ツアーの人々との団体生活(66)

 祝福の山の会堂の周囲は回廊になっていて、白色のスマートな円柱(約30本)で支えられている。会堂周囲の庭は美しく手入れされ、なつめやしの木などが整然と植えられてある。

 この回廊から見下ろすガリラヤ湖も実に美しい。なだらかな丘陵の下は果樹園、そしてその先にガリラヤ湖全景を見渡すことが出来る。ガリラヤ湖北西に位置するこの場所から先ほどのヒッティンの丘や、その対岸のバシャン高原も霧の彼方に見渡せるのだ。霧が晴れたら更に素晴らしい光景になるだろう。

 主イエスがこの場所で弟子たちに神の国の憲章を語られたのであろうか。ここはカファルナウム (カペナウム)に近いので、その可能性もあろだろう。S師の話では、或るツアーで日本の音響専門家がここを訪れた時、「この地形は音響的には素晴らしい。何千人が居ても説教者の声はマイクなしで聞ける」と語ったそうだ。

 私たちがここに到着したのは11:30であった。だがこの会堂は 12:00~14:30のあいだ閉館されるので私たちは30分足らずでここを離れ、車で更に北方へ向かった。一度ガリラヤ湖岸まで下り、東に進み、カファルナウムの遺蹟横を素通りし、ヨルダン川にかかる橋を渡ってから左折し、北へ上って行った。

ツアーの人々との団体生活(65)

 ヒティンの断崖の下は緑の小丘のようで、東の湖の方へ歩いてゆくと、キブツの車が待っていた。ここは東のガリラヤ湖の他の三方は山に囲まれ、北西側に谷川があり、北ガリラヤに通じている。ヨシュアのイスラエル軍が、ガリラヤ北方のカナン軍を制圧するのにこの谷を北上して行ったと伝えられている(ヨシュア 11:5-9)。

 再び車に乗って、私たちはガリラヤ湖西岸に添って北上してゆく。初めて見るガリラヤ湖は霧に霞んでいた。マグダラ、ギノサル(ゲネサレ)を通過して、車は丘の上に上って行き、脇道に入って行った。

 巨大なアカシアの木が何本も繁っている日陰に停車した。その駐車場から庭の方へ歩いてゆくと、植木の垣根の向こうにドーム屋根の8角形の美しい教会堂が見えた。ここは祝福の山と言われる場所で、主が山上の説教をした場所と伝えられている(マタイ 5〜7章)。

 会堂内に入ると多くの巡礼者たちがグループごとに集まって讃美を歌ったり、祈ったりしている。その中には日本人のグループもいて讃美していた。このグループは神の幕屋に属する人々で、ロンドンからの飛行機でも一緒であった。

ツアーの人々との団体生活(64)

 このヒッティンの丘について、ヨハナンはかなり詳しい解説をしてくれたが、S師の通訳が断片的なので概要しか判らない。ヒッティンの丘やアルベール山は聖書には登場しないが、マカベア戦争(B.C. 2世紀)、ヘロデ大王(B.C.1世紀)、対ローマ戦争(1世紀)時代ここは難攻不落の要塞となり、シリア(ギリシャ)もヘロデ大王も、ローマもここを陥とすのに大変苦戦を強いられたという。

 この絶壁には天然の洞窟がいくつもあって、敵がひとたびここに篭城してしまうと、なかなかその攻路は難しかったのである。ヘロデ大王に反抗する者たちが篭城した時も攻路は難航を極め、最後はこの頂上から兵士を吊り下ろし、洞窟内の者を一人一人槍で刺し殺していったのだという。

 敗北を悟った人々は、この洞窟から投身して全滅したそうだ。ヨハナンの話が終わると、私たちは車に戻って次の場所に行くのかと思ったのだが、何と、この絶壁を降りて行くのだという。絶壁に鎖やロープを張ってあり、何とか下って行けるようにしてある。

 下る途中は、もうガリラヤ湖など眺める余裕はないが、その絶壁を下る途中に大きな洞窟があり、そこに入ることも出来る。私もそこに入り、2千年前にここに篭城し投身していった人々に思いを寄せることが出来た。又、この絶壁に野生のチューリップが赤い花を咲かせている。チューリップはパレスチナが原産地で、今も原種のまま咲いている。

ツアーの人々との団体生活(63)

 タボル山麓から15分ほど北上すると車は細い脇道に進入し、曲がりくねりしながら無舗装の石ころ道を走る。駐車している2台の大型バスの横を更に少し進んだ所で車は停止した。そこで下車した私たちは岩や石だらけの所を歩いて上ってゆくと、何と、そこは断崖絶壁の頂上であった。

