エルサレム独り旅(23)

 この神父は何も語らず、私のすぐ後ろでじっと立っている。私は振り向いて彼の顔を見ると、目と目が合ったが優しい表情で、何か言いたげな顔をして私を見ている。そこで私はテーブルの上の募金箱にシェケルのコインを一枚入れると、ほっとした様な表情でどこかへ去って行かれた。

 ロビーから礼拝堂に入って行った。明るくて広い礼拝堂だ。正面の祭壇には墓の中に横たわっているラザロとその左に天使がリレーフで彫られている。縦 1m横幅 2m少々はあるだろうか。その後ろには6本の燭台と 1m以上ある白く長いろうそくと、その中央に十字架のキリスト像が金色に輝いている。

 その上にはラテン語で「私こそは、甦りであり命である」(ヨハネ11:25)の御言葉が金色で鮮やかに書かれている。更にその上にはドーム状の壁に合わせて半円形の大きな色彩画が描かれている。中央には右手をかざしたキリスト。その左右にキリストの方を向いて祈るマルタとマリヤの後姿、その両隣にはキリストの12弟子の姿である。

 この会堂はフランシスコ会のものだが、床にはビザンチン時代のモザイク画のタイルも残されている。この礼拝堂でしばらく黙想してからロビーに戻り、その左側にある通略へ歩いて行った。

エルサレム独り旅(22)

 急坂の上から南東方向を見渡すと東方にはユダの荒野が見え、その中にユダヤ人の入植地らしい場所が見える。すぐ前にはベタニヤ村と、崩れてしまっている古い遺蹟、いくつかの教会堂がある。

 私は50mほどの急坂を滑るようにして下った。坂を下り終わった所で道が分かれ、直進は上り坂、左の道は更に急な下り坂が続いている。左折して坂を下って歩いて行くと数 10mほど下った所で左側の土産物店の中から、店主らしいアラブ人婦人が出て来て、私に英語で何かを語りかけて来た。

 店の真向かいにある岩に掘られた穴の入口を指差して、大声で「2.5 シェケル(約70円)」と叫ぶ。どうやら、ここがラザロの墓の入口らしく、その入場券を支払えと言っているようだ。あまりの強引さに不快感を抱いて素通りした。

 その穴の入口には「ラザロの墓(英字)」のプレートが貼り付けてあった。ラザロについてはヨハネ福音書 11章に詳しく書かれている。そこから少し下ってゆくと右側に大きな教会堂があり、その敷地に入る鉄柵の戸口が開いていたので、そこから入って行った。

 前庭(通路)は古めかしい。右側には昔の家畜小屋や物置場と思われるスペースがあり、左側がマリヤとマルタの家の記念会堂の入口である。入口から入るとロビーかあり、そこにテーブルが置かれていて、この教会堂のパンフレット(手帳サイズの二つ折り 4ページ英文)が置かれていて、その横に募金箱が置かれている。パンフレットを一枚もらって正面の礼拝堂に入ろうとすると、一人の神父が近づいて来た。

エルサレム独り旅(21)

 ベテファゲコンベントの南にある小高い丘の上にある教会堂へは結局行くことなく、左側の道をベタニヤに向けて歩き始めた。後で聖書を読んでいると「イエスはそこから彼ら(弟子たち)をベタニヤ辺りまで連れて行き・・・彼らを離れ、天に上げられた」(ルカ 24:50,51)と書かれてあるのに気がついた。

 イエス様が昇天された場所はオリーブ山頂ではなく、べタニヤの近くであったとルカは録している。この丘の東斜面がベタニヤ村なので、キリスト昇天の場所はこの丘の上であったのかも知れない。次回訪れる機会が、もしあれば是非上って見たい丘である。

 左に折れて東に向かう道は左側は竹林、右側は高い石壁が続いていてとても静かで人一人通っていない道だ。一人で歩いていると自分の足音と竹の葉の擦れる音だけが高い石壁に反射して響いてくる。何か寂しく不気味な気分になる。そこを通り過ぎると正面に民家が見え、左側に畑があった。その畑に入って東側の景色を見たが、残念ながら死海は見えなかった。

