ツアーの人々との団体生活(24)

 第5日目(3月4日、木)、この日からバナナ畑での作業になった。木の手入れと除草である。以前に作業内容を書いた後に、新たに思い出したことがあるので、それを加えさせて頂く。

 バナナ畑は左右二面あり、双方とも20列計約40列あり、一列に150本ほど整然と一直線に植えられている。まるでバナナの樹海である。この日ここで作業するのは10人、日本人は男女二人づつ(あと一人の女性はキッチンでの仕事)あとの六人は外国人青年たちであった。

 私はS師とペアで一列(同じ列)を清掃する。私が一本目、S師は二本目、終わると先へ先へと進んでゆく。一列全部終わると、次の列に移るのである。先ず枯れて茶色になり、下に垂れている葉(枝)やの外皮で枯れた部分を鎌で除去する。その後、周囲の地面の除草をするのである。

 私の作業が遅いとS師は2つも3つも先へと進んで行ってしまわれるのである。S師について行こうとすると、されいに除草することはできない。うつ向いて除草し、それを終えて、次の木へ移動するために腰を伸ばして頭をあげると、目(頭)がクラクラするほどの作業速度であった。

ツアーの人々との団体生活(23)

 ここで、以前の文章の訂正が必要になりました。12年前のことで記憶が曖味になっていました。

 キブツでの労働場所に関して、1日目がアボカド畑、2,3日目がバナナ畑と書きましたが最初の3日間はアボカド畑での作業でした。3日目は早朝から雨で、全員レインコートを着て、ゴム長靴を履いての作業で、その雨は午前中に止みました。その日の午後の作業後にヨハナンがキブツ内を案内してくれたのです。お詫びして訂正させて頂きます。

 日本では雨の日は天気が悪いと表現しますが、イスラエルでは雨は好天です。雨期と乾期にはっきり区別されているイスラエルでは、雨期(冬)に雨が降らないと大変なことになります(列王記上17:1)。雨は天からの恵みそのもの、神の祝福の証しです(レビ 26:3, 4 詩 68:10、エレミヤ 5:24、エゼキエル34:26)。

 子供たちも全員レインコートを着て、はしゃぎながら登校している。まるで南国に雪が降ったかのように。雨の日に、キブツ内で傘をさしている人は私たち日本人以外に誰一人として見かけることはありませんでした。

ツアーの人々との団体生活(22)

 ヨハナンによるキブツ内の植物・遺跡案内は、このぶどうしぼり場(酒ふね)でほぼ終わりである。

 松の林を出て、私たちは、北西側の小さな丘の上に建てられた物見の塔に向かった。この辺りも古代遺跡の上にあるらしく、石造りのアーチ型ゲート(門)が草の中に立っていたりする。

 物見の塔は高さ5m、縦横4mの四角いコンクリート製のものでキブツ製である。北側の入口から入ると鉄製の階段が屋上まで続いている。壁の四方には四角い窓があり、屋上は高さ1mくらいの壁で四方が囲まれている。

 これはアラブ諸国との四次にわたる戦闘のためのもので、四方の外壁には無数の銃痕が残されていて、ここが激しい戦場であったことを物語っている。この頃は表面的には平和で、キブツ内では何人ものパレスチナ人が働いているし、食堂でも一緒に談笑しながら昼食をとっている。

 私はその屋上から東側にあるドタンの地が見えないかと背伸びして見たがすぐ前の丘の松林に遮られて全く見ることはできなかった。

ツアーの人々との団体生活(21)

 松の林の中、貯水井戸の穴の口に大きな石を元通りに戻してから、私たちは東の方へ草を踏み分けながら100mほど歩いて行った。すると眼前に大きな穴が見えた。

 近付いて見ると石を掘ったような四角い浴槽の形のものが二槽並んでいた。その大きさは二槽合わせて3m×2m、深さが1.5mほどある。槽に隣接して3m×1.5mほどの長方形のポーチのようなものが地面にあり、その周囲は10cmほどの高さの壁で囲まれている。

 ヨハナンによると、これは古代のぶどうの踏み場と酒(ワイン)ぶねだという。収穫したぶどうの果実を踏み場(搾り場、黙14:19)に入れ、それを足で踏み絞るのである。その果汁が酒ぶねの中に流れ落ちて貯まるという仕組みなのだ。

 士師記6章でギデオンがミディアン人の略奪を免れるため酒ぶねの中で小麦を打っていた、と記されている(11節)のは、このような所だったのだ。

 300人の精兵を選出したエン・ハロド(ハロドの泉、土師 7:1)は、やはりこのキブツから東へ10km行った所にあり、昔この辺りは ぶどう畑が多くあったのであろう。アハブ王が欲しがったナボトのぶどう畑も同様だ(列王上21章)。