 平らな岩地であるが、その北と東の端は高さ 500mの絶壁である。私たちはその崖っ淵まで行って下の景色を見た。高所恐怖症の私は、腰を屈め、おどろおどろしながら歩を進めて淵の岩まで行き、四つん這いになり腰を後ろに引きながら下を覗いて見た。

 その景観の美しさに恐さも忘れて私は見入ってしまった。、眼下には青々としたガリラヤ湖の北半分が開け、その湖畔のオレンジ、グレープフルーツ、バナナ畑の緑、左側には深い谷、その前方にはガリラヤ高地の緑の山々。まさに絶景だ。

 ここはティベリアの北西5km、標高326m、ヒティンの丘(アルベル山)だと後で知った。ガリラヤ湖は海面下約200mなので、この絶壁は500mもあるのだ。

ツアーの人々との団体生活(62)

 タボル山の頂上には建物らしきものが車窓から見える。この山頂にはフランシスコ会(カトリック)とギリシャ正教会の会堂が建てられている。ここがイエス様の変貌の山(マタイ 17:1~8)だという説に基いている。麓には観光バスが数台停まっているのも見える。

 バスでは頂上までは上れないが、乗合タクシーで頂上に行けるという。頂上からの眺望は格別らしいが、プロテスタントの人々が参加するツアーのコースには、この山の登頂は入っていないようである。

 タボル山と道路向いにエンドルという標識がある(「住居の泉」の意味)。サウル王がここに居た口寄せ女のもとを訪れ(サムエル上 27:7~25)、そのすぐ後にペリシテ軍との戦いで、戦死を遂げたのである。詩篇によれば、カナン軍のシセラとヤビンは、この地で戦死したと歌われている-83:11(10)。

 エンドルの方の地は平坦ではなく、潅木が生い繁っている。私たちを乗せた車はこの辺りからタボル山を回るように北方に進路を変えて進んでゆく。

ツアーの人々との団体生活(61)

 アフラから南東への道に行くと、サウル王と彼の王子ヨナタンが戦死したギルボア山とその麓を通ってベテシャン、ヨルダン川に通じている。南の道に進むと、パレスチナ人の町ジェニン、ヨセフが兄たちからエジプトに売られたドタン平野、サマリヤへ通じ、北東に進めばタボル山からガリラヤ湖に至る。

 南西への道は今、私たちが進んで来た道で、カイザリヤから地中海に至っている。このようにアフラはエズレル平野の交通の要衝である。現在の町は1925年にアメリカから帰還したユダヤ人たちによって開拓創建され、農業によって支えられ発展した町である。

 私たちの車は北東への道に進んで行く。15kmほど先に進むと、タボール山の麓にさしかかった。車の左手にお椀を伏せたような形の山がそびえ立っている。標高は588m。ここは女士師デボラが指揮するイスラエル軍が将軍バラクに率いられて、シセラ将軍に率いられたカナン軍と激戦を繰り広げた場所として知られている(士師記 4~5章)、麓から山頂まで上ってゆく道も確認することが出来る。山全体は緑色に包まれている。

ツアーの人々との団体生活(60)

 メギドから北東へ10km、車はアフラの町を通過した。この町はエズレルの野のほぼ中央にあり、人口2万人を超す町である。度々通過するのだが、メギドと同じく、一度も観光したことがない。アフラはアラビア語の名称で、聖書では丘を意味する「オフェル」から変化した名と考えられている。この町の南には古代住居跡があり、エジプトのトトメス3世(B.C. 15世紀)の書いたリストにもあるという。

 預言者エリシャがシリヤの将軍ナアマンと会見したのもエズレル周辺(カルメル山かモレの丘)であったと考えられる。ナアマンのらい病がきよめられた後エリシャの下僕ゲハジが帰国しようとしたナアマンの後を追い贈り物を受け取った場所がこの地であったと伝えられる。

 「オフェル(丘)に着いた時、ゲハジは彼からそれらを受け取って家にしまいみ…」(列王下 5:24)。車の窓からは丘らしきものは確認出来なかった。 アフラからは5方向に道路が走っている。

 北側への道は主イエスが育ったナザレに通じている。アフラから北方を見るとガリラヤ南端の山地が見え、その山の上にある町を見ることができる。そこがナザレで約10kmほどの道のりなので歩いても行けるほどの距離である。 ナザレと聞いて私の胸は高鳴るのを覚えた。

ツアーの人々との団体生活(59)

 メギドは「ハルマゲドン」(メギドの山)で世界的に有名な地名である。ここには今から6千年も前にカナン人が住んでいたことが発掘調査で判明している。それ以来この地で幾多の戦争が繰り返され、何度も破壊されては再建され、遺跡の層は20を超える。

 ヨシュアの時代、士師時代 (デボラ、ギデオンなど)から王国時代まで旧約時代にも幾度もの戦いが繰り広げられ、近年も英国とトルコがここで決戦をし、イスラエルの独立戦争でも戦場になった。しかし、今はそれらが嘘であったかのような静かな田園風景なのだ。その広々とした畑の真中を車は真っ直に東に進んでゆく。

