ツアーの人々との団体生活(84)

 各々のキブツ連合体はイデオロギーを同じくするキブツが連合しており、その連合体によって支持する政党が異なっている。マアニットの属する団体は、日本の政党で言えば現在の社民党、旧社会党左派に近い非宗教的なグループだ。

 三大連合体の他にも中小の連合体があり、その中には宗教的(ユダヤ教を厳格に守る)なものもあり、それらのキブツは非ユダヤ人の労働者やヴォランティアは受け入れない。元々これらの連合は自衛のための組織で、キブツの農業、住宅、技術などの援助・指導などを行い、文化センターも持っている。マアニットの属する連合体は私たちが前々日に見学したギヴァット・ハビーバーがその文化センターなのだ。

 これらのキブツは、一般的には、ヨーロッパから移住してきたユダヤ人がアラブ人たちから奪い取ったかのように日本では思われているが、そうではない。その全ては、アラブ人地主から正当に買って得た土地で、その資金はフランスの銀行家ロスチャイルド(ロートシルト)の支援による。その購入価格は原野なのに当時のニューヨークの中心地の地価と同等の額を要求され、要求通りに支払ったという。

ツアーの人々との団体生活(83)

④全ての子供は親から離して(産院から退院するとすぐ) 一ケ所に集めて育て教育する。

 親と過ごす時間は16:00~19:00のみ。しかし子供の共同養育は3年前に廃止され、②の共有もくずれてしまってきているとのこと。外国に親族が居る人は、その援助や仕送りがキブツに納められなくなり、貧富が生じてきている。

 例えば或る家には子供用自転車があるが、無い家もあるというようなことが起こっている。だが、そうしなければここで成長した若者たちがキブツを出てしまうのだという。

 現在、キブツの収益の7割が工場(粉ミルクやでんぷんの缶詰)によるもので農業、酪農は3割にとどまっている。それに携わっている人員の割合はその逆で、土に根差した労働だけではキブツの運営の維持が困難とのことだ。

 この資料館には1948年の独立戦争で戦死した7名の若者たちの遺影も掲げてあった。2000年現在、イスラエルには 約270のキブツがあるが、その大部分はいずれかのキブツ連合体に所属している。3つの大きな連合体があり、マアニットは青年監視隊全国キブツ(キブツ・ハアルツイ・ハショメール・ハツァイール)に属している。

ツアーの人々との団体生活(82)

 ヨーロッパでのユダヤ人たちは国家から土地の所有が禁じられていたので金融業、医者、法律家、学者、音楽家がほとんどであり、インテリが多かった。そういう父母の世代の生き方ではなく、人間の本来の営みの根本である土を耕して生きることへの回帰を目指すムーヴメントに若者たちは燃え上がった。

 キブツマアニットの創設者となる若者たちは、第二次世界大戦前1935年にパレスチナに帰還し、現マアニットから数キロ離れた場所に入植した。チェコからの55人であった。しかし、開拓は困難を極め、8年後に現在地に移った。そこは木は一本も無く石だらけの土地で水もなく、毎日数キロ離れた所まで汲みに行かなければならず、この地の開拓もハードなものであった。

 井戸を掘ることを何度も試みたが英国人はこの場所から水は出ないと断言した。しかし米国の専門家が調査してくれ、彼らが出ると言った所を掘ってみると水が出て、それはそれは喜んだという。

 日中の厳しい開拓作業を終えて一同は夜遅くまでどのような規律を作ってキブツを運営すべきかを熱心に話し合い次のことを決めた。

①全員が労働に服する(父母の時代には考えられないこと)

②全てが共有(下着一枚までも)、もらった物もすべてキブツに

③イコール(全員平等)

つづく

ツアーの人々との団体生活(81)

 3月12日(土)安息日、休日である。昨夜から未明にかけて珍しく、日本の梅雨のような雨が降り続き、朝6時頃にはかなり強い雨になった。今まではにわか雨(通り雨)のようでザーッと降るとすぐにやんで日がさす、というような降り方であった。しかし7時になると快晴になっていた。7時半になるとツアーの女性たちが朝食の準備をして下さる。

