ツアーの人々との団体生活(36)

 このような具合でヘレナ宅の安息日を迎える儀式は5分もしないうちに終わった。一般家庭ならこの儀式に続いて家族揃って夕食となるのだが、ここはキブツである。金曜日の夕食はキブツの全住民が共同食堂でするのだ。

 平素の夕食時には、殆ど共同食堂に来ないで自宅で食事している人々が、この夕べには、ほぼ全員が集まって来る。それは一週間で最も豪華な料理が出されるからである。

 昼食のメニューに加えてデザート(フルーツポンチのようなもの)まで出てくる。私たちはヘレナ宅から共同食堂に来ると、ほぼ満席である。こんなに食堂が一杯になっているのを見たのは初めてである。

 ユダヤ人にとっては、やはり安息日は格別の日なんだ、とこの時初めて体に感じることが出来た。室内は熱気さえ感じるほどで、人々は食事しながら笑顔で歓談している。夕食が済んでも自宅に戻る人は少ない。

 食堂から北へ200mほどにあるハビーバーという建物に向かうのである。そこでドリンクやスナックを注文し(無料)、そこのホールでくつろぎながら歓談を続けるのだ。

ツアーの人々との団体生活(35)

 モーセの律法では安息日の規定を守らず、この日に仕事をする者があれば殺されるか、イスラエルの民から断たれると定められている(出エジプト記 31:14,15)。現代のイスラエルやユタヤ人社会では、違反したからとて罰せられることはない。

 私の滞在中にも、急な注文が入って安息日にバナナの収穫、発送作業をしたことがある。外国人ヴォランティアだけでなくヨハナンも共に働いた。

 さて、安息日を迎えるタベの儀式であるが、通常は家庭では女性がこの儀式を行う。男性はシナゴーグ(ユダヤ教会堂)へ行くからだ。しかしキブツでは、シナゴーグに行く人はいないので(距離の関係で移動が不可能なため)ヘレナの家では夫のアミーカムがローソクに点灯し祈ったのである。

 2本のローソクの意味は、一つは「安息日を覚えよ」(同 20:8)、もう一つは「安息日を守れ」(申命記 5:12) を示しているのだという。2ケのパンは安息日の前日にイスラエルは2日分のマナを集めたことを思い起こすためのものである(出エジプト記 16:22~20)。

 一般家庭では妻が祝祷を唱えた後、夫の帰りを待ち、夫の帰宅後、家族がテーブルに着席し、夫がワインの杯の上に手を置いて「キドゥーシュ」という祈りをして夕食が始まるのだ。

ツアーの人々との団体生活(34)

 ユダヤ人にとって安息日の持つ意義は非常に大きいものがある。一年周期でやってくる他の祭日と違い安息日は一週毎に巡ってくる祝(聖)日である。

 旧約聖書に由来するこの制度を多くのユダヤ人たちは今も厳格に守っておりその効用は絶大である。「ユダヤ人が安息日を守って来た」というよりは、「安息日がユダヤ人を守って来た」と言われているのだ。この七日毎に仕事を休むという制度は全人類にまで影響を及ぼしている。

 キリスト教会では安息日が日曜日に置き変えられて礼拝日とされ、今や社会・共産主義国でさえ日曜日が休日になっている。そしてこの日本でも明治以降この制度が取り入れられている。

 安息日の起源は創世記二章(1~3節)、天地創造にまで遡る。神は天地創造を六日間で完成させ、七日目休んだ(安息した)。そしてこの七日目を祝福し聖別されたと記されている。

 次いで出エジプト記16章で神はイスラエルの民に安息日を聖別し、どんな仕事も休むことを命じ、続いて出エジプト記20章 有名な十戒で、警約させなさるのである(20:8~11)。

ツアーの人々との団体生活(33)

 ヘレナさん宅の安息日を迎える儀式は、とても簡単なものですぐに終わった。玄関を入った所がダイニングルームで、そこに長細いテーブルが置かれている。テーブルには白いテーブルクロスが掛けられ、上座(玄関側)に燭台が2つ、パンが2ケ、ワインボトルとグラスが置かれてある。

 テーブルにはヘレナさんと二人の娘さんが着席して私たちは下座に座った。家長であるアミーカムさんは上座に立っていて、ろうそくに点灯し、極く短い祈りをささげ、その後、ワインをグラスに注いで家族四人がそれを飲んで終了である。

 時間にして5分も要らない。厳粛な雰囲気は無く、祈りもヘブライ語なので理解できず、もうこれで終わりなの?という感じであった。

 S師も何の説明もなさらなかったので、その儀式が何を意味するのかわからないままであった。通常はこの後、家族で夕食をするのだが、ここはキブツなので、共同食堂で安息日の夕食をするのである。