 道に戻って道なりに右に曲がると急な下り坂で、まるですべり台のような道だ。何かにすがらないと下までそのままずるずると滑り落ちてしまうほどの坂なのだ。主イエス様と弟子たちはこんな急な坂道を上り下りしてベタニヤとエルサレムの往復をなさったのか!と思い、ここに来て良かったという実感が湧いてきた。

エルサレム独り旅(20)

 アラブ人に教えてもらった小さな売店の横の細道をくぐり抜けると両側を石壁で挟まれた通路があり 10mほど進むと直角に左側に折れ、そのまま真直ぐ行くと少し広い道に出た。

 その道は弧を描くように丸く右側に曲がっている。左側はオリーブ山側になっていてアラブ人の家々がぎっしり建ち並んでいる。右側は深い谷になっている。谷の向う側には遠くに建物の集落が見える。ベツレヘムがある方向だ。

 一本道を少しづつ下りながら歩いて行くと道が南側に向く辺りで左右に道が別れている。真直ぐに南へ下ってゆく道と左に折れて東の方向に行く道だ。さあ、どっちの道を行けばベタニヤに通じているのか。

 分岐点の少し手前で立ち止まって迷っていると、すぐ後ろに座っている老人の男性が居る。彼は巨大な鉄製の扉の前に居た。その扉にはペンキでベテファゲコンベントと大きく書かれていた。「あっ!ここがベテファゲなのだ」と私の心がときめいた。

 イエス様がエルサレムに入場する時に乗った子ロバを調達された村だ(マタイ21:1,2)。「聖書に書かれてあるとおりだ!!」思いがけないベテファゲ村との遭遇に私の心は高鳴ったのである。その感動の冷めやらぬうちに私はその老人にベタニヤへの道を尋ねた。

 その老人は左に折れる道を行くようにと教えてくれた。そして彼に礼を言って左に折れて行こうとしたが正面にある丘の上に新しい教会堂が建っているのが見えた。あの教会堂はどういうものであるか、行って見てみたいと思ったが、この丘の頂上まで行く気力が湧いてこない。足はだるく、喉も乾ききっている…。

エルサレム独り旅(19)

 オリーブ山上の昇天会堂を再度見てカメラに収めておこうと思って敷地の門前まで行ったが、ここで土産物を売っているアラブ人青年が両手を広げて行く手を遮り、「入るな」と言う。ここは入場自由(無料)のはずであるが、アラブ人地域では何が起こるかわからない。シロアムの池でも同様の経験をしていたので、無理を通さず引き下がることにした。

 さてオリーブ山の東側のベタニヤへはどう行けば良いのであろうか。しばらくたたずんで周囲を見ていると、一人の小柄な初老の男性が近づいて私に話しかけてきた。「何か捜しているのか」と言ったので「ベタニヤへ行く道を知りたい」と答えた。すると「すぐそこに抜け道があるよ」と小さな売店を指さした。「その店の左側の細道を抜けて行くとベタニヤへ行ける」と言う。

 彼は私に「あなたは誰か」と尋ねたので「私は日本から来た教会の牧師だ」と答えた。彼は「私も牧師だ。アパルーム(最後の晩餐の部屋)で週二回祈り会をしている」と言って名刺をくれた。その上「私は安い宿を知っている。ゲッセマネの園のすぐ近くだ。一泊10シェケル(約300円)」と教えてくれた。私は礼を言って、彼が教えてくれたべタニヤの道の方へ歩いて行くことにした。

エルサレム独り旅(18)

 キデロンの谷を渡るとすぐ正面がゲッセマネの園跡とされる場所である。オリーブ山西麓のこの辺一帯は昔はオリーブ畑が広がっていたと伝えられているが、現在はゲッセマネの園跡とされる狭い場所にしか残されていない。