 キブツでは安息日の朝食は出ない。安息日は火を使えないので調理しない食品を食べる。この日の朝食はピタパン、マッツァ(種無しパン、クラッカーの特大サイズ)、昨日にゆでた卵、きゅうり、トマト、チーズ、ミルク、コーヒーなどであった。

 この日は朝10時にキブツマアニットの資料館を訪ね、ドフ氏(ヘブライ語講師とは別の方)から、このキブツの歴史と現状を話してもらった。この資料館は談話室の地下にあり、古い写真も展示されてあったが、1時間だけの予定だったので展示物等をゆっくり見る時間がなく、ドフ氏の語って下さることを聞くだけであった。以下、彼の話を紹介する。

 イスラエルのキブツは、1800年代にロシアやチェコなどから起こったシオニズム運動に発端をもつ。そのほとんどが10代(16,17才、ドフ氏の場合は17才)の青年たちによる運動であった。彼らがイスラエルに来る以前、すでにプラハで数年間若者たちのコミューンが形成されていた。(つづく)

ツアーの人々との団体生活(80)

 この日は金曜日、日没から安息日になるので仕事は午前中で終わる。タクシーを除く陸上の交通機関は夕刻までにすべてがストップする。午後1時すぎからキブツ内の小学校を訪問し、下級クラスの子供たちと交流の時を過ごした。

 私たちは古いユダヤ民謡「ヘベヌ シャロム アレヘム(私たちはあなた方に平和を持って来た)」と「ハバナギラ(さあ喜ぼう)」をヘブライ語で、日本語で「しゃぼん玉」を歌った。K師は手振りをつけて「賢い人が家を建てた」を歌い、私は駒回しをし、駒を私の手の上から、子供たちの手の上に回っている状態で乗せてあげた。子供たちはとても喜んでくれた。

 その後短い寸劇を片言のヘブライ語でし、その小道具として折り紙を用いた。その折り紙を子供たちに教えてあげるのだ。宮本姉は紙コップ、私は紙鉄砲を指導。紙コップは日本から持参した折り紙で、鉄砲は新聞紙を用いた。最後は全員で、キブツが準備して下さったケーキを頂き子供たちには折り紙5枚ずつをプレゼントした。

 食堂で、昼に会った子供たちが私たちに会釈してくれたり、手を振ってくれる。その手には紙鉄砲が揺られている。入口でそれをパンパン鳴らしている子供たちもいた。みんな嬉しそうな表情をしていた。

ツアーの人々との団体生活(79)

 1970年代、全世界にオイルショックが走り抜けた。日本でもトイレットペーパーや砂糖などが店頭から姿を消したり、大騒ぎになったことがあった。

 サウジアラビアをはじめとするアラブ湾岸諸国がイスラエルと友好関係を結んでいる国には原油を売らないと世界に宣告したからである。当時の日本政府はその圧力に屈し、総理大臣らが中東に行き、何とか原油獲得に努めた。

 このようなアラブ諸国の不当な圧力に対して敢然(かんぜん)と立ち向かったごく少数の国があった。オランダや南アフリカなどである。それ以来南アフリカ共和国とイスラエルとの友好関係は更に深まったのだという。

 南アフリカから当時来ていた若者ヴォランティアは全て白人であった。私の滞在中にマンデラ氏が指導者に選ばれてそのことを報じるイスラエルの新聞記事の切り抜きが共同食堂の掲示板に貼られた。キブツ住民の多くは歓迎していたが、私は南アフリカの女性ヴォランティアにそのことを尋ねると、一言「私たちはマンデラは嫌いだ」と言った。

 又、南アフリカの学校では白人が先住民だと教えているとも 、言っていた。学校教育が歪められているのだ、支配者たちが自分に都合がよい情報だけを国民に与えているのだという事をここでも知らされた。