 私が帰国後「ユダヤの祭りと通過儀礼」(吉見崇一著)を入手し、それによってこの儀式の意味を理解することが出来たので、次回に紹介させて頂く。

ツアーの人々との団体生活(32)

 この日の夕方はキブツの住民の家に招待されているということで、夕食の前に総勢5名で訪問した。キブツの住民の家屋はかなり広い敷地の中に点在している。一戸づつに広い庭があり、その庭にはさまざまな花や樹木が植えられ、隣家との距離も充分にある。まるで緑地公園の中に住宅が点在しているという風情である。

 私たちを招待して下さったのはヘレナさんで、以前に外国人ヴォランティアの世話の担当をしておられ、S師は10年来の知遇を得ている方である。ご主人のアミーカムさんは、電気技師でキブツ内の電気工事全般を担当している。ヘレナさんは英国北部のケズィック近くの出身で、敬度なカトリック信徒の家庭で出生されたアングリカンでユダヤ系ではない。

 彼女の語るところによれば、カトリック信仰の戒律の堅苦しさに嫌気がさし、ユダヤ教に改宗したのだという。(ユダヤ教の戒律の方が何倍も厳しいのではないか思うのだが・・・)そしてイスラエルに来て、テルアヴィブの病院で看護師をしている時に、ご主人と出会ったのだという。

 今はユダヤ教徒なのでユダヤ人であり、イスラエル人(国籍)である。今タから安息日なので、安息日を迎える儀式を見せ、その祈りを聞かせて下さるのが招待の目的であった。

ツアーの人々との団体生活(31)

 これは私の憶測であるが、先の小さな靴でも我慢すること、ランドリーを利用しないことなどキブツ側がヴォランティアに当然の事として備えてくれていることも、寝る場所と食事以外は全て辞退し、ただ労働を提供することが、キリスト信仰を証しする最も効果的方法であると考えておられるのではなかったのか、ということである。

 これは遠慮することが徳目と考える日本的発想であり、現地の人々からは非常に奇異に見られた。S師たちツアーの一行が帰国された後、何人かのキブツ住民から、日本人ツアーの働きぶりは(感心されるよりむしろ) クレイジーだと冷笑されてしまった。

 相手側の好意を十分理解し受け止め、深い相互理解による交流をしないと、一方的に与え、押しつけても相手側の心にはなかなか届かないのではないか。主は「受けるよりも与える方が幸いである。」(使徒20:35)と語られた。その通りだ。しかし、相手の善意を受け取る謙虚さも又大切なことだと思う。

ツアーの人々との団体生活(30)

 最初のヘブライ語会話講座が終わったのは夜10時半であった。夜更けのキブツ内を歩いてキャビンに向かう。警備のために灯火が煌々と輝いているので夜空の星は少ししか見えず、月は寒々と光っている。

 ベッドにもぐり込んでも静寂に包まれることはない。シャロンの野は眠りこけることがない。隣地の工場は夜通し操業していて、その機械音がズンズンと響いてくるし、国道を行き交う車も音も絶えない。

 滞在6日目(3月4日)は金曜日、この日の夕刻から安息日 (出エジプト記20:8~11)に入るので労働はキブツ住民もヴォランティアも正午をもって終了する。この日の作業は早朝はバナナ出荷用ダンボールの組立、朝食後はバナナ畑の手入れ(除草等)であった。

 この日の午後は作業服や下着などの洗濯である。キャビンの炊事用流し台で、固形石けんによる昔ながらの手洗いである。キブツにはちゃんとランドリー工場があり、週一度洗濯物をネットに入れて出せば夕刻には戻ってくる。全て無料なのだが、私は、そういうシステムがあることすら知らなかった(後日、知ることになる)。

ツアーの人々との団体生活(29)

 ヘブライ語の歴史の講義が20分ほどあってから、現代へブライ語会話実習が始まった。与えられたプリントの英字をローマ字読みで暗記してゆくのである。

ani (アニ,私は)
avrahan(アヴラハム、アブラハムです)
mi (ミ,だれ)
ata?(アタ,あたたは<男性に>).

「アニ アヴラハム ミ アタ」は「私はアプラハムです。あなた(男性)は誰ですか。」という意味になる。

ani (アニ,私は)
yitzxak(イツハク、イサクです)
mi (ミ,だれ)
hu?(フ,彼は).

その返事「アニ イツハク ミ フ」は「私はイサクです。彼は誰ですか。」

更に,

hu(フ,彼は)
ja-akov (ヤアコヴ、ヤコブです).

