾ったコップ一杯のジュース(3シェケル)合計約300円だ。そこから宿に帰ることにした。

 ヤッフォ通りの左側の店舗を見ながら歩くことにした。すると直ぐにイスラエル聖書協会の店があったので躊躇することなく中に入った。そこに聖書に出てくる地のポスターがあったので三種類1枚づつ買った(10ドル)。

 聖書全巻朗読のカセットテープ(ヘブライ語)もあった。旧約聖書は一巻7ドル、全巻で350ドル、新約は全巻で 30ドルで買えるという。私は旧約の詩が欲しいと言うと詩は人気があり、今在庫切れだと言われた。日本から注文してくれたら発送できると店長の男性(イスラエル聖書協会の長)は言って名刺をくれた。

 宿に戻ると明朝ユダの荒野を巡るツアーがあり、費用は50シェケルだという。早速申し込んだ。出発は朝3時半。寝るには早いので地階のオールナイトディスコの見物に行った。

エルサレム独り旅(42)

 別れ際にその若い牧師が「あなたはユダヤ人伝道をどう思いますか」と尋ねてきた。私は当時の自分の理解していることを話した。「主イエス様が命じられたのは全世界への宣教である。旧約のイスラエル(神の民)は現在の教会である。イスラエルの祝福を祈ることは、新約時代は教会の祝福を祈ることである。

 今はキリストを信じた者たちが神の契約の民であるのだから。ただ終りの時、ユダヤ人の信仰が回復するというのも神のご計画である。だからユダヤ人伝道に神からの召しを受けたならそれに携わったらいい」と。彼は「そうですね」と言い互いに住所と氏名を交換し握手して別れた。

 この頃も日本からの旅行者が少なかったので彼らに会え久々に日本語で話せたので嬉しかった。ユダヤ人に対する見方は 16年後の今は随分違ったものとなっている。ユダヤ人も異邦人もどちらもイエス•キリストによってのみ救われ、真の神の民となるのである。そこには何の区別もなくキリストに於いて一つであり、共にアブラハムの子孫とまで断言されている(ガラテヤ 3:26-29)。

 しかし他方ユダヤ人と異邦人は召しに於いては明確に区別されている(ローマ 11:25-29)。異邦人はユダヤ人に対して誇り高ぶってはならない。(ローマ 11:8-24)。異邦人数会はユダヤ人教会に対して恩義があり、支援する義務さえもあるということを(ローマ 14:26,27)。

エルサレム独り旅(41)

 聖墳墓教会堂の奥深く続いているトンネル状の空間。所々にランプがあり薄暗い中を歩いて行った右側に大きな岩を掘った洞窟。その奥行きは浅いが、ここでコンスタンチヌスの母へレナがキリストが架けられた十字架の破片を発見したと伝えられている(AD330年頃)。

 この場所は会堂の地下部分で聖ヘレナ聖堂と呼ばれている。この場所まで見学に来る人は少なく黙想するには良い場所である。こにには司祭達の姿も無く、時々若いカップルとすれ違っただけであった。

 この会堂から出てヤッフォ門に向かったが着いてみたらシオン門であった。そこでダビデ王の墓(大きな棺)を見てカメラに納めてからアパルーム(最後の晩餐とペンテコステの部屋)に向かった。その途中5人の日本人グループと出会った。

 男性2人女性3人、全員が若い。聞いてみると彼らは千葉県下の教会の人々で、一人は牧師であった。彼らは3年前にも来て、今回は二回目でエジプトから車でシナイ半島を走り抜けて来たのだと云う。そのレンタカーでイスラエルを周遊中なのだ。今オリープ山にある一人一泊 70ドルのホテルに泊まっているようだ(私の宿は一泊4ドル)。彼らはこの後ガリラヤ地方をドライブして回る予定だと言った。

エルサレム独り旅(40)

 聖墳墓(ホーリースクウェア、イエスキリストの墓とされる場所)を見学するために私も行列に並ぶことにした。暫く並んでいると墓の前まで進んで来た。墓は少し高い位置にあるので入口に行くのに石段を上って行く。

 石段の下にも上にも両側に司祭が立っていて見学者を見守っている。狭い入口から体を屈めて入ると狭い部屋があり、その中央に石の祭壇のようなものがあり、見学を終わった人はその左側から出て行き、これから見学する人は右側を通ってが置かれている隣の部屋に入ってゆく。

 棺は右側にあり前後と右側の壁にぴったりと納まっていて左側の空間はとっても狭くすれ違うのもままならない程である。ここにも司祭がいて早く見終えるようにと急かしている。棺の石はめのう石のようで光沢があり、橙色の縞模様が入った立派なもので手で触れるとすべすべしている。この部屋には一度に4~5人しか入室できないので、ゆっくり黙想などしている時間は無く、次の見学者のために短時間で見学を終えなければならない。

