ツアーの人々との団体生活(54)

 3月8日(火)、イスラエル滞在10日目。朝食前はバナナの収穫でトレーラーの中での洗浄・選別作業、朝食後は雑草取りであった。キブツのバス停ロータリーに面してキブツの郵便オフィスがある。その裏手に木々に囲まれた園のような一画があり、ピンク色の花を咲かせるシクラメンが群生している。

 しかし、手入れが不十分のためか雑草に覆われてしまっている。その雑草除去が午後二時までの作業だ。雑草は根こそぎ除去するのだが、一番厄介なのが茨であった。一株に10本もの茎が出て、上に立ったり、地に這ったりしている。茎の太さは1cm以上で 1.5cmほどの棘が多数ある。

 その茎は長く、一株でかなり広い範囲の地面を覆っている。軍手の手袋をしての作業だが棘が刺さって除去するのに困難を伴う。この作業をしながら、主イエスが話された四種類の土地のたとえ話を思いだしていた(マタイ 13:7, 22)。

 この茨は簡単には除去できない強力なものであることがよく判った。主イエスの説明では「世の思い煩いや富の誘惑(快楽)が御言葉を覆いふさぐ」のである。私たちの心の内にはびこるこの茨も非常に厄介なもので、その除去は容易ではないことをこの作業を通して学ばせて頂いた。この作業の後、両手の平が棘の刺し傷の痛みが残って閉口させられた(ヘブライ 12:4)。

ツアーの人々との団体生活(53)

 ハイファのオフラさん宅に着いたのは夕刻7:30。ご夫妻と娘さん二人は、私たちをとても歓迎して下さり、すぐに食事と歓談の時を過ごした。私とK師は初対面であったが、M姉と宮本姉は再会を喜び合い、キブツから出られた理由などを話しておられた。

 ご主人の名前はアムノンで、自分で「私の名前はダビデ王のよくない息子(サムエル記下13章)から取られました」と苦笑しながら紹介された。私はただ会話を聞くだけで(それも英語なので殆ど理解できずに)時間を過ごした。食卓のものも、なじみのない料理が殆どで食べ方も見よう見まねで緊張の連続。終わりの頃には気疲れしてしまった。

 帰りはタクシーでキブツに向かったが、運転手がマアニットを知らず道に迷い着いたのは11:15分であった。この日、私はバス停にポシェットを置き忘れてしまい紛失した。財布は入れてなかったが、英会話の本とこの日までの日記を書いた手帳、そして今日届いた日本からの手紙が入っていた。ガリラヤ湖・ティベリヤのスターンズ師のアドレスを知らせて下さっていたのでO先生には申し訳のないことをしてしまった。

ツアーの人々との団体生活(52)

 夕闇の中で私たちはハイファのバス停に着いた。誰もオフラさん宅を訪ねたことがないので公衆電話で乗車するバス番号と下車するバス停の名を尋ねる必要があった。

 Mさんがコインを入れてダイヤルを回してみるが、何度試みてもうまくつながらない。私たちは戸惑い途方にくれかけたが、市内電話だから市外局番は不要ではないか、と私が言い、そのようにして再度試みるとどうにかつながった。

 No.28のバスでハルシュメシュで下車したらよいとのことである。ハイファから幾つ目のバスストップと聞いていたのだが、案の定、乗り過ごしてしまった。イスラエルでは、バスも電車もアナウンスサービスが全くないので、初めて行く場所では、目指すバス停で降りるのは至難の業である。

 私はエルサレムでもカイザリヤでも乗り過ごしてしまった。運転手に大声で下車の場所を告げるのだが教えてくれない。その声を聞いていた乗客が教えてくれたので大事に至らなかったが・・・。

 私たちは下車し、暗闇の中を一駅徒歩で戻り、目指すバス停にたどり着くことが出来たのであった。そのバス停にはオフラさんが待っていてくれた。数分下って行った所にオフラさんの家があった。庭には花々が植えられ、割合と新しく清潔そうな家である。玄関口からすぐのダイニングに通されたが、もうすっかり夕食が整えられていた。

ツアーの人々との団体生活(51)

 私が心に強く感銘を受けるのは、エリヤが主に祈る際の姿勢である。「地にうずくまり、顔を膝の間にうずめる」。何と主への畏敬に満ち、真摯な、そして熱烈な全身全霊の祈りであることか。

 今から3000年前のここ(カルメル山)はどんなであっただろうか。岩がむき出しで、旱魃(かんばつ)のために乾燥の極み。そこで彼は水平線の彼方から雲が湧き出ることをひたすら祈りつづけている。ここの景観は、その情景を彷彿させて余りある。

 この場所に座り込んで心行くまで黙想していたい欲求にかられてしまうが、今日の目的地はオフラさんの家である。陽がかなり西に傾いているので私たちは元のセントラル・バスステーションに戻る。車ではなく、絶壁に近い所に作られた岩道を下ってゆく。

