最後の2週間(17)

 ベテスダの池跡を見終えて、通りに出た私たちは、その通りの200mほど先の右側にある「エッケホモ教会」を目指した。古い石畳のゴツゴツした道の向う側にはアーケードのように道をまたいで石のドームが橋のように架っている。

 教会前まで来て玄関から中へ入ったが、誰も居ないので勝手が分からず、それ以上中へ入って行くことができなかった。「エッケホモ」はラテン語で「見よあの男を」を意味する言葉で、ローマ総督ピラトが主イエスを指して言った言葉である(ヨハネ19:5)。

 今はカトリックの「ノートルダム・シオン女子修道院」となっているが、昔はピラトの官邸があった場所で中庭の石畳にはローマ兵が刻んだと思われるゲーム跡も残されている(同19:24)。

 主イエスが裁判にかけられた”ガバタ”(敷石)はこの場所とされている(同19:13)。写真では何度も見た事があったが、是非とも実際にこの目で見てみたかったが残念であった。(後年のモニターツアーでは急ぎ足ではあったが見ることができた。)

 仕方なく私たちはそのまま北に向かいダマスコ門から城壁の外に出て園の墓へ行き閉園の 5時までそこを見学したり休憩したりしていた。園の墓は以前書いたので省略するが、ここでも”神の幕屋(原始福音)”の青年グループが集会していた。

 そこからホテルへ戻ったのは夕刻の 5時半であった。朝から9時間の旅であった。夕食後・・・

最後の2週間(18)

 ホテルで夕食を終えた後、8時半すぎからベンユダ通りに出かけて行った。この日は土曜日で日没に安息日が終わるので、この夜は人々が繁華街に繰り出すと聞いていたからである。

 ホテルからベンユダ通りまでは約 1kmである。旧市街から新門を通って夜のヤッファ通りを北に向って行く。店を横目で見ながら 15分ほど歩くとシオン・スクエアに出る。そこを左折すると、すぐ右側がベン・ユダ通りだ。

 この通りの長さは約 200mで真直ぐな通りの商店街だ。着いた時の人出はそれ程多くはなかったが10時になると溢れる程の人出で、まるで日本の縁日の夜店を思わせる賑わいである。所々にいろんな楽器のストリートパフォーマーが演奏している。

 私たちは 15才くらいの少年が先生と思われる年配の男性のキーボードの伴奏でヴァイオリンを弾いているのを暫く聴いていた。その前に或るカフェテリアに立ち寄って路上に置いてあるテーブルを囲んで座り、妻たちは菓子を注文した。

 テーブルに持って来られた菓子はビッグサイズで格別に甘いもので、日本人の口には甘さが過ぎるようである。ユダヤ人たちの休日は週一日のみで安息日。しかも安息日は労働が禁じられ移動も制限されているため、多くはユダヤ会堂へ行くか自宅で家族と時間を過ごすのだ。

 だから安息日明けのこの夜に町に繰り出し、一週間のストレスを発散し癒すのだ。週の初めの日(マタイ 28:1)は既に始まっている。

最後の2週間(19)

 8/14(日)8:30にホテルを出て、新門からヤッファ通りを昨夜行ったシオンスクエアを更に北へ行き、マハネー・ユダ市場見学をしてから近くの公園で聖日礼拝の時を持った。ルカ福音書 15章から御言葉を頂いた。そしてその公園で昼食を摂って(ホテルで買ったパンとドリンク)そこからダマスコ門の前まで歩いて行った。

 そこのシェルート(乗合タクシー)でベツレへムに向った。メンジャー(かいばおけ)広場に着いたのは2時過ぎ、直ぐに聖誕教会会堂内に入って降誕場所の洞窟内を見学するために、並んでいる長い行列の最後尾に立った。日曜日なので普段よりも見学者が多い。

 洞窟内を見てから会堂中央部の開かれた床板の下のモザイク画(創建当初、4世紀頃の床)を見る。そして会堂を出て徒歩でボアス(羊飼い)の野に向かった。1時間程ゆっくり見学し、ルツとボアスの出会いや少年ダビデを思い描いた(ルツ記2章、サムエル記上16章)。

 夕刻4時半になったのでベイト・サフールのバス停に行ってみるとエルサレム 行きのバスはもうないという。バス停横の店でペットボトルの飲み物を調達してからタクシーでメンジャー広場まで行くことにした(行きは下り坂だが、帰りはずっと上り坂なので・・)。

 そこからもエルサレムまではタクシーは行けないというので、イスラエル軍のチェックポイントまで行き、そこから路線バスでエルサレムまで戻り、ホテルに最も近い新門近くで下車した。ホテルに帰って夕食を摂ると、この日初めてビーフステーキが出たが完全な血抜き肉のためか、硬いコンビーフのようなまずい味であった。

最後の2週間(20)

 8/15(月)エルサレム4日目、最終日。先ず旧市街のユダヤ人地区を目指す。ローマ時代のカルド通り跡に行き、現代風の商店街となっているところを見て歩く。

 或る画商の店に入って絵を見ていると、この店の主人と思われる女性が店の一画を示し、この岩はソロモンの第一神殿の壁石だと言う。真偽は定かではないが、その前に行き腰を屈めてその岩に触れた後、記念に写真を撮った。

 カルド通りの所々に 2千年前の地面を覗いて見ることが出来るスポットがある。時々そこから下を覗いて見ながらキリスト時代に思いを馳せた。そこからカルド通りのすぐ横で発掘されたヒゼキヤ王の広い城壁を見に行った。

 ヒゼキヤ王は預言者イザヤの時代、BC7 世紀頃の人である。この城壁はアッシリヤ帝国の侵攻に備えてエルサレムを守るために急いで築いたもので、不揃いの割れた石が大量に敷かれただけの粗末な造りが当時の切迫した危機の状況を語っている(歴代下 32:1-5)。