 墓を出て更に奥の方へ歩いて行くことした。まるで地下鉄のトンネルを歩いているようで奥の方は低くなっていて下って行く。暫く進んで行くと床にモザイクが残っていて絵が描かれている。更に下った所に巨岩を刳り貫いた洞窟があった。

エルサレム独り旅(39)

 聖墳墓教会のゴルゴダの丘で暫く立ち止まって、途切れる事のない巡礼者達を見せてもらう事にした。東欧からの巡礼者達は女性の衣装で推測できるが、その殆んどが十字架像の前で膝まづきキリストの足か床に接吻して行く。カトリックではなくオーソドックス(ギリシャ正教)系の姉妹方であろう。

 イスラエルに来て各地の遺蹟を見て回る事は素晴らしい体験である。それと共に諸外国から来る観光客や巡礼者達との出会いも興味深いものがある。園の墓や受胎告知教会等では巡礼者達がそこで礼拝(ミサ、聖餐式)している光景を見ることができる。

 ゴルゴダの丘から降りると十字架から降ろされたキリストが安置されたと云うステーションがあり、そこを通り過ぎて行くと右手に聖墳墓(キリストの墓)がある。その見学者達の長い行列がいつも途切れる事もなく続いている。神父達は常にその行列に目を光らせている。

 ノースリープや膝頭が見える衣類を身に着けている女性を除く為である。キリストの墓はとても広い空間(敷地)の中にある、天井も非常に高い、会堂のドームの真下にあるのだろう。

 薄暗く空気は湿っぽく冷んやりして、香の煙で霞んでいる。堂内は工事中で多くの足場が組まれていて、雑然としていた。

エルサレム独り旅(38)

 エルサレム行きのアラブの路線バスの運転手が私にいろいろと話しかけて来た。アラブの路線バスに乗る東洋人が珍しいのだろうか。日本がパレスチナ自治政府に多額の支援をしているためか、イスラエルのアラブ人の日本人に対する見方はすこぶる友好的である。

 バスは 11時50分にエルサレムのバスステーションに着いた(園の墓の東側に隣接している)。ダマスコ門を通って旧市街に入って行くと丁度昼時になったのでヤッフォ門の方に向かった。食事に良い店が多くあるとガイドブックに書かれている。

 しかし、その途中に聖墳墓教会があったので、内部をゆっくり観察してみようと中に入った。薄暗い堂内を歩いているうちに、お腹の具合が怪しくなってきた。トイレを捜したが見つからないのでガードマンや神父に尋ねてようやく用を足すことが出来た。ベツレヘムで飲んだジュースが多過ぎたようだ。ここのトイレは和式に似ているがずっと粗末で不潔だった。

 そこからゴルゴダの丘とされている所へ戻り(正面入口のすぐ右手)、狭い階段を上った。そこにはキリストの彩色の十字架像が立てられている。特設の床から下を覗いてみると岩の上にこの十字架が立てられていることがわかった。ここへは世界中から巡礼者が次々と訪れて来ている。

エルサレム独り旅(37)

 ボアスの野の畑の中に入って撮影することを拒まれた私は仕方なく道向いの雑貨店に入った。そこでりんごジュース缶とマンゴージュース(1000cc)を買って飲み、残りをペットボトルに移し店主と歓談した。彼が私の職業を聞いたのでキリスト教の牧師であることを告げた。

 すると彼は「クリスチャンはとても正直だ。あなたはその指導者だからもっと正直な人だよ」と言って感心する。この村にはアラブ人のクリスチャンが大勢住んでいるが、彼らが良い証を立てていることが判った。私は「あなたはクリスチャンか」と尋ねると「違うムスリムだ」と答えたので「どうして?」と尋ねると下を向いて困った表情をした。

 最後に彼は「ユダヤ人は欧州からどんどん移住して来てテルアビル、ロッド、ハイファを現状のようにしてしまったが、アラブ人こそがずっとここに住んでいて数も多かった。現状は良くない」と語った。これがアラブ人たちの標準的な見方であろう。

 その店を出て、来た道を戻ることにした。暫く歩くと路線バスが通りかかったので、それに乗り「エルサレム」と行き先を告げると中継所まで乗せてくれた(0.5 シェケル、15円)。そこでエルサレム行きに乗り替えてエルサレムに戻って行った(1.5 シェケル、45円!)