 ここは以前にS師たちと訪れているが北側にある庭の小さな入り口を通って中に入った。高い鉄柵に囲まれたオリーブ畑に樹齢二千年とも言われる古木が8本グロテスクな幹を曝している。その奥には万国民の教会堂が建っている。4世紀に建てられた会堂跡の上に 1919年に再建された巨大な建物で入場料は要らない。

 ここで少し休憩してから、オリーブ山頂を目指して登り始めた。大変急な坂でハーハーと息をたて、手を太ももに当てがいながら登りつづけた。この坂はダビデ王も主イエス様も登った道であろう、とその頃の情景を胸に描きながら歩いた。

 ダビデ王は息子アブサロムから逃れるために「ダビデは頭を覆い、はだし(素足)でオリーブ山の坂道を上って行った。同行した兵士たちも皆、それぞれ頭を覆い、泣きながら上っていった。」と録されてある(サムエル下 15:30)。

 また、主イエス様も受難の週にベタニヤからエルサレム神殿へと何度も弟子たちと往復なさった道だ(マタイ 21:17,18他)。そして私はまさに今、かって主が弟子たちと歩まれたその道を辿ってベタニヤまで行こうと企だてているのである。そしてようやく山頂にある昇天会堂まで登りきることが出来た。

エルサレム独り旅(17)

 城壁伝いに道なき道を歩いてライオン門前まで行った。この門は高さ 5m、横幅 4mほどの門で、その周囲の城壁はシオン門ほどではないが、おびただしい銃弾痕が痛々しく残されている。第三次中東(7日)戦争の際、イスラエル軍はこの門から城内に突入して、旧市街全域を占領し、1900年に亘るエルサレムの異邦人支配を事実上終結させたのであった。

 このライオン門前から石畳の道をキロドンの谷の方への下り歩いた。谷の部分はオリーブ山との間に石橋が架けられている。橋のすぐ南側に木々に囲まれた建物の屋根が見える。これがギリシャ正教の「ステファノ教会」らしい。エルサレム教会の執事で伝道者であったステファノがユダヤ人たちから石打で処刑され殉教したのが、この場所であると伝えられている(使徒7:57-60)。

 そこは橋の上から見下ろして見るだけで通り過ごした。又、橋の北側には 100mほど向うの谷底にマリヤの墓の教会堂が建てられている。主イエスの母マリヤの埋葬と昇天を記念した会堂だ。もし、ここが墓だとすれば、イエスの母ではなくマルコの母である可能性の方が高い、と私は考えている。この辺りはマルコの家のオリーブ畑であったと思われるからだ(マルコ 13:32,51,52、使徒 12:12)。ここも素通りしオリーブ山の頂上を目指した。

エルサレム独り旅(16)

 発掘されたヘロデ王時代の数々の遺蹟を見ながら糞門の前を通り過ぎて、なお城壁伝いに歩いて行くと同様の遺蹟が発掘されている。更に城壁の南東の角近くは、城壁が北へ数十メートル 90度の角度で折れ、そして又、数十メートル東に続き、キロドンの谷の手前で旧市街の南側の城壁へとつながってゆく。

 この辺りは数多くの発掘物を見ることが出来るが、道路側からは柵があって中へ入って見ることはできない。ここは、旧約時代には、オフェルと呼ばれていた場所でエルサレムの要害であった(歴代下 27:3、33:14、ネヘミヤ3:26,27、11:21)

 ここは神殿で働く人々が住んだと書かれている。現在ここは城壁の内側も含めて南の壁考古学公園となっている。私はそこから更に北側へ南壁に添うように歩き続け現在は閉じられている黄金門のすぐ前まで歩いて行った。

 この周辺はアラブ人と思われる多くの古い墓石が立てられている。黄金門はアラブ人によって石のブロックで完全に塞がれている。私は更に城壁に添って北のステファノ(ライオン)門まで歩いて行った。

