キブツ到着(14)終

 団長のS師は或る特定の人に焦点をしぼって福音を伝えたい旨を語られた。あと二人の女性の中で名古屋から参加されたM姉は既婚の若い方で、教会生活に何か問題があって、自身の信仰のリフレッシュを求めて参加されたという。

 最後に東京から参加された宮本姉は、ご自分で「エターナルラブ・イスラエル」というユダヤ人への宣教団体をたてあげたばかりの若い独身の方でこのツアーの常連の人、団長と同じヴィジョンを抱いてこのキブツに来られたのであった。それぞれの抱負を語り終えると明日の予定が告げられ、祈りをもって礼拝と反省会は終わった。

 イスラエルでの一日目はこのようにして終わり、私たちはそれぞれの部屋に別れた。その後シャワーを浴びてべッドに入る。シャロンの野の最初の夜はなかなか寝つけなかった。窓の外からはいろいろな音が聞こえてくる。すぐ近くからは虫の音、少し離れた所からはハデラからメギド方面に行き交う車の音、近くの工場の騒音(終夜操業)。

 明日の朝は早い。早く眠らなければと思いつつ、いつの間にか寝入っていた。

キブツ到着(13)

 礼拝メッセージの聖書個所と話の内容は思い出せない。2月27日(日)~3月8日(火)までの日記をイスラエルで紛失してしまったため、最初の10日間は手帳の予定表を見て思い出しつつ書くことをご了承頂きたい。

 午後6時から夕食、共同食堂に行くが、人は疎らである。外国からのヴォランティアが大半で、キブツ住民は殆どいない。自宅で食事をしているのであろう。食堂にはパンと野菜だけしかないので、私たちは日本から持参したマグカップラーメンなども食べた(S師が持参)。

 キャラバンに戻ると7時から今日一日の反省会である。これは毎日欠かさず、ツアーメンバーが帰国する前夜まで行われた。賛美と祈りをもって始め、その日一日の証し、反省翌日の予定、今後のスケジュールの打ち合わせをして祈りをもって閉じる。

 遅い時には夜10時半を過ぎることもあった。司会は毎日順番制である。最初の夜は今回のツアーに対する抱負を述べ合った。私は一年間の滞在を希望していること、その間へブライ語を少しでも多く学びたいということを語ったように思う。

 この時点ではキブツ側は私の働きぶりや滞在態度などを見てからその期間を決めるということなので、精一杯働くことを抱負として語ったかも知れない。年配のK婦人牧師は、キブツの多くの人と知り合って、キリストの救いをお伝えしたいと語られた。

キブツ到着(12)

 このキャラバンと呼ばれる10棟の建物は、元はソ連(ロシア)からイスラエルに大量に移住したユダヤ人たちをこのキブツにも受け入れるために建てられたものである。しかし、それらの人々は、ここでの生活を嫌って全員出て行ってしまったので、今は外国からのヴォランティア用住居になっているのだ、とS師は私に教えて下さった。

 建物そのものは古くはないが、以前に入居していた人たちがかなり乱雑に使用したようで窓の網戸は破れ、カーテンもなく、床も汚れていた。ハエや蚊や虫が多くいるので、先ず網戸を応急修理し、カーテンの代わりに普通の布を押ピンで固定して吊した。

 更に床掃除をしベッドを整えてから、荷物の整理をしてようやく一段落つけることができた。そのベッドに横たわって1時間ほど休息をとってから、この日は日曜日なので、午後4時から主日礼拝である。

 外は雨で濡れているので、私たちの部屋で行うことに決めた。小さなテーブルを囲んで5人が椅子に腰を掛け賛美を歌い、感謝の祈りをささげた。メッセージは団長のS師である。

キブツ到着(11)

 私とS師に用意された宿泊所はキブツの東端に10棟ほど設置されているキャラバンと呼ばれている建物の北端の棟であった。一棟で2戸、私たちは、その右側で、左側は南アフリカからの青年ヴォランティア男女二人の部屋である。

 この建物は高さ1mほどの細いL字鉄骨を4隅と中央に立てた上に、プレハブのような組立式の箱の形の建物をのせて固定しただけのものである。電線と上下水道管とボルトを外せばどこへでも移設できる簡易住居で、室内を歩くだけで建物全体が揺れ動く難儀な代物である。

 鉄製の階段を上って建物に入ると、そこが狭い居間で右側に炊事用の流し、その横にシャワーとトイレがある。電気のみでガスはない。入口のドアの鍵と冷蔵庫は壊れていて使えない。しかし古くはない。奥の方のもう一つの部屋が寝室でパイプベッドが両側に置かれ、その間のわずかな空間に荷物を下ろした。

 窓からはシャロンの野や丘が見渡せ、野の草花を心ゆくまで眺めることが出来る。しかし今はそれらをゆっくり眺めている時間的余裕はなかった。

キブツ到着(10)