ツアーの人々との団体生活(78)

 ギヴァット・ハヒーバーの見学を終えて部屋に戻った私は夕食まで休憩を取ることにした。S師は午後4時からK師と共にキブツ住民のハバさんとアリーザさんを訪問すると言って出かけて行った。

 この訪問の際にアリーザは「私の心にイエスが入って下さるとK師のようになれるか?。どうしたらイエスは心に入って下さるか?」と自分から言い出し、自分の過去を語ったとS師は反省会の時に報告された。

 午後8時からの反省会では明日の小学校訪問の準備などをした。この夜は一晩中雷雨が降ったりやんだりしていた。

 翌朝(3/11)もアホカド畑での作業。この日は昨日のアントワネットの他に南アフリカからのヴォランティア3人と共に落果を捨い集めた。南アフリカのヴォランティアは来週6名帰国し、8名新たに来るということだ。

 イスラエルと南アフリカの関係はすこぶる良好で南アフリカにはユタヤ人のコミュニティもあるという。当時、南アフリカはアパルトヘイト(人種差別)で世界中から非難されていた時期である。その南アフリカがイスラエルと関係が良好なのには理由がある。

ツアーの人々との団体生活(77)

 この日のアボカド畑の作業は午前中だけで終え、昼食後から午後三時迄、隣の敷地にあるギヴァット・ハビーバーという学校を訪ねた。リーダーのS師と宮本姉と、私の三人だけが参加した。

 この学校はキブツマアニットが所属する組合が運営している職業訓練(専門)学校でユダヤ人とアラブ人が共学している。この学校の目的とするところは、ユダヤ人とアラブ人の共存で様々な技術者の教育・養成を行っていて、「私たちは平和を言う口を持っている」という標語を掲げている。

 ここの活動を紹介する映画を見せてもらったが、説明が英語なのですぐに眠気がきて、睡魔との闘いで疲れ果ててしまった。又、展示されている古い写真によってイスラエルに帰還し、キブツを結成するという運動が東欧のユダヤ人青少年たちによって進められたことがよくわかった。

 戦前にチェコから帰還し、今は老帰人となっているハバ(エヴァ)さんも、その中の一人で現在この学校で職員として働いておられる。日本では、ユダヤ人とアラブ人の対立ばかりが報道されているが友好を実践している人々の方がはるかに多いことを知って嬉しい驚きを覚えた。

ツアーの人々との団体生活(76)

 翌朝はアボカドの収穫作業、といっても落果したものを捨い集めるだけの簡単なもの。この日一緒に働いた人は昨年(1992年)11月にスイスから弟さんとヴォランティアで来ている20才の女性。名前はアントワネット(通称トニー)、4月迄の6ヶ月間滞在後帰国し、大学で数学などを学ぶ予定だという。

 ブラジルやメキシコも旅して来たのでもう財布が底をついたそうだ。彼女は東京、名古屋、京都などの多くの日本人と文通しており、18才の時から煙草を吸いはじめたとも言った。彼女は私に一つの質問をした。「バナナ畑とアボカド畑とどちらの仕事が好きか?」と。私は「アボカド」と答えた。バナナ畑と比べると作業が楽だから。彼女は「バナナ」と言う。理由を尋ねると「私はヨハナンが好きだから」と言う。「私もヨハナンは好きだ」と答えた。

 彼女が楽なアボカドより重労働のバナナの方が良いと言うのは、優れた人格者であるヨハナンとの交わりが嬉しいのだという。ここでも私は大切な事を学んだ。主イエス様のもとで仕事が出来ることに優る喜び、光栄はない、と。どんなにきつい働きでも、主と共にある喜びは最高だ。トニーのような若者を引きつけられる魅力ある教会形成が出来れば素晴らしいのにと思った。

ツアーの人々との団体生活(75)