 この門の上にライオンの像が刻まれているのでライオン門と呼ばれているが、この門外でステファノが殉教したことからステファノ門とも呼ばれている(使徒 7:54-60)。

エルサレム独り旅(15)

 神殿詣のための水浴による体を清める行為はキリスト時代のユダヤ教では当然の義務とされていた。三大祭の際には何十万人もの参詣者が訪れたエルサレム神殿には、その周囲にかなりの数の水浴(沐浴)のためのプール(ミクべ)が必要であったと思われるが、この発掘跡にはそれを物語るように多数のミクべを見ることが出来る。

 岩を刳り抜いた横長の洞穴の入口の天井の高さは1mほどしかない。横幅は数メートル。入り口の部分から奥は石段が数段下り、その奥が水槽になっている。すべてのミクペには現在は水がないので、体を屈めて中まで入ってみた。かなり狭く窮屈な空間だ。

 天井が低く立ち上がることが出来ないので、こんな所に何人もの人が次々と水に浸かるのは、さぞ大変なことだったろう。水はすぐに不潔になったであろうから清めるというよりもかえって体が不潔になったのではなかろうか。うわべだけの単なる儀式がいかに空しいものであるか、ということを思い知らされる。

 当時のユダヤ教では外出から帰宅した時にも足を洗い、食事の際には手を洗うことが義務づけられていたようだが、それは「衛生上」のことよりも「宗教上」の行為であった。清潔な水を得ることが、現在よりも困難な時代にはなお更のことだ(ヨハネ13:5、ルカ7:44、マタイ 15:2)

エルサレム独り旅(14)

 6/18(土)朝5:30に宿を出て旧市街のヤッフォ門まで歩いてゆく。まだ車も少なく、朝靄がかかっている。旧市街手前の交差点を渡る時、ちょうど朝日が東の山から上ってくるところであまりの美しさに立ち止まってしまった。新門やダマスコ門、ヘロデ門に通じる道路の中央辺りからの日の出はまさに絶景でカメラに納めた(スライドフィルム)。

 私はそのまま南へ真直ぐ昨夕歩いたヤッフォ門前まで歩いて行った。昨夕はそこからベンヒノムの谷へ下りて行ったが、この日は旧市街の城壁に添って城壁のすぐ脇を歩くことにした。

 ヤッフォ門の外側を城壁伝いに南へ歩くと、そこは雑草の生える凸凹の地でこの辺りは未だ発掘はされていないようだ。しかし、しばらくそのまま門の方へと進んでゆくと、途中から発掘された数多くの遺跡を見て歩くことが出来た。ここぞという場所のあちらこちらに金属のプレートが立てられていて簡単な英文で説明されている。

 全ての建造物は地面から 50cm程の所の上は破壊されて何もなく、床とその少し上の部分だけが残っている。その多くは英語で「Bath.BC.1c」と録されている、エルサレムの宮詣に来る人々が体を清めるための「ミクベ」と呼ばれる水浴場である。(ヨハネ 13:4-10)

エルサレム独り旅(13)

 聖書には「アブサロムは生前、王の谷に自分のための石柱を立てていた。跡継ぎの息子がなく、名が絶えると思ったからで、この石柱に自分の名を付けていた。今日もアプサロムの碑と呼ばれている。」(サムエル下 18:18)と書かれている。

 現在あるこの碑は紀元一世紀頃のものと推定されているとのことで、再建されたものであろうか。それでもその前に立つと圧倒される迫力を感じ、古い時代に引き戻されたような錯覚に陥る。周囲には私の他は誰れも居らず自分は今ダビデ時代の王の谷に立っているのだという不思議な感動を覚えた。

 ふと気が着くと、周囲は夕闇に包まれ始めていたので急いでここから立ち去らねばならない状況になっていた。そこで急いで左側の急な斜面を両手をついてよじ登り、ずり落ちそうになりながらも何とか旧市街の城壁添いの道路にたどり着くことができた。