女性の場合は、

an i (アニ,私は)
ssara(サラ,サラです)
mi (ミ,だれ)
at?(アトゥ、あなたは<女性に>).

ani (アニ,私は)
r-ivka(リヴカ、リベカです)
mi (ミ,だれ)
hi?(ヒ, 彼女は)・・・

というようなものである。最初は全くチンプンカンプンであったが、繰り返し読み、単語の意味を説明してもらううちに少しずつ会得してゆくことができた。

 「アニ ユキオ ミ アタ(女性にはミアトゥ)」、これで「私はユキオです。あなたは?」と イスラエル人に話しかけることが出来るのだ。「シュミ ユキオ マ シムハ(女性にはマ シメフ)」

 「私の名前はユキオです。あなたの名前は?」という言い方もある。イスラエルでは通常 ファミリーネーム「吉川」で呼び合うことはない。すべて ファーストネーム「ユキオ」だ。10代の女の子も、小学生の子供でも「ユキオ」と私に呼びかけてくる。

 イエス様のことを最近は説教の中でも「イエス」と 敬語なしで呼び捨てる人が 多くなってきたが、イスラエルでは(欧米でも)これが普通なのだ。もちろん イエス様の時代も同様だったのであろう、「ダビデの子イエスよ私を憐れんで下さい」(マルコ 10:47)「ヨセフの子イエスだ」(ヨハネ 1:45)。「イエスは言った」などすべて呼び捨てである。

 イスラエルでは兵役を終えた若者の多くは外国旅行をする。日本にも多数来ていて、その多くは路上でアクセサリーなどを売って旅費を稼いでいる。そういう人を見ると私は「アニ ユキオ ミ アタ」と声をかける。すると相手は目を丸くして驚く。日本でヘブライ語を聞くのだから。

ツアーの人々との団体生活(28)

 ヘブライ語会話教室の講師をヴォランティアで快く引き受けて下さったのは当年80才のドフ氏である。ドフ氏はこのマアニットの住民であり、エルサレム・ポスト紙の編集委員で論説なども書くなどの経歴を持つジャーナリストである。

 定刻が近づいたので私たちはS師に導かれてヴォランティア用の集会室まで夜道を歩いて行った。K師は参加されなかった。

 集会室の入口を開けて中に入ると板敷きの50坪はある大きなホールであった。入口近くの壁面に黒板が取り付けられていて、その前に机と椅子が無造作に置かれている。受講者は私たち4人の他にイギリスからの青年2人もいた。この青年たちは今回限りで、次回は来なかった。

 時間通りにドフ氏も来られた。かなり太っておられ、杖を頼りにゆっくり歩かれる。氏は黒板の前に立つとプリントを一枚づつ配布された。そのプリントには英文字のみでヘブライ文字はなく、タイトルは「ivrit.1」(ヘブライ語.1) と書かれてある。

 氏は先ずヘブライ語の歴史を相当訛りのある英語で語られ、その要約をS師が通訳して下さる。朝が早いのと日中の労働やハデラ行きもあって眠気が激しく襲ってくる。

ドフ氏がくださったヘブライ語会話の学習シート。

ツアーの人々との団体生活(27)

 ハデラの町に関して小出正吾師が『聖地巡礼』(審美社 1970年刊)で書いておられるのでその大要をご紹介する。

 ”ハデラは1891年に近代シオニズム運動の最初の移住者たちが入殖し、湿原地帯のマラリヤに悩まされながら開拓して建て上げた町である。その苦闘の跡が今、広い墓地となって残されている。ハデラとは「緑」の意味で、かっては葉が沼沢を青々とおおっていたがそれが今柑橘の繁みに代わっている。”

 ”町の中央にはユダヤ会堂があり、そのそばにアラブの旅宿が残っている。隊商宿の名残りだが、最初の入殖者が土地と共に買い取り、彼らの住居になった。この町の紋章は左にレモンの果、右に隊商宿址が描かれ、下に「涙とともに播く者は 歓喜とともに穫らん」(詩篇 126:5)が記されている。”

 これらの文章を見る限りこの町は現代イスラエル最古の開拓地の一つであることが分かる。最近はロシアからの帰還者が多く、町の中央広場でロシア語の書籍を広げて売っている人々も見かけた。

 キブツに戻った私たちは簡単に夕食を済ませ、この日の反省会をした。そして、午後8時半からヘブル語会話教室の第一回目を受講するのである。

ツアーの人々との団体生活(26)

 郵便局の窓口の女性も、空港の入国手続き窓口の女性と同様で、無愛想でニコリともしない。客の女性との間にトラブルが生じたのか大声で激論し合っている。窓口の女性が奥に入って出て来ては又激しく会話し始める。イスラエルではこれが日常なのだろうか。周囲の人々は誰も気に留めない。

 そこから私たちはS師に導かれて百貨店に向かった。小さな町なのに立派な百貨店があるのだ。時間があまりなかったので、私は1,2階だけを見て回ったが、近代的で明るく清潔な店ばかりである。私は書店でイスラエルの花の本と格安のミュージック・カセットテープ(イタリヤからの輸入品)数本を買った。