エルサレム独り旅(36)

 ベイト・サフールのアラブ人の教会を出たのは、すでに礼拝が終って挨拶し合っていたのだと思ったからである。しかし当日の日記を読み直してみると聖誕教会を出た時刻は8時50分であった。

 そうすればまだ午前10時頃である。通常の教会の礼拝が始まる時刻だ。もしかすれば礼拝前であったのかもしれない。聖誕教会ではすでに礼拝が進行中であったので、この時間には礼拝が既に終わっていたと勘違いしてしまったのだ。今、この文章を書いていて気付いた。残念なことをした。絶好の機会であったのに。

 更に南に下って行くと、若い女性が子供達 10人程を先導して歩いていた。先程の教会堂とは比較にならない程大きな会堂の壁面伝いに歩いていたので教会学校の先生と子供達なのだろうか。そこは素通りして歩いて行くと「シェパーズフィールドへようこそ」という立看板が目に入った。

 この辺りから平坦な土地がずっと広がっていた。そこをカメラに納めて歩いて行くと刈入れが終わった麦畑のような地が道の右側に広がっていた。ここがボアズの麦畑であったのかと思わせられるように私には見えた。

 この畑の中に入って写真を撮ろうとすると、その道向かいにある店の初老の男性が私を見ているのに気付いて、私は彼に手の動作で「そこに入っていいか」と尋ねると彼は首を横に振ったのでその店に入ることにした。

エルサレム独り旅(35)

 ベツレヘムの聖誕教会の南に隣接している地域はベイト・サフールというアラブ人の村である。アラブ人の他の村々と似た雰囲気があるが、どこか清潔感が漂い家々の敷地も広く見える。洋風の建物が並び、庭も手入れされている家が多い。

 道を歩きながら周囲を見渡すと教会らしき建物が三つも見える。道の左側にある教会の前まで来ると、礼拝に集まって来ている人々がいたので、そこに立ち寄ってみることにした。

 教会堂の入口は道路に面してはおらず、教会の敷地の露地を数メートル入った右側にある。左側は柵に囲まれた駐車場で、その柵の上には鉄パイプ製の星のモニュメントが建てられている。聖夜の星をシンボルとしているのであろう。

 教会堂の玄関からロビーに入ると、そこに多くの人々がおり、その奥の礼拝堂にも多くの人々が集まっていた。私が驚いたのは、この教会の雰囲気に全く違和感を覚えなかったことだ。

 日本の何処にでもある福音派の数会と同じなのだ。簡素な講壇と、その左側には奏楽用のオルガンがあり、礼拝後の報告をしているような感じであった。私は誰かに語りかけようとしたがアラビア語ではどうにもならないし、私に感心を示してくれる人も皆無だ。牧師に合いたいと思ったが断念して外に出た。

エルサレム独り旅(34)

 聖誕教会の東側に添って南北につながっている道を南に向かって歩き始めた。全く初めての道で地図を持たずに歩くのだが、以前ベツレヘムに来た時に聖誕教会の裏(南)側から見た美しい野(畑)を目指すことにした。

 道はかなり急な下り坂だ。道のすぐ右が聖誕教会に隣接しているが、左側はかなり深い谷である。絶壁という程ではないが、すり鉢状の傾斜で高所恐怖症の私が下を覗き込むと身がすくむ程である。

 2000 年前の夜に羊飼い達が飼葉桶に寝かされている幼な子を捜し歩いた所は、こんなに深い谷のある危険な地形であったということが、ここに来て見て初めて判った。

 当時は道が今ほど整備されていなかったであろうから、容易な事ではなかったと想像される。しかし、キリスト(救い主)にお会いするためには、どんな困難をも乗り越えて行く価値がある。キリストの恵みを知る価値は測り知れず、どんな犠性を支払ってでも、それを捜し求てゆくことの大切さを羊飼い達から教えられる思いがした(ローマ 8:18、フィリピ3:7,8)。

 聖誕教会の敷地から少し下った所に小さな商店があったので、ここに入ってドリンクを買い求めて喉の渇きを潤す事ができた。更に少し下って行くと道が左右に別れていたのでどちら側に行こうか少し迷ったが、美しい野原の方に行きたかったので右側の道を歩いて行く事にした。

エルサレム独り旅(33)

 ベツレヘムの聖誕教会ではすでに聖日礼拝が行われていた。聖堂の一番奥の聖壇横まで進んで行った。聖壇とその上部には多くのろうそくが点灯され司祭たちが礼拝を進行していたが何をしているのかよく判らなかった。ギリシャ正教会の礼拝らしい。聖壇の右横にはろうそくを献納するスペースがあり礼拝出席者が次々とろうそくを点灯して、その場所に献納して席に向かってゆく。

 その左側の洞窟の中へ下りて行くと、そこは既に礼拝者たちでぎっしり詰まっていて奥までは入って行けない。ここは主イエスが聖誕された場所とされる洞窟で、そのスポットには大きな星形金属プレートが床に設置されている。

 この洞窟内もろうそくが多数点灯されていて極めて空気が濁っているが、礼拝者全員が起立して、古い聖歌を無伴奏で詠唱している。私は石段に腰を下ろして暫く聴いていたが延々と続き、いつ終わるともわからないし、又極めて空気が悪く室温も高いので礼拝の最後まで留まることができなかった。

 ここはアルメニア教会の礼拝所らしい。私は先に来た時に見たベツレヘムの野に向かって歩いて行くことにした。