独りヴォランティア(41)

 5/4(水)今日は「罪」について学ぶことがあった。朝、目が覚めて目覚し時計に目を向けると、その時計は背を向けていた。私はこの時、「罪」とは何かということを瞬時に理解した。便利な時計がそこに置かれてあっても、人に背を向けていては何の役にも立たないということを。人間も神に対して同じだ、と思ったのである。

 どんな素晴らしい能力を有していても、神に背を向けていれば、神にとっては何の役にも立たない。神の方に向き直ること、これが悔改めである。神に応答してゆくことの大切さを、この時計を通して教えて頂いた。又、時計が正しい方向を向いていても、それを遮るものが置かれていても同様だ。神と私との間に、その交わりを遮断する何かを置いて神を見えなくさせる、神に近づくことを妨げてしまうこともある。

 今日は柿畑の除草作業をしたが、どの畑にも厄介な雑草が蔓延っている。その代表格はあざみと昼顔だ、他に衣類に種がくっつく何種類もの草、小麦、野生人参、美しい花を咲かせるものもある。しかし、どれも柿畑では邪魔な雑草にすぎないものである。これら全てはあるべき所にあれば良いものなのだ。雑草でさえ、このキブツではよい牧草として刈り取られて用いられる。しかし、柿畑では有害植物となる。私達も主がそこに居なさいと言われる所に留まり、そこで主にお仕えすることが大切なのだと。(コリントⅠ 7:17,24)