 エズレルは正確にはイズレエルと発音する。「神が(種を)播かれる」という意味で、ギリシャ語でエスドラエロンとも呼ばれる。古代からこの地は水に恵まれ、豊かな農産物の収穫が得られたところから付けられた地名と思われる。 周囲の山々の麓から湧き出る泉がこの地を潤している。ハロデの泉(土師 7:1~7) もそのうちの一つである。

ツアーの人々との団体生活(58)

 エズレルの野が眼前に開けて来た時、右側の車窓から「タアナク」を指す標識が見えた。この地は現在はテル(廃丘) で人は住んでいないが、旧約聖書(ヨシュア記、土師記など)だけで言及されている。

 ヨシュアのイスラエル軍によって占領されたこの地域はマナセ部族に割り当てられたが、マナセ部族はタアナクを支配下に置けなかった(土師 1:27)。1901年以降の発掘調査により、「タアナクのアシュタロテ」と呼ばれる女神の像が15個も出士し、それらが紀元前12世紀(ヨシュア・土師時代)のものであることが判明している。

 タアナクはメキドの南東8km、エズレルの野の南東端に位置しているが、エズレルの野はメギドの野とも呼ばれ戦争が頻繁に行われた戦場の野なのである。平原に入るとすぐメギドジャンクションがあり、左折すればハイファに、右折すればタアナク方向に行く。

 この交差点のすぐ右手がテルメギドで有名なメギドの遺丘である。後にも何度かここを通過したが、この遺丘を観光する機会を得られなかったのは残念であるが、その地形や位置を知ることが出来たことは幸いであった。

ツアーの人々との団体生活(57)

 車はシャロン平野からエズレル平野に向かって山合いの谷間の道を上ってゆく。この谷は北のカルメル山脈から南のサマリヤ、ユダヤ山脈に連なる山々の間を縫ってゆく道で、現在はきれいに舗装されている。

 この道は古代はエジプトとバビロン、ペルシャを結ぶ海の道と呼ばれる幹線道路の一部であった。エジプトから地中海沿いにガザ、そして後世のカイザリヤ付近から東に向かい、メギド、シリヤのダマスコ、後のパルミラ、更にユーフラテス川沿岸の町々、マリ、アッカド、バビロンそしてシュシャン(ペルシャのスサ)に迄至る1500kmにも及ぶ道であった。

 この車の窓から左右の山々を見ながら、この道を行き来した古代の人々のことを思い描いた。今から2600年も前にエジプトの玉ネコは、大軍を率いてこの道を上り、メギドでユダの王ヨシュアを撃ち、アッシリアに向かったのであった(列王記下 23:29)。この谷間の道を何万もの軍勢が武具を装備して行き来したことを想像するだけでも私は疲労感を覚えた。20分ほどで視界が開けて来た。エズレルの野である。

ツアーの人々との団体生活(56)

 3月9日(水)、この日はキブツがヴォランティアのために月一回催す日帰り旅行(ヴォランティア・トゥリップ)の日である。目的地はガリラヤ湖周辺とのこと。6時起床だが睡眠が不足して体が重く起床が辛い。

 キブツの年代物のワゴン車に乗って7時半に出発。日本人は前2列の席に陣取り、他のヴォランティアは後部で賑やかに喋り続けている。車は65号線(アフラ街道)を北東方向に走る。私は窓の外の景色に釘付けになりながら、時々ツアーリーダーS師が説明して下さる言葉に耳を傾ける。以下の説明の多くはS師によるものである。

 途中にある村々の殆どはアラブ人の村で、その目印は高い塔と月のデザインのあるモスクだそうだ。それらの村の多くは山の上にある(「山の上にある町は隠れることができない」マタイ 5:14)。

 買物をするにも水を汲むにも不便な山の上に人々はどうして住もうとするのだろう。古代から平地は常に戦場と化し、容易に略奪されるので、少しは安全な山頂に住むのだという。又、山頂だと敵をいち早く発見することが出来るからとの説明を受けた。

 「山の上にある町」と何気無く読んでいた主イエスの言葉だったが、現地に来て見て、平地よりも、むしろ山の上に多くの村落があるという、この地では誰もが日常的に知っている背景の下に語られていたのだ、と認識を深められたのであった。

ツアーの人々との団体生活(55)

 この日の作業を終えてキャビンに戻り、衣類を手洗いで洗濯し、キャビンの前に張ってあるロープにかけて干す。キャビンの裏側(東側)の野には急激に巨大あざみが群生しはじめた。私の背丈(175cm)ほどの高さで、葉は白と緑で特大サイズ。先端には緑色の球状の蕾がついている。蕾の直径は5cmほどある。見渡す限りあざみの原である。