 前回「キブツ在住のユダヤ人は聖書を読んだこともなく、よく知らない」と書いたが、LCJEニュース4月号に次のような記事が掲載されていたので一部転載させていただく。“それは敬虔なユダヤ人の間にさえ、旧約聖書のいろいろな部分が全く知られていないということです。ユダヤ教は一般教徒が個人で聖書を読むことを奨励しませんのでシナゴーグでの朗読が唯一、聖書を知る手段となります。”(C. クリンゲンスミス)。

 キブツ在住のユダヤ人のほとんどは安息日や祝祭日にそのシナゴグに行く人はほとんどありません。ですから、ほとんどのユダヤ人は、旧約聖書を自分で手に取って読んだことがなく、敬虔なユダヤ教徒でさえそうなのだというのです。

 敬虔なユダヤ教徒とは安息日を守り、安息日にはシナゴグ (ユダヤ教会堂)に行って毎週礼拝をささげている人のことです。その上、シナゴグで朗読される旧約聖書はトーラー(モーセ五書)は全部ですが、他の書は一部だけです。

 そのような訳ですから旧新約聖書を何度か通読しているキリスト教徒は、ほとんどのユダヤ教徒よりも旧約聖書に精通していることになるのです。ユダヤ人と聖書の話しをしても、うまくかみ合わないのも、このような事情があったわけです。

キブツ到着(9)

 ユダヤ人なのだから、当然自分たちのルーツである旧約聖書、ヤコブの第三男レビについて知っていると思っていた私の早とちりであった。日本人であっても古事記を読んだ人は少ないと思う。

 古事記は約1300年前のものだが旧約聖書の場合は3000年も前のものである。しかも多くのユダヤ人がそれらを歴史としてではなく単なる古い神話と考え、あまり関心を持っていないのは、殆どの日本人の古事記や日本書記に対する思いと同じなのだ。

 過越しの祭りなど聖書が命じている三大祭りや、安息日などに関しては、国の祝日、ユダヤ人の習慣として守り祝ってはいるが、キブツ在住のユダヤ人の殆どは旧約聖書を持っていないし読んだこともなく、よく知らない、ということを、そこに住んで彼らと接してみて、はじめて知ったのである。

 入所手続きを終えた私たちは宿泊施設に向かった。ヴォランティアストア(事務所)から東の方へ細い道を歩いて行く。数分ほど行くとヴォランティアストアと同じような平屋の横長の建物がある。築50年は経ている古い家だが、二軒長屋の右側が女性三人の宿舎、私とS師の宿舎は更にその東の、日本では見たことのない珍しい建物であった。

キブツ到着(8)

 アロンの補佐役として同じく若くて小柄な女性がおり、名前はレビと言った。アロンは終始無愛想で事務的な対応で歓迎的な態度を示さなかった。レビはそうでなかったので、私は彼女の名前のことで話しかけてみた。「聖書ではレビは男性の名前だが、あなたは女性ですが、レビという名前なのですね」と。彼女はそれには何も答えず、とまどった表情をしただけであった。

 私たちはそこで入所手続きの書類に必要事項を書いてサインをし、貴重品を預けた。その後、右隣の薄暗い部屋に入り、棚に並べられている作業着と作業靴の中から自分に合うサイズのものを選んで取るように言われた。すべてが古くてよれよれのものだ。靴も足に合うサイズのものがなく、小さなものしかなかった。仕方なく適当なものを選んで持ち出した。

 かなり後でわかったことであるが、アロンが無愛想に接したのは、外国人ヴォランティアの中にはかなり無軌道な若者たちがおり、横暴な振るまいをするので毅然とした態度で接する必要があったということだ。又、レビが名前のことで返事できなかったのは、キブツの若者のほとんどが、旧約聖書を読んだことがなく聖書のレビに関して知らなかったのである。

キブツ到着(7)

 昼時になって共同食堂に戻り、昼食をいただいた。キブツでは昼食がいちばんの食事だ。キブツ最初の昼食だが3月6日(日)までの8日間の詳細を書いた日記を現地で遺失してしまったので、この昼食のメニューは思い出すことができない。

 昼食の時にはバイキングコーナーの左奥の場所にその日のメイン料理が置かれてあり、ヴォランティアの当番の若者がステーキなどを皿の上に盛ってくれる。

 昼食後、食堂を出てヴォランティアハウスに向かった。幅1.5mほどのセメントで固めた細い道を北へ3分ほど歩く。道の両側には木々が植えられており、処所に建物や分かれ道がある。糸杉やレバノン杉も植えられている。

 ヴォランティアハウスは古い平屋の細長い建物で、右端の戸口を開けて中に入った。その正面には質素な木製の事務机があり、その向こうの壁には文書棚、机の左壁には本棚がある。これが外国からのヴォランティアがキブツ側と話し合ったり、事務手続きをしたり貴重品(パスポートや現金など)を預かってもらったりする場所である。