 その後、キブツに戻るために先の中央バスステーションとは別のバス停に向かった。バスの時間までに少し時間があったので、すぐ横の市場見物をした。フルーツ類が安い。オレンジとグレープフルーツが1kgで1ドル。K師はグレープフルーツを2ドル分買われたが、何と11個もあり、私もその分け前にあずかることが出来た。

 ハデラの中央バスステーションは何度かアラブゲリラのテロが発生し、その度に犠牲者が出ている。

ツアーの人々との団体生活(25)

 3月3日(木)も午後二時に仕事を終えた。キャビン(宿舎)に戻ると急いで着替え、出かける準備だ。この午後は日本人5人でキブツに最も近い町ハデラに行ってショッピングなどをするのだという。

 歩いて15分ほどのギヴァット・ハヴィーヴァーという学校前のバス停まで行き、そこからバスで20分ほどでその町に着く。

 イスラエルでは車は右側通行なので慣れるまでは車に乗っていても何となく落ち着かない。特に交差点で右、左折する時に違和感を覚える。車窓の風景は日本とそれほど違わない。私たちは中央バス・ステーションで降りた。

 ここからエルサレム、ナザレ、テベリア、ハイファ(カルメル山)、ベエル・シエバへのバスが発着している。私たちは先ず、そこから歩いて郵便局に行った。S師が何か所要があり、局の力ウンターで係の女性と何か話している。

 私はここから日本に電話をすることにした。時差は7時間なので、日本は夜11時を過ぎている。家内にはすでに手紙を書いたが航空便でも1週間以上しないと日本に届かないので、とりあえず無事に着いたこと、元気にしていることを伝えた。

ツアーの人々との団体生活(24)

 第5日目(3月4日、木)、この日からバナナ畑での作業になった。木の手入れと除草である。以前に作業内容を書いた後に、新たに思い出したことがあるので、それを加えさせて頂く。

 バナナ畑は左右二面あり、双方とも20列計約40列あり、一列に150本ほど整然と一直線に植えられている。まるでバナナの樹海である。この日ここで作業するのは10人、日本人は男女二人づつ(あと一人の女性はキッチンでの仕事)あとの六人は外国人青年たちであった。

 私はS師とペアで一列(同じ列)を清掃する。私が一本目、S師は二本目、終わると先へ先へと進んでゆく。一列全部終わると、次の列に移るのである。先ず枯れて茶色になり、下に垂れている葉(枝)やの外皮で枯れた部分を鎌で除去する。その後、周囲の地面の除草をするのである。

 私の作業が遅いとS師は2つも3つも先へと進んで行ってしまわれるのである。S師について行こうとすると、されいに除草することはできない。うつ向いて除草し、それを終えて、次の木へ移動するために腰を伸ばして頭をあげると、目(頭)がクラクラするほどの作業速度であった。

ツアーの人々との団体生活(23)

 ここで、以前の文章の訂正が必要になりました。12年前のことで記憶が曖味になっていました。

 キブツでの労働場所に関して、1日目がアボカド畑、2,3日目がバナナ畑と書きましたが最初の3日間はアボカド畑での作業でした。3日目は早朝から雨で、全員レインコートを着て、ゴム長靴を履いての作業で、その雨は午前中に止みました。その日の午後の作業後にヨハナンがキブツ内を案内してくれたのです。お詫びして訂正させて頂きます。

 日本では雨の日は天気が悪いと表現しますが、イスラエルでは雨は好天です。雨期と乾期にはっきり区別されているイスラエルでは、雨期(冬)に雨が降らないと大変なことになります(列王記上17:1)。雨は天からの恵みそのもの、神の祝福の証しです(レビ 26:3, 4 詩 68:10、エレミヤ 5:24、エゼキエル34:26)。

 子供たちも全員レインコートを着て、はしゃぎながら登校している。まるで南国に雪が降ったかのように。雨の日に、キブツ内で傘をさしている人は私たち日本人以外に誰一人として見かけることはありませんでした。

ツアーの人々との団体生活(22)

 ヨハナンによるキブツ内の植物・遺跡案内は、このぶどうしぼり場(酒ふね)でほぼ終わりである。

 松の林を出て、私たちは、北西側の小さな丘の上に建てられた物見の塔に向かった。この辺りも古代遺跡の上にあるらしく、石造りのアーチ型ゲート(門)が草の中に立っていたりする。

 物見の塔は高さ5m、縦横4mの四角いコンクリート製のものでキブツ製である。北側の入口から入ると鉄製の階段が屋上まで続いている。壁の四方には四角い窓があり、屋上は高さ1mくらいの壁で四方が囲まれている。