 ここには大きなプレートが置かれていて図面と説明が書かれてあり、第一級の考古学的資料である。この城壁は1970年の8月に発見され、現在は無料で自由に見学することが出来る。

 ヒゼキヤ王の城壁を十分見学してから私たちはイスラエルの塔を捜して歩いた。それはヒゼキヤ王の城壁の北側のすぐ近くにあった。

最後の2週間(21)

 イスラエルの塔は広い城壁の横のハコテイ通りの北の突き当たり、歩いて約 70mの所にあった。その入口は美しく整備され、案内プレートも提示されていたが、一般旅行者には目につきにくいものであった。

 入口を入り、左にある狭く暗い階段を下りてゆくと、濃いオレンジ色の光に照らされた石の城壁のような建造物がある。説明書によると、これは第一(ソロモンの)神殿時代の終わりの頃に建てられた要塞で、BC586年に侵攻して来たバビロン軍によって破壊されたが、最近発掘され、塔の入口とその地下と思われる部分が残されている事が判明した。

 その深さは地下10m以上あり、現在その一部が補修されて公開されているのである。ここで目にする一つ一つの積み重ねられた石は、預言者エレミヤも目にしたであろうところのものなのだ。

 私たちはここで 2600年前に起ったバビロンによるエルサレム滅亡の事実と直面することが出来たのだ。ヒゼキヤ王の広い壁はその100年前の建造物であった。

 この塔跡からはバビロン軍との戦闘で使用されたと考えられる矢尻も見つかっているという。これらを見学してからカルド通りの店で昼食(搾りたてのオレンジジュースがとても美味しかったその後、私たちはダマスコ門から城外に出て城壁沿いに東へ向かい、ヘロデ門まで歩いた。その途中、城壁の下に掘られた大きな洞窟を道路から眺めた。中は暗いが天井には電灯が灯いているのが見える。ここはゼデキヤの洞窟と呼ばれている。

最後の2週間(22)

 ゼデキヤの洞窟は 1850年に発見された面積900㎡、奥行き 225mもある大きな人工の穴である。ここからエルサレム神殿の石材が切り出されていたのだ。つまり石切場の跡である。

 これと同様のもので更に巨大なものがユダの低地(シェフェラー)のテル・マレシヤ(ベイト・ギブリン)にもあった。そこの天井の高さは数十メートルもあったが、ここの高さは 10mもなく圧迫感がある。

 テル・マレシャでは鳩の養殖施設もあった事は以前にも書いた。ユダ王国最後の王ゼデキヤはバビロン軍の包囲から逃れてエリコに向う際、この洞窟を通ったという言い伝えからゼデキヤの洞窟と呼ばれている(列王記下 25:1-5)。

 そこを通り過ぎて、私たちはヘロデ門の向かい側にあるロックフェラー博物館に行った。1930年~38年にかけてアメリカの大富豪ロックフェラーの資金援助で建設された考古学博物館で八角形の塔を有する素晴らしい建物だ。

 当初はパレスチナ考古学博物館という名であった。来場者は私たちだけだ。ガイドがいなく案内プレートは英語なので展示物の詳細は分からなかったが、年代は理解できた。

 ローマ時代のコイン(デナリオン銀貨)には皇帝の横顔の肖像が刻印され、様々な皇帝のものが展示されていた(マタイ 22:19-21)。中庭の回廊には多数の古い石棺が並べられてあった。

最後の2週間(23)

 ガイド誌によると、この博物館は人類の始めから紀元 18世紀までのイスラエルとその周辺の文化的土出品を保存・展示することが目的とされている。

 ここにはカルメル山で発見された5万年前の古代原人の骨や、エリコのヒシャム宮殿(8世紀)から出土した美しい彫刻装飾品なども見ることが出来ると書かれているが、私たちは通り過ぎてしまったらしい。(聖書と関係したものではないので、それ程興味もなかったが…)。

 入場料は一人 12シェケル支払ったが、現在は無料らしい(ガイド本)。これで3泊4日のエルサレムの旅を終え、キブツへの帰途についた。

 博物館からセントラルバスステーション行きのバス停までは少し距離があり、ずっと上り坂なので歩くのが限界となり、タクシーを拾った。セントラルバスステーションからテルアビブまでは乗り合タクシーを利用しハデラまでは路線バス。そこからタクシーでキブツに到着したのは夕方6時50分。

 ミニマーケットでトマトを買い、食堂で夕食を済ませてからヨハナン宅を訪ね、明日の車での南方面へのツアーの打ち合わせをした。キブツ出発は朝6時。部屋に戻ってシャワーを浴びて衣類を洗濯後すぐに床に就いた。

最後の2週間(24)

 8/16(火)、以前からヨハナンに妻がキブツ滞在中にイスラエル南部(ベエル・シェバ方面)を案内して欲しいと頼んでいたが、今日がその日となった。朝6:20分にキブツの乗用車をヨハナンの運転で出発した。

 キブツから地中海沿岸沿いの国道2号線に出て南へ行く。テルアビルの近くで渋滞があったが、そのまま1号線でエルサレム方向に進んだ。エマオジャンクションを通過して次のシャアルハガイで右折し進路を南に取った。

 直ぐにエシュタオル(士師 13:25,16:31,サムソンの出生地と墓の近く)の交差点を通り過ぎソレクの谷と小さなソレク川を渡る。ソレクはデリラという女性が住んでいた所だ(同16:4)。

 ソレク川を西に 3km下った所にはサムソンの父マノアが住んでいたツォルアがある(士13:2)。ソレク川から南へ2kmほど行くと左側にテル・ベトシュメシュがあり、そこには大きな円形の祭壇跡が発掘されていて自由に見ることが出来る。

 この村は旧約時代によく出てくる(サムエル上6:9~20他)。道路の反対(東)側には緑の木々に囲まれた現在のベテシュメシュの町がある。テル・ベテシュメシュでは発掘作業が行われていた。そこから更に 8km程進むとエラの谷にさしかかる。