 机の向う側には、真っ黒な頭髪と黒い瞳、ひげが濃くてキリッとした男前の顔立ちの、背の低い若者が座っている。彼がこの年の外国からのヴォランティアの世話を担当している。キブツの住民で、名前はアロンと言った。

キブツ到着(6)

 アリーザの休養の事情は昨年キブツ内で発生した自動車事故によるものであるという。先ほど私たちが車で通ったキブツ敷地内の直線道路で、インドから来ていたヴォランティアの女性レオナがこの事故で死亡。

 この若いヴォランティアの死によるショックがあまりにも大きく、周囲の人たちが彼女に休むようにとすすめたために今年はその係から離れているとのことであった。こういう事故があったので道路上に盛り上げ個所が設けられ、スピードを抑えるようにしてあったのか、と思った。

 更にアリーザは「あなた方は毎年多額の費用でイスラエルに来て、労働をしてくれているのだから、今回はゲスト待遇で、一切労働はせず、観光を楽しんだらいい」と言ってくれた、とS師は語った。

 しかしS師は「キブツには労働を通して伝道するために来ているのだから、この提案に応じる気持ちは全くない。働くことによって証しをするのだ」と言われる。私たちは今年も喜んで働かせてもらうと言ってこの申し出を辞退したという。

キブツ到着(5)

 グループ、リーダーから順々に彼女の家に入らせて頂くと、そこはかなり狭いダイニング・キッチンで、私たち5人が入ると身動きもとれないほどである。正面の壁には大きな食器棚が置かれていて、その前に食事テーブルと椅子、左奥がキッチンだ。

 正面左のドアから背の低い老人が出てこられ、英語で挨拶をした。このツアーは毎年このキブツを訪れているので、私とK婦人牧師は初対面だが、他の三人はすでに顔馴染みで、手を取り合ったりして再会を喜び合っている。

 お茶を出して下さる間、お湯を沸かすところから始めておられるのか、かなりの時間、じっと黙って椅子に座り続けていた。明かりも暗くて、窮屈なので居心地が悪い。

 ようやくお茶が出されて、改めて挨拶と簡単な自己紹介をすると、リーダーのS師とその老婦人とが英語で会話をしはじめた。約2時間会話が続いたが、時々S師がその要約を日本語で私たちに話して下さる。

 この女性はアリーザさんでアメリカ国籍のユダヤ人ということだ。昨年までこのキブツに住みながら、外国人ヴォランティアの担当をしていた人で、今年は全ての仕事を休んでいるのだという。彼女の表情も話し方も、とても暗い感じがした。

アリーザさん(中央)と、吉川牧師夫妻。

キブツ到着(4)

 先に食堂の北側の壁は全面が窓になっていることを書いたが、その幅は20mもあるだろうか、その高さは天井から床まで4mはある。しかし、その窓の一部、食堂の一番奥の天井近くのガラスが割れている(あえて割ってある?)。

  何とそこからすずめが出入りしているのである。天井の一部が破れていて、天井裏に巣を作っているのであろう。何羽ものすずめたちが自由に出入りしているのである。キブツでは動物や生き物がとても大事にされているのだ。日本では先ず見かけることはないこの光景に私は見入ってしまった。

 朝食を終えると私たちは荷物を持って食堂を出た。食堂横の芝生の敷き詰められた広い庭を通ってキブツ住民の宅地の中へと私たちは歩いて行った。

 多くの木々が植えられ、花壇もきれいに手入れされていて、いろいろな花が咲いている。ちょうどシクラメンが満開でピンクのじゅうたんのように見え他にアイリス、ヒヤシンス、からし菜など、又、周囲の野には赤いポピー、白や黄色の草花が一面広がり咲いている。

 私たちが訪ねたのは老婦人の家であった。彼女の家の周囲は屋根ほどの高さの木々に囲まれ、玄関口まで緑がいっぱいである。彼女は私たちを玄関口の部屋に迎え入れてくれた。

キブツ到着(3)

 食事はバイキング形式で完全なセルフサービス。キブツ初体験の私は全く要領が分からないのでツアーグループの後ろをくっついて歩き、先ずトレイを取り、その上に皿、カップ、スプーンなどの食器を乗せ、各種の生野菜、ヨーグルト、ジャムを取り、パンの場所に向かった。

 直径10cmほどの半円形の食パンを1cm少々の厚さにスライスしたものを2枚トースト機に入れ、出てきたものを取って、最後にドリンクコーナーに行く。コップにホットコーヒーを入れ、ミルクを足して、砂糖の小パックを取って、食堂の奥の中ほどのテーブルに着いた。

 生野菜をどのようにして食べたらよいのかよくわからない。レタスはそのまま食べられるが玉ネギやピーマンは生で食べたことがない。玉ネギは外皮を剥いて4分の1にカットしてあるだけである。