ツアーの人々との団体生活(20)

 このような古代の雨水貯水井戸はイスラエルには数多く残されており、私もそのいくつかを見ることができた。

 ヨハナンは「ヨセフが兄たちに穴に投げ込まれたドタンという地は、このキブツから東へ10kmほどしか離れていない」と説明した。数ヶ月前に生駒市図書館で借りた本(新聖書地図、朝倉書店刊) に次のような文章があった。

 「ヨセフ物語の中で、ヤコブの子らは家畜の群れをヘブロンから(直線距離で75kmの)シケムまで連れて行き、次いでシケムから(さらに35km離れた) ドタンに達した。おそらく降雨量のゆえにヘブロンの東のユダの砂漠で群れを放牧することはできなかったため、兄弟たちは全体的にもっと肥沃な北方の丘陵に移動せざるをえなかったのである。ヨセフが兄弟たちから押し込められた穴が干上がっていた理由は、この降雨不足にあるのかも知れない(創37:24)。」

 ヨセフが兄たちに奴隷としてエジプトへ売られた場所がこんなにも近くにあることを知って、私は非常に驚き、何としてもその場所ドタンを見てみたいという強い衝動に駆り立てられた。そこはパレスチナ人の居住地域で、行くのがそう容易ではないことを後で知った。

ツアーの人々との団体生活(19)

 キブツの広大な土地の南西側には小高く盛り上がった松の林(植林)がある。ヨハナンは私たちをその林の中へ連れて入った。足元の周囲をよく見ると、古い石造りの建て物(町)が埋まって出来た丘であることがわかる。

 石の建材のようなものやアーチの最上部などが露出しているのである。ヨハナンは大きな丸い石がある場所の前で立ち止まり、その石を転がして少し移動させた。その石の下には直径40cm位の穴が開いていた。穴の周囲は石のように硬く固められている。

 中を覗いてみると、大きな空洞になっている。暗いので深さがどれくらいなのかは分からない。口は40cmほどだが中は三角フラスコ(理科の実験などで用いた)型をしていて、かなり大きな空間だという。ヨハナンの説明ではこれは古代の貯水用井戸で、雨期(11月〜3月)に降った雨水をこの穴に流れ込むようにして貯え長い乾期に備えるものである。

 この井戸は雨期なのに中は空であった。後に行ったアラブ人の村にあったものは満水で道路にまで溢れていたこれはヤコブの子ヨセフが兄たちに投げ込まれた穴(創世記37:24)と同型のものだそうだ。

ツアーの人々との団体生活(18)

 古代の墓の中から出て、墓の裏手の雑草の生い繁っている所へヨハナンは草をかき分けながら進んでゆく。雑草に囲まれて何本かの木々も生えている。ヨハナンは右側の木の前に私たちを導いた。ごく普通に見える木だが、高さは約 2.5m、細めの枝がからまり合って横に拡がって伸びている。

 これはピスタチオの木だ、と言ってヨハナンは旧約サムエル記下18章9節を開いて読んだ。「アブサロムがダビデの家臣に出会ったとき、彼はらばに乗っていたが、らばが樫の大木のからまり合った枝の下を通ったので頭(髪)がその木にひっかかり、彼は天と地の間に宙づりになった。乗っていたらばはそのまま走り過ぎてしまった」という箇所だ。

 その直後彼は父ダビデ王の将軍ヨアブに殺されてしまうのである。日本語訳では樫の木となっているが、ヘブライ語(英語)ではピスタチオだという。

 確かに樫の木の枝はからまり合うようなものではない。このピスタチオの枝なら長髪のアブサロム(同14章25~26節)の頭はひっかかってしまうだろう。現物を見て納得した。帰国して店でピスタチオの実を見るたびにこのことを思い出す。

ツアーの人々との団体生活(17)

 次にヨハナンは私たちをキブツの住居から少し離れた西方向に導いて行った。小径の途中の左下側に掘られた穴のようなものが見える。その穴の入口は窓のような形で幅が1m、上下の高さが50mほどしかない。その入口は地面より低く、石段を3段降りた先にある。その狭い入口をくぐって中に入ってみると、畳3畳ぐらいの四角い部屋になっていて、床から天井までは 1.5mほどしかなく、腰を屈めていなければならない。

 その中に古い石棺が正面に横向きに1つ、左壁に縦向きに1つ置かれていて、それぞれの上に日本の古い屋根の形をした大きな石の蓋が置かれていた。大人が二、三人寄ってもとても持ち上げられそうもない大きさだ。