 これはアラブ諸国との四次にわたる戦闘のためのもので、四方の外壁には無数の銃痕が残されていて、ここが激しい戦場であったことを物語っている。この頃は表面的には平和で、キブツ内では何人ものパレスチナ人が働いているし、食堂でも一緒に談笑しながら昼食をとっている。

 私はその屋上から東側にあるドタンの地が見えないかと背伸びして見たがすぐ前の丘の松林に遮られて全く見ることはできなかった。

ツアーの人々との団体生活(21)

 松の林の中、貯水井戸の穴の口に大きな石を元通りに戻してから、私たちは東の方へ草を踏み分けながら100mほど歩いて行った。すると眼前に大きな穴が見えた。

 近付いて見ると石を掘ったような四角い浴槽の形のものが二槽並んでいた。その大きさは二槽合わせて3m×2m、深さが1.5mほどある。槽に隣接して3m×1.5mほどの長方形のポーチのようなものが地面にあり、その周囲は10cmほどの高さの壁で囲まれている。

 ヨハナンによると、これは古代のぶどうの踏み場と酒(ワイン)ぶねだという。収穫したぶどうの果実を踏み場(搾り場、黙14:19)に入れ、それを足で踏み絞るのである。その果汁が酒ぶねの中に流れ落ちて貯まるという仕組みなのだ。

 士師記6章でギデオンがミディアン人の略奪を免れるため酒ぶねの中で小麦を打っていた、と記されている(11節)のは、このような所だったのだ。

 300人の精兵を選出したエン・ハロド(ハロドの泉、土師 7:1)は、やはりこのキブツから東へ10km行った所にあり、昔この辺りは ぶどう畑が多くあったのであろう。アハブ王が欲しがったナボトのぶどう畑も同様だ(列王上21章)。

ツアーの人々との団体生活(20)

 このような古代の雨水貯水井戸はイスラエルには数多く残されており、私もそのいくつかを見ることができた。

 ヨハナンは「ヨセフが兄たちに穴に投げ込まれたドタンという地は、このキブツから東へ10kmほどしか離れていない」と説明した。数ヶ月前に生駒市図書館で借りた本(新聖書地図、朝倉書店刊) に次のような文章があった。

 「ヨセフ物語の中で、ヤコブの子らは家畜の群れをヘブロンから(直線距離で75kmの)シケムまで連れて行き、次いでシケムから(さらに35km離れた) ドタンに達した。おそらく降雨量のゆえにヘブロンの東のユダの砂漠で群れを放牧することはできなかったため、兄弟たちは全体的にもっと肥沃な北方の丘陵に移動せざるをえなかったのである。ヨセフが兄弟たちから押し込められた穴が干上がっていた理由は、この降雨不足にあるのかも知れない(創37:24)。」

 ヨセフが兄たちに奴隷としてエジプトへ売られた場所がこんなにも近くにあることを知って、私は非常に驚き、何としてもその場所ドタンを見てみたいという強い衝動に駆り立てられた。そこはパレスチナ人の居住地域で、行くのがそう容易ではないことを後で知った。

ツアーの人々との団体生活(19)

 キブツの広大な土地の南西側には小高く盛り上がった松の林(植林)がある。ヨハナンは私たちをその林の中へ連れて入った。足元の周囲をよく見ると、古い石造りの建て物(町)が埋まって出来た丘であることがわかる。

 石の建材のようなものやアーチの最上部などが露出しているのである。ヨハナンは大きな丸い石がある場所の前で立ち止まり、その石を転がして少し移動させた。その石の下には直径40cm位の穴が開いていた。穴の周囲は石のように硬く固められている。

 中を覗いてみると、大きな空洞になっている。暗いので深さがどれくらいなのかは分からない。口は40cmほどだが中は三角フラスコ(理科の実験などで用いた)型をしていて、かなり大きな空間だという。ヨハナンの説明ではこれは古代の貯水用井戸で、雨期(11月〜3月)に降った雨水をこの穴に流れ込むようにして貯え長い乾期に備えるものである。

 この井戸は雨期なのに中は空であった。後に行ったアラブ人の村にあったものは満水で道路にまで溢れていたこれはヤコブの子ヨセフが兄たちに投げ込まれた穴(創世記37:24)と同型のものだそうだ。

ツアーの人々との団体生活(18)

 古代の墓の中から出て、墓の裏手の雑草の生い繁っている所へヨハナンは草をかき分けながら進んでゆく。雑草に囲まれて何本かの木々も生えている。ヨハナンは右側の木の前に私たちを導いた。ごく普通に見える木だが、高さは約 2.5m、細めの枝がからまり合って横に拡がって伸びている。