 先にも書いたように、このキブツツアーに参加した私の目的の第一は療養、そして第二はヘブライ語を学ぶということである。神学校(四条畷)で旧約概論や釈義を担当するようになり、ヘプライ語の基礎知識を学ぶことは当面の課題であった。だから80才になられるドフ氏がご好意でヘブライ語会話クラスを指導下さることはこの上なく有り難いことであった。

 早朝からの一日旅行から帰ってからすぐのこの教室は肉体的には厳しかったが、眠気と闘いながら2時間近いレッスンを受けた。この夜は動詞(現在形)だった。

 ヘプライ語では、男性、女性、単数、複数で動詞が変化するのだ。「神は人を男と女とに区別して造られた」と創世記1章にあるように動詞や数詞もはっきり区別されている。「私はヘプライ語を学んでいる」と言うのは、

(男)アニ ロメード イプリートゥ
(女) アニ ロメデトゥ イプリートゥ
(男)アナフヌ ロムデイム イブリートウ
(女)アナフヌ ロムドットゥ イプリートゥ

といった具合である(複数は「私たち」)。

 「あなた」「彼」「後女」も性別と単複によって同じように変化する。キプツの住民である女性に男性形で尋ねて嫌な顔をされたことを今も恥ずかしく思い出す。「男性と女性は同じではない」これは聖書のメッセージであるとへブライ語で教えられた。

ツアーの人々との団体生活(74)

 ティベリアにはスタウンズ教授(米国アドベント神学校)ご夫妻が在住であると押方恵師より教えていただいているが、今回はお会い出来ない。

 自由時間が終わると、午後5時半、もうタ刻だが、更に車を南へと走らせ、ガリラヤ湖から南へと流れ下るヨルダン川を左に見ながらベテシャンに向かう。ヨルダン川の東岸にはヨルダンの街明かりが灯りはじめている。ベテシャンに着いた時は、もう日も暮れていたので下車せずにそのまま帰途についた。

 この町の古代の城門にイスラエルの初代の王サウルと王子ヨナタンの遺体がさらし物にされたとサムエル記上に記されている(31:10~12)。車が西へ少し進むと左手(南側)にサウル王とヨナタンたちが戦死したギルボア山がすぐ横に見える(同31:8)。19時15分にキブツに帰着し、軽く夕食を摂った。そして20:30~22:10まで2回目のヘブライ語会話の学び。

ツアーの人々との団体生活(73)

 ティベリヤの町は約2千年の歴史を有し、ユダヤ人にとっては極めて重要な町である。紀元17年、ヘロデ・アンティパスが、かってラカットと呼ばれた古い町の遺蹟の上にこの町を建て始め、22年に完成させたが、時のローマ皇帝ティベリウスに因んでティベリヤと命名した。それ以来今日に至るまでユダヤ人たちはこの町に住み続けている。

 紀元70年にローマによるエルサレム陥落後、この町はユダヤ教の中心地となり、2世紀にはサンへドリン(最高裁判所)が置かれ、ミシュナ(ユダヤ教の口伝を文書化、法制化したもの)が編纂されたのもこの町であった。

 4世紀にはここでエルサレム版タルムードが完成した。ヘブライ語の母音記号が創案されたのもこの町である。新約聖書にはヨハネ福音書6:23だけにこの町の名が記されているが、主イエスがこの町を訪れた記録は残されていない。

 主イエスは当時、新興都市として栄えていたであろうこの町に宣教拠点を置かず、漁村にすぎぬカファル・ナウムに拠を構えなさった意図はどこにあったのか。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」と語られた主イエスの言葉(ルカ10:21)がそのことを暗示しているのではないか、と私は思っている。

ツアーの人々との団体生活(72)

 次に私たちはガリラヤ湖から少し西に戻って、イスラエルの人々には知られているが、外国人には殆ど知られていないワジ・アムドに行った。車から下りた私たちは雑草だらけの道を歩き始めた。

 暫く行くと小川に出た。水深20cmほどの浅く細い川で、川沿いに上流へと歩いてゆくと、両側が高い崖の峡谷に入ってゆく。崖の中途には洞窟が散見される。ヨハナンが詳しく説明してくれるのだが、通訳が断片的でよく理解できなかった。