 ここは有名なダビデとゴリアテが戦った場所である(サムエル記上 17:2)。その道路沿いにはテル・アゼカがあるが未発掘のようだ(同17:1)。テルアゼカの頂上が展望台になっていて、私たちはそこでヨハナンが持参した朝食を頂いた。そこからエラの谷が一望できるのである。

最後の2週間(25)

 イスラエル中部、地中海沿岸の大都市テルアビブヤッフォは名実共に現代イスラエルの政治経済の中心地である。ここから南は、東のエルサレムからへブロンのユダ山地と、西のユダ低地(シェフェラー)に区分されるが旧約時代はユダ族に割り当てられた地であった。

 沿岸地方の一部(北)はダン部族の嗣業地であったが、士師時代にはペリシテ人が住み着いていて、鉄器を用いた彼らの軍備は強力であった。それ故に士師時代からサウル王時代までイスラエルはペリシテと苦戦を強いられたのであったが、ダビデ王によってようやく制圧されたのであった(サムエル下 5:17-25)。

 それ故にシェフェラーは士師時代や初期イスラエル王朝時代の遺跡の宝庫である。ペリシテの五代都市国家(ガザ、アシュケロン、アシュドド、エクロン、ガト)、ダン部族の士師サムソン縁の地を私たちは現在も見る事ができるのである。

 サウル王に追われて逃げ回っていた若きダビデが身を隠したアドラムの洞窟もツイクラグもこの辺りにあるのだ(サムエル上 22:1,27:6)。私たちはこの辺りを通過するだけであったが…。

 テル・アゼカの展望台で朝食を済ませた私たちは緑の潅木の間の細い道を左右に曲がりながら麓まで下ってくると、ベドウィン (遊牧民)の天幕が展示されてあり、自由に中に入って見る事ができた。

 エラの谷の平野の南端には東側に分岐する 375号線があるが、標識にはベツレヘムと書かれてあった。ダビデは父から遣わされて兄たちのもとを訪ねたのは、この道だったのだろうか(サムエル上 17:12-22)。

最後の2週間(26)

 エラの谷から更に10km南下し、国道38号線の終点、東西に走る 35号線と交わる所がベイト・ギヴリン国立公園である。ヨハナンはここで駐車し私たちを下車させた。

 真夏の太陽が容赦なく照りつける乾ききった土地、その炎天下で暫く待たされた私たちの所へ戻って来たヨハナンは私たちを公園の入口らしき所へ導いて行った。

 入口と言っても門も柵もない所に電話ボックスのようなサイズの粗末な料金所があり、そこでヨハナンは私たちの入園料を支払った。ここの売り物は古代遺跡のテル・マレシャであることが後で判った。マレシャは旧約聖書の所々で登場するユタ部族の町である(ヨシュア 15:44、歴代下11:8、14:9、20:37、ミカ1:15)。

 発掘は現在も進行中で、国立公園に指定されて間もないようだ。公園を囲むフェンスは未だ全く設置されていない。発掘が済んだ所には、解説が書かれた金属製のしっかりしたプレートが設置されている。

 ヨハナンは私たちをどんな所へ連れて行こうとしているのか、私たちにはさっぱり分からない。只、茶色の凹凸だらけの乾燥した地面の上を彼について行くだけである。

 草木一本も生えていない小さな丘のような所まで行き、そこに掘られた横穴から中へ入って行く。中は真っ暗闇だが所々に裸電球が灯してある。狭い土の階段を下りて行くと、横に小さな空間があり、その床には1m位の穴が掘られている。

 ヨハナンによると、これは宗教的な潔め用のミクベ(水浴場)だという。更に下って行くと、そこは冷気の漂う広大な空間であった。天井の高さは数十m、直径は50mはあるだろうか。これはこの町の巨大な水溜めの井戸で冬の雨期に降った雨をここに集めておくのだ。

最後の2週間(27)

 地下の巨大な水溜槽が満水になると、このマレシャの町が乾期(5月~10月)に使用する水の全てが賄えるのだという。このような巨大な水槽はイスラエルではエルサレムの北西 9kmにあるギブオン(槽の深さ27m)やエズレルのメギド(長さ70mの地下水道トンネル)等が発掘されているが私は見ていない。

 ここに貯えられた水は真夏でも冷たい(マタイ10:42)とヨハナンは私たちに説明するが、それを裏付けるように、外の酷暑に比べこの空間は実に冷んやりしていて半袖の上着では寒いほどである。

 その隣には鳩の養殖場後の大きな部屋があり、今も発掘された入口から入って来た鳩たちがここに住み着いている。神殿に献げる犠牲用の鳩を育てていたのだろうか(ルカ 2:24)。この他、この遺蹟からはBC3世紀から AD1世紀頃の住居、コインや美しい彩色画が描かれた墓地(本物は博物館で保存、ここにあるのはレプリカ)や巨大な洞窟となっている石切り場跡などが出土している。

 この石切り場の直ぐ近くには食用のサボテンの食べ頃の実を多数つけた私の背丈よりもずっと高い見事なサボテンの木が自生していた。マレシャのテルの丘の斜面には大きなテントが張られ現在も発掘作業をする人々を見ることも出来た。

 車に戻る途中には十字軍時代の巨大な石造りの建造物の一部が残されている横を通り過きた。この場所は近くのテル・ラキシュと共に聖書時代の遺蹟の宝庫で、今後どのようなものが発掘され、国立公園としてどのように整備されてゆくか楽しみである。

最後の2週間(28)

 ベイト・ギブリン国立公園の見学を終えて、私たちは国道 35号線を西に向った。6km程走ると南側には考古学で有名なテル・ラキシュがあるがそこは素通りした。ラキシュ(ヨシュア 10:31,15:39)は、アッシリヤとバビロニヤによって二度に亘って滅ぼされたがユダ王国時代の聖書の記述を裏付けるものが出土している。