 聖書にはいばらとあざみがペアで荒廃の象徴として書かれている(創世記 3:18、ホセア 10:8、ヘブライ 6:8)。日本ではあざみは川の土手や、あぜ道などで時々見かける程度である。

 しかし、イスラエルのあざみは、日本人の目には想像を絶するものである。野原全体が巨大なあざみの海で、その棘はものすごい。「土地は・・・耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます」(ヘブライ 6:7, 8)。

 「このあざみの原を現実に見ると、機械を持たない古代人はもうお手上げであろう。刈り込むことは不可能で、乾期の立ち枯れを焼却する他に手の打ちようがないことを納得した。

 聖書の記事の茨とあざみは日本の茨とあざみを思い浮かべて理解しようとしても難しいことがよくわかった。これは他の多くの事例にも当てはまることだと思わされた。

ツアーの人々との団体生活(54)

 3月8日(火)、イスラエル滞在10日目。朝食前はバナナの収穫でトレーラーの中での洗浄・選別作業、朝食後は雑草取りであった。キブツのバス停ロータリーに面してキブツの郵便オフィスがある。その裏手に木々に囲まれた園のような一画があり、ピンク色の花を咲かせるシクラメンが群生している。

 しかし、手入れが不十分のためか雑草に覆われてしまっている。その雑草除去が午後二時までの作業だ。雑草は根こそぎ除去するのだが、一番厄介なのが茨であった。一株に10本もの茎が出て、上に立ったり、地に這ったりしている。茎の太さは1cm以上で 1.5cmほどの棘が多数ある。

 その茎は長く、一株でかなり広い範囲の地面を覆っている。軍手の手袋をしての作業だが棘が刺さって除去するのに困難を伴う。この作業をしながら、主イエスが話された四種類の土地のたとえ話を思いだしていた(マタイ 13:7, 22)。

 この茨は簡単には除去できない強力なものであることがよく判った。主イエスの説明では「世の思い煩いや富の誘惑(快楽)が御言葉を覆いふさぐ」のである。私たちの心の内にはびこるこの茨も非常に厄介なもので、その除去は容易ではないことをこの作業を通して学ばせて頂いた。この作業の後、両手の平が棘の刺し傷の痛みが残って閉口させられた(ヘブライ 12:4)。

ツアーの人々との団体生活(53)

 ハイファのオフラさん宅に着いたのは夕刻7:30。ご夫妻と娘さん二人は、私たちをとても歓迎して下さり、すぐに食事と歓談の時を過ごした。私とK師は初対面であったが、M姉と宮本姉は再会を喜び合い、キブツから出られた理由などを話しておられた。

 ご主人の名前はアムノンで、自分で「私の名前はダビデ王のよくない息子(サムエル記下13章)から取られました」と苦笑しながら紹介された。私はただ会話を聞くだけで(それも英語なので殆ど理解できずに)時間を過ごした。食卓のものも、なじみのない料理が殆どで食べ方も見よう見まねで緊張の連続。終わりの頃には気疲れしてしまった。

 帰りはタクシーでキブツに向かったが、運転手がマアニットを知らず道に迷い着いたのは11:15分であった。この日、私はバス停にポシェットを置き忘れてしまい紛失した。財布は入れてなかったが、英会話の本とこの日までの日記を書いた手帳、そして今日届いた日本からの手紙が入っていた。ガリラヤ湖・ティベリヤのスターンズ師のアドレスを知らせて下さっていたのでO先生には申し訳のないことをしてしまった。

ツアーの人々との団体生活(52)

 夕闇の中で私たちはハイファのバス停に着いた。誰もオフラさん宅を訪ねたことがないので公衆電話で乗車するバス番号と下車するバス停の名を尋ねる必要があった。

 Mさんがコインを入れてダイヤルを回してみるが、何度試みてもうまくつながらない。私たちは戸惑い途方にくれかけたが、市内電話だから市外局番は不要ではないか、と私が言い、そのようにして再度試みるとどうにかつながった。

 No.28のバスでハルシュメシュで下車したらよいとのことである。ハイファから幾つ目のバスストップと聞いていたのだが、案の定、乗り過ごしてしまった。イスラエルでは、バスも電車もアナウンスサービスが全くないので、初めて行く場所では、目指すバス停で降りるのは至難の業である。

 私はエルサレムでもカイザリヤでも乗り過ごしてしまった。運転手に大声で下車の場所を告げるのだが教えてくれない。その声を聞いていた乗客が教えてくれたので大事に至らなかったが・・・。