 その石棺の横側の一部は壊されていた。この墓の内部はかなり暗かったが、割れた部分から棺の中を覗いて見たところ、空であった。石棺の側面にはぶどうの房などのデザインが浮き駆りで刻まれていて立派なものであった。

 外に出て入口の右側を見ると戸袋のようなものがあり、以前にはここに大きな丸い石があって、それを転がして入口を閉じる構造になっている。この墓はローマ時代(紀元前後)のものだという。

ツアーの人々との団体生活(16)

 いなご豆の木のある中央食堂の裏出入口の側から南に歩いて行き、大きな牛舎の裏手に行った。そして、そこに5〜6本まとまって生えている細長い幹の木の前に来た。その葉は楓の葉の形と大きさだが、楓よりも薄い。茎は真っ直に上に伸び5mほどの高さがあった。

 ヨハナンはこれを 「とうごま」と言ってから旧約聖書ヨナ書を開いて読んだ(4:6~10)。S師はそれに続いて日本語の聖書を開いて同じ箇所を読んで下さる。それによると神がヨナのために生えさせたとうごまは一本だけである。

 一本だけでは、たいした日陰はできないと思われるが、灼熱の地ではそれでも貴重な日陰なのであろう。この時は3月初めであったが真夏では木の様子も異なっているのかも知れない。ヨナ書では一夜のうちに育ったと書かれているが、これは奇蹟である。

 この木もキブツのあちこちに生えていた。帰国して後に知ったのだが、この木は日本でも古くから栽培されていて、この実から下剤のヒマシ油が作られている。生駒めぐみ教会の庭にも1mほどに育った「とうごま」があり、見ることができる。

とうごまの木

ツアーの人々との団体生活(15)

 ヨハナンが話すには、いなご豆のさやは完全栄養食品で、水とこれがあれば人は生きてゆけるのだという。古代の修行僧たちは、このいなご豆と水だけで生活していたそうだ。

 この時は未ださやが緑色だったので食することはできなかったが、後日食べてみた。レーズンのような味と甘みがして不味くはない。しかしカスが口内に残り、喉にひっかかるようで食感が悪い。父のもとで贅沢(ぜいたく)な暮らしに馴れていた放蕩息子には、これで空腹を満たすことは困難だったであろう。これは貧しい人々の食べ物なのだ。

 イスラエルではどこでも見かけるありふれた植物である。この種子は形も大きさも西瓜の種とそっくりで、西瓜の種より僅かにふっくらとしていて色は小豆色である。

 種一個の重さがどれもほぼ同じということで、このいなご豆一粒の重さが宝石の重さの単位(カラット)とされていることをヨハナンから聞いてはじめて知った。いなご豆の木の学名はカラトニア・シリクアである。

 又この木は銀杏やキウイと同じく雄と雌の木が側に植わっていないと実をつけない。日本でも育つ。昨年、大阪の牧師が教会の庭で実を結んだ、と写真付きで或る紙面で報告しておられた。あすか野教会でも苗が何本か育っている。

ツアーの人々との団体生活(14)

 次に向かったのは「いなご豆」の木の下であった。先の「いちじく桑」もこの「いなご豆」も初めて目にする木であるが、「いなご豆」は「いちじく桑」に比べるとずっと小ぶりで高さは4〜5m。幹や枝から豆のさやが4〜5本、束になってぶら下がっている。

 そら豆が痩せ細ったような形のさやである。この「いなご豆」は聖書にはただ一回のみ言及されているのだが、案外知られている。それは主イエスが語られた最も有名なたとえの一つ、「放蕩息子」に登場するからである(ルカ 15:16)。

 「彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが・・・」と主イエスは語っておられる。日本ではそら豆のさやは豚の餌にされていると聞いたことがあったので、「いなご豆」が豚の餌とされていたことが現物を見て納得できた。

 ヨハナンは「いなご豆」は豆ではなく、さやを食用にすることを教えてくれた。6月頃にさやが黒色になってから食用にするのだという。今もアラブ人はさやを煮出して汁を取り、愛飲しているし、古代には貴重な食料として食されていたのだ。

ツアーの人々との団体生活(13)

 次にヨハナンが私達を導いたのは古くて壊れかかった木造家屋横の巨木の下であった。木の丈は10m以上あり、枝葉も立派に繁っているので、その場所は真昼なのに薄暗い。幹は脂肪太りしたような直径 1.5mはある白っぽいもので、豚の皮膚のような皮である。

 枝の先に沢山の小さな実をつけているが、その直径は1cmほどしかない。実の形はいちじくと同じだが、これ以上大きくはならず、葉は普通の形(たとえば楠の葉)である。この木がエリコの町で取税人の頭ザアカイが登った「いちじく桑の木」(ルカ 19:4)だという。