 その崖の中ほどまで下りた時、ちょうど太陽が水平線に沈むところであったので、その光景を背に記念写真を撮った。麓の辺りまでくると、そこは公園になっていて多くの植物が植えられている。その一角にエリヤの洞窟と書かれた看板と矢印があった。しかし、私たちはバス停への道を急がなければならなかった。

ツアーの人々との団体生活(50)

 カルメル修道会のマリヤ教会礼拝堂内は薄暗く、洞窟奥はよく見えなかった。入ってゆくことも出来るのだが、私は入らなかった。

 会堂を出た私たちは、道路向かいの展望台からの景色を楽しんだ。下方はハイファ港と町並みを、前方は地中海と水平線を、右前方はアッコやレバノンのティルス (ツロ)に到る美しい海岸線を見渡すことが出来る。

 夕刻であったので逆光のためか空はやや霞んでいた。眼下の港には、陸上に古い船が一艘展示されている。映画「栄光への脱出」でも知られているヨーロッパから脱出したユダヤ人が第二次世界大戦直後にイスラエルに帰還した際の船のように見受けられた。

 私は地中海の風景を見ながら、聖書の一旬を思い出した。それは預言者エリヤがバアルの預言者たちとの戦いに勝った直後の場所である。「エリヤはカルメルの頂上に上って行った。エリヤは地にうずくまり顔を膝の間にうずめた。『上って来て、海の方をよく見なさい』と彼は従者に言った。・・・七度目に従者は言った。『御覧下さい。手の平ほどの小さい雲が海のかなたから上って来ます」(列王記上 18:42~44)。

 今、私が立っているこの場所がまさにその地ではないか、と思うと足が震えるのを覚えた。

ツアーの人々との団体生活(49)

 私たちは近くのバス停から、午後3時すぎのバスでハイファに向けて出発した。ハイファの町に住んでいるオフラさんの家を訪問するためである。

 オフラさんは昨年までキブツの住民で、小学校教師をしておられたが、何らかの事情でキブツを離脱されたのだという。日本人ツアーの人々が毎年キブツ内の小学校を訪ねて子供たちとの交流をしていたので、教師のオフラさんとも親しくなっていて、今回の訪問となったのだ。

 私は今回が初参加なので面識はない。ハデラのバスセンターでハイファ行きのバスに乗り替えて北に向かう。左側には時々地中海が見え、右側にはシャロン平野のオレンジ、グレープフルーツ、バナナなどの果樹園が広がっている。終点のハイファセントラルバスステーションで下車したが、時間に余裕があるのでタクシーで山上の地下鉄駅口まで行った。

 そこにはカトリックのカルメル修道会の本部建物と礼拝堂があった。そこはカルメル山の北西端に位置し、ハイファの町と地中海をパノラマのように一望できる絶景の場所である。私たちは先ず礼拝堂を見学した。入場は自由で、係員と見られる人物も全く見あたらない。

 礼拝堂の最も前方まで進んでゆくと、聖壇の後ろに岩の洞窟があった。穴は高さ1m、幅が4m、奥行きが3mほどある。預言者エリヤ(列王記上 18:20、21)の洞窟だという。

ツアーの人々との団体生活(48)

 イスラエル8日目、3月6日(日)、イスラエルでは日曜日は平日である。朝6時から午後2時まで、いつものようにバナナ畑で仕事をした。日本では週休2日制がほぼ定着しているが、イスラエルでは土曜日だけが休日で、金曜日は午前中で終わるところが多い。

 作業後、午後3時から野外で聖日礼拝の時を持った。シャロンの野は花盛りで松林の近くに腰を下ろして、賛美歌を歌い、K女史がローマ書 8:1~2からメッセージを語られた。礼拝後は全員が昼寝をし、夕刻6時頃まで休息を取った。連日のハードスケジュールで心身共に疲労が蓄積している。

 夕食後、キブツ内のコルボと呼ばれる店に行って買物をした。私は7upのドリンクとナッツのピスタチオを買ったが、この店は現金では買えず、ヴォランティアハウスが支給するクーポン券だけが通用する。

 この店の開店日は土曜日以外毎日だが、開店時間が曜日によって異なるのが難である。日、火、木は夕6時〜8時まで、他は午前中だけである。ここには日用雑貨と生鮮以外の食品が並べられている。

 そしてその後はヘブル語会話の二回目で、今回の受講者は日本人だけであった。翌日はバナナ畑の仕事を終えてからハイフアの町とカルメル山に行った。

ツアーの人々との団体生活(47)

 滝川氏は更に「正統派はまた、改革派のラビが行った結婚式や改宗を認めない」と書いておられる。とすれば私たちの世話をして下さっているヘレナの改宗と結婚は正統派からは認められていないのだ。イスラエルでは正統派が多く、保守派と改革派は少数派だがイスラエル以外の諸外国での正統派は10%に満たず、アメリカでも9%にすぎないという。