 そこから城壁に添ってヤッフォ門に向かって歩いて行ったが夕闇が迫ると城壁がカラフルにライトアップされ幻想的な雰囲気になった。ヤッフォ門に近づくに従って若いカップルとすれ違うようになり、彼らはこの幻想的な光景を楽しんでいるようである。一気に現在に戻され、そこからホテル(安宿)までの道は車の激しい往来と店舗の光の中、まさに現代のエルサレムそのものであった。

エルサレム独り旅(12)

 この大きな石塔はユダヤの言い伝えでは「ゼカリヤの墓」と呼ばれているもので厳密な時代考証などは行われていないようだ。紀元前2世紀頃のものという説から 4~5世紀のもの説があり、さまざまである。

 ユダヤ人は預言者ゼカリヤ(祭司エホヤダの子、石打され殉教した。歴代下24:20-22、マタイ 23:25)、クリスチャンたちはパプテスマのヨハネの父、祭司ザカリヤ(ルカ1:5)の墓とみなしているという。下の部分は高さ5m、横幅と奥行きは共に4mほどの長方型でその上にピラミッド型の屋根がついている。

 この墓の両側には崖の中央ぐらいの所に窓枠のようなものがついた洞窟が掘られている、右側のものは前回不明と書いたがその中には26の棺室があり、ユダヤ人たちは預言者ハガイやマラキたちの墓としているそうだ。

 左側のものは、この中から発見された碑文によりヘロデ王時代の祭司へジル家のものと判明している。又、それ以前にはユダの王アザルヤが重い皮膚病で隔離された部屋がこれであるとも伝えられている(列王下 15:5)。

 確かにギロドンの谷を挟んで向かい側はダビデの町であるのでその可能性がゼロとは言えない。更にその北側へ歩くとアプサロムの塔と呼ばれている大きな石造物が立っている。トンガリ屋根がついていて高さは十数メートルもあるだろうか。

エルサレム独り旅(11)

 現在のシロアムの池はビザンチン時代の一部が残ったものであり、最近になってここのすぐ南側から新約時代のものと見られる遺跡が見つかり現在発掘調査されているとの情報があった。(イスラエルツデイ誌)。

 キロドンの谷に戻って更に北に向かって歩いてゆくと左側にギボンの泉がある、現在の泉はコンクリート製(?)の箱型の建物の中にあるので一人で見るのは止めにした。

 この泉でダビデ王の息子ソロモンが祭司ツァドクと預言者ナタンによって油注がれて王に即位した事が列王記に録されている(上1:45)。

 ここから更に北へ上って行くと今度は右側に古くて大きい建造物に遭遇する。崖の岩をくりぬいて造ったもので、少なくとも4ヶ所確認できる。最も南側には高さ 10mぐらいの所に窓のようなものが並んで 3~4掘られており、その奥が部屋のようになっているが、これについてはどのガイドブックにも何の説明も書かれていない。

 それに隣接して左側に大きな墓のような建造物が立っている。幅8m、奥行8mにわたって岩がくりぬかれ、その中央に大きな墓石のようなものが掘られて立っている。

エルサレム独り旅(10)

 シロアムの池の水は薄茶緑色で濁っていた。深さは30cmほどであろうか。案内の若者が「トンネルの中を歩くか?最も深い所は胸のあたりまで水が来るので、荷物は持っていてやる」と言ったが私は「ノーサンキュー」と言って断った。

 トンネルの長さは 533mもあり、ギホンの泉まで通じている。中は真っ暗で懐中電灯がないと危険であるとパンフレットには書かれている。このトンネルは紀元前700年頃、アッシリア帝国の攻撃に備えてユダの王ヒゼキアがエルサレム城内の水を確保するために掘らせたもので、1880年にこのトンネルの中で工事に携わった職人が書き残した落書き(シロアム碑文)が発見され、その史実が証明された(列王下20:20、歴代下32:30)。