 私たちは下車し、暗闇の中を一駅徒歩で戻り、目指すバス停にたどり着くことが出来たのであった。そのバス停にはオフラさんが待っていてくれた。数分下って行った所にオフラさんの家があった。庭には花々が植えられ、割合と新しく清潔そうな家である。玄関口からすぐのダイニングに通されたが、もうすっかり夕食が整えられていた。

ツアーの人々との団体生活(51)

 私が心に強く感銘を受けるのは、エリヤが主に祈る際の姿勢である。「地にうずくまり、顔を膝の間にうずめる」。何と主への畏敬に満ち、真摯な、そして熱烈な全身全霊の祈りであることか。

 今から3000年前のここ(カルメル山)はどんなであっただろうか。岩がむき出しで、旱魃(かんばつ)のために乾燥の極み。そこで彼は水平線の彼方から雲が湧き出ることをひたすら祈りつづけている。ここの景観は、その情景を彷彿させて余りある。

 この場所に座り込んで心行くまで黙想していたい欲求にかられてしまうが、今日の目的地はオフラさんの家である。陽がかなり西に傾いているので私たちは元のセントラル・バスステーションに戻る。車ではなく、絶壁に近い所に作られた岩道を下ってゆく。

 その崖の中ほどまで下りた時、ちょうど太陽が水平線に沈むところであったので、その光景を背に記念写真を撮った。麓の辺りまでくると、そこは公園になっていて多くの植物が植えられている。その一角にエリヤの洞窟と書かれた看板と矢印があった。しかし、私たちはバス停への道を急がなければならなかった。

ツアーの人々との団体生活(50)

 カルメル修道会のマリヤ教会礼拝堂内は薄暗く、洞窟奥はよく見えなかった。入ってゆくことも出来るのだが、私は入らなかった。

 会堂を出た私たちは、道路向かいの展望台からの景色を楽しんだ。下方はハイファ港と町並みを、前方は地中海と水平線を、右前方はアッコやレバノンのティルス (ツロ)に到る美しい海岸線を見渡すことが出来る。

 夕刻であったので逆光のためか空はやや霞んでいた。眼下の港には、陸上に古い船が一艘展示されている。映画「栄光への脱出」でも知られているヨーロッパから脱出したユダヤ人が第二次世界大戦直後にイスラエルに帰還した際の船のように見受けられた。

 私は地中海の風景を見ながら、聖書の一旬を思い出した。それは預言者エリヤがバアルの預言者たちとの戦いに勝った直後の場所である。「エリヤはカルメルの頂上に上って行った。エリヤは地にうずくまり顔を膝の間にうずめた。『上って来て、海の方をよく見なさい』と彼は従者に言った。・・・七度目に従者は言った。『御覧下さい。手の平ほどの小さい雲が海のかなたから上って来ます」(列王記上 18:42~44)。

 今、私が立っているこの場所がまさにその地ではないか、と思うと足が震えるのを覚えた。

ツアーの人々との団体生活(49)

 私たちは近くのバス停から、午後3時すぎのバスでハイファに向けて出発した。ハイファの町に住んでいるオフラさんの家を訪問するためである。

 オフラさんは昨年までキブツの住民で、小学校教師をしておられたが、何らかの事情でキブツを離脱されたのだという。日本人ツアーの人々が毎年キブツ内の小学校を訪ねて子供たちとの交流をしていたので、教師のオフラさんとも親しくなっていて、今回の訪問となったのだ。

 私は今回が初参加なので面識はない。ハデラのバスセンターでハイファ行きのバスに乗り替えて北に向かう。左側には時々地中海が見え、右側にはシャロン平野のオレンジ、グレープフルーツ、バナナなどの果樹園が広がっている。終点のハイファセントラルバスステーションで下車したが、時間に余裕があるのでタクシーで山上の地下鉄駅口まで行った。

 そこにはカトリックのカルメル修道会の本部建物と礼拝堂があった。そこはカルメル山の北西端に位置し、ハイファの町と地中海をパノラマのように一望できる絶景の場所である。私たちは先ず礼拝堂を見学した。入場は自由で、係員と見られる人物も全く見あたらない。

 礼拝堂の最も前方まで進んでゆくと、聖壇の後ろに岩の洞窟があった。穴は高さ1m、幅が4m、奥行きが3mほどある。預言者エリヤ(列王記上 18:20、21)の洞窟だという。

ツアーの人々との団体生活(48)

 イスラエル8日目、3月6日(日)、イスラエルでは日曜日は平日である。朝6時から午後2時まで、いつものようにバナナ畑で仕事をした。日本では週休2日制がほぼ定着しているが、イスラエルでは土曜日だけが休日で、金曜日は午前中で終わるところが多い。

 作業後、午後3時から野外で聖日礼拝の時を持った。シャロンの野は花盛りで松林の近くに腰を下ろして、賛美歌を歌い、K女史がローマ書 8:1~2からメッセージを語られた。礼拝後は全員が昼寝をし、夕刻6時頃まで休息を取った。連日のハードスケジュールで心身共に疲労が蓄積している。