 滝川氏によると改革派の先駆者はモーゼス・メンデルスゾーンで、作曲家F・メンデルスゾーンの祖父である。彼はドイツの銀行家であったが、その子孫は現在米国のレコード会社VOX社を経営している。

 米国では改革派は主にドイツ系ユダヤ移民の間に拡がって行った。「改革派は居住地の言語で礼拝し楽器も使う。割礼は医師の手で行い・・・、トーラ(律法)は実践可能な個所を守ればよく、安息日、食物の戒律は・・・オミットした。

 そして愛、正義、平和を至高の教えとし、倫理的側面を強調する」のだそうだ。だからこそヘレナや彼女の夫アミーカムは私たち異邦人とも何の隔たりもなく暖かく接して下さるのだろう。

ツアーの人々との団体生活(46)

 「革なめしシモン」の家を後にした私たちは散策しながら、ゆっくりと駐車場に向かった。その途中で青銅製の巨大魚(鯨)のモニュメントに遭遇し、記念写真を撮ってもらった。

 ヤッファは預言者ヨナが「ニネベに行け」という神の言葉に背いてタルシシュ行きの船に乗るためにやって来た港である。彼の乗った船は嵐に遭い、彼自身は海に投げ落とされて巨大魚に呑み込まれた。そしてその魚の腹の中で三日三晩いてから吐き出されたのであった(ヨナ書 1, 2章)。それを記念する像であろうが、その魚はとてもユーモラスな表情をしている。

 このようにしてイスラエル最初の安息日はのんびりとしたー日であった。車で帰る途中、道路沿いの小さな食料品店に立ち寄り、買物をした。私は好物の分旦(ぼんたん)があったので1ケ買った。

 キブツに帰着して、簡単な夕食を済ませ、この日も反省会。妻に手紙を書き(第二信)、11時40分に就寝。先日、図書館で借りた本に次の文章が書かれていた。ユダヤ教正統派について「彼らは、改革派が安息日に自動車を乗りまわし女性のラビを任命し、シナゴグの礼拝席の男女別を廃止し、・・・は苦々しい(と思っている)」(『ユダヤを知る事典』滝川義人著)。

ツアーの人々との団体生活(45)

 「ペトロはしばらくの間、ヤッファで革なめし職人のシモンという人の家に滞在した」(使徒 9:43)。これは紀元30年代頃のことだが、今、私たちが居る建物はその当時のものではない。この2千年の間、この町は幾多の戦争で何度となく破壊の憂き目に遭ってきたので、昔の建物跡は地中に眠っている。

 現在「革なめしシモンの家」と言われている建物と、その場所も考古学的な確証はない。古くからの伝承で今の場所であったと伝えられているのであるが、その信憑性はともかく、その当時を思い起こさせるには充分なものがある。

 動物の死体を扱うため当時は汚れた職と考えられていた革なめしは海辺で行われていたらしい。この家も海辺にある。このシモンも主の弟子となっていたのであろう。ペトロはこの家の客人となっていたのである。そして或る日彼はその屋上で不思議な幻を見た。

 その時の光景は、現在の場所でも想像できる。屋上から見える地中海は2千年前とたいした変化はないであろう。そのペトロのもとにカイザリヤからの来訪者があった(使徒 10:17,18)。

 カイザリヤからヤッファ迄の距離は50km余り。翌朝彼はカイザリヤへと旅立つ。今なら車で1時間だが、ペトロたちは丸一日歩いたのである(使徒 10:23, 24)。

ツアーの人々との団体生活(44)

 「皮なめしシモンの家」の中は四方が窓のない壁に囲まれた暗い部屋であった印象が強く残っている。壁際の机の上に読み物と写真が置かれていたのでキャビネサイズの写真を一枚買った。古いモノクロ写真に薄く彩色したものである。裏庭に置かれた(皮なめし作業用の?) 石製水槽と女性が写っている。

 代金を手渡した私は、彼に「あなたはクリスチャンですか」と小声で尋ねてみると、彼は照れたような表情で慎ましく「イエス」と答えてくれたので、私は彼の両手を取った。そして「ワンダフル、ワンダフル」と言って手を揺り動かすと彼も笑顔で応えてくれた。

 私たちは裏庭の階段からこの家の屋上に上った。すると隣の家越しにすぐそこに地中海が見える。屋上は中央部分が円形に緩やかに盛り上がっていて、西角には灯台のような塔が立っている。ペトロが幻を見たのはこの辺か?(使徒10:9~16)。

ツアーの人々との団体生活(43)

 この考古学サイトはヨッパのビジターズセンター(観光案内所)にもなっており、入口で地図と名所の写真付パンフレットをもらった。この地下室の中央は発掘された建物の石壁などがそのまま展示されており、部屋の周囲にこの町の歴史を分かり易く展示物(ヘレニズム時代、ローマ、ビザンチン時代の発掘物)を通して説明されている(全て英語)。