 これはピスタチオの木だ、と言ってヨハナンは旧約サムエル記下18章9節を開いて読んだ。「アブサロムがダビデの家臣に出会ったとき、彼はらばに乗っていたが、らばが樫の大木のからまり合った枝の下を通ったので頭(髪)がその木にひっかかり、彼は天と地の間に宙づりになった。乗っていたらばはそのまま走り過ぎてしまった」という箇所だ。

 その直後彼は父ダビデ王の将軍ヨアブに殺されてしまうのである。日本語訳では樫の木となっているが、ヘブライ語(英語)ではピスタチオだという。

 確かに樫の木の枝はからまり合うようなものではない。このピスタチオの枝なら長髪のアブサロム(同14章25~26節)の頭はひっかかってしまうだろう。現物を見て納得した。帰国して店でピスタチオの実を見るたびにこのことを思い出す。

ツアーの人々との団体生活(17)

 次にヨハナンは私たちをキブツの住居から少し離れた西方向に導いて行った。小径の途中の左下側に掘られた穴のようなものが見える。その穴の入口は窓のような形で幅が1m、上下の高さが50mほどしかない。その入口は地面より低く、石段を3段降りた先にある。その狭い入口をくぐって中に入ってみると、畳3畳ぐらいの四角い部屋になっていて、床から天井までは 1.5mほどしかなく、腰を屈めていなければならない。

 その中に古い石棺が正面に横向きに1つ、左壁に縦向きに1つ置かれていて、それぞれの上に日本の古い屋根の形をした大きな石の蓋が置かれていた。大人が二、三人寄ってもとても持ち上げられそうもない大きさだ。

 その石棺の横側の一部は壊されていた。この墓の内部はかなり暗かったが、割れた部分から棺の中を覗いて見たところ、空であった。石棺の側面にはぶどうの房などのデザインが浮き駆りで刻まれていて立派なものであった。

 外に出て入口の右側を見ると戸袋のようなものがあり、以前にはここに大きな丸い石があって、それを転がして入口を閉じる構造になっている。この墓はローマ時代(紀元前後)のものだという。

ツアーの人々との団体生活(16)

 いなご豆の木のある中央食堂の裏出入口の側から南に歩いて行き、大きな牛舎の裏手に行った。そして、そこに5〜6本まとまって生えている細長い幹の木の前に来た。その葉は楓の葉の形と大きさだが、楓よりも薄い。茎は真っ直に上に伸び5mほどの高さがあった。

 ヨハナンはこれを 「とうごま」と言ってから旧約聖書ヨナ書を開いて読んだ(4:6~10)。S師はそれに続いて日本語の聖書を開いて同じ箇所を読んで下さる。それによると神がヨナのために生えさせたとうごまは一本だけである。

 一本だけでは、たいした日陰はできないと思われるが、灼熱の地ではそれでも貴重な日陰なのであろう。この時は3月初めであったが真夏では木の様子も異なっているのかも知れない。ヨナ書では一夜のうちに育ったと書かれているが、これは奇蹟である。

 この木もキブツのあちこちに生えていた。帰国して後に知ったのだが、この木は日本でも古くから栽培されていて、この実から下剤のヒマシ油が作られている。生駒めぐみ教会の庭にも1mほどに育った「とうごま」があり、見ることができる。

とうごまの木

ツアーの人々との団体生活(15)

 ヨハナンが話すには、いなご豆のさやは完全栄養食品で、水とこれがあれば人は生きてゆけるのだという。古代の修行僧たちは、このいなご豆と水だけで生活していたそうだ。

 この時は未ださやが緑色だったので食することはできなかったが、後日食べてみた。レーズンのような味と甘みがして不味くはない。しかしカスが口内に残り、喉にひっかかるようで食感が悪い。父のもとで贅沢(ぜいたく)な暮らしに馴れていた放蕩息子には、これで空腹を満たすことは困難だったであろう。これは貧しい人々の食べ物なのだ。

 イスラエルではどこでも見かけるありふれた植物である。この種子は形も大きさも西瓜の種とそっくりで、西瓜の種より僅かにふっくらとしていて色は小豆色である。

 種一個の重さがどれもほぼ同じということで、このいなご豆一粒の重さが宝石の重さの単位(カラット)とされていることをヨハナンから聞いてはじめて知った。いなご豆の木の学名はカラトニア・シリクアである。

 又この木は銀杏やキウイと同じく雄と雌の木が側に植わっていないと実をつけない。日本でも育つ。昨年、大阪の牧師が教会の庭で実を結んだ、と写真付きで或る紙面で報告しておられた。あすか野教会でも苗が何本か育っている。

ツアーの人々との団体生活(14)