 アッシリヤのニネベの王宮跡からセンナケリブ王がBC701 年にこの町を攻撃した時のレリーフが出土し、現在は大英博物館に所蔵されている。この前後の様子はイザヤ書 36,37章に詳しく記されてある。レリーフの写真も考古学誌で見る事ができる。

 そこから更に西へ 5km程行くと道路の直ぐ北(右)側に茶色いテル(丘)が見えてくる。周囲は樹木が生えているが一目見て遺蹟と分かる丘である。ここはその昔ペリシテ人の都市国家ガドがあった所とされ現在その南側にキリヤト・ガドというユダヤ人の町がある(ヨシュア 11:22,サムエル上 5:8など)。

 そのテルの横を車で通過すると国道40号線との交差点に差し掛かる。そこを左折し 40号線を南に下る。そこから 30kmでネゲプの町ベエルシェバだ。この近くの土壌、耕された畑の土は血のような赤い色をしている。アダマ(土)はエドム(赤い)と語源は同じである(創世記2:7、25:25、30)。因みに血はダム」である。

 ここは、なだらかな平原ですこふる暑い。私たちはここで昼食を摂った。極く小さな食堂で軽食を注文したが各自の皿に特大で激辛の唐辛子のピクルスが三本盛られていた。

 私は辛味が好物なので 3本とも食べてしまったが、店の主人が「お前は食べたのか?」と仰天していた。妻とヨハナンはそれには全く手をつけなかったが…。

最後の2週間(29)

 昼食を終えた私たちは、全てを任せてヨハナンの導くままに車で移動した。折角ベエルシェバまで来たのだから”アブラハムの井戸”と呼ばれている(創世記 21:25-31)史跡を是非とも見たかったのだが、そこには立ち寄らず国道60号線で進路を北東に向けた。

 直ぐ右側に古代遺跡テルベエルシェバがあり、現在も発掘中とのこと。BC12世紀以降イスラエルがヨシュアによってカナンの地に定着(ヨシュア記 19:1,2)以後の城壁、住居、巨大な祭壇、深さ 40mもある井戸(雨水溜め)などが発掘されている。

 そこを素通りして荒野に進んで行くと所々に野生の鹿が歩いていたり、ベドウィンの天幕が見られる。10km 少々走るとショケットジャンクションがあり、そこを右折し、国道31号線を東に向う。それから 25km程行くと左側の遠方にテル・アラッドの茶色の丘が見えてくる。

 ここもヨシュアが率いるイスラエル軍が征服したカナン人の町であり(ヨシュア 12:14)、ここにはモーセの義兄弟ホハブの子孫が定住したことが士師記に記されている(1:16)。そこから10km東に進むと現在のアラッドの町がある。

 この町はまだ新しく 1961年にユダヤ人の若者たちが入植したのだという。ベエルシェバとアラッドには主イエスをメシヤとじるユダヤ人会衆が集会をしているが、ユダヤ教徒から激しい妨害活動が起こっている事が知られている。

 アラッドを通過して暫く走るとハトゥルリムの三叉路に差し掛かるが、更に東へ直進すると、海面下 400mの死海に向けて道は下りはじめる。死海まで約 15km、その標高差は 900mもある。

最後の2週間(30)

 車が南東へ進むに従い、道は大きく左右にカープし、その下り坂は急峻になり恐ろしい程である。その途中、道が太く膨らんでいる所でヨハナンは車を止め、私たちを下車させて、この荒野の谷の壮絶な風景を見せてくれた。

 柵も何も無いその向うは底知れぬ巨大な谷であり、その向うは高さが数百メートルもある巨大な岩盤の絶壁である。下を見ようとすると、体が吸い込まれそうな恐怖感に襲われる。この大自然の迫力の前に圧倒されて言葉も出ない。

 イスラエルを訪れることがあればエリコとエルサレムの間にあるワジ・ケルトの峡谷とこのアラッドから死海に下るこの大峡谷を見て頂きたい!。エリコからエルサレムへの道は主イエスと弟子たちも歩いた所であり、このアラッドから死海への道は旧約時代にイスラエル兵がエドム人との闘いの度に歩いたであろう道なのだ(歴代下25:11,14)。

 この大峡谷は地図ではメツァド・ツォハルという地名になっている。そこから私たちは死海沿岸まで下ってから進路を北に取り 90号線を死海西岸沿いに 35km先のエンゲディ海水浴場に着いた。死海南部では湖水の中に塩の結晶があちこちに見えたが、エンゲディには見られなかった。

 エンゲディの西側は高台になっていて、このユダの荒野をサウル王に追われたダビデが部下たちと共に放浪した所である(サムエル上24:1,2)。私たちはここで水着に着替えて「死海浮遊」体験をすることが出来た。

 ここからはキブツへの帰路を只管走り続けるのである。エンゲディからエリコを通過し、ヨルダン川に添って北上しベテシャンまで。ここはサウル王最期の地である(サムエル上 31:10-12)。

最後の2週間(31)

 ベテシャンまであと 3kmという所で左折しギルボア山麓に沿って進路を北西に取る。ギルボア山はエズレル平原の南端に位置し、東西に 18km伸びる海抜 536mのなだらかな山である。この山上でサウル王とその王子ヨナタンがペリシテ人との戦いに敗れ戦死を遂げたのであった(サムエル上31章)。

 この辺りはハロデの泉から湧いて流れた水がヨルダン川に注ぐハロデ川があるのでその豊富な水を利用しいくつもの溜め池を造って魚を養殖している。イスラエルの中でも緑の多い地域であるが、このエズレル平原は古代からしばしば戦場となった。