 この空間は静かで薄暗く2000年前の世界へと私たちを誘ってくれる。ここの石壁の建造物はペトロの時のものだろうか。解説のプレートをはっきり読まなかったのでわからないが、これらの間をペトロたちが歩いていたのかも知れない。このケドゥミーム広場は1740年に最初のユダヤ人宿泊所が建てられた場所ということである。

 これら周辺を散策した後、この広場の南東の地中海沿岸の方に降りて、狭い路地に入って行った。茶色のレンガ造りの家の前に立ち、アーチ型の入口の木の扉を叩くとドアが開いて私たちは家の中へ招き入れられた。50才代の男性が私たちと応対してくれる。 この場所が使徒言行録 9:43〜10章の皮なめしシモンの家跡と伝えられる建物であった。

ツアーの人々との団体生活(42)

 昼食を終えて、私たちはテルアビブの南に隣接するオールド・ヤッフォ (ヨッパ) へと向かった。20世紀になってから誕生した町テルアビブから、紀元前20世紀からフェニキヤの港町であったヤッフォへのタイムスリップを体験する。

 街並みは全く異なる。近代的建造物から中世の石造りの家々、整備の整った自動車道路から石畳の曲がりくねった細い道。慌ただしい人の流れから、落ち着いてのんびりした風情。清潔感のある街並みから、どことなく埃っぽい感じのする町へ (けれども町の名はヤッフォ=美しい)。

 車でヤッフォの町に入ってゆくと、左手に大きな時計塔が見える。これは1906年に当時のトルコ皇帝によって建てられたものだという。ここは素通りして、きれいに整備された広場に着いた。ここはケドゥミムスクウェアという所で、この西側にはギリシャ正教の聖ミカエル教会の会堂が地中海を背にして建っている。

 北側にはローマ・カトリックの聖ペトロ教会、更にアルメニア教会堂がある。この広場の中央地下には小さな「考古学サイト」という場所が設けられていて、まず私たちはそこを見学した。入場は無料であった。

ツアーの人々との団体生活(41)

 会堂を出た私たちは、道路向かいのヤルコン川畔の公園のベンチで昼食をとった。昼食はヘレナが準備下さっていた。ヤルコン川はテルアビブの北部を東から西へ、サマリヤの山麓から、シャロン平野を通って地中海へと流れている。

 テルアビブ辺りでは川幅は数十メートルもあり、3月の水量は豊かで流れも速い。食べながら周囲を眺めてみると、あちこちで竿を垂れて釣りを楽しんでいる。子供たちはボール遊びをしている。今日は安息日である。イスラエルでは商店は閉まり、バスも電車も動かない、と聞いていた。ユダヤ教では釣りをすることも車を運転することも安息日の規定違反のはずである。

 安息日には火を焚いてはいけないが、車もエンジンを点火するので違反になる。しかし、私たちはヘレナの車でマアニットからテルアビブまで50kmも走ってきたのである。ユダヤ教の改革派は、これも容認しているらしい。

テルアビブでは安息日でも自動車が走っているし、店も開いている。イスラエルでは宗教的な人よりも世俗的な(宗教を信じない)ユダヤ人の方がはるかに多いのだがテルアビブではそれが顕著である。

ツアーの人々との団体生活(40)

 ダニエルの家会堂では会衆席は男女の区別はなく、私たち異邦人も同じ席で礼拝に加えて頂いたが、正統派、超正統派ではありえないことだ。更に改革派には女性のラビもいるそうだ。英国人であったヘレナはユダヤ教に改宗し、今は、この会堂のメンバーの一人として暖く受け入れられているが、正統派の交わりでは差別されるという。

 イスラエル人による告発書が日本でも出版されているが、それによると、正統派内では、異邦人から改宗した女性は改宗後も淫売婦と呼ばれ、蔑視されている事例をあげている。ヘレナとアミーカム夫妻が改革派の会堂に属しているのもこのような事情によるものであろう。

 超正統派は更にその上を行くという。イスラエル・ツデイの2月号によると、超正統派の人々は、現在のイスラエル国家を認めず、パレスチナやイランの首脳たちとの会見までしてイスラエル国家の打倒を企てていることが写真付きで報道されている。イスラエル国家は人間の力ではなくメシヤの到来によってうち立てられるべきであるというのが、その理由なのだそうだ。

ツアーの人々との団体生活(39)

 テルアヴィブにあるユダヤ会堂ダニエルの家の2階に招き入れられた私たちは、大きなホールの真ん中に置かれたパイプ椅子に腰を下ろした。その教会のラビ、メイア・アザリ氏と役員の中年の男性と私たち5人が輪になって歓談した。私たちをここに連れてきたアミーカムとヘレナたちは、これには加わらず、一階で交わっていた。