 次に向かったのは「いなご豆」の木の下であった。先の「いちじく桑」もこの「いなご豆」も初めて目にする木であるが、「いなご豆」は「いちじく桑」に比べるとずっと小ぶりで高さは4〜5m。幹や枝から豆のさやが4〜5本、束になってぶら下がっている。

 そら豆が痩せ細ったような形のさやである。この「いなご豆」は聖書にはただ一回のみ言及されているのだが、案外知られている。それは主イエスが語られた最も有名なたとえの一つ、「放蕩息子」に登場するからである(ルカ 15:16)。

 「彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが・・・」と主イエスは語っておられる。日本ではそら豆のさやは豚の餌にされていると聞いたことがあったので、「いなご豆」が豚の餌とされていたことが現物を見て納得できた。

 ヨハナンは「いなご豆」は豆ではなく、さやを食用にすることを教えてくれた。6月頃にさやが黒色になってから食用にするのだという。今もアラブ人はさやを煮出して汁を取り、愛飲しているし、古代には貴重な食料として食されていたのだ。

ツアーの人々との団体生活(13)

 次にヨハナンが私達を導いたのは古くて壊れかかった木造家屋横の巨木の下であった。木の丈は10m以上あり、枝葉も立派に繁っているので、その場所は真昼なのに薄暗い。幹は脂肪太りしたような直径 1.5mはある白っぽいもので、豚の皮膚のような皮である。

 枝の先に沢山の小さな実をつけているが、その直径は1cmほどしかない。実の形はいちじくと同じだが、これ以上大きくはならず、葉は普通の形(たとえば楠の葉)である。この木がエリコの町で取税人の頭ザアカイが登った「いちじく桑の木」(ルカ 19:4)だという。

 幹の下の方から枝分かれをしているので、一見すぐにも登れそうなので私も登ってみようと思い、手をかけてみたが、幹はすべすべで太いので、とても歯が立たない。脚立のようなものがないと無理である。

 ザアカイは背が低かった(ルカ 19:3)と書いてあるから、彼がこの木に登るのは相当大変だったろうなと私は思った。単なる好奇心だけではない何かが彼の心にあり、主イエスもその心をご存知だったのではないか、とこの木を前にして私は考えていた。

ツアーの人々との団体生活(12)

 キブツ・マアニットは、地中海沿岸の中都市ハデラの真東10kmにある。ハデラの北40kmにはイスラエル北部最大の都市ハイファ(カルメル山)、南45kmにテルアヴィブ・ヤッフォ、アマニットはシャロン平野のほぼ中央に位置している。

 ハデラの北2kmにはローマ時代最大の港湾都市カイザリヤの遺蹟がある。マアニットはそのカイザリヤのすぐ近くに位置しており、キブツの一部は小さなテル(遺跡の丘)の上にありローマ時代の遺物が数多く出土しているのである。

 更にこのキブツには聖書に出てくる多くの植物が植えられていて、キブツ全体が聖書自然博物館の如しである。ヨハナンが先ず私たちを導いたのは幹が真紅の植物の前である。高さ3mほどの小木だが、この木の幹はキリストの血を想起させるもので、イスラエルのキリスト信徒たちに珍重されているという。

 この植物は聖書には録されておらず、私はこの木の名前を覚えていない。他のメンバーはメモを取り、カメラのシャツターを切っていたが、私はカメラを持ってきていなかったので、この木に関する記録は残念ながら残っていない。

ツアーの人々との団体生活(11)

 今日はバナナ畑の責任者ヨハナンが私たち日本人ヴォランティアのためにキブツ内を案内してくれることになっていた。それで、仕事を終えるとすぐ中央食堂に集合した。彼はイスラエル生まれのユダヤ人で当時50才代の男性である。

 イスラエルではイスラエル生まれのユダヤ人のことをツァバル(サボテンの実)と呼ぶ。外見は厳めしいが内側は甘くて美味しい(優しい)のだという。ヨハナンは典型的なツァバル(通常日本ではサブレと呼ばれる)で頭髪は真っ黒で縮れ、眉は太く、髭は濃い。瞳は黒く、腕や脛は毛が濃く、皮膚は浅黒い。イラクの遺蹟から発掘されたアッシリア王のレリーフによく似た風貌である。

 ヴォランティア世話係のアロン、カナダから来たユダヤ人ヴォランティア、ヒレルもよく似た風貌で、旧約聖書時代からのユダヤ人の血をそのまま受け継いでいるのではないかと思わされる。

 ヨハナンは自分はイエスをメシヤと信じていると言う。しかし、S師は「ヨハナンは、ドイツ人が創設した異端を信奉している」と語っておられた。そのヨハナンが大きくて厚い英語聖書を開いてキブツの中を案内し、S師が通訳をして下さった。

左:アロン 右:ヨハナン

ツアーの人々との団体生活(10)