 幹の下の方から枝分かれをしているので、一見すぐにも登れそうなので私も登ってみようと思い、手をかけてみたが、幹はすべすべで太いので、とても歯が立たない。脚立のようなものがないと無理である。

 ザアカイは背が低かった(ルカ 19:3)と書いてあるから、彼がこの木に登るのは相当大変だったろうなと私は思った。単なる好奇心だけではない何かが彼の心にあり、主イエスもその心をご存知だったのではないか、とこの木を前にして私は考えていた。

ツアーの人々との団体生活(12)

 キブツ・マアニットは、地中海沿岸の中都市ハデラの真東10kmにある。ハデラの北40kmにはイスラエル北部最大の都市ハイファ(カルメル山)、南45kmにテルアヴィブ・ヤッフォ、アマニットはシャロン平野のほぼ中央に位置している。

 ハデラの北2kmにはローマ時代最大の港湾都市カイザリヤの遺蹟がある。マアニットはそのカイザリヤのすぐ近くに位置しており、キブツの一部は小さなテル(遺跡の丘)の上にありローマ時代の遺物が数多く出土しているのである。

 更にこのキブツには聖書に出てくる多くの植物が植えられていて、キブツ全体が聖書自然博物館の如しである。ヨハナンが先ず私たちを導いたのは幹が真紅の植物の前である。高さ3mほどの小木だが、この木の幹はキリストの血を想起させるもので、イスラエルのキリスト信徒たちに珍重されているという。

 この植物は聖書には録されておらず、私はこの木の名前を覚えていない。他のメンバーはメモを取り、カメラのシャツターを切っていたが、私はカメラを持ってきていなかったので、この木に関する記録は残念ながら残っていない。

ツアーの人々との団体生活(11)

 今日はバナナ畑の責任者ヨハナンが私たち日本人ヴォランティアのためにキブツ内を案内してくれることになっていた。それで、仕事を終えるとすぐ中央食堂に集合した。彼はイスラエル生まれのユダヤ人で当時50才代の男性である。

 イスラエルではイスラエル生まれのユダヤ人のことをツァバル(サボテンの実)と呼ぶ。外見は厳めしいが内側は甘くて美味しい(優しい)のだという。ヨハナンは典型的なツァバル(通常日本ではサブレと呼ばれる)で頭髪は真っ黒で縮れ、眉は太く、髭は濃い。瞳は黒く、腕や脛は毛が濃く、皮膚は浅黒い。イラクの遺蹟から発掘されたアッシリア王のレリーフによく似た風貌である。

 ヴォランティア世話係のアロン、カナダから来たユダヤ人ヴォランティア、ヒレルもよく似た風貌で、旧約聖書時代からのユダヤ人の血をそのまま受け継いでいるのではないかと思わされる。

 ヨハナンは自分はイエスをメシヤと信じていると言う。しかし、S師は「ヨハナンは、ドイツ人が創設した異端を信奉している」と語っておられた。そのヨハナンが大きくて厚い英語聖書を開いてキブツの中を案内し、S師が通訳をして下さった。

左:アロン 右:ヨハナン

ツアーの人々との団体生活(10)

 翌日(3月2日)もバナナ畑での仕事であった。この日は収穫ではなく畑の手入れ、下草取りである。バナナの木の周囲の雑草を摘み取るだけの仕事なので単純そのものである。時々根を深く張った草があり、力を要することもあるが大半は簡単に手で除草できる。

 しかしである!それがとてつもなく想像を絶する重労働なのだ。それも日本人だけが・・・。

 他のヴォランティアは、ごく普通にのんびりと除草をしているのだが、S師と他の若い女性たちは目にも止まらぬ速さで仕事をしてゆかれるのである。私もその速度でついてゆこうとするのだが(バナナの木を一周して、そこの除草が済むと隣の木に進むのだが)5分もしないうちに汗が吹き出し、目まいがしはじめた。朝食前の2時間、昼食までの4時間、その後1時間の計7時間、これを続けるのだ。

ツアーの人々との団体生活(9)

 この日の労働も午後2時で終わったが終了間際には背骨と腰の負担が限界に達し、痛くて動かせないほどになった。しかし宿舎に戻る頃にはかなり回復した。

 私たち日本人ヴォランティアグループは労働後の時間の全てはリーダーのS師の指示に従って行動した。汚れた衣服などの洗濯(手洗い)、部屋の清掃、休息(大抵は昼寝)などなど。

