エルサレムへの旅(30)

 シオン門はシオンの丘へ通じているので、この名で呼ばれているが、アラブ人達はダビデの門と呼んでいる。1948年のイスラエル独立戦争時にヨルダン軍に包囲されてしまったユダヤ人地区の住民を救出するためにイスラエル義勇軍がこの門から城内に侵入したが、敗北し多くのユダヤ人が虐殺された。その後 1967年の第三次中東(6 日間)戦争で旧市街(城内)がイスラエルの占領下になり再移住が成されたのだが、門に残る無数の銃弾痕がその戦闘がいかに激しいものであったかを物語っている。門周辺の壁面は痛々しい程害われている。

 私たちはこの門から城壁の外に出た。この辺りがシオンの丘であり、マリヤ永眠教会、最後の晩餐の部屋(アパルーム)、ダビデの墓などがある。ダビデ王や主イエスの時代はこの辺は城壁内にあったが、現在は門の外になってしまっているのには事情がある。現在の城壁やシオン門を再建したのはオスマン・トルコ帝国のスレイマン大帝で 1537〜1541年のことである。大帝は石工に昔の城壁を忠実に再建す るように命じたのだが、石工は誤って古代の重要な部分(シオンの丘やダビデの町)を城壁の外にしてしまったのだという。その為にエルサレム旧市街の南半分が城壁外になってしまっている。

 私たちはマリヤ永眠教会の高い石壁に添った道を通って最後の晩餐の部屋と言われている建物に向かって歩いた。その道はそれ程広くなくやや左へと曲がっていた。