 重要な遺蹟なので本心は歩いてみたかったが、この夕刻にこの暗い中を衣服や靴もずぶぬれになること、この初対面のアラブ人の若者が信用できるかということもあって断ったのだ。旅行の体験としては最高のものとなったであろうが、あまりにもリスクが大きすぎた。それで若者と別れてキドロンの谷に戻った。

エルサレム独り旅(9)

 死海への道は蛇行しながら急な下り坂となって東の方へ向かっているが、100m先に右側に曲がっているので、その先は見えない。乾期なので道は白っぽく、また埃っぽい。三叉路に立った私は北のキドロンの谷の道へと進んだ。これからは登り坂だ。

 左側の崖は旧約聖書時代のシオンの丘、ダビデの町、エルサレム神殿に通じ、右側の崖はオリーブ山の南端の丘陵である。右側の崖にはアラブ人の住居、薄茶色の四角い建物が崖にへばり付くように、ぎっしり立ち並んでいる。

 少しばかり歩いて行くとアラブ人の若者が英語で「私がガイドしてやる」というのでついて行くと、キドロンの谷から左に外れて50mほど坂道を上って行った。すると右側に金網の柵があり、その奥の下方向にプールのような小さな四角い池(水槽)のようなものがある。石造りで水汲み場もあり池の中には丸い飛び石のようなものが3ケ置かれている。

 プールの長さは約10m、幅は3mほどで小さい。池の向う側はトンネルになっていて、その入口部分はきれいなドーム型である。彼は柵を開け無人の池へ私を案内して行った。ここがシロアムの池であった(ヨハネ9:7~11)。

エルサレム独り旅(8)

 アケルダマは ベン・ヒノムとキドロン両谷の合流地点の南西崖の上にあるのだが、ここに来るまでこの場所が現存するなど全く知らなかった。この地は現在考古学的にも同定されている。

 使徒言行録でペトロが「主イエスを裏切ったユダが不正で得た報酬で取得した地で転落事故を起こして死んだことそこがアケルダマ」と語っている。(1:17~19)。マタイ福音書では別の報告を録している(27:3~10)が、どちらにしても12弟子のひとり、イスカリオテのユダと関わりのある場所だ。

 「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」(マルコ14:21)と主イエスに言われたユダと関わりのあるアケルダマがゲヘナの谷に隣接する場所にあることを知り、神の無言のメッセージを聞く思いがした。

 この場所からキドロン川が地球上で最も低い湖、死海に直結する谷となっていることも意味深長である。その分岐点に立って、死海の方に下ってゆく道を眺めながら、死海まで歩いて行ってみたいという強い衝動に駆られたが、夕刻であったので理性が押し止めた。

エルサレム独り旅(7)

 危険予防の為に旧市街の城壁と反対側の急な崖をよじ登ってヒンノムの谷の上に出た。上から見下ろす谷の底は木の枝の隙間から所々地面が見える。谷の上は雑草と岩と石の凸凹の地で、谷に転げ落ちないように腰を屈め手をつきながら用心しつつ進んで行った。

 谷底の所々に洗濯機や冷蔵庫が捨てられて転がっているのが見え、又ゴミを焼却した跡も見られた。自動車までも捨てられており、生活排(廃)水が垂れ流されていて、今も昔もゴミ捨て場になっているようだ。

 南に行くほど向かい側のエルサレム旧市街の城壁は遠のき、やがて見えなくなった。その先は谷が徐々に東に曲がってゆく。向こう側はシオンの丘だが、よく確認できなかった。更に進んで行くとキロドンの谷との合流点に着く。

 その合流点の南西角の上がアケルダマだが、何の標識もなく、ただ古い建物の基礎部分が残っているだけであった。それが何であるか分からなかった。そこから崖を下って谷に降りて行った。この辺りの谷底は人が歩いて通れる道になっていた。東北はキドロンの谷の道、北西はベン・ヒンノムの谷、そして東へは死海に通じる道(ナハル・キドロン、キドロン川)である。

エルサレム独り旅(6)