 ギデオンやデボラという土師たちが活躍した舞台がこの辺りである。夕陽が西に沈むのを見ながら車は西に進み、メギドの交差点を過ぎる頃は辺りが暗くなりかけていた。メギドから南西に山あいの谷を下って行くとキブツがあるシャロンの野である。

 キブツに帰着したのは夜の8時半であった。この日ヨハナンは14時間かけて 500kmも走ってくれたのである。キブツの車の使用料(ガソリン代を含めて)として請求されたのは150 シェケル(約5000円)であった。ヨハナンには帰国の際空港で別途お礼を手渡した。実に内容の濃い一日ツアーであった。

最後の2週間(32)

 8/17(水)この日はキブツに働きに来ているアラブ人の男性に車でサマリヤ地方を案内してもらうことになっており、期待に胸を膨らませつつ目を覚ました。

 キブツのカープールで待ち合わせ時間は 7時半。しかし待っても待っても車は来ない。8時半になって来た車は約束した本人ではなく、その息子の青年であった。

 彼は時間に遅れたことを謝ることもなく「どこへ」と尋ねたので私は「ナブルス(シェケム)へ」と伝えた。彼の車のナンバープレートはパレスチナ人のものであるのでヨルダン西岸のどの町へ行っても一応安心できる。

 ヘブライ語会話を教えて下さったドフ氏に私たちが近々ナブルスに行くことを伝えると「最も危ない町だから、決して行かないように」と忠告してくれたが、隣にいた別の住民は「あなた達は日本人だから何の問題もないと思うよ」と言ってくれた。

 ユダヤ人にとっては現在のナブルスの町はこの上もなく危険な町となっている。ここはかって北イスラエルの中心地であり(列王上 12:1)、先祖アブラハムやヤコブらの縁の地でもあった(創世記12:6,33:18)。

 私たちはキブツから 574号線を南へ 20kmにあるパレスチナ人の町トルカルムに入り、そこから東へ57号、60号線で(30kmの)シェケムへと向った。途中からサマリヤの山々へ上り坂をカーブしながら走ってゆく。

 真夏の乾期にも拘わらず所々に緑の草木が繁っている。泉から流れ出る水があるのだろう。ヤコブの息子たちが夏に羊の群れをへブロンから100kmも離れたシェケムや更にその北 50kmのドタンまで導いたのも、この牧草を与えるためであった(創世記37:12-17)。

最後の2週間(33)

 ナブルスの町の中央広場に到着した。パレスチナ最大の人口を擁する町だけあって、この町の中央広場はベツレヘムのメンジャー(飼葉桶)広場よりもかなり広く見える。

 周囲を見回しても高層住宅・建築と言われるものはなく、地面も舗装はされておらず、どこかのどかな地方の町の風景で、イスラエルと争う急先鉢のテロリストが潜伏しているようには表面的には見えない。

 私は車から下車するとすぐさま周囲の山々を見渡した。この町がエバル山(標高940m、呪いの山、申命記 11:29,27:4,13 ヨシュア 8:33。ここではヨシュアが築かせたと考えられる自然石で建造された祭壇が近年発掘された。(ヨシュア8:30,31)とゲジリム山(標高881m、祝福の山、申命記 11:29他、士師9:7、キリストとサマリヤの女性との会話ヨハネ 4:20,21)の間に挟まれた谷にある町であることを知っていたからである。しかしその方向までは知らなかったので、どちらがゲリジム山なのか、その時には判らなかった(ゲリジム山は南側)。

 私たちは暫くこの町を散策することとし運転手の青年と集合時間を決めて歩き始めた。広場には多くの店が屋台を広げていた。最初の果物店の長身の壮年の店主は私たちを見て、日本人だと知ると笑顔で両手を差し出し、握手で歓迎の意を表してくれた。

 他の店々も同様に笑顔で接してくれた。30分ほどして車に戻り青年に「ヤコブの井戸」(ヨハネ4:5,12、創世記33:18-20)と「ヨセフの墓」(ヨシュア 24:32)を見たいと告げると、彼は車を走らせた。しかし彼はその場所を全く知らなかったのだ。

最後の2週間(34)

 ナブルスの町を車で走ると、「ヨセフの墓」の案内標識があったが、運転手の青年はその場所を見つけることが出来ず、やがてヨルダン川方面へと下って行ってしまう。途中で民家に立ち寄り婦人に何か尋ねているが、それでも分からないらしい。

 私たちはこれでは希望する場所の見学は無理だと判断し、すぐにキブツに戻ることにした。時間を無駄にするだけだからである。ナブルスからセバスティア(サマリヤ、ここも見学したかった)の直ぐ西を北上し、ドタンの谷(ヨセフが兄たちにエジプトに売られた所)を通過し、ジェニンの街(パレスティナ人のテロリスト養成所がある町)を通過すると検問所があり、若いイスラエル兵が銃を手にして車を止めて青年を尋問した。そこからメギドを通ってキブツに戻ったのは昼過ぎであった。

 この計画は完全な失敗であった。サマリヤ地方にあるベテルやシロをも含めた旧約時代の遺賾を見る絶好の機会であったが、タクシーを用いる方が賢明であったことが、この経験を通してよく判った。

 夕食後へレナ宅を訪ねアップルケーキとジュースの接待を受けた。この家の電話を借りてK姉は英国在住の地姉に電話をかけた。その後食堂に戻ってティベリアに住んでおられるスターンズ師に電話をし、三日後の土曜日にティベリヤへ二泊の予定で行くことを伝えた。(スターンズ師は米国のアドベントの神学校で教えておられた方でリタイアした後、奥様がユダヤ人であるのでイスラエルに滞在しておられる押方師より連絡先を教えて頂いたので連絡を取ることが出来て感謝であった。)

最後の2週間(35)

 8/18(木)今日はカイザリヤ(キサリヤ)とカルメル山(ハイファ)に行く計画をしている。7:00朝食、7:35 キブツ出発、8:40ハデラに到着、ハデラへは路線バスを利用した。ハデラのバスステーション からカイザリヤ行きの路線バスに乗って8:55に出発。