 夕食後、キブツ内のコルボと呼ばれる店に行って買物をした。私は7upのドリンクとナッツのピスタチオを買ったが、この店は現金では買えず、ヴォランティアハウスが支給するクーポン券だけが通用する。

 この店の開店日は土曜日以外毎日だが、開店時間が曜日によって異なるのが難である。日、火、木は夕6時〜8時まで、他は午前中だけである。ここには日用雑貨と生鮮以外の食品が並べられている。

 そしてその後はヘブル語会話の二回目で、今回の受講者は日本人だけであった。翌日はバナナ畑の仕事を終えてからハイフアの町とカルメル山に行った。

ツアーの人々との団体生活(47)

 滝川氏は更に「正統派はまた、改革派のラビが行った結婚式や改宗を認めない」と書いておられる。とすれば私たちの世話をして下さっているヘレナの改宗と結婚は正統派からは認められていないのだ。イスラエルでは正統派が多く、保守派と改革派は少数派だがイスラエル以外の諸外国での正統派は10%に満たず、アメリカでも9%にすぎないという。

 滝川氏によると改革派の先駆者はモーゼス・メンデルスゾーンで、作曲家F・メンデルスゾーンの祖父である。彼はドイツの銀行家であったが、その子孫は現在米国のレコード会社VOX社を経営している。

 米国では改革派は主にドイツ系ユダヤ移民の間に拡がって行った。「改革派は居住地の言語で礼拝し楽器も使う。割礼は医師の手で行い・・・、トーラ(律法)は実践可能な個所を守ればよく、安息日、食物の戒律は・・・オミットした。

 そして愛、正義、平和を至高の教えとし、倫理的側面を強調する」のだそうだ。だからこそヘレナや彼女の夫アミーカムは私たち異邦人とも何の隔たりもなく暖かく接して下さるのだろう。

ツアーの人々との団体生活(46)

 「革なめしシモン」の家を後にした私たちは散策しながら、ゆっくりと駐車場に向かった。その途中で青銅製の巨大魚(鯨)のモニュメントに遭遇し、記念写真を撮ってもらった。

 ヤッファは預言者ヨナが「ニネベに行け」という神の言葉に背いてタルシシュ行きの船に乗るためにやって来た港である。彼の乗った船は嵐に遭い、彼自身は海に投げ落とされて巨大魚に呑み込まれた。そしてその魚の腹の中で三日三晩いてから吐き出されたのであった(ヨナ書 1, 2章)。それを記念する像であろうが、その魚はとてもユーモラスな表情をしている。

 このようにしてイスラエル最初の安息日はのんびりとしたー日であった。車で帰る途中、道路沿いの小さな食料品店に立ち寄り、買物をした。私は好物の分旦(ぼんたん)があったので1ケ買った。

 キブツに帰着して、簡単な夕食を済ませ、この日も反省会。妻に手紙を書き(第二信)、11時40分に就寝。先日、図書館で借りた本に次の文章が書かれていた。ユダヤ教正統派について「彼らは、改革派が安息日に自動車を乗りまわし女性のラビを任命し、シナゴグの礼拝席の男女別を廃止し、・・・は苦々しい(と思っている)」(『ユダヤを知る事典』滝川義人著)。

ツアーの人々との団体生活(45)

 「ペトロはしばらくの間、ヤッファで革なめし職人のシモンという人の家に滞在した」(使徒 9:43)。これは紀元30年代頃のことだが、今、私たちが居る建物はその当時のものではない。この2千年の間、この町は幾多の戦争で何度となく破壊の憂き目に遭ってきたので、昔の建物跡は地中に眠っている。

 現在「革なめしシモンの家」と言われている建物と、その場所も考古学的な確証はない。古くからの伝承で今の場所であったと伝えられているのであるが、その信憑性はともかく、その当時を思い起こさせるには充分なものがある。

 動物の死体を扱うため当時は汚れた職と考えられていた革なめしは海辺で行われていたらしい。この家も海辺にある。このシモンも主の弟子となっていたのであろう。ペトロはこの家の客人となっていたのである。そして或る日彼はその屋上で不思議な幻を見た。

 その時の光景は、現在の場所でも想像できる。屋上から見える地中海は2千年前とたいした変化はないであろう。そのペトロのもとにカイザリヤからの来訪者があった(使徒 10:17,18)。

 カイザリヤからヤッファ迄の距離は50km余り。翌朝彼はカイザリヤへと旅立つ。今なら車で1時間だが、ペトロたちは丸一日歩いたのである(使徒 10:23, 24)。

ツアーの人々との団体生活(44)