 他のメンバーはスライスしてパンに挟んで食べていたので、私もそうして食べたが美味とは言えない。ヨーグルトもそのままでは食べにくいので苺ジャムを混ぜて食べた。後で知ったのだが、野菜は全部ナイフでみじん切りにし、水で溶いた小麦粉のような味がするチーズをかけて食べるのが正しい食べ方だった。

 食堂の北側の壁は全面が窓で部屋は明るい。

キブツ到着(2)

 キブツの共同食堂は平屋のコンクリート製で大きな箱型の建物である。建物に入ると小さなロビーのような玄関があり、連絡用の掲示板や電話機などがあり、そのロビーの向う側には洗面手洗い所、更にその奥にはトイレがある。

 ロビーの右手には大食堂の入口があり、自動ドアで出入りする。犬も自由に出入りしている。大食堂は400~500人が食事できるテーブルと椅子があり、手前左手に食物コーナーがあり各自バイキング形式で食器や食物、飲み物を取ってゆくのである。

 朝食とタ食は食物コーナーの中ほどにトレー、皿、カップ、スプーン、フォーク、ナイフなどの食器などの置かれたテープルがあり、それを囲むように手前には乳製品(バター、ジャム、ママレードチーズ、ヨーグルト、チーズとヨーグルトは数種類づつある)と生野菜(レタス、きゅうり、ピーマン、玉ネギなど)が並べられている。

 奥の右手には早い時間にはゆで卵やスクランブル・エッグがあり、その横に20cmほどの長さの食パンとパンのスライス機、パン焼き機(中型のコンベア式)が置かれている。

 食堂中ほどの左手には、熱湯、ミルク、水などのコーナーがあり、コーヒー、紅茶、砂糖、サッカリンなどが並んでいる。毎朝、同じメニューである(夕食は乳製品なし)。

キブツ到着(1)

 タクシーは公道からキブツの私道と思われる道へと右折した。道路の両側には丈の高い樹木が植えられていて、林の中を走っているような印象を受ける。

 道路に2ヶ所ほど、10cmほど盛り上げてある箇所があり、その前で車は徐行し、ガクンと車体が揺らされて、そこを越えてゆく。直線道路なので、スピードの出し過ぎを防止する安全策である。

 500mほど走ると右手に小さな守衛小屋のような建物があり、ここがキブツの入口なのかな、と思った。何のチェックを受けることもなく、そこを素通りして、更に数百メートル進むと、キブツの玄関口にある停車場に着いた。

 正面(西側)が少し高くなっているなだらかな斜面の広場で、大きな路線バスも楽々とハンドルを切って回れるほどの広さがある。私の手帳には朝8時半頃到着とメモされている。

 タクシーを下車し荷物を降ろして、私たちは急いですぐ先にあるキブツの中央(共同)食堂に駆け込んだ。降雨のためだけでなく、朝食時間に間に合うためであった。通常、朝食は8時から8時半までに済ませ、すぐ仕事場へと向かうのである。

 こうして私たちはイスラエルでの最初の食事を慌ただしい雰囲気の中で食したのであった。

キブツ ”マアニット” の全景

キブツへの道(23)終

 イスラエル政府発行の旅行者ガイドブックによると、タクシー料金は、通常の料金メーターによるものと、都市間料金が公定で決められていることが書かれている。空港からキブツまでの約50kmの料金がいくらであったかは、私は知らない。

 道路は舗装されているが歩行者用エリヤなどはなく、40年ほど昔の日本の道を走っているような感覚である。道路の両側には、時折、オレンジやグレープフルーツ畑なども見られ、緑が多くまさにシャロンの野を走っているといった風情である。

 のちに知ることになるのだが、このシャロン平野は 100年前(19世紀)には数km歩いても人っ子ひとりいない荒廃した地であったなど想像することも出来ない美しい地になっている。ユダヤ人入植者の開拓の苦労話は、のちにキブツ住民や地誌などで知らされることになる。

 マーク・トゥエンや徳富蘆花の聖地紀行(巡礼)文などには、その当時の荒廃した聖地を目の当たりにして嘆息している記事が残されているという。

 タクシーで50分ほど走ってゆくと、前方左手に巨大な煙突が3本並んで立っているのが見えてくる。すると車内がどよめき、「あの煙突がキブツに近づいた目印だ」という。ハデラの町の地中海岸沿いにある工場の煙突である。

 このハデラから右折し東へ10km行くと目的地であるキブツ・マアニットがある。

キブツへの道(22)

 私は200ドル分の両替を申し出て、約600シェケルを受け取った。当時のレートでは1シェケル40円弱であった。

 両替窓口から通路を通って空港の外に出るとバスのロータリーやタクシー乗り場があり、前方の道路を車が行き来している。所々に棕櫚のような街路樹があり、雨に濡れて生き生きとしている。空気はひんやりと湿っていて気持が良い。

 タクシー乗り場や、バス、自動車などは日本とはかなり様子が違っている。ツアーリーダーは、タクシードライバーらしき男性としばらく交渉をしている。そしてようやく私たちはタクシーに荷物を積み込んで乗車した。時間はもう朝7時を過ぎていた。