 会話は英語でなされ、S師が私たちに日本語で説明して下さった。それによると、この教会はユダヤ教の改革派に属しているとのこと。「トーラー(律法)は厳格に守ることはしない。その理由は世界中の異邦人にユダヤ教を布教するにはその方が良い、タナフ(ヘブライ語聖書=旧約聖書)自体、現代人には信じ難い書物なのだから」と宣うた。

 私はそれを聞いた時、唖然としてしまった。「何だ、この人たちは元々聖書を信じていないんだ」そう思うと少々がっかりした気分になった。

 ユダヤ教にはトーラーを厳格に遵守する超正統派と正統派というグループもある。それらの会堂では女性が壇上にあがることもなければ会衆席も男女は厳しく分けられているという。

ツアーの人々との団体生活(38)

 ユダヤ教シナゴーグ(会堂)の安息日礼拝中に配られたキャンディを手にしながら、これを食べてもいいものなのかと考えながら席に着いていた。しばらくすると、二人の男の子が壇の前に出て来て講壇に向かって立つと、ラビが彼らに何かを語りかけた。

 その後、男の子たちは一人ずつ壇上に立ち、聖書の巻物の一部を読み始めた。それが終わり、ラビが祝福の祈りらしきことばで祈ると、男の子たちは壇から下りて会衆の前に立った。すると会衆はいっせいに大声をはりあげながらその子たちにキャンディを投げ始めた。

 そこで私たちも先ほど受け取ったキャンディをその男の子たちに向かって投げたのである。それらのキャンディは会衆の中にいた幼い子供たちが競い合って捨い集めている。「ああ、このためのキャンディだったのか、食べなくてよかった」と私は心の内で安堵した。もし一ケでも口にしていたら、とんだ恥をかくところであった。

 この日の安息日礼拝の中でバル・ミツバ(ユダヤ教の13才になった男の子の成人式)の儀式が行われたのであった。会衆が大声をはりあげてキャンデーを投げつけたのは「おめでとう」と叫んでいたのであろう。礼拝が終わると私たちは来賓として迎えられ二階に通された。

ツアーの人々との団体生活(37)

 こうして金曜日のタべ(安息日)はキブツ住民の和やかな交流の時となっている。

 翌日3月5日(土)ーイスラエル7日目ーは安息日休日である。この日昨夕私たちを家に招いて下さったアミーカム一家がキブツの車で、彼らが所属するテルアヴィブにあるユダヤ教会堂の礼拝に私たちを連れて行って下さることになった。

 その会堂はベイトダニエル(ダニエルの家)。記録をなくしたのでおぼろげな記憶をたどりつつご紹介する。建物は天井の高い三階建てくらいの石造りの箱型である。玄関を入って正面のテーブルから、男性はキッパ(頭に乗せる小さな円形の被り物)を借りて礼拝堂に入る。横四列ほどに並べられた長椅子の奥から二列目、前から三列目に私たちは着席した。

 定刻になると司会の大柄の女性が壇上に立ち講壇から会衆に語りかけながら式を進行させる。全てがヘブライ語である。祈りが終ると男性が登場し、朗々とした声で讃美を歌い会衆を讃美に導く。彼はカントルと呼ばれるユダヤ会堂の詠唱者、讃美指揮者なのだろう。

 その後、ラビと思われる男性が講壇からメッセージを語る。それが終わると会衆全員にキャンディ(あめ玉)が何個かずつ配られた。変な礼拝だと思ったが、後でその理由が判った。

ツアーの人々との団体生活(36)

 このような具合でヘレナ宅の安息日を迎える儀式は5分もしないうちに終わった。一般家庭ならこの儀式に続いて家族揃って夕食となるのだが、ここはキブツである。金曜日の夕食はキブツの全住民が共同食堂でするのだ。

 平素の夕食時には、殆ど共同食堂に来ないで自宅で食事している人々が、この夕べには、ほぼ全員が集まって来る。それは一週間で最も豪華な料理が出されるからである。

 昼食のメニューに加えてデザート(フルーツポンチのようなもの)まで出てくる。私たちはヘレナ宅から共同食堂に来ると、ほぼ満席である。こんなに食堂が一杯になっているのを見たのは初めてである。

 ユダヤ人にとっては、やはり安息日は格別の日なんだ、とこの時初めて体に感じることが出来た。室内は熱気さえ感じるほどで、人々は食事しながら笑顔で歓談している。夕食が済んでも自宅に戻る人は少ない。

 食堂から北へ200mほどにあるハビーバーという建物に向かうのである。そこでドリンクやスナックを注文し(無料)、そこのホールでくつろぎながら歓談を続けるのだ。

ツアーの人々との団体生活(35)

 モーセの律法では安息日の規定を守らず、この日に仕事をする者があれば殺されるか、イスラエルの民から断たれると定められている(出エジプト記 31:14,15)。現代のイスラエルやユタヤ人社会では、違反したからとて罰せられることはない。