 翌日(3月2日)もバナナ畑での仕事であった。この日は収穫ではなく畑の手入れ、下草取りである。バナナの木の周囲の雑草を摘み取るだけの仕事なので単純そのものである。時々根を深く張った草があり、力を要することもあるが大半は簡単に手で除草できる。

 しかしである!それがとてつもなく想像を絶する重労働なのだ。それも日本人だけが・・・。

 他のヴォランティアは、ごく普通にのんびりと除草をしているのだが、S師と他の若い女性たちは目にも止まらぬ速さで仕事をしてゆかれるのである。私もその速度でついてゆこうとするのだが(バナナの木を一周して、そこの除草が済むと隣の木に進むのだが)5分もしないうちに汗が吹き出し、目まいがしはじめた。朝食前の2時間、昼食までの4時間、その後1時間の計7時間、これを続けるのだ。

ツアーの人々との団体生活(9)

 この日の労働も午後2時で終わったが終了間際には背骨と腰の負担が限界に達し、痛くて動かせないほどになった。しかし宿舎に戻る頃にはかなり回復した。

 私たち日本人ヴォランティアグループは労働後の時間の全てはリーダーのS師の指示に従って行動した。汚れた衣服などの洗濯(手洗い)、部屋の清掃、休息(大抵は昼寝)などなど。

 外国人の他のヴォランティアたちは全員若者たちで、自由時間の過ごし方もまちまちである。英国、オランダ、南アフリカカナダ、アルゼンチン、ノルウェー、フランスなどから来ていたが、その多くはグループでの参加である。中には外国からのユダヤ人もいた。

 宿舎の外にベンチを持ち出して、ラジオで音楽を聴きながら日光浴をしたり、バスケットボールやバレーボールのコートもあるので、そこで球技をしたり、飲酒をしたり、町に出かけたり、深夜まで楽しんでいる。

 彼らに比べ日本人のクリスチャングループはリーダーが設定したその日その日の計画の枠組に従い生活するのである。それがキブツの住民や外国人ヴォランティアの目には、あまりにも奇異に映っていたということをずっと後になってから知った。

ツアーの人々との団体生活(8)

 温水槽に浮かべられたバナナの房は選別され、一房4〜5本になるように小型ナイフでカットされる。そして隣の防カビ剤入りの水槽に入れる。私のこの日の作業はこの単純な作業であった。水槽の高さが私の身長では少し低かったので、少し前かがみ気味で作業をしなければならず、朝食前の立ち続け2時間の仕事は腰に負担がかかり、案外ときつい仕事であった。

 選外品となるものは傷付いたもの、太くなり過ぎて変形したもの、黄色くなったものなどである。これらは捨てられるのではなく、キブツ住民の食用にされる。防カビ(殺菌)処理の水槽に入れられた房はすぐに引き上げられ一房ごとに「JAFFA BANANA ISRAEL」と書かれた小さな楕円形のシールを貼られ、大きな計量器の上に乗せられたダンボール箱の中にきれいに並べて入れられる。

 決められた重量になると蓋を被せ粘着テープで固定し、コンテナの奥に積み上げてゆく。この繰り返しである。

 最近日本に輸入されるようになったイスラエル産のスウィーティーにも、一個ずつに「JAFFA Sweetie ISRAEL」と書かれた小さなシールが貼られており、このシール貼りをこの日、S師がされた。このオーガニックバナナは割高だが、ヨーロッパに輸出されて人気商品だとヨハナンは何度も言った。

ツアーの人々との団体生活(7)

 朝6時前に私たちを車で迎えに来たヨハナンは、それ以前に大量の温水を準備してバナナ畑の中まで運んで来ていたのだ。いったいこの準備に何時間要したのであろうか。とにかく、彼は大変な働き者、性格は真面目で控え目口数は少なく、自分はこんなに働いているのだとか、こんなにしてあげているなどは態度にも一切出すことはない。

 それでいてヴォランティアと一緒に働きながら、全てに目配りをしているのである。バナナの収穫作業は次のように進められた。先ず、体格の良い女性ヴォランティアが薙刀のような柄の長い鎌でバナナの木から実った房を丸ごと切り落とす。その下で頑丈な体格の若いヴオランティア男性が待ち構えていて、肩の上に受け止める。

 彼の肩には、座布団のようなマットが着せられていて衝撃を緩め、バナナや肩を痛めないようにしてある。彼は数十キロもあるその房を担いで足元の悪い畑地をバナナの木の間を縫ってトレーラーの荷台まで運んで来る。

 トレーラーの荷台に居る男性がその房を取り上げ、天井についているホックに引っ掛けて宙品りにする。そして鉈(なた)のようなナイフでその大きな房から一列ずつバナナの房を切り取って温水の中に入れる。