 イスラエルのタクシーはドイツ製ベンツの9人乗りのものが多く、私たちの乗ったのもそれであった。ツアーリーダーによると、イスラエルでタクシーを利用する時は、事前に必ず料金の交渉をしておかなければ法外な料金を請求されることがあるという。法律で料金は規定されているが、それを守らないドライバーが多いのだという。

 車は北に向かってシャロン平野の真中を走って行く。時おり雨がザーッと降ってくるが、空は明かるい。

キブツへの道(21)

 広いグラウンドのような空港には、私たちが乗ってきたBA機 (ブリティッシュ・エアーライン)のほか、イスラエルのエル・アル機など数機があちらこちらに止まっていたが、ジャンボ機は無く、中型や小型機だけである。

 その地面を歩いて空港の建物内に入り入国手続きをした。窓口は(確か)2ケ所しかなく、同じ飛行機から降りた人々が長い列を作って並んでいた。正統派のユダヤ教徒、私たちのような外国からの旅行者だけでなく、イスラエル国内の家族や友人と抱き合って再会を喜び合っている人々も何組かあり、イスラエルへの帰還者(移住者、アリアー)らしき人々もいた。

 かなりの時間並んでようやく私の番になった。窓口の向う側には無愛想な女性がおり、私が差し出したパスポートと飛行機の中で書いた入国用の書面に押印したり書き込んだりして私に戻してくれたがその間一言も語らず、怒っているような表情であったのが印象的であった。

 そこからベルト・コンベヤで運ばれて来る旅行カバン受取所へ行き、その後、両替窓口に行ってドルからシェケルに替えてもらった。

 ツアーリーダーは、空港の銀行窓口での両替は手数料も高く、発換率も低いので必要最小限にとどめるように、との忠告があった。エルサレムのダマスコ門外に札束を持って両替しているパレスチナ人から両替すると最も率が高いのだという。

キブツへの道(20)

 イスラエルの地に初めて立って空を仰いだ時、「あゝ、この地をかってアプラハムも歩いたのだ」という思いが心に差し込み、又、日本に残してきた家族や教会への思いが交差し、急に胸が熱くなり、思わず目から涙がこぼれ落ちていった。

 このベングリオン空港の名はイスラエル初代首相、ダビデ・ベングリオンに因んでつけられた名前であるが、少し以前まではロッド空港と呼ばれていた。日本赤軍が空港ロビーで銃を乱射し、多数の死傷者を出し、床が血で染ったあの凄惨な事件が起った時には、”ロッド空港”と日本でも報道されていた。

 それはロッドという町のすぐ近くにこの空港があるからである。国道一号線を挟んでその北側に空港、南側にロッドの町がある。ここはイスラエルのほぼ中央にあり、シャロン平野の南端、シェフェラー(ユダヤの低地、ペリシテ人の地)の北端に位置している。

 新約聖書では”ルダ”と呼ばれ、ペトロはこの町を訪ね、8年間も床についていたアイネアを癒したことを伝えている(使徒 9:32~35)。現在の人口は4万人で、2万人以上の人々が航空機産業に従事している。

 後に、考えてみると、聖書にはアブラハムがこの空港近くを歩いた記事はなくペトロやパウロが何度か行き来した地であることに気付いた・・・。

 けれどもこの時の涙は生涯忘れることはないであろう。この私が何千年にも及ぶ神の救いの働きが成されたこの地に今立ち、しかも、その測り知れない神の救いの中に入れて頂いて居るという感動の故に湧いて出た涙なのだから。

 現在この空港はテルアビブ国際空港と呼ばれることが多い。

キブツへの道(19)

 夙川の教会の家を出てから48時間を要して(成田での一泊を含めて)ようやくイスラエルの地に到着した。飛行機の出入口からタラップを降りて空港の地面の上に立った。

 ベングリオン空港は未だ近代的な空港施設が整っておらず、飛行機から降りると、入国手続きのカウンターまで地面を歩いて行くのである。ようやく昨年(2005年)立派な搭乗口と飛行機出入口までの通路を伴う施設が完成したということを雑誌の記事で知った。

 2月27日の午前6時前のベングリオン空港は未だ日の出前で、空はすでに白んでいたが、黒い雲の塊が低く垂れ込みながら西から東へと走るような速さで流れている。雨は落ちていなかったが地面は濡れ、空気はひんやりして湿っていた。

 4月までは雨期であるので直前まで雨がこぼれていたのであろう。飛行機での長時間の旅を終え、ほっとして、飛行機のそばで立ち止まって周囲を見回し、空を見上げると、ぐっと内からこみ上げるものがあり、思わず涙ぐんでしまった。

キブツへの道(18)

 この飛行機も私の座席は通路側で窓から眼下を見ることができなかった。外は暗間であるが、灯火は見えるし、イスラエルに近付く頃は、空が白みかけていて海岸線などを見ることが出来る。これも残念であった。