 「皮なめしシモンの家」の中は四方が窓のない壁に囲まれた暗い部屋であった印象が強く残っている。壁際の机の上に読み物と写真が置かれていたのでキャビネサイズの写真を一枚買った。古いモノクロ写真に薄く彩色したものである。裏庭に置かれた(皮なめし作業用の?) 石製水槽と女性が写っている。

 代金を手渡した私は、彼に「あなたはクリスチャンですか」と小声で尋ねてみると、彼は照れたような表情で慎ましく「イエス」と答えてくれたので、私は彼の両手を取った。そして「ワンダフル、ワンダフル」と言って手を揺り動かすと彼も笑顔で応えてくれた。

 私たちは裏庭の階段からこの家の屋上に上った。すると隣の家越しにすぐそこに地中海が見える。屋上は中央部分が円形に緩やかに盛り上がっていて、西角には灯台のような塔が立っている。ペトロが幻を見たのはこの辺か?(使徒10:9~16)。

ツアーの人々との団体生活(43)

 この考古学サイトはヨッパのビジターズセンター(観光案内所)にもなっており、入口で地図と名所の写真付パンフレットをもらった。この地下室の中央は発掘された建物の石壁などがそのまま展示されており、部屋の周囲にこの町の歴史を分かり易く展示物(ヘレニズム時代、ローマ、ビザンチン時代の発掘物)を通して説明されている(全て英語)。

 この空間は静かで薄暗く2000年前の世界へと私たちを誘ってくれる。ここの石壁の建造物はペトロの時のものだろうか。解説のプレートをはっきり読まなかったのでわからないが、これらの間をペトロたちが歩いていたのかも知れない。このケドゥミーム広場は1740年に最初のユダヤ人宿泊所が建てられた場所ということである。

 これら周辺を散策した後、この広場の南東の地中海沿岸の方に降りて、狭い路地に入って行った。茶色のレンガ造りの家の前に立ち、アーチ型の入口の木の扉を叩くとドアが開いて私たちは家の中へ招き入れられた。50才代の男性が私たちと応対してくれる。 この場所が使徒言行録 9:43〜10章の皮なめしシモンの家跡と伝えられる建物であった。

ツアーの人々との団体生活(42)

 昼食を終えて、私たちはテルアビブの南に隣接するオールド・ヤッフォ (ヨッパ) へと向かった。20世紀になってから誕生した町テルアビブから、紀元前20世紀からフェニキヤの港町であったヤッフォへのタイムスリップを体験する。

 街並みは全く異なる。近代的建造物から中世の石造りの家々、整備の整った自動車道路から石畳の曲がりくねった細い道。慌ただしい人の流れから、落ち着いてのんびりした風情。清潔感のある街並みから、どことなく埃っぽい感じのする町へ (けれども町の名はヤッフォ=美しい)。

 車でヤッフォの町に入ってゆくと、左手に大きな時計塔が見える。これは1906年に当時のトルコ皇帝によって建てられたものだという。ここは素通りして、きれいに整備された広場に着いた。ここはケドゥミムスクウェアという所で、この西側にはギリシャ正教の聖ミカエル教会の会堂が地中海を背にして建っている。

 北側にはローマ・カトリックの聖ペトロ教会、更にアルメニア教会堂がある。この広場の中央地下には小さな「考古学サイト」という場所が設けられていて、まず私たちはそこを見学した。入場は無料であった。

ツアーの人々との団体生活(41)

 会堂を出た私たちは、道路向かいのヤルコン川畔の公園のベンチで昼食をとった。昼食はヘレナが準備下さっていた。ヤルコン川はテルアビブの北部を東から西へ、サマリヤの山麓から、シャロン平野を通って地中海へと流れている。

 テルアビブ辺りでは川幅は数十メートルもあり、3月の水量は豊かで流れも速い。食べながら周囲を眺めてみると、あちこちで竿を垂れて釣りを楽しんでいる。子供たちはボール遊びをしている。今日は安息日である。イスラエルでは商店は閉まり、バスも電車も動かない、と聞いていた。ユダヤ教では釣りをすることも車を運転することも安息日の規定違反のはずである。

 安息日には火を焚いてはいけないが、車もエンジンを点火するので違反になる。しかし、私たちはヘレナの車でマアニットからテルアビブまで50kmも走ってきたのである。ユダヤ教の改革派は、これも容認しているらしい。

テルアビブでは安息日でも自動車が走っているし、店も開いている。イスラエルでは宗教的な人よりも世俗的な(宗教を信じない)ユダヤ人の方がはるかに多いのだがテルアビブではそれが顕著である。

ツアーの人々との団体生活(40)

 ダニエルの家会堂では会衆席は男女の区別はなく、私たち異邦人も同じ席で礼拝に加えて頂いたが、正統派、超正統派ではありえないことだ。更に改革派には女性のラビもいるそうだ。英国人であったヘレナはユダヤ教に改宗し、今は、この会堂のメンバーの一人として暖く受け入れられているが、正統派の交わりでは差別されるという。