 これらの洞窟はB.C.11世紀頃から利用されていたそうで、イスラエルの初代の王サウルよりも以前の土師時代からの遺物が出土しているそうだ。これらの洞窟もその時代時代の政権と対立する勢力の人々が立て篭って抵抗する場所として用いたのだという。

 戻る途中、川辺で自生していたクレソンを摘んで夕食の足しにした。そこから私たちはガリラヤ湖畔で最大の町ティベリヤへ行った。ここで50分間の自由行動になったので私は文具店を捜し、B5サイズのノートを2冊購入した(約200円)。紙質は中質で日本のノートより劣るが、これに今日からの日記を書き残すことにした。

ツアーの人々との団体生活(71)

 「パンと魚の増加教会」と「ペトロ召命教会」のある場所は「タブハ」と呼ばれるが、これはギリシャ語の「へプタペゴン」がアラビア語訛りしたもので、「7つの泉」の意味という。

 この辺りには7つの泉があるが、中には塩分を含んでいる泉もある。その泉の所へ行って水を舐めてみると塩気を感じた。ガリラヤ湖畔には他にも塩分を含む泉が幾つかあり、その水は、ガリラヤ湖には流さず、すべて直接死海に流れ込むようにしてあるのだそうだ。

 それらの泉の中で最大のものはエン・ヌルで、私たちは車でその泉に向かった。タブハからティベリヤの方へ少し南下した所の道路脇に駐車しグレープフルーツ畑の中へ入って行った。既に収穫時期が終わっているのか、あちこちに黄色い玉が落下している。1個捨ってみるとどこも傷んでいないので、食してみると、水分が多く、とても美味しいものであった。

 私たちは、その畑をつき抜けて湖畔の手前まで行くと円形の石囲いがあり、その形は日本の五右衛門風呂と同じで直径5m、高さも5mもある。梯子で上ると透明な水がたっぷり入っていた。この泉の水温は1年中 28℃で暖かく、早速二人の男性が衣服を着たままこの中に飛び込んで泳ぎ始めた。外国の若者たちは野性的で行動的だ。

ツアーの人々との団体生活(70)

 私の心の中に激震が走った。イスラエル滞在中に受けた最大の衝撃の一つであった。主イエスが復活後、ガリラヤ湖畔で弟子たちにお会いになったヨハネ福音書21章の記事は、私の最愛読箇所の一つである。

 その現場とされる所が、現在もイスラエルに存在し、記念会堂まであるとは全く知らなかったので、一瞬唖然となり、次に驚嘆となり、続いて強い感動・感激が心に走ったのだ。歴史的な根拠、確証はないのであろうが、私の心は単純に喜びに舞い上ってしまった。

 私は岸辺に駆け寄り、しゃがみ込んで、記念品とするために、貝がらを捨い集めた。濃淡ある茶色の長さ1cmほどの小さな巻き貝がたくさんあった。会堂の中の奥の祭壇は自然のままの岩の向う側にある。この岩の上で復活の主が火を焚いておられたのだという(ヨハネ 21:9)。

 又、この場所は、主がペトロとアンデレたちを最初に召した場所でもあるとされている(マルコ 1:16~20)。この時のガリラヤ湖は水量が多く、会堂のすぐ横まで水が来ていた。会堂の湖側から、湖に下りる石段があるがその石段は中程から下が水面下で隠れていた。その石段の上に座って一人の旅行者らしい若い女性が全く身動きせず本(聖書?)を読み続けていたのが印象的であった。

ツアーの人々との団体生活(69)

 主イエスの5000人給食の記事は福音書では ガリラヤ湖の対岸(ヨハネ)、寂しい所へ舟で(マタイ)、ベトサイダ(ルカ)と書かれていて、タブハとは異なる。マタイ15章には4000人給食の記事があり、その場所はガリラヤ湖のほとり(15:29)で、こちらの方が地理的には合致しているようだ。