 エルサレム旧市街の西側の城壁に添うようにして南方向へヒンノムの谷を下ってゆくと、谷は少しずつ深くなってゆく。芝が敷かれている辺りを安宿で得た地図で確かめてみるとミッチェルガーデンと録されていた。

 更に南に行くと芝は無くなり尖った岩や石が散在する。正に谷底という景観を体してくる。この辺りの周囲は木々に囲まれさながら林の中だ。左側の上を眺めると、木の向う側のはるか上方に城壁が見え、谷がかなり深くなってきていることが判る。

 右側の崖の上の方を見上げると幾つもの穴があり、それぞれの穴は、自然の物か人工のものかよく判らないが横幅約50cm、高さ1m、奥行き50cmほどで全ての穴の天井部に煤のような物がこびりついていて黒くなっている。ここで何かを焼いた跡のように見える。

 まさか2500年前の偶像礼拝の跡ではあるまいと思うが、興味津々である。更に進んでゆくと谷はいよいよ深くなり、辺りが薄暗く、気味悪くなり、心が穏やかでなくなって来た。

エルサレム独り旅(5)

 今から 2500年前のヒンノムの谷の焼却場のゴミは既に燃え尽きて、現在はその火も跡形なく消滅している。これは確かめるべくもない事実なのだが、私はあえて自分の目でしかと確かめたいと思ったのだ。

 マルコ福音書には「地獄の消えない火の中に落ちるよりは…地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」(9:44、48)という微妙な表現が成されている。焼却場の火は焼かれる物が焼き尽くされるまでは燃え続け、蛆も尽きないが、焼き尽くされれば消える。

 マルコの福音書のこの箇所でも原語(ギリシャ語)ではゲヘナである。ルカ福音書でも「(麦の)殻を消えることのない火で焼き払われる」(3:17)とある。実を結ばない枝も同様だ(ヨハネ15:6)。これらは焼き尽くされ消滅してしまう事のヘプライ的表現なのだ(イザヤ 34:9、10、エレミヤ 17:27)。

 エドムの地もエルサレムのかつての門を焼き尽くした消えることのない火も今は消えている。(ヘブライ 10:27、12:29を参照のこと)。元来聖書にはない霊魂不滅説(ギリシャの思想)の影響を受けしまった人々が「滅びる人々は永遠の時を地獄の火の中で苦しみ続ける」と思い込んでしまい、今もそのように信じている人々が多い。私は今、アドベントの条件的不滅のルーツとなった場所を自分の足で歩こうとしているのだ。

エルサレム独り旅(4)

 シオン門前からヒンノムの谷の中ほどまで降りて行き、舗装道路から左に外れて芝の上を南側に降って歩いて行く。

 ヒンノムの谷を散策しようとする人は一人もおらず、ましてや観光コースでもないので旅行者もなく、ここからは全くの独り歩きになる。案内地図もなく唯ひたすらに谷を歩くだけだ。

 何故この谷にこだわりがあるのか、それは私達アドベント・クリスチャンが信じている信仰に関わりがある場所だからだ。

 アドベント教理に条件的不滅という信仰理解がある。主イエスを救い主と信じ受け入れる人に神は永遠の命をお与え下さると約束して下さっているが、この恵みを信じない人は滅びると聖書に明記されている。(ヨハネ福音書 3:16)

 この「滅びる」とは地獄(ゲヘナ)で焼き尽くされて消滅すると信じているのである(マタイ福音書 10:28)。この地獄の原語「ゲヘナ」がへブライ語では「ヒンノム」、「ベンヒノム」の谷なのである。この谷でユダの王が偶像に息子や娘を人身供犠としてささげ(歴代下28:3、33:6、列王下23:10)たため、エレミヤは、ここが「殺戮の谷と呼ばれる日が来ると予言している(エレミヤ7:31.32、19:5.6)。後にゴミの焼却場となり。日夜、火が燃え続けていたという。

エルサレム独り旅(3)