 機内のテレビは米国の映画「ビヴァリーヒルビルズ」を上映していた。私が高校生の頃「じゃじゃ馬億万長者」という30分番組があったが、同じ原作で最近映画化されたもののようだ。とても面白いストーリーで好きな番組であったので、懐かし思いを抱きながら画面に見入っていた(英語版であったので言葉は理解できなかったが)。

 飛行機はアルプス山脈を超えるためか、かなり揺れた。ストンと落ちるように揺れたり、機体がミシミシ音を立てたりして乗り心地はすこぶる悪い。何度もヒヤッとさせられ、真夜中を過ぎても緊張のために眠ることができなかった。

 飛行機がイスラエルに着陸した時、多くの場合、機内から拍手が湧き起こり、時には、イスラエル国歌「ハ・ティクバ」(希望)が歌われるということをS師は語っておられた。

 離散地から父祖の地、神の約束の地に帰り着いた感動がそのようにさせるのだ。私たちの飛行機がベングリオン空港に着陸した時は、拍手が湧き起こっただけであった。1994年2月27日(日)午前5時40分のことである。

キブツへの道(17)

 ロンドン・ヒースロー空港での乗り継ぎの長い時を経て、イスラエル行きの搭乗口に入って行った。ご存じのようにイスラエルはパレスチナアラブ人との紛争を抱えているために飛行機による出入国のチェックは非常に厳しい。

 私たちが日本を出発した日の朝刊で米国籍のユダヤ人がイスラエルのヘブロン (アブラハム、イサク、ヤコブ、サラの墓)の礼拝所で銃を乱射したために多数のイスラム教徒が死傷したことが報じられていたので、ツアーリーダーのS師はとても心配されていた。このために日本ではイスラエル行きを自粛するようにとの政府からの情報が出されたと聞いている。

 そのために搭乗前のチェックはとても厳しく、バッグの中身も全て係員に見せなければならなかった。更に金属チェックで、私が通るとブザーが鳴るので、身体チェックも一度ではパスせず、結局ブザーの鳴る原因がわからないまま、ようやく搭乗を許可された。

 イスラエル行きの飛行機は、東京からロンドンまでのものに比べるとずっと小型で、機内は狭く感じられ、天井も低かった。周囲を見回してみると、黒服に黒帽子の明らかにユダヤ教正統派と思われる人々が多数おられたので、いよいよイスラエルに行くのだ、という実感が湧いてきた。

キブツへの道(16)

 BA機は2月26日(土)午後5時にロンドン・ヒースロー空港に着した。東京とロンドンとの時差は9時間あり、搭乗時間は約12時間であった。ここでイスラエルのベングリオン空港行きに乗り換えである。出発時間は午後10時40分、待ち時間は約5時間半ある。

 東京からの到着ゲイトとイスラエル行きの出発ゲイトの建物が別棟なので、先ず空港内のバスで移動する。待ち時間は何もすることがない。土産物店を歩いてみるが30分も見ればもう充分である。

 あとは待機室のベンチで休むだけである。他の参加者は皆ベンチで仮眠をしてしまい、私一人眠ることが出来ず、薄暗いそのホールでボーッと待っていた。こういう時間は何か良い読み物をバッグに入れておくことが大事だと思った。読書すると眠くなるであろうから・・・。

 近くを見回してみると30才代の日本人男性が腰掛けていた。彼の所に行って声を掛けてみた「どちらまで?」彼は「イスラエルです」と言う。「観光ですか」と尋ねると「仕事です。花の買付です。日本には無い花で日本人が好みそうな花を捜しに行くところです」と答えてくれた。

 ガイドブックには「イスラエルは日本の四国ほどの面積だが、特殊な地形と気候のため植物の種類は2250種もある。ヨーロッパで最も多いイギリスで1750種、デンマークの1600種を超える。日本の園芸業者の多くはイスラエルに買付に行く」と書かれている。今回のツアーを通してはじめて知ったことの一つである。

キブツへの道(15)

 キブツ・マアニットが何故日本人クリスチャンが勤勉に働くことを知ったのか。それは、以前S師がキブツ労働体験ツアーに参加し、その際にその働きぶりが評価されたからだ。

 このようなヴオランティアならば大歓迎、ということで、年齢等制限なく受け入れましょうと、特別に扱ってくれることになったそうである。S師はその所属する教団が古くからイスラエルの回復とユダヤ人の救いを祈りつづけ、S師自身も自分がそのために何か出来るようにと主に求めておられたのである。

 そして主がその祈りを聞いて下さり、このようなツアーが毎年実行出来るようになったのだ。先駆者、開拓者たちの祈りと労苦の恩寵はその後に続く人々には計り知れないものがある。