 自動車で行けば 15分も要らない距離だが、途中、住宅地を経由しながら走るので遺跡公園に着いたのは9:45であった。車内アナウンスが一切ないので一駅乗り過ごしてから乗客の婦人に教えられて下車し歩いて一駅戻った。

 8月の日差しが容赦なく私たちを照りつける中をようやく公園の入場ゲイトにたどり着いて入場料を払い、英字とヘブライ字のパンフレットを受け取り広大な公園内に入った。直ぐ目の前の左側には高く聳えるローマ時代の巨大円形劇場があるので、先ずそこを見ることにした。

 フェニキア人の小さな町であったこの地をローマ皇帝アウグスト(ルカ2:1)から譲渡されたヘロデ大王(ルカ1:5,マタイ2:1-19)は12年費やし壮大な港湾都市に改築し完成させたのは紀元前10年のことであった。そして町の名をローマ皇帝(カイサル)への敬意を表して「カイザリア」とした。その際に建造されたものの一つがこの円形劇場である。

 何世紀も海岸の砂の中に埋もれていたものを1960 年代になってようやくイタリヤの調査隊によって発掘され、現在は修復されて演劇やコンサートが行われている。

 この半円形の野外劇場は直径 170m、高さ30m、収容人員は4000人、観客席がすぐ前の海に面しているので、海風により音響効果が抜群である。舞台と観客席との間には溝があり、舞台から猛獣が観客を襲えないようにしてあり、地下室にはライオンなどの檻も残されている。私たちは先ずその地下から見て回った。

最後の2週間(36)

 カイザリヤの円形劇場の地下部分は劇場の舞台裏であり出場者(人や獣)の控え室と通路から成っている。控室は鉄柵で囲まれている。

 その後私たちは広い舞台の上に立って歌ったり、観客席の最上階まで上って、舞台で大声を出して歌っている人の声を聞いたり、周囲の風景を眺めたりしていた。

 正面の西方向は青々とした地中海が水平線の彼方まで左右に広がっている。所々には白い波飛沫が立っている。北側はハイファ港からアッコに至る海岸線が弧を描いて左側へと湾曲している。

 海岸のハイファの町のすぐ右手には、急斜面でそり立つカルメル山の北西端があり、その山並みは円形劇場の真東から南東方向まで伸びる山脈となっている。

 山の手前からカイザリヤまでは、バナナやグレープフルーツ畑の緑に覆われていて、所々に住宅地が見える。南側にはハデラの町の象徴となっている巨大な三本の煙突が地中海岸にせり出すように立っている。空と海の青、山と畑の緑は絶景である。

 円形劇場を後にして私たちは海岸の波打ち際を北に向って歩いて行った。砂浜には大きな巻貝の貝殻が所々に転がっている。岸の右側は現在発掘中で布が張られていて隠されている。(私たちの帰国後に、この辺りからヘロデ王の宮殿、彼の死後にはローマ総督の官邸となったものや、劇場や闘技場跡などが新たに発掘された。)

最後の2週間(37)

 カイザリヤの海辺を北に歩いて十字軍時代の要塞跡の遺蹟群を目指した。海に突き出た所にある四角い石造りの建物に行くと、その1階は土産物店で、ここで発掘されたコインなどが売られており、2階は食堂であった。

 そこで私たちは昼食を摂ることにした。私と妻はビーフステーキ(34シェケル、約1,000円)を注文した。イスラエルの牛肉は完全な血抜きがされているので美味でないと言われるが、この店のステーキはすこぶる美味!その上ボリュームも特大サイズで感動ものであった。妻は食べきれずに持ち帰った。1階の店では皿を土産として買った。

 十字軍時代の要塞はローマ時代の遺蹟の中にあってローマ時代の町の5分の1の規模にすぎない。13世紀のもので十字軍がこの地を支配できたのは47年間(1218~1265)だけであった。

 当時の街路、教会堂、秘密通路などが残っているが、最大のものは要塞跡である。それは大阪城の石垣と堀の形に似ていて巨大なものである。私たちは更に北側に歩いて行き、ローマ時代の導水橋が彼方に見える所まで行った。しかし真夏の炎天下にそれ以上歩いて行くことは無理だと判断し、そこから引き返すことにした。

 カルメル山から9kmにわたって2本の高架式の導水橋が建造されている。飲料用と農地の灌漑用と考えられ、ヨーロッパの各地にも同型のものが残されているが、京都の南禅寺にも同型のものがあり、ここは現在も機能している。私たちは公園を出てカルメル山に行くことにした。

最後の2週間(38)

 カイザリヤ国立公園のゲイトを出た私たちはバス停に行き時刻表を見た。次のバスの到着まで何んと3時間もある。バスの本数が少ないということは聞いていたが、真昼の太陽の下で3時間も待つことは考えられない。思いあぐねているうちに30分過ぎた。

 すると一台のタクシーが通りかかったのでそれを止めて運転手と交渉するがハイファ(カルメル山)には行かないと言う。私たちは何とかカルメル山上まで行ってもらえないかと頼み込み、運転手は渋々だが同意してくれた。

 私たちは東洋人であり、英会話が片言しか話せないのが不安だったのかも知れない。とにかくタクシーは地中海沿いに北上しハイファの町からカルメル山上にまで上ってくれた。

 しかしカルメル修道会の建物ではなく、2km程南にあるバハイ教の寺院に行き、そこで私たちを下車させた。あとは路線バスで行けと言う。ハバイ教の寺院とその庭園は広大で非常に良く管理されていて美しい。

 しかし私たちは預言者エリヤの洞窟を見たかったので直ぐ近くのバス停でバスを待った。バスは直ぐにやって来たので、それに乗り二駅目で下車した。するとそこはカルメル修道会の総本山ステラ・マリス・カルメリット修道院の直ぐ近くであった。