 外国人の他のヴォランティアたちは全員若者たちで、自由時間の過ごし方もまちまちである。英国、オランダ、南アフリカカナダ、アルゼンチン、ノルウェー、フランスなどから来ていたが、その多くはグループでの参加である。中には外国からのユダヤ人もいた。

 宿舎の外にベンチを持ち出して、ラジオで音楽を聴きながら日光浴をしたり、バスケットボールやバレーボールのコートもあるので、そこで球技をしたり、飲酒をしたり、町に出かけたり、深夜まで楽しんでいる。

 彼らに比べ日本人のクリスチャングループはリーダーが設定したその日その日の計画の枠組に従い生活するのである。それがキブツの住民や外国人ヴォランティアの目には、あまりにも奇異に映っていたということをずっと後になってから知った。

ツアーの人々との団体生活(8)

 温水槽に浮かべられたバナナの房は選別され、一房4〜5本になるように小型ナイフでカットされる。そして隣の防カビ剤入りの水槽に入れる。私のこの日の作業はこの単純な作業であった。水槽の高さが私の身長では少し低かったので、少し前かがみ気味で作業をしなければならず、朝食前の立ち続け2時間の仕事は腰に負担がかかり、案外ときつい仕事であった。

 選外品となるものは傷付いたもの、太くなり過ぎて変形したもの、黄色くなったものなどである。これらは捨てられるのではなく、キブツ住民の食用にされる。防カビ(殺菌)処理の水槽に入れられた房はすぐに引き上げられ一房ごとに「JAFFA BANANA ISRAEL」と書かれた小さな楕円形のシールを貼られ、大きな計量器の上に乗せられたダンボール箱の中にきれいに並べて入れられる。

 決められた重量になると蓋を被せ粘着テープで固定し、コンテナの奥に積み上げてゆく。この繰り返しである。

 最近日本に輸入されるようになったイスラエル産のスウィーティーにも、一個ずつに「JAFFA Sweetie ISRAEL」と書かれた小さなシールが貼られており、このシール貼りをこの日、S師がされた。このオーガニックバナナは割高だが、ヨーロッパに輸出されて人気商品だとヨハナンは何度も言った。

ツアーの人々との団体生活(7)

 朝6時前に私たちを車で迎えに来たヨハナンは、それ以前に大量の温水を準備してバナナ畑の中まで運んで来ていたのだ。いったいこの準備に何時間要したのであろうか。とにかく、彼は大変な働き者、性格は真面目で控え目口数は少なく、自分はこんなに働いているのだとか、こんなにしてあげているなどは態度にも一切出すことはない。

 それでいてヴォランティアと一緒に働きながら、全てに目配りをしているのである。バナナの収穫作業は次のように進められた。先ず、体格の良い女性ヴォランティアが薙刀のような柄の長い鎌でバナナの木から実った房を丸ごと切り落とす。その下で頑丈な体格の若いヴオランティア男性が待ち構えていて、肩の上に受け止める。

 彼の肩には、座布団のようなマットが着せられていて衝撃を緩め、バナナや肩を痛めないようにしてある。彼は数十キロもあるその房を担いで足元の悪い畑地をバナナの木の間を縫ってトレーラーの荷台まで運んで来る。

 トレーラーの荷台に居る男性がその房を取り上げ、天井についているホックに引っ掛けて宙品りにする。そして鉈(なた)のようなナイフでその大きな房から一列ずつバナナの房を切り取って温水の中に入れる。

ツアーの人々との団体生活(6)

 バナナ畑の真中で車は停車した。左右が広大なバナナ畑で、その中央に真っ直な畦道が畑を貫いている。畦道と言っても道幅が3m以上あり、収穫作業用の大型トレーラーが通れるようにしてある。道の両側にはバナナの木がぎっしり植えられており、どれもが青青とした葉を繁らせている。

 前方を見ても後方を見ても、遥か彼方まで畑は続いている。それぞれの木には水色のビニールカバーがぶら下がっている。バナナの房をこのビニールで覆い、鳥や虫から受ける夜害を防ぐためである。

 バナナ畑はこの他にも何面かあるが、そこは弱ったバナナの木の林である。昨年の異常寒波と嵐のために受けた被害が広大であったため、一部の畑だけ手入れをして回復させ、あとはそのまま放置してあるのだ。

 さて、私たちが下車をしたそばに大きなトレーラーが置かれていて、その荷台の後方が開けられていた。今日の仕事はバナナの収穫、箱詰め(出荷のため)作業である。私たち日本人は全員トレーラーの中に入った。トレーラ一の奥には出荷用ダンボール箱がぎっしり積まれている。中央には机と計量器、そしてトレーラーの入口近くには水槽が二つ置かれてあった。水槽の水は温めてあった。