 電気、鉄道、医学なども同様で現代人の私たちは、先人の努力の賜物により、どれだけ便利な生活を享受していることか!印刷機の発明により、今私たちは各自で聖書を所有しているのである。そして主イエス様が十字架上で救いの道を開いて下さったが故に永遠の命の恵みに日々生きることが出来るのである。

 私の命も、後々の子孫や社会に何らかの貢献が残されるようにと祈るものである。機中でそのようなことを私は思い巡らしつつS師の話に聞き入っていた。(創世記 12:1~3)

キブツへの道(14)

 機内でS師はこのツアーの由来について話して下さった。外国の労働ヴォランティアに関して、受け入れるキブツと受け入れないキブツがあること。受け入れる場合、通常資格制限があり年齢が18才から32才までで健康な人、英・仏・独語のいずれかが語れ(日常会話が可能であること)、共同生活が可能な協調性があること、更に最短で何ケ月か以上働ける人であることが要求される。

 日本のイスラエル大使館でもこの条件で募集しており、語学と協調性のテストのためにミニキャンプもしている。この基準だとS師もK師も私も年齢制限で引っ掛かってしまう。

 しかし、これから向かうキブツ・マアニットでは、日本人のクリスチャンであるならば、どんな人でも喜んで受け入れてくれる。その理由は日本人のクリスチャンは皆真面目に良く働くことを知っているからである。以前のツアーでは80才を越えた牧師でも歓迎され、その人はシクラメン畑の除草をした。

 とにかく、そういう理由で日本人のクリスチャンであるならば年齢に関係なく大いに歓迎すると言って いる。期間も一ヶ月足らずでも良いという内容であった。 このように語られたS師のキブツでの働きぶりがどのようなものであるか、私は数日後、まのあたりにすることになる。

キブツへの道(13)

 このキブツ・ツアーの参加者は私を含めて五人。簡単に紹介すると、先ずS師。キリスト兄弟団の九州の教会の牧師で、このツアーを11年前から企画し毎年この時期に催行しておられる。

 キリスト兄弟団は古くからユダヤ人の救いを祈り続けている教団なので、このツアーの目的も当然ユダヤ人(キブツの住民)に伝道することである(ということを後で知った)。

 次に同じ教団の婦人教職K牧師。中年の明るい方である。S師とK師は英会話が堪能である。三人目はM姉。名古屋の教会員で既婚の若い女性。四人目は東京の宮本姉。今回で連続四回目の参加。エターナルラブ・イスラエルというユダヤ人伝道団体を作り、現在日本とイスラエルでユダヤ人にキリストの救いを伝える働きに奔走しておられる若い宣教師である。

 私たちは飛行機に搭乗してから、ゆっくり自己紹介をしあい、旅の祝福を主に祈った。何せ中継地ロンドンのヒースロー空港まで12時間も座り続けるので、時間はたっぷりある。私の楽しみの一つは窓から眼下にシベリア、ロシア、北欧の地形を眺めることであったが、シートが窓際でなく、願いはかなわなかった。

キブツへの道(12)

 イスラエルに向けて出発するその日までに、転居準備も含めて全てのことが整えられ、順調であったのは今思い返してみても実に不思議なことで、主のお支えがあったことを強く覚える。

 背後で多くの方々の祈りがささげられていたと思い感謝に堪えない。そして残される家族のこと、引っ越しのことも一切主に委ねて、不思議な平安の内に家を出た。夙川教会の山口兄が車を出して下さり家族とともに伊丹空港に向かったが、到着してみると西村師夫妻、押方師、玉造教会の徳山姉が見送りに来て下さっていた。

 そこで、このツアーのリーダーであるS師と、他の参加者と合流し羽田空港に向けて出発。家族と別かれる時、長女がひどく精神的に落ち込んでいるのが気にかかった(当時、小学一年生)。

 羽田に着くとすぐに成田に向けて車で移動し、ホテルにチェックインしたのが夕方7時であった。そこで一泊し、翌朝、ホテルに木村兄(夙川教会員で東京在住)が訪ねて下さり、旅の無事を主に祈って下さった。

 その後成田空港に向かい、午後2時にロンドン・ヒースロー空港に向けてブリティッシュ・エアーラインで飛び発った。

 このように家族や多くの兄姉、同労者の祈りと励ましに包まれて送り出された 私は生まれて初めての海外旅行、未知の体験の中に身を投じることになったのである。

キブツへの道(11)

 1993年12月13日(月)にパスポートと自動車学校合宿 倉吉行のバス予約券を受け取りに神戸に出向き、翌14日はあすか野教会と家内との契約のためにあすか野教会へ出かけた。そこで契約がまとまり、家内は4月1日からあすか野教会で仕えることが決った。

 20日になって キブツ・ツアーの責任者から連絡があった。参加手続きはしたが、滞在期間の延長に関しては、先方は、私の人物を見てから決定する、ということであった。

 金剛と夙川のクリスマス、年末の諸集会、金剛との送別会も無事終わって1994年を迎えた。

 1月5日に倉吉に行き、27日に卒業試験にパスして夙川に戻り、2月1日に試験場で受験し、自動車運転免許証を取得することが出来た。この間、山崎師、河口師にいろいろお世話になり、倉吉教会の聖日礼拝(午後)に二度赤碕教会の礼拝に一度出席させて頂いた。