最後の2週間(39)

 カルメル会修道院総本山の大会堂はカルメル山最北西端(海抜150m)に位置しており、預言者エリヤとエリシャが居たと伝えられる洞窟の上に建てられており、その洞窟は聖堂奥の祭壇後方にある。この聖堂は入場が自由で祭壇後方の洞窟内にも自由に入れる。

 私は二度目の訪問だが入口にも会堂内にも誰も居なかったので自由に見学できた。預言者エリヤもエリシャもカルメル山を活動拠点の一つとしていたので、この洞窟を寝床としていた可能性は充分あると思う。

 この会堂を出て道路を渡るとカルメル山の最北端にあるケーブル駅があり、又展望台になっている。眼下にはハイファの町と港が見え、正面には地中海が水平線の彼方まで見渡すことができる。

 バアルの預言者たちとの勝負に打ち勝ったエリヤがカルメルの頂上に上り、地にうずくまって祈り、雨の到来を主に願ったのはこの場所ではなかったか、と私は直感した。従者がエリヤに「手の平ほどの小さい雲が海の彼方から上って来ます」と言った(列王記上18:44)記事の情景はカルメル山北端のこの辺りが最も相応しいからである。

 カルメル山上から海の彼方を最も見渡されるのがここである。因みにバアルの預言者と戦った場所はここから南東 15kmのムフラカの高台(海抜 482m)とされ、そこにはエリヤの石像が立てられている(私は写真でしか見ていない)。是非行って見たかったが夕方になっていて時間に余裕がなかった。

最後の2週間(40)

 カルメルのケーブル駅の展望台で暫く地中海を眺めていると、結婚式衣装を身に着けた若いカップルが駅から出てきた。地中海を背景にして記念写真を撮るようだ。

 私たちはハイファのバスステーションに向うため崖の小径を降りてゆくことにした。一度、ツアーの人々と来ているので不安はない。地中海を眼前に見ながら岩場を下って行くと、丁度中程の所に岩を繰り抜いた水溜めの井戸の口が開いている。

 直径30cm程であろうか、その穴の中へ雨水が流れ込むように岩に浅い溝が穴の周囲上方に刻まれている。勿論この井戸は現在は利用されている様子は無いが昔の人々にとっては大変貴重なものであったに違いない。

 エリヤやエリシャたちも乾期にはこの井戸水を利用していたのであろうか。こんな急斜面の岩場に巨大な水溜槽を繰り抜く作業に携った人々が居たのだ。水の必要の為とはいえ、古代人の努力の凄さに驚かされると共に、旧約聖書時代の生活現場の一端に触れる体験をさせて頂いた。

 更に下って行くと、緑の木々の中へ入って行く。そこにはエリヤの洞窟がある。アバブ王を逃れて預言者エリヤが身を隠していた場所の一つと信じられており、現在は祈祷所として全ての宗教の人々に開放されている。妻が中に入って行き見学して来た。

最後の2週間(41)

 カルメル山麓のエリヤの洞窟からハイファのバスステーションまで徒歩で行き 17:55 のバスでハデラに戻り、キブツに帰着し部屋に戻ったのが19:45であった。

 8/19(金)タクシーの予約が取れなかったのでガリラヤ湖行きは明日に延期し、今日は一日キプツでくつろぐ。妻は17:30、キブツのプールへ泳ぎに行った。

 8/20(土)今日はタクシーでガリラヤに行く。8:00 出発。車はドイツ製ベンツで9人乗り。乗客は私たち3人だけなのでゆっくり座れる。運転手のフェミ氏はアラブ人で、助手席に息子さんを乗せてやって来た。今日は土曜日でイスラエルは休日なのでちゃっかり息子と旅行気分で仕事をするようだ。

 私たちはこの車を今日一日貸し切りで予約し、ガリラヤ一帯を巡回してもらい、夕刻に湖畔最大の町テイベリヤで降りる事になっている。

 運転手のフェミ氏は3月にS氏達とエリコや死海を回ってエルサレムまで行った時にも雇った人なので私とは顔見知りである。

 キブツのヨハナンやヘレナの紹介で、キブツの人々が信頼して利用している運転手なので安心して良いという事である。タクシーはガリラヤ湖へ行く時のいつもの道を通って走って行った。

 マアニットから直ぐ北のキブツ・バルカイの横を通って国道65号線に出て右折。北東に 20km、谷間の道を上り切るとメギド(列王下23;29,30)だ。

最後の2週間(42)

 メギドからエズレル平原を突き抜けてタボル山で北進し、ガリラヤ湖から 10km程西側を85号線まで行く。85号線で進路を東に取り(右折し)、8km程でコラジン(マタイ 11:21)である。そこから北へ(左折し)90号線で最初の目的地に向かう。

 テル・ハツォール(ヨシュア11:1,10)の直ぐ東を通過し、レバノン国境に隣接するキブツ・ダンまで行き、運転手のフェミはこのキブツの中の芝生の駐車場にタクシーを止めた。

 彼は私たちに「ちょっと買物をしてくるから、ここで待っていてくれ」と言い残して、息子と二人で建物の中へと入って行ってしまった。このキブツは良質の革靴等の製造で国内ではよく知られていて、直売もしているのだという。

 30 分程して彼らは戻って来たが、こんな貸し切りタクシーは日本では考えられない。私たちがフィベにテル・ダンに行ってくれるように頼むと彼はキブツの敷地の東側の道を更に北側へと車を走らせた。

 両側には雑草が生え、車がどうにか一台通れる細い道を暫く進むと、鉄網の柵が現れる。ここがイスラエル最北の町と言われたテル・ダンの遺蹟である(サムエル記上 3:20)。