 ヤッフォ通りを旧市街に向かって南東方向に歩いて行くが道を外れてしまい、遠回りをし少し時間をロスしてしまった。ヤッフォ門に着いた頃には夏至に近い太陽も西に傾き始めていた。ヤッフォ門の前の道路は北はナブルス(シェケム)、南はベツレヘムからへブロンに通じる道で車の往来は激しい。

 そこから西側を見ると直ぐ前がヒンノムの谷である。この辺りの谷はそれ程深くなく、谷幅も広い。斜面はなだらかで美しく芝が敷き詰められており、人々がテニスやサッカーをして楽しんでいる。

 谷の向こう側の丘の斜面から頂上には築後百年ほどのユダヤ人の住居や店舗が建っている。その一画にはヘロデ王家の墓が残されているのだが、時間があれば見てみたい(結局行けなかった)。

 ヤッフォ門は旧市街の西側にある唯一の門であるがヒンノムの谷は旧市街の西側から南側にある。因みに東はキデロンの谷である。ヤッフォ門前の道路を南へ歩くと直ぐに谷へ下って行く道がある。

 そこを下って行くと谷を貫いて向こう側の丘に通じている道と南へ行く道に分かれていて、南側に行く道にはアケルダマという表示と矢印のある看板が立てられていた。使徒言行録1章19節に出てくる地名だ。私は目を見張ってその看板を見、心はときめいた。

エルサレム独り旅(2)

 観光の場合、日本からイスラエルへの渡航はビザ無しで3ヶ月間滞在できる。私はヴォランティアなのでビザ無しで来たが、南アフリカのヴォランティアは就労ビザを取得して来ていたのか、キプツを出た若者達がエルサレムでアルバイトをしている事を聞いていた。

 そしてチャンタルがここで働いていた。1泊食事なしで15シェケル(約500円)であった。一部屋8人で左右に二段ベッドが二列並んでいた。男女同室でベッドにはカーテンも何も無い。

 私は空いていた右奥の上段を確保し、重い荷物をベッドの上に持ち上げた。そして直ぐに貴重品と菓子の袋とペットボヘトルを持ってエルサレム旧市街を目指して、ヤッフォ通りを歩き始めた。夕食代わりの菓子を食べながらヤッフォ門まで歩いた。

 この日の目的はヒンノムの谷を自分の足で歩くことである。地獄(ゲヘナ、マタイ 10:28)の語源となったヒンノムの谷とはどんな所なのか、自分のこの目で見、この足で歩いてみる、これがアドベント・クリスチャンである私の心意気とでも言おうか。ゴミの焼却場の痕跡らしきものが残っているか。

エルサレム独り旅(1)

 6/17(金)今日は午後だけの作業なので、午後からエルサレムへ行くことにした。(21日(火)まで休暇を取った。)昼食後シャワーを浴び、荷造りをし、1時過ぎに部屋を出た。

 車を乗り継いでハデラバスセンターまで行き、エルサレム行きの切符(19.5 シェケル700円)を買った。16番乗場から乗車し風景を見ながらエルサレムに向かった。

 バスは海岸沿いの2号線ではなく。内陸側の4号線を経て40号線を走りシャロン平野の真中を南下して行く。エルサレム行きなのでテルアヴィブを経由しないで、クファルサバ、ペタフティクバを通ってベングリオン空港の東から1号線に合流する。

 この道路だと東側にサマリアの連山を見ながら行けるので興味が尽きない。途中で眠くなり、いい気持ちになっているうちにエルサレム・セントラルバスステーションに到達した。

 そこからは徒歩でヤッフォ通りを旧市街に向かって行く。旧市街まであと 700m程の所にシオン広場という所があり、そこにある安宿にチエックインした。

 この宿は安いという情報をキブツのヴォランティアから聞いていたからである。ここはベンユダ通りや旧市街にも近く便利な宿だ。石段を上って2階のカウンターに行って手続きをするのだが、そこに立っていたのは、何とキブツで働いていた南アフリカの女性チャンタルだった。