エルサレム独り旅(51)

 クムランへは主イエスは一度も訪れず、彼らは福音を聞くことなく、ローマに滅ぼされてゆきます。私たちは神の賜物と召しを軽んじてはなりません。自分が救いに導かれた教会、教団が先ず私が神に召された所です。その所にどのような欠陥があったとしても、そこが主によって私(あなた)が置かれた場所です。困難な問題がそこにあっても、それゆえにこそ、神が私をそこに召しておられると信じることが、神の召しを受け入れることです。

 自分の見た判断だけでいるべき場所を離れ、自分にとってより良い場所(教会、教団)へ移っても、そこに私に対する神の御心(祝福)はないと考えるべきです。場違いな所にいても、自分にとっては良く見えても、神の私へのご計画はそこには存在しないのです。

 エヴァが蛇に欺かれて一線を越えてしまったように、自分が洗礼を受けた数会を安易に去ることは、神の計画を乗り越えてしまうことです。進学、就職、結婚、転勤、病気、入院、被災などで転居した場合の転籍は仕方がありません。私はクムラン集団のことから、これらのことを学ばせて頂いたことを感謝しています。

 神を畏敬しつつ謙虚に歩み続けることは容易ではありません。自分にとってよりよく見える場所への誘惑は常に目から入ってくるのです。