 イスラエルのダン部族がこの地を獲得した次第については、士記17章、18章、ヨシュア 19:47に詳しく記されてある。北イスラエルの初代の王ヤロブアムは、このダンとベテルに金の小牛の偶像を置いて民に礼拝させたのであった。(列王記上12:28-30)。この時の祭壇跡が近年発掘されているので、私は一度ここに来て見たかったのである。

最後の2週間(43)

 テル・ダンでは時間の関係などで公園内には入らず、金網の外から写真を撮ってから、すぐ東にあるバニアス国定公園に行った。入場料は一人11.5 シェケル(約400円)である。

 公園入口から入るとすくに右側に発掘された建物の基礎部分を見ることができる。発掘された場所は極く狭い範囲であるが、昔ここには住居があったことが判る。現在はこの周囲には戸建ての住宅は見当たらない。

 少し歩を進めると、そこには極めて美しい水場がある。乾期の後半で水が乏しいイスラエルでここだけは別天地である。水晶のように澄んで輝く透明な水が約 20mもの幅で東から西方向へと流れている。

 この流れのすぐ東側は石垣の壁になっていて行き止まりであるが、その石垣の下からヘルモン山からの地下水が泉となって滾々(こんこん)と湧き出ているのである。妻がその石垣の下に下りて泉の湧き出し口を確かめた。

 その泉は石垣のいたる所から湧き出ていた。その幅の広い流れは所々に堰(せき)が設けられていて極く低い(数10センチの)滝のようになって実に美しい。

 京都の鴨川の流れにも似ている。そこには青々とした水草が生い茂り、生命の水を彷彿させる光景である。ここが新約のフィリポ・カイサリヤである(マタイ16:13)。

最後の2週間(44)

 このフィリポ・カイサリヤでペトロが主イエスに「あなたはメシア、生ける神の子です。」告白したのであった。私たちはこの公園内にある小さな食堂で昼食を摂り、3時間程の時を過ごし、12時40分にここから出発してヘルモン山に向った。

 運転手のフェミは道を知らないらしく、公園の係員に尋ねていた。車は右や左にハンドルを切りながら山を上り始める。途中の見晴らしが良い所で車を止め写真を撮ったりしながら進んで行くとキブツと思われる集落があり、庭にピンクの花が絨毯のように美しく咲いている所があったのでそこでも写真を撮った。

 中腹まで行くと左側の谷の向う側の緑の木々が繁る斜面に峻立している「ニムロデ」と名づけられた十字軍時代の要塞が見えてくる。更にその先には美しい滝があり、そこで小休止して写真を撮った。そこには新婚カップルも居てやはり写真を撮っていた。

 この滝は主イエスと弟子たちも見たのであろうか(マタイ 17:1)更に進んで行くと頂上に登るスキー用のリフトの乗場に着いた。これより上は車では行けないので、ここから頂上を眺めることにした。真夏なので見物客は私たちの他、僅かであった。

最後の2週間(45)

 ヘルモン山はシリア、レバノンとイスラエルの国境を跨ぐアンチレバノン山脈南部にある峰々の総称名である。最高峰は 2814mで、その名はヘブライ語で「聖なる山」という意味。

 フェニキア人はこの山をシリオンと呼び(詩 29:6)アモリ人はセニルと呼んだ(雅歌4:8)。冬季には雪が深く積もりスキー場として人気のスポットになっている。山頂辺りには夏にも積雪が残り、この雪解け水はヨルダン川の最大水源になっている(エレミヤ16:14口語訳、詩篇 133:3)。

 キリストが変貌したのはこの山とされている(マタイ 17:1-8)。その頂上に立ってみたかったがスキー用リフトに乗って一時間以上要し、寒さ対策もして来なかったので、ここで引き返すことにした。

 地図では周囲を周る道路が書かれているので、一周してみたかったのだが、どのような道で、どれだけ時間が要するのか安全はどうなのかなど事前に調べていなかったのでこれも断念した。

 そこで私たちは来た道を引き返し山を下った。ガリラヤ湖のすぐ北まで戻ると、そのまま今夜宿泊するティベリアへ直行するのでなく、湖の対岸(東のゴラン高原麓)を通った。

 カファルナウム、ベトサイダ、ゲラサ、キブツ・エンゲブ、そしてヨルダン川を渡ってティベリアに着いたのは、夕方4時であった。タクシーから降りると外気がすごく暑いのに驚かされた。

 ティベリアの8月の平均最高気温は37.1度とガイドブックには書かれてある。主イエスと弟子達は夏はこのような暑さの中で生活しておられたのだという事を体験する事が出来た(マタイ20:12,10:42)。

最後の2週間(46)

 ティベリアの中央バスステーション脇でタクシーを降りた私たちは、近くにあった公衆電話でスターンズ師に到着したことを伝えると直ぐに車で迎えに来て下さった。

 ガリラヤでの私たちの宿泊場所はスターンズ師が手配して下さったドイツ人宣教師が運営しているゲストハウスである。夕刻 4:30には着き、玄関に入ると数人の男女のドイツ人が暖かく迎え入れて下さり、私たちには一階の玄関左側のとても清楚で明るく落ち着いた感じのゆったりした広めの部屋に案内された。

 ここでの宿泊は何泊しても無料で、チェックアウトする時に備え付けの箱に自由献金をすれば良いというのである。一年でも可だというので驚きである。実際、私たちが行った時、台湾の牧師老夫婦がすでに一年近く滞在しておられるということであった。

 私たちは朝からずっと見学して来たので夕食まで部屋でゆっくりと休むことにした。しかし7時になっても夕食の声がかからないのて尋ねてみると、ここは夕食はないので自分たちで調達するように言われた。

 ここでは朝食と宿泊だけを提供して下さるということであった。慌てた私たちは、どこかマーケットかレストランがないか尋ねてみると、今日は金曜日で夕方から安息日なので午後から全ての店は閉っているが、前のホテルでは今からでも食べられるかも…と言う。