 私の滞在中にも、急な注文が入って安息日にバナナの収穫、発送作業をしたことがある。外国人ヴォランティアだけでなくヨハナンも共に働いた。

 さて、安息日を迎えるタベの儀式であるが、通常は家庭では女性がこの儀式を行う。男性はシナゴーグ(ユダヤ教会堂)へ行くからだ。しかしキブツでは、シナゴーグに行く人はいないので(距離の関係で移動が不可能なため)ヘレナの家では夫のアミーカムがローソクに点灯し祈ったのである。

 2本のローソクの意味は、一つは「安息日を覚えよ」(同 20:8)、もう一つは「安息日を守れ」(申命記 5:12) を示しているのだという。2ケのパンは安息日の前日にイスラエルは2日分のマナを集めたことを思い起こすためのものである(出エジプト記 16:22~20)。

 一般家庭では妻が祝祷を唱えた後、夫の帰りを待ち、夫の帰宅後、家族がテーブルに着席し、夫がワインの杯の上に手を置いて「キドゥーシュ」という祈りをして夕食が始まるのだ。

ツアーの人々との団体生活(34)

 ユダヤ人にとって安息日の持つ意義は非常に大きいものがある。一年周期でやってくる他の祭日と違い安息日は一週毎に巡ってくる祝(聖)日である。

 旧約聖書に由来するこの制度を多くのユダヤ人たちは今も厳格に守っておりその効用は絶大である。「ユダヤ人が安息日を守って来た」というよりは、「安息日がユダヤ人を守って来た」と言われているのだ。この七日毎に仕事を休むという制度は全人類にまで影響を及ぼしている。

 キリスト教会では安息日が日曜日に置き変えられて礼拝日とされ、今や社会・共産主義国でさえ日曜日が休日になっている。そしてこの日本でも明治以降この制度が取り入れられている。

 安息日の起源は創世記二章(1~3節)、天地創造にまで遡る。神は天地創造を六日間で完成させ、七日目休んだ(安息した)。そしてこの七日目を祝福し聖別されたと記されている。

 次いで出エジプト記16章で神はイスラエルの民に安息日を聖別し、どんな仕事も休むことを命じ、続いて出エジプト記20章 有名な十戒で、警約させなさるのである(20:8~11)。

ツアーの人々との団体生活(33)

 ヘレナさん宅の安息日を迎える儀式は、とても簡単なものですぐに終わった。玄関を入った所がダイニングルームで、そこに長細いテーブルが置かれている。テーブルには白いテーブルクロスが掛けられ、上座(玄関側)に燭台が2つ、パンが2ケ、ワインボトルとグラスが置かれてある。

 テーブルにはヘレナさんと二人の娘さんが着席して私たちは下座に座った。家長であるアミーカムさんは上座に立っていて、ろうそくに点灯し、極く短い祈りをささげ、その後、ワインをグラスに注いで家族四人がそれを飲んで終了である。

 時間にして5分も要らない。厳粛な雰囲気は無く、祈りもヘブライ語なので理解できず、もうこれで終わりなの?という感じであった。

 S師も何の説明もなさらなかったので、その儀式が何を意味するのかわからないままであった。通常はこの後、家族で夕食をするのだが、ここはキブツなので、共同食堂で安息日の夕食をするのである。

 私が帰国後「ユダヤの祭りと通過儀礼」(吉見崇一著)を入手し、それによってこの儀式の意味を理解することが出来たので、次回に紹介させて頂く。

ツアーの人々との団体生活(32)

 この日の夕方はキブツの住民の家に招待されているということで、夕食の前に総勢5名で訪問した。キブツの住民の家屋はかなり広い敷地の中に点在している。一戸づつに広い庭があり、その庭にはさまざまな花や樹木が植えられ、隣家との距離も充分にある。まるで緑地公園の中に住宅が点在しているという風情である。

 私たちを招待して下さったのはヘレナさんで、以前に外国人ヴォランティアの世話の担当をしておられ、S師は10年来の知遇を得ている方である。ご主人のアミーカムさんは、電気技師でキブツ内の電気工事全般を担当している。ヘレナさんは英国北部のケズィック近くの出身で、敬度なカトリック信徒の家庭で出生されたアングリカンでユダヤ系ではない。

 彼女の語るところによれば、カトリック信仰の戒律の堅苦しさに嫌気がさし、ユダヤ教に改宗したのだという。(ユダヤ教の戒律の方が何倍も厳しいのではないか思うのだが・・・)そしてイスラエルに来て、テルアヴィブの病院で看護師をしている時に、ご主人と出会ったのだという。

 今はユダヤ教徒なのでユダヤ人であり、イスラエル人(国籍)である。今タから安息日なので、安息日を迎える儀式を見せ、その祈りを聞かせて下さるのが招待の目的であった。

ツアーの人々との団体生活(31)

