最後の2週間(47)

 夕食を摂るためにゲストハウスを出るとすぐにエデンというホテルがあったので、そのロビーで食事が出来るかどうか尋ねた。OKという返事だったので何とか夕食にありつけた。

 8/21(日)午前8時から英語での賛美タイム、8時35分から朝食、果物(りんご、ぶどう、マンゴー)と少しのハム、パンとジャムとマーガリンがテーブル上に並んだ。

 9時15分にスターンズ師が車で迎えに来て下さり、今日はガリラヤ湖周辺を案内してくださることになった。昨夕から今朝までとても気温が高い。スターンズ師が先ず向った場所は祝福の山の教会堂であった。

 主イエスの8つの祝福(マタイ 5:3-10)に基づいて8角堂の会堂が建てられている。妻たちは会堂の中を見学しに入ったが、私は以前に来ているので、スターンズ師と外周の回廊を一周した。この場所からのガリラヤ湖の眺望は格別である。

 湖の北端から南端、東西の湖岸を一望できる。すぐ下にはカファルナウムやタプハの建物や木々も見える。山の斜面を羊の群れを導いてゆっくり歩く羊飼いの姿はカメラに納めた。

 続いて向ったのはカファルナウムである。湖岸まで下って進路を東にとり、少し車を走らせると左側に見えてくる。主イエスと弟子たちのガリラヤでの活動拠点であり、ペトロの妻の実家があった場所である(マルコ1:21-30)。

 3世紀頃のユダヤ教の会堂(シナゴーグ)と住居の一部が発掘されていて会堂南側の道は湖岸まで続いている。ペトロの姑の家の跡とされる所は後に教会堂となり、春に来た時には基礎部分が見れたが、今回はその上に会堂が建っていた。

最後の2週間(48)

 カファルナウムの次にタプハへ行く。「七つの泉」という意味の地で、このガリラヤ湖畔には「パンと魚の増加(ルカ 9:10~17)教会堂(5世紀頃)」と「ペトロ召命(マタイ 18~20、ヨハネ 21:15~19)教会堂」が木々に囲まれて建っている。

 私たちは「パンと魚の増加教会堂」の右横の庭の木々の間を通り抜けて湖岸近くに出た。そこには小さな野外礼拝所が設けられてあった。会衆の座席は背もたれのない木のベンチが 2列ほど湖の方に向って座るように置かれてあり、説教壇は細い木の柱の上に聖書を置く小さな板が乗せられている簡素なものである。

 今日は聖日なのでスターンズ師は私にショートメツセージを語るようにと促されたので、先ず一曲さんびをしてから湖を背にして短く話した(日本語で)。その後、湖岸に出て、妻は浅瀬に入り、ガリラヤ湖水の感触を楽しんでいた。

 ここで13:00少し前までゆっくり寛ぎ、記念写真も撮った。昼食はスターンズ師宅に招かれ、夫人の手料理を頂いた。スターンズ師宅はティベリヤの小高い丘陵にある団地の2階にあり、裏の窓からはガリラヤ湖が一望できる良い立地であった。

 ただ、直ぐ近くに電柱と太い電線が複数あったのが惜しいと思った。御夫妻と昼食を囲みながら親しく団欒できたのは得難い恵みの時間であった。この出会いを与えて下さった押方師に感謝。

最後の2週間(49)

 スターンズ師夫人が備えて下さった昼食はイスラエルの定番料理であった。白身魚のトマト煮、をピタパンに入れて食するものだ。私たちはここで15:30頃まで語り合うことが出来た。

 その後私たちはスターンズ師の案内で、ティベリアでメシヤニックジュー(イエス様を「ユダヤ人のメシア」と信じるユダヤ人たち)が経営する工場に向った。工場の敷地には入らず、建物横の道路で立ったままでスターンズ師はこの工場が出来るまでに至った経緯を話してくださった。

 イスラエル国内ではユダヤ人が「ナザレのイエス」をメシヤと信じると多くの場合、職を失うことになる。正統派ユダヤ教のラビによる圧力が事業主に加えられるために、解雇せざるを得なくなるのだという。

 食料品を扱う会社にメシアニックジューが働いていると、その会社の製品はコーシェル(律法適合食品)の認定を取り消すと脅かすのだ。イスラエル国内では経営が成り立たなくなるのは明らかなので仕方なくクビにするのだ。イスラエルではコーシェルの認定をする機関は 100%正統派が握っている。

 そこでメシアニックの信徒たちはガリラヤ地方では協力し合って養鶏をしたり、ぶどう畑を作ってワイン作りなどをしているが、どんなに安全なオーガニック(自然)栽培ものでもコーシェル認可が得られず、経営は難しいという。

 長時間説明して下さるのだが、その一部しか理解(英語が)できなかったのが残念であった。

最後の2週間(50)

 路上でのスターンズ師の話は長時間に及び、会話を殆んど理解できない私は適当に相槌を打ちながら聞いていたのだが、暑さの中で立ったまま眠気がさして来てしまい、途中からしどろもどろになってしまった。