ヨハナンとバナナ畑

ツアーの人々との団体生活(5)

 「シェマア イスラエル アドナイ エロへヌ アドナイ エハッド・・・(聞けイスラエルよ 私達の神、主は 唯一の主・・・)」申命記第6章からの朗読だ。

 イスラエルではラジオ放送のはじまりと共に毎朝「あなたの神である主を心、魂、力のすべてで愛しなさい」(同6:5) と放送しているのだ。この放送はバナナ畑の作業の日は、毎朝聞くことが出来た。バナナ畑の責任者ヨハナン(ヨハネ)は信仰心を持っているので、彼自身がこの放送を聞き、私たちにも聞かせようとラジオのスイッチを入れてくれるのであろう。

 日本では、NHKのラジオやテレビのその日の放送終了時に「君が代」の演奏を放送していたが、同様にイスラエルでも毎夜12時、ラジオ放送を終える時に国歌「ハ・ティクバ」(希望)を放送している。

 キブツの住民が後に私に小さなラジオを貸してくれたので、それを聞いてから寝るのが楽しみの一つになった。その管弦楽による演奏が飛び切り素晴らしく、聞くごとに心打たれるのであった。ともかく早朝に厳かな聖書の朗読を聞きながら労働に赴くのは何と素晴らしい一日の始まりであろうか。

 それとは別にバナナ畑への道は舗装されておらず、ひどく揺れたり、眺ね上がったりするのには大いに開口させられた。

ツアーの人々との団体生活(4)

 キブツの住民の労働時間は通常午前6時から午後4時までで、ヴォランティアよりも2時間長い。キブツ・マアニットにはウルパン (ヘブル語会話教室)がないが、ウルパンがあるキブツでは、ヘブル語会話を学ぶヴォランティアは労働は午前中で終わる。かっては多くのキブツにウルパンがあったがこの頃は、非常に少なくなり、ヘブライ大学の夏季講座を受講しなければ学ぶことが難しいということであった。

 労働を終えるとヴォランティアは自由である。初日の労働を終え、宿舎に戻るとシャワーを浴び、夕食まで休息(昼寝)をとった。夕方6時になって5人で食堂に行き夕食をとるが、パンと生野菜(朝食の残り物)と飲み物(コーヒー、ココア、紅茶)だけだが、ツアーリーダーのS師が畑からアボカドをいくつか持って来られ、それをバター代わりに食した。しょう油をかけて食べるとマグロのとろの味がするというので、期待して食べてみた。しかし楠の木の青臭い香りがして私の好む味覚ではなかった。今宵も7時から反省会をしてから床に就いた。

 2日目(3月1日)はバナナ畑での仕事だった。やはり午前6時にキブツ内の道路脇で車を待ち、ツアーの5人と外国の青年たち5人ほどが車の後部に乗り込んだ。運転手がラジオのスイッチを入れると6時の時報に続いてヘブライ語で聖書の朗読がはじまった。

ツアーの人々との団体生活(3)

 午前8時になると一旦作業を止め、キブツの中央食堂に戻って朝食を摂る。完全なセルフサービスで食事の時間は30分。食堂に戻ってから畑へ行く車に乗るまでの時間が30分。洗面やトイレの時間も含めてなので、ゆったりと朝食を食べるというような雰囲気ではない。とにかく腹に食物をいれておかないと昼までの仕事が大変になる、そんな感じである。

 パンとチーズ、ヨーグルトなどが好きな人には最高のメニューであるが、ご飯党の人には少々きつい。食堂に8時10分に着くと出発は8時40分。それから正午までが午前中の作業である。10時頃に小休止があり果物や飲み物を飲食する。

 この頃は10時頃まで、レインコート、ゴム長靴を着用した。10時を過ぎると枝葉や草も乾くからである。雨が激しく降っても作業は続けられる。正午になると再び中央食堂に戻って昼食をいただく。昼食がその日の最高のメニューなのだが時間は朝食と同じ30分だけである。そしてヴォランティアは午後2時まで働いてその日の労働は終わる。

ツアーの人々との団体生活(2)

 アボカドの収機作業は単純平易で、両手にポリバケツを持ち、手の届く高さ迄の枝から摘み取った果実をそのバケツに入れ、山盛り一杯になると小型トラクターのリヤカーの箱に入れる。その繰り返しである。私にとっては、大変楽な作業で、毎日この程度の作業ならばありがたいと思った。湿気の多い朝の空気は爽やかで、楽しい気分で作業を続けることが出来た。

 アボカド畑のキブツ住民担当者は2人の男性で、あまり仕事熱心には見えなかった。休憩時間がひどく長かったり(その分、ヴォランティアの仕事の終了時間は大幅に遅れる)、 休憩時間中にビールを飲んだりして、ヴォランティアだけを働かせて、自分たちは見ているだけという人物であった。