 これは私の憶測であるが、先の小さな靴でも我慢すること、ランドリーを利用しないことなどキブツ側がヴォランティアに当然の事として備えてくれていることも、寝る場所と食事以外は全て辞退し、ただ労働を提供することが、キリスト信仰を証しする最も効果的方法であると考えておられるのではなかったのか、ということである。

 これは遠慮することが徳目と考える日本的発想であり、現地の人々からは非常に奇異に見られた。S師たちツアーの一行が帰国された後、何人かのキブツ住民から、日本人ツアーの働きぶりは(感心されるよりむしろ) クレイジーだと冷笑されてしまった。

 相手側の好意を十分理解し受け止め、深い相互理解による交流をしないと、一方的に与え、押しつけても相手側の心にはなかなか届かないのではないか。主は「受けるよりも与える方が幸いである。」(使徒20:35)と語られた。その通りだ。しかし、相手の善意を受け取る謙虚さも又大切なことだと思う。

ツアーの人々との団体生活(30)

 最初のヘブライ語会話講座が終わったのは夜10時半であった。夜更けのキブツ内を歩いてキャビンに向かう。警備のために灯火が煌々と輝いているので夜空の星は少ししか見えず、月は寒々と光っている。

 ベッドにもぐり込んでも静寂に包まれることはない。シャロンの野は眠りこけることがない。隣地の工場は夜通し操業していて、その機械音がズンズンと響いてくるし、国道を行き交う車も音も絶えない。

 滞在6日目(3月4日)は金曜日、この日の夕刻から安息日 (出エジプト記20:8~11)に入るので労働はキブツ住民もヴォランティアも正午をもって終了する。この日の作業は早朝はバナナ出荷用ダンボールの組立、朝食後はバナナ畑の手入れ(除草等)であった。

 この日の午後は作業服や下着などの洗濯である。キャビンの炊事用流し台で、固形石けんによる昔ながらの手洗いである。キブツにはちゃんとランドリー工場があり、週一度洗濯物をネットに入れて出せば夕刻には戻ってくる。全て無料なのだが、私は、そういうシステムがあることすら知らなかった(後日、知ることになる)。

ツアーの人々との団体生活(29)

 ヘブライ語の歴史の講義が20分ほどあってから、現代へブライ語会話実習が始まった。与えられたプリントの英字をローマ字読みで暗記してゆくのである。

ani (アニ,私は)
avrahan(アヴラハム、アブラハムです)
mi (ミ,だれ)
ata?(アタ,あたたは<男性に>).

「アニ アヴラハム ミ アタ」は「私はアプラハムです。あなた(男性)は誰ですか。」という意味になる。

ani (アニ,私は)
yitzxak(イツハク、イサクです)
mi (ミ,だれ)
hu?(フ,彼は).

その返事「アニ イツハク ミ フ」は「私はイサクです。彼は誰ですか。」

更に,

hu(フ,彼は)
ja-akov (ヤアコヴ、ヤコブです).

女性の場合は、

an i (アニ,私は)
ssara(サラ,サラです)
mi (ミ,だれ)
at?(アトゥ、あなたは<女性に>).

ani (アニ,私は)
r-ivka(リヴカ、リベカです)
mi (ミ,だれ)
hi?(ヒ, 彼女は)・・・

というようなものである。最初は全くチンプンカンプンであったが、繰り返し読み、単語の意味を説明してもらううちに少しずつ会得してゆくことができた。

 「アニ ユキオ ミ アタ(女性にはミアトゥ)」、これで「私はユキオです。あなたは?」と イスラエル人に話しかけることが出来るのだ。「シュミ ユキオ マ シムハ(女性にはマ シメフ)」

 「私の名前はユキオです。あなたの名前は?」という言い方もある。イスラエルでは通常 ファミリーネーム「吉川」で呼び合うことはない。すべて ファーストネーム「ユキオ」だ。10代の女の子も、小学生の子供でも「ユキオ」と私に呼びかけてくる。

 イエス様のことを最近は説教の中でも「イエス」と 敬語なしで呼び捨てる人が 多くなってきたが、イスラエルでは(欧米でも)これが普通なのだ。もちろん イエス様の時代も同様だったのであろう、「ダビデの子イエスよ私を憐れんで下さい」(マルコ 10:47)「ヨセフの子イエスだ」(ヨハネ 1:45)。「イエスは言った」などすべて呼び捨てである。

 イスラエルでは兵役を終えた若者の多くは外国旅行をする。日本にも多数来ていて、その多くは路上でアクセサリーなどを売って旅費を稼いでいる。そういう人を見ると私は「アニ ユキオ ミ アタ」と声をかける。すると相手は目を丸くして驚く。日本でヘブライ語を聞くのだから。

ツアーの人々との団体生活(28)