 その後、最も高い場所まで上って、そこからガリラヤ湖の風景に見入った。そして記念写真も撮った。そこから湖岸に降りて行き、スライド映写のホールに行き、ガリラヤの歴史をスライド映像(英語のナレーション付き)で見せてくれた。

 このホールはメシヤニックグループが経営しているのか、イエス・キリストのことも詳しく紹介していた。ここでユダヤ人たちに伝道しているのを私たちに見せてくださったのだ。英語の外にヘブライ語やロシヤ語などのバージョンもあるという。このホールにはエアコンがあり実に快適であった。

 この上映は1グループで50シェケル(当時のレートで約 1,800円)であったがスターンズ師が支払って下さった。午前に行ったタプハの土産物店で妻は2匹の魚と5つのパンがかごに入った絵の小皿を購入したが、その際スターンズ師が店の男性と何か立ち話をしておられた。

 それで私たちの買物は全て 2割引で買うことができた。この店もメシヤニックグループの経営であろうか、私たちが牧師夫妻であることを伝えて下さったのだと思った。

 このようにイスラエル国内で「イエスはメシア」と信じるユダヤ人達は様々な迫害の中にあっても同胞たちの為に日々懸命に伝道している姿を、スターンズ師は私たちに見せて下さった。

 スターンズ師は夕方8時前に私たちをゲストハウスに送り届けてくださった。朝9時過ぎから11時間近くも、私たちと行動を共にしてくださった。

最後の2週間(51)

 妻は近くのマーケットへ夕食の食材を買いに行った。しかし夕食を調理する体力がないということで外食をする事にした。昨夜のホテルとは別のホテルに行き、そこで30 シェケルの料理を注文して食べた。

 8/22(月)朝のデヴォーションは列王記上8:54 ~61(ソロモンの民への指示)、マタイ福音書5:17 ~20(律法の実践)が朗読され全員が所感を語った後、リーダーが短くまとめを語った(7:30~)。 8時に朝食タイム、9時にチェックアウトをした。 ゲストハウスの献金は壁に掛けてある小さな箱に投入する。

 ナザレ行きのバス停まで歩いて上って行くと、バスの発車まで 20分ある事が判り、乗り合いタクシー(シェルート)でナザレまで行く事にした (一人 10シェケル)。ナザレのバスステーションで下車し、ツーリストオフィスでバスの時刻表を入手してから、受胎告知教会に向かった。

 南側に店舗が並ぶ石畳の上を上って行き、教会のゲイトから敷地内に入るが、女性は上がノースリーブであったり、足の膝が見えると会堂には入れないので、そこで身づくろいをしてから会堂内に入った。

 続いて同じ敷地内にある聖ヨセフ教会に行き、ヨセフとマリヤの家の水溜めの穴などを見学してからそこを出た(詳細は前述済み)、再び細く暗い石畳の道を少し上るとシナゴグ教会がある。 入り口の柵が閉じていたので入れなかったが、そこへ東欧からの巡礼団が20名程やって来た。

 すると会堂守らしい青年がその柵を開いて彼らを中に入れたので、私たちも彼らについて中へ入って行った。巡礼団はそこで讃美と祈りとメッセージの時(礼拝)を持ったが、私たちは隅で見学していた。堂内がかなり暗かったので、誰一人私たちのことを不審に思わなかったので幸運であった。(ルカ4:17~30、1:26~38、2:39、40,51)

最後の2週間(52)

 巡礼者たちが最後の讃美を終えて退場した後も私たちは暫く会堂に残って見学し、主イエスがここで安息日に礼拝を捧げられたことに思いを馳せた。それから会堂を出ると、会堂守りの青年が私たちが出て来るのを(扉を閉めるため)待っていた。

 そして私たちが外に出て行くと怪訝な面持ちで見送っていた。私たちはそこから更に路地を上って行き途中の果物店でぶどうとマンゴーを買い突き当たりまで行った。

 そこからアーケードがなく急に明るくなる。すぐ向かいに衣料品店があったので中に入り、妻が長女への土産にドレスを一着買って外に出ると、アラブ人の老人数人が座っていて私たちに声を掛けてきた。

 「マリヤの泉を見たかい?」「ノー」と答えると「案内してあげるよ」と言う。「ノーサンキュー」と言うと「お金は要らないよ」と言う。私たちは固辞しつつそこを離れてバス停に向った。

 「マリヤの泉」は主の母マリヤがいつも水を汲みに来た泉のことで偽典のヤコブ原福音書に書かれている。ナザレの高台にあり、現在その泉の上にギリシャ正教会の聖ガブリエル教会堂がある。ヤコブ原福音書には、この泉にマリヤが水を汲みに行ったときに天使ガブリエルの御告げを受けたと記されている。

 もし、そうなら少し下にある受胎告知教会と重なり合ってしまう事になる。実際は時間があったのでマリヤの泉も見たかったのだがアラブ人には嫌な思いをさせられる事が何度もあり、金銭を求められる事もあったので用心した。バス停に戻るとバスの到着まで 30分あったのでタクシーでキブツまで戻ることにした。

