エルサレム独り旅(50)

 「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」(ローマ11:29)「ただ各自は、主から賜わった分に応じ、また、神に召されたままの状態にしたがって歩むべきである。これがすべての教会に対してわたしの命じるところである。」(口語訳コリント第1、7:17、20、24)。

 後徒パウロは神がご自分の民に与えた賜物(能力、職分、持ち場)と召し(任職)とは取り消されることがない(存続しつづける)ことを明確に示した。ユダヤ人として召された(生まれた)人、既婚者が信者となった後の婚姻関係。奴隷で信者となった人々の立つべき信仰姿勢について述べている箇所である。

 今のままの状態で主にお仕えすることが、それらの人々への主のみこころ(ご計画)である、と。ユダヤ人として祭司家系に生まれ、主の聖所で仕えることが神の律法によって定められてしまっている者たちが、現在のエルサレム神殿も大祭司たちも腐敗し尽されているという理由でエッセネ派の祭司たちは、召された持ち場を捨てて荒野のクムランに下り、そこで新たな清い共同体を作り、神の律法に仕えて生きる道を選んだのである。

 それでも他の多くの祭司にちはエルサレムにとどまり、律法が命じている日々の神殿での務めを忠実に執り行っていたのである。その一人がサカリヤである。神がメシアの到来の福音を告知したのはクムランではなくエルサレムであった(ルカ1:5~17)。

 このことは、私たちに、とても大切なメッセージを伝えているように私は思っている。主が私を召して下さった所(教会、教団)にとどまって主にお仕えすること、これが主のみこころ、原則なのだ。