 ヘブライ語会話教室の講師をヴォランティアで快く引き受けて下さったのは当年80才のドフ氏である。ドフ氏はこのマアニットの住民であり、エルサレム・ポスト紙の編集委員で論説なども書くなどの経歴を持つジャーナリストである。

 定刻が近づいたので私たちはS師に導かれてヴォランティア用の集会室まで夜道を歩いて行った。K師は参加されなかった。

 集会室の入口を開けて中に入ると板敷きの50坪はある大きなホールであった。入口近くの壁面に黒板が取り付けられていて、その前に机と椅子が無造作に置かれている。受講者は私たち4人の他にイギリスからの青年2人もいた。この青年たちは今回限りで、次回は来なかった。

 時間通りにドフ氏も来られた。かなり太っておられ、杖を頼りにゆっくり歩かれる。氏は黒板の前に立つとプリントを一枚づつ配布された。そのプリントには英文字のみでヘブライ文字はなく、タイトルは「ivrit.1」(ヘブライ語.1) と書かれてある。

 氏は先ずヘブライ語の歴史を相当訛りのある英語で語られ、その要約をS師が通訳して下さる。朝が早いのと日中の労働やハデラ行きもあって眠気が激しく襲ってくる。

ドフ氏がくださったヘブライ語会話の学習シート。

ツアーの人々との団体生活(27)

 ハデラの町に関して小出正吾師が『聖地巡礼』(審美社 1970年刊)で書いておられるのでその大要をご紹介する。

 ”ハデラは1891年に近代シオニズム運動の最初の移住者たちが入殖し、湿原地帯のマラリヤに悩まされながら開拓して建て上げた町である。その苦闘の跡が今、広い墓地となって残されている。ハデラとは「緑」の意味で、かっては葉が沼沢を青々とおおっていたがそれが今柑橘の繁みに代わっている。”

 ”町の中央にはユダヤ会堂があり、そのそばにアラブの旅宿が残っている。隊商宿の名残りだが、最初の入殖者が土地と共に買い取り、彼らの住居になった。この町の紋章は左にレモンの果、右に隊商宿址が描かれ、下に「涙とともに播く者は 歓喜とともに穫らん」(詩篇 126:5)が記されている。”

 これらの文章を見る限りこの町は現代イスラエル最古の開拓地の一つであることが分かる。最近はロシアからの帰還者が多く、町の中央広場でロシア語の書籍を広げて売っている人々も見かけた。

 キブツに戻った私たちは簡単に夕食を済ませ、この日の反省会をした。そして、午後8時半からヘブル語会話教室の第一回目を受講するのである。

ツアーの人々との団体生活(26)

 郵便局の窓口の女性も、空港の入国手続き窓口の女性と同様で、無愛想でニコリともしない。客の女性との間にトラブルが生じたのか大声で激論し合っている。窓口の女性が奥に入って出て来ては又激しく会話し始める。イスラエルではこれが日常なのだろうか。周囲の人々は誰も気に留めない。

 そこから私たちはS師に導かれて百貨店に向かった。小さな町なのに立派な百貨店があるのだ。時間があまりなかったので、私は1,2階だけを見て回ったが、近代的で明るく清潔な店ばかりである。私は書店でイスラエルの花の本と格安のミュージック・カセットテープ(イタリヤからの輸入品)数本を買った。

 その後、キブツに戻るために先の中央バスステーションとは別のバス停に向かった。バスの時間までに少し時間があったので、すぐ横の市場見物をした。フルーツ類が安い。オレンジとグレープフルーツが1kgで1ドル。K師はグレープフルーツを2ドル分買われたが、何と11個もあり、私もその分け前にあずかることが出来た。

 ハデラの中央バスステーションは何度かアラブゲリラのテロが発生し、その度に犠牲者が出ている。

ツアーの人々との団体生活(25)

 3月3日(木)も午後二時に仕事を終えた。キャビン(宿舎)に戻ると急いで着替え、出かける準備だ。この午後は日本人5人でキブツに最も近い町ハデラに行ってショッピングなどをするのだという。

 歩いて15分ほどのギヴァット・ハヴィーヴァーという学校前のバス停まで行き、そこからバスで20分ほどでその町に着く。

 イスラエルでは車は右側通行なので慣れるまでは車に乗っていても何となく落ち着かない。特に交差点で右、左折する時に違和感を覚える。車窓の風景は日本とそれほど違わない。私たちは中央バス・ステーションで降りた。

 ここからエルサレム、ナザレ、テベリア、ハイファ(カルメル山)、ベエル・シエバへのバスが発着している。私たちは先ず、そこから歩いて郵便局に行った。S師が何か所要があり、局の力ウンターで係の女性と何か話している。

 私はここから日本に電話をすることにした。時差は7時間なので、日本は夜11時を過ぎている。家内にはすでに手紙を書いたが航空便でも1週間以上しないと日本に届かないので、とりあえず無事に着いたこと、元気にしていることを伝えた。