 今は日本でもほとんどの食料品店にアボカドが並べられているが、私はこの時まで食べることはおろか見たこともなく、その名も初耳であった。一本の木に二種類の実が成り、一方は私たちが店頭で見る表面がブツブツしているもの、他方は表面がつるつるで緑のまだら模様のものである。

 皮がブツブツのものだけ収穫し、つるつるのものは地面に捨てなさいと言われた。商品として売れるのはブツブツのものだけで、つるつるのものはキブツの住民の食用にされていた。

ツアーの人々との団体生活(1)

 いよいよキブツでの労働ヴォランティア生活が始まった。2月28日(月)であった。キブツの朝は早い。5時半には起床しなければならない。夙川教会のSさんから頂いた小さな目覚まし時計が大きな力となってくれた。この時計は6ヶ月の滞在期間中、フルに働いて私の目覚めを助けてくれたのである。

 6時前には食堂近くにある駐車場に集合する。マタイ福音書20章のぶどう畑の主人の物語そのままの世界だと思った。2月末の午前6時前は日の出のよほど前で周囲はまだ薄暗い。私たちは古いワゴン車に乗せられて畑に向かう。

 今日は私たち5人全員アボカド畑で作業するのである。薄暗く、しかも朝もやのかかったシャロン平野を南に向かっている。このもやは昼になっても晴れることはなく、一日中たちこめていることが多かった。もやに包まれた景色は薄緑色の世界で、とても幻想的である。約5分ほどで畑に着いた。

 今朝は雨は降っていなかったがレインコートとブーツを着用した。露などで枝葉が濡れていて、全身がずぶ濡れになってしまうからである。この日は果実の収穫作業であった。

キブツ到着(14)終

 団長のS師は或る特定の人に焦点をしぼって福音を伝えたい旨を語られた。あと二人の女性の中で名古屋から参加されたM姉は既婚の若い方で、教会生活に何か問題があって、自身の信仰のリフレッシュを求めて参加されたという。

 最後に東京から参加された宮本姉は、ご自分で「エターナルラブ・イスラエル」というユダヤ人への宣教団体をたてあげたばかりの若い独身の方でこのツアーの常連の人、団長と同じヴィジョンを抱いてこのキブツに来られたのであった。それぞれの抱負を語り終えると明日の予定が告げられ、祈りをもって礼拝と反省会は終わった。

 イスラエルでの一日目はこのようにして終わり、私たちはそれぞれの部屋に別れた。その後シャワーを浴びてべッドに入る。シャロンの野の最初の夜はなかなか寝つけなかった。窓の外からはいろいろな音が聞こえてくる。すぐ近くからは虫の音、少し離れた所からはハデラからメギド方面に行き交う車の音、近くの工場の騒音(終夜操業)。

 明日の朝は早い。早く眠らなければと思いつつ、いつの間にか寝入っていた。

キブツ到着(13)

 礼拝メッセージの聖書個所と話の内容は思い出せない。2月27日(日)~3月8日(火)までの日記をイスラエルで紛失してしまったため、最初の10日間は手帳の予定表を見て思い出しつつ書くことをご了承頂きたい。

 午後6時から夕食、共同食堂に行くが、人は疎らである。外国からのヴォランティアが大半で、キブツ住民は殆どいない。自宅で食事をしているのであろう。食堂にはパンと野菜だけしかないので、私たちは日本から持参したマグカップラーメンなども食べた(S師が持参)。

 キャラバンに戻ると7時から今日一日の反省会である。これは毎日欠かさず、ツアーメンバーが帰国する前夜まで行われた。賛美と祈りをもって始め、その日一日の証し、反省翌日の予定、今後のスケジュールの打ち合わせをして祈りをもって閉じる。

 遅い時には夜10時半を過ぎることもあった。司会は毎日順番制である。最初の夜は今回のツアーに対する抱負を述べ合った。私は一年間の滞在を希望していること、その間へブライ語を少しでも多く学びたいということを語ったように思う。

 この時点ではキブツ側は私の働きぶりや滞在態度などを見てからその期間を決めるということなので、精一杯働くことを抱負として語ったかも知れない。年配のK婦人牧師は、キブツの多くの人と知り合って、キリストの救いをお伝えしたいと語られた。

キブツ到着(12)

 このキャラバンと呼ばれる10棟の建物は、元はソ連(ロシア)からイスラエルに大量に移住したユダヤ人たちをこのキブツにも受け入れるために建てられたものである。しかし、それらの人々は、ここでの生活を嫌って全員出て行ってしまったので、今は外国からのヴォランティア用住居になっているのだ、とS師は私に教えて下さった。