最後の2週間(53)

 ナザレのタクシー運転手はキブツ・マアニットを知らなかったがハデラの近くであることを説明してから料金の交渉をし、70シェケルで合意した。キブツに着いたのは12時55分で昼食にギリギリ間に合った。

 午後はプールで泳いでから衣類を洗濯。夕方になってハバさんに会うと、「明日の夕方、キブツで結婚式があるのよ」と教えて下さった。夕食後、ヨハナン宅を訪ね、明後日(24日)の早朝4時半にベングリオン空港まで車で送ってほしいと頼むと快くOKしてくれた。

 ヨハナンには日本からの土産としてタオル2枚と黒糖を持参した。続いてヘレナ宅を訪ね醤油と「コマと紐」などを差し上げてから、コマの回し方を手ほどきした。その後アブラハム宅を訪ね、部屋に入れてもらい8時40分まで話し込んだ。アブラハムにば”えびあられ”を持参した。

 ユダヤ人はえびは宗教上食べないが、アブラハムには「シュリンプ入りのライスクッキーだ」と説明した。彼は全く意に介さず、美味しいと言って食べていた。

 8/23(火)明日の帰国に備えて妻は荷物の整理を始めた。昼食後、日本の家族にヘレナ宅から電話させてもらう。元気にしているようだ。夕刻になってヘレナがB.A 社(ブリティッシュ・エアーライン)に電話をしてくれると「私の座席がある」ということで、急遽、私は妻と一緒に帰国するために慌てて荷造りをした。

 私の座席が取れないということで私は暫く滞在を決めていたのに 12時間後にはキブツから去る事になったのだ。夕食後、7時半から食堂横の芝生の庭でキブツの若者の結婚式が始まる。

最後の2週間(54)

 キブツ内の結婚式は野外で執り行われるのが一般的だ。乾期(4月下旬~10月末頃)には雨の心配は皆無だし、広い庭があるので会場に人が入り切れない心配も無用。エアコンの必要も無い。しかし都会ではこういうわけには行かない。

 数年前、階上の式場が抜け落ちて新郎新婦を含む多数の死傷者が出たこともあった。(日本でも報道された)結婚式では楽器の演奏にあわせて多勢が踊り回るので、余程床が補強されていないと危ない。野外ではこの心配もない。

 午後になるとキブツの若者達が会場設定をし始める。長方体に固めた乾草を積み、その上にぶどうやバナナなど様々な果物を乗せて飾りつけをし、ワインやビールやジュースのビンを並べ、多くの丸テーブルと椅子を設置する。木から木へ又食堂の窓枠などに電線を渡し電球を付ける。

 またラビと会衆の前で二人が誓約する場所を設定する。一辺が1.5m程の布の四隅を四本の棒の先端に付け、4人の男性がその棒を持って式の間中支える。これをフッバ(天蓋)と呼ぶが、これは新婚家庭を象徴し、その貧弱な造りが家庭の危うさを表わしているのだという。

 結婚式の流れは以前に書いたので省略させて頂く。私たちはキブツ住民のエロン、ハヴィーバー夫妻のゲストとして招待され、共にテーブルに着いて、式を祝福する仲間に加えて頂いた。(黙示録19:7-9)

最後の2週間(55)終

キブツ滞在の最後の夜となった庭での結婚式。

 私たちが招かれたエロン夫妻のテーブルの周囲を見回わすと、ヘレナ、ヨハナン、アブラハム、ハバ、エリエゼルの家族のテーブルがあり、彼らと最後の記念写真を撮った。

 私たちは翌朝出発時刻が早いので 9時半には部屋に戻りベッドに就いたがなかなか寝付けなかった。結婚式の宴は深夜になっても祝いの音楽が鳴り響いていた。

 8/24(水)午前4時前に起床し4時半にはヨハナンの運転でキブツの車に乗ってベングリオン空港に向った。空港には5時半に到着した。ヨハナンには半年間の感謝と今朝の運転の御礼を手渡した。

 空港での出国のための荷物のセキュリティチエックの厳しさは相当なものであった。私たち夫婦の荷物(トランク)は未だ若い女性兵士がチェックしたが、私が片言のへブライ語で語りかけ「ヘブライ語で聖書(旧約、タナフ)を読みたくて学んでいる」と言うと緊張していた顔に笑みを浮かべ、10分ほどで終わった。

 飛行機の離陸予定は8時10分であったが実際に離陸したのは9時10分、1時間遅れであった。イスラエルでは珍しいことではないそうだ。そのためにロンドン到着が遅れ、東京への連絡便が、私たちのために出発を遅らせて待っていてくれた。荷物の積み替えは間に合わず、後日、宅配で自宅に届けるということであった。

 13時05分にロンドン・ヒースロー空港を出発、26日(木)午前9時すぎに成田空港に着陸した。空港には木村兄が迎えに来て下さっていて、朝食をごちそうして下さった。(詩121:8)