 倉吉教会の皆さんからは、イスラエル行きのために献金まで頂いて、主にある交わりの暖かさに感謝した。

 その後は、25日の出発日までに、あすか野への引っ越しのための私の荷物の荷造りに励み、近隣の教会の牧師に挨拶にも出かけた。

 一麦西宮教会のS師は私たちのために熱祷を主にささげてから、多額の支援金を手渡され、驚愕! 師の信仰と愛に歩んでおられる姿をまのあたりに見て敬服の思いを抱いた。

 アドベントの多くの方々からも援助を受け、(主は 旅の必要をことごとく満たし)全てが整えられて、その日、2月25日を迎えることが出来た。

キブツへの道(10)

 「後のことは私に任せ、あなたはイスラエルへ行って思いっ切り充電してきなさい」という思いもよらぬ家内の言葉で、私の淡い願望は一気に現実となる。

 あすか野教会との話し合いは、私ではなく家内との契約で進められ、金剛キリスト望み教会との兼牧は、この年の年末限りであったので、私はすぐに、このキブツツアーを申し込み、キブツ滞在が一年間でも可能であるかどうかも合わせて尋ねてみた。

 その間も兼牧、神学校の講義、クリスマス諸集会の準備など、忙しい日々の中で、パスポートの申請、教団実行委員長への挨拶と報告、あすか野教会との話し合いなど息をつく間もないほどであった。

 更にこの機会に自動車運転免許も合宿で取得しておこうということになり、1月5日から27日まで鳥取の倉吉に行くことにした。その間の夙川の礼拝メッセージは家内が担当し、3月の一ケ月も家内がすることになる。

 金剛との兼牧の3年間も夙川と金剛での礼拝メッセージを月一回づつ家内が担っていてくれたが、まさにこの頃は家内の支えもあっての私の歩みであった。

(この頃ではなく、この頃もと言うべきか。)

キブツへの道(9)

 「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており・・・」(ヨハネ 10:14)

 1993年も晩秋になり、あすか野教会も私たちのことを前向きに考えて下さり、1994年4月1日から赴任する方向に進みはじめた。その頃になって私は家内に例の「キブツ奉仕ツアー」のパンフレットを見せた。

 すると家内は二つ返事で「行って来なさい。是非行きなさい。あとのことは何も心配しないで私に任せたらいいよ」と言うのである。夙川での13年間ほとんど休むことなく働き続け、朝夕刊配達から集金、ミニコミ紙の配達もし、この3年は金剛教会との兼牧、神学校での講義など一日の休みもなく働いてきたことを家内は見ていた。

 私は疲労の極みにあり目、耳、喉、肺の具合が悪く、特に耳は鼓膜に穴を開け管を通す処置を受けたばかりであった。私はこのままの体調であすか野に行くのに自信がなく、キブツの軽作業で体調を回復させてから行きたいと思った。

 又、神学校で旧約を教えるのにヘブライ語の初歩を学んでおく必要も感じていた。そこで一ヶ月だけでなく、一年ほど滞在したいと願うようになり、家内にその思いを伝えると二つ返事で「そうしなさい。あとのことは心配しないで私に任せて行ってきなさい」と言ってくれたのである。

キブツへの道(8)

 1993年、阪神宣教祈祷会の会場が兄弟団西宮教会で行われた時のこと。少し早い目に会場に着いたので、礼拝堂入口の受付カウンターの上にあるパンフレット類を見せてもらっていた。そこに第10回「キブツ奉仕と聖地研修の旅」の案内もあったのである。

 期日は1994年2月26日(土)~3月23日(水)の約一ケ月間。

 その案内文を読んでみると「午前中と午後1〜2時間の軽作業、その後の時間と休日には聖地旅行や余暇を楽しむことが出来ます。可能な限りエルサレムやベツレヘム、カイザリヤ、ガリラヤ湖や死海を見学します」とあり、応募資格は「信者及び求道者、年齢を問いません」という。

 こんな「イスラエル旅行もあるんだ・・・」と思いつつ私はこの案内書を一部もらって帰ることにした。この時は未だ1994年4月からの奉仕先は未定であった。

 11月3日(水)に教団定期総会が萱島キリスト教会で行われた。その会議の休憩時間に会堂後方のソファーに実行委員会のメンバーが何かを話し合っておられるのを、そばに居た私は何げなくその会話を聞いていた。

 それは、あすか野キリスト教会が来春以降無牧になることに、どう対処しようかという相談であった。私は咄嗟にロをはさみ、私は来年3月で夙川教会から出なければならないこと、それで、あすか野教会に赴任出来ないか打診して頂きたいと申し出たのであった。