 建物そのものは古くはないが、以前に入居していた人たちがかなり乱雑に使用したようで窓の網戸は破れ、カーテンもなく、床も汚れていた。ハエや蚊や虫が多くいるので、先ず網戸を応急修理し、カーテンの代わりに普通の布を押ピンで固定して吊した。

 更に床掃除をしベッドを整えてから、荷物の整理をしてようやく一段落つけることができた。そのベッドに横たわって1時間ほど休息をとってから、この日は日曜日なので、午後4時から主日礼拝である。

 外は雨で濡れているので、私たちの部屋で行うことに決めた。小さなテーブルを囲んで5人が椅子に腰を掛け賛美を歌い、感謝の祈りをささげた。メッセージは団長のS師である。

キブツ到着(11)

 私とS師に用意された宿泊所はキブツの東端に10棟ほど設置されているキャラバンと呼ばれている建物の北端の棟であった。一棟で2戸、私たちは、その右側で、左側は南アフリカからの青年ヴォランティア男女二人の部屋である。

 この建物は高さ1mほどの細いL字鉄骨を4隅と中央に立てた上に、プレハブのような組立式の箱の形の建物をのせて固定しただけのものである。電線と上下水道管とボルトを外せばどこへでも移設できる簡易住居で、室内を歩くだけで建物全体が揺れ動く難儀な代物である。

 鉄製の階段を上って建物に入ると、そこが狭い居間で右側に炊事用の流し、その横にシャワーとトイレがある。電気のみでガスはない。入口のドアの鍵と冷蔵庫は壊れていて使えない。しかし古くはない。奥の方のもう一つの部屋が寝室でパイプベッドが両側に置かれ、その間のわずかな空間に荷物を下ろした。

 窓からはシャロンの野や丘が見渡せ、野の草花を心ゆくまで眺めることが出来る。しかし今はそれらをゆっくり眺めている時間的余裕はなかった。

キブツ到着(10)

 前回「キブツ在住のユダヤ人は聖書を読んだこともなく、よく知らない」と書いたが、LCJEニュース4月号に次のような記事が掲載されていたので一部転載させていただく。“それは敬虔なユダヤ人の間にさえ、旧約聖書のいろいろな部分が全く知られていないということです。ユダヤ教は一般教徒が個人で聖書を読むことを奨励しませんのでシナゴーグでの朗読が唯一、聖書を知る手段となります。”(C. クリンゲンスミス)。

 キブツ在住のユダヤ人のほとんどは安息日や祝祭日にそのシナゴグに行く人はほとんどありません。ですから、ほとんどのユダヤ人は、旧約聖書を自分で手に取って読んだことがなく、敬虔なユダヤ教徒でさえそうなのだというのです。

 敬虔なユダヤ教徒とは安息日を守り、安息日にはシナゴグ (ユダヤ教会堂)に行って毎週礼拝をささげている人のことです。その上、シナゴグで朗読される旧約聖書はトーラー(モーセ五書)は全部ですが、他の書は一部だけです。

 そのような訳ですから旧新約聖書を何度か通読しているキリスト教徒は、ほとんどのユダヤ教徒よりも旧約聖書に精通していることになるのです。ユダヤ人と聖書の話しをしても、うまくかみ合わないのも、このような事情があったわけです。

キブツ到着(9)

 ユダヤ人なのだから、当然自分たちのルーツである旧約聖書、ヤコブの第三男レビについて知っていると思っていた私の早とちりであった。日本人であっても古事記を読んだ人は少ないと思う。

 古事記は約1300年前のものだが旧約聖書の場合は3000年も前のものである。しかも多くのユダヤ人がそれらを歴史としてではなく単なる古い神話と考え、あまり関心を持っていないのは、殆どの日本人の古事記や日本書記に対する思いと同じなのだ。

 過越しの祭りなど聖書が命じている三大祭りや、安息日などに関しては、国の祝日、ユダヤ人の習慣として守り祝ってはいるが、キブツ在住のユダヤ人の殆どは旧約聖書を持っていないし読んだこともなく、よく知らない、ということを、そこに住んで彼らと接してみて、はじめて知ったのである。

 入所手続きを終えた私たちは宿泊施設に向かった。ヴォランティアストア(事務所)から東の方へ細い道を歩いて行く。数分ほど行くとヴォランティアストアと同じような平屋の横長の建物がある。築50年は経ている古い家だが、二軒長屋の右側が女性三人の宿舎、私とS師の宿舎は更にその東の、日本では見たことのない珍しい建物であった。