 イスラエル人による告発書が日本でも出版されているが、それによると、正統派内では、異邦人から改宗した女性は改宗後も淫売婦と呼ばれ、蔑視されている事例をあげている。ヘレナとアミーカム夫妻が改革派の会堂に属しているのもこのような事情によるものであろう。

 超正統派は更にその上を行くという。イスラエル・ツデイの2月号によると、超正統派の人々は、現在のイスラエル国家を認めず、パレスチナやイランの首脳たちとの会見までしてイスラエル国家の打倒を企てていることが写真付きで報道されている。イスラエル国家は人間の力ではなくメシヤの到来によってうち立てられるべきであるというのが、その理由なのだそうだ。

ツアーの人々との団体生活(39)

 テルアヴィブにあるユダヤ会堂ダニエルの家の2階に招き入れられた私たちは、大きなホールの真ん中に置かれたパイプ椅子に腰を下ろした。その教会のラビ、メイア・アザリ氏と役員の中年の男性と私たち5人が輪になって歓談した。私たちをここに連れてきたアミーカムとヘレナたちは、これには加わらず、一階で交わっていた。

 会話は英語でなされ、S師が私たちに日本語で説明して下さった。それによると、この教会はユダヤ教の改革派に属しているとのこと。「トーラー(律法)は厳格に守ることはしない。その理由は世界中の異邦人にユダヤ教を布教するにはその方が良い、タナフ(ヘブライ語聖書=旧約聖書)自体、現代人には信じ難い書物なのだから」と宣うた。

 私はそれを聞いた時、唖然としてしまった。「何だ、この人たちは元々聖書を信じていないんだ」そう思うと少々がっかりした気分になった。

 ユダヤ教にはトーラーを厳格に遵守する超正統派と正統派というグループもある。それらの会堂では女性が壇上にあがることもなければ会衆席も男女は厳しく分けられているという。

ツアーの人々との団体生活(38)

 ユダヤ教シナゴーグ(会堂)の安息日礼拝中に配られたキャンディを手にしながら、これを食べてもいいものなのかと考えながら席に着いていた。しばらくすると、二人の男の子が壇の前に出て来て講壇に向かって立つと、ラビが彼らに何かを語りかけた。

 その後、男の子たちは一人ずつ壇上に立ち、聖書の巻物の一部を読み始めた。それが終わり、ラビが祝福の祈りらしきことばで祈ると、男の子たちは壇から下りて会衆の前に立った。すると会衆はいっせいに大声をはりあげながらその子たちにキャンディを投げ始めた。

 そこで私たちも先ほど受け取ったキャンディをその男の子たちに向かって投げたのである。それらのキャンディは会衆の中にいた幼い子供たちが競い合って捨い集めている。「ああ、このためのキャンディだったのか、食べなくてよかった」と私は心の内で安堵した。もし一ケでも口にしていたら、とんだ恥をかくところであった。

 この日の安息日礼拝の中でバル・ミツバ(ユダヤ教の13才になった男の子の成人式)の儀式が行われたのであった。会衆が大声をはりあげてキャンデーを投げつけたのは「おめでとう」と叫んでいたのであろう。礼拝が終わると私たちは来賓として迎えられ二階に通された。

ツアーの人々との団体生活(37)

 こうして金曜日のタべ(安息日)はキブツ住民の和やかな交流の時となっている。

 翌日3月5日(土)ーイスラエル7日目ーは安息日休日である。この日昨夕私たちを家に招いて下さったアミーカム一家がキブツの車で、彼らが所属するテルアヴィブにあるユダヤ教会堂の礼拝に私たちを連れて行って下さることになった。

 その会堂はベイトダニエル(ダニエルの家)。記録をなくしたのでおぼろげな記憶をたどりつつご紹介する。建物は天井の高い三階建てくらいの石造りの箱型である。玄関を入って正面のテーブルから、男性はキッパ(頭に乗せる小さな円形の被り物)を借りて礼拝堂に入る。横四列ほどに並べられた長椅子の奥から二列目、前から三列目に私たちは着席した。

 定刻になると司会の大柄の女性が壇上に立ち講壇から会衆に語りかけながら式を進行させる。全てがヘブライ語である。祈りが終ると男性が登場し、朗々とした声で讃美を歌い会衆を讃美に導く。彼はカントルと呼ばれるユダヤ会堂の詠唱者、讃美指揮者なのだろう。

 その後、ラビと思われる男性が講壇からメッセージを語る。それが終わると会衆全員にキャンディ(あめ玉)が何個かずつ配られた。変な礼拝だと思ったが、後でその理由が判った。