 この会堂には土産店が併設されていて、私はここで「イスラエルの花」の本を買った(13ドル)。このタブハの敷地には「パン増加教会堂」の隣に「ペトロ召命教会」があり、そこも見物した。ここに徒歩で移動して来た時、私はここがどういう場所か全く見当がつかず、ただぼんやりと立って、ガリラヤ湖を眺めていた。

 誰もここがどこであるか説明してくれなかったからだ。会堂への入口の少し前に二人の人物の像があり、一方はひざまづいて立っている人の方へ手を差し伸ばしている。立っている人は、ひざまづいている人の方を向いて手は斜め上に伸ばしている。これは主イエスとペトロではないかと思い、S師に尋ねると「そうだ」と答えて下さり「ここは復活の主イエスがペトロ に現れて再召命をされた所の記念会堂だ」と教えて下さった。

ツアーの人々との団体生活(68)

 早春のヨルダン川上流の水はヘルモン山の雪解け水も混じっているためかとても冷たかったが、澄んではおらず薄茶色に濁っている。そのままではとても飲めるようなものではなかった。それに大きな枯れ枝やゴミなども次々と流れ下って来て、落ちた石橋に絡まっている。

 ヨルダン川の流れを充分に堪能してから車に戻ろうとしたが右後輪がパンクしていて修理中だという。タイヤ交換に手間取っている間、川に小石を投げ込んだりして時間をつぶした。

 その後私たちが向かったのはガリラヤ湖畔のタブハという所であった。そこには「パンと魚の増加教会」の会堂があり、そこを見物した。古い建物と新しい建物が混在している。古いものは「ベネディクト派」の僧院、新しい方が会堂で、ここもアーチ状の柱の回廊が庭に面していて、その白っぽい壁が印象的である。

 会堂内の石の祭壇の前には、古いビザンチン時代のモザイク石の床が残されている。絵柄は籠に入った四個のパンと二匹の魚。四つの福音書 すべてに書かれている、5つのパンと2匹の魚で5000人の空腹を満たした主イエスの奇跡を記念する会堂である。紀元 350年には既にここに会堂が建てられていて、6世紀に修復され、現在のものはその土台の上に建てられているのだという。ガリラヤ湖畔では最も古い歴史を有する教会堂なのだ。

ツアーの人々との団体生活(67)

 ガリラヤ湖から北に上り、車で10分程走り左折して細く曲がりくねった未舗装の道に入った。車は大きく揺れ、車内は大騒ぎだが、そんなことはお構いなしに坂道を下る。まもなく河岸に出て全員下車した。ここでキブツ側で準備してくれた昼食を摂るのである。

 ここはヘルモン山、バニアス (フィリポカイザリヤ)、ダン辺りから流れ下ってガリラヤ湖に注ぐヨルダン川の岸辺である。驚いたのはここは以前対岸と橋で結ばれた道路であったということだ。石橋が破壊され、川の中央で折れて落ちており、対岸には西方向に通じる道がある。

 道の両側は雑草が繁り、この道路が使用されなくなって何年かを経ていることがわかる。中東戦争(多分シリアとの戦い)の時に破壊されたのであろう。川幅はさほど広くはないが、雪解け水のためか水量はとても多く、その流れも速い。その水が落ちた石橋に激突して激しい渦巻きを生じさせて、その石を乗り越えて流れ下っていく様は今も目に焼き付いている。

 ユダヤ人たちがこの地に戻って来てからも永く続く周辺国との厳しい戦いを強いられて来たことを、いやがうえにも想起させられる光景である。尽きることなく流れ下ってゆくヨルダン川の流れを見ていると、時の流れにも似ているようにも思えてきた。

ツアーの人々との団体生活(66)

 祝福の山の会堂の周囲は回廊になっていて、白色のスマートな円柱(約30本)で支えられている。会堂周囲の庭は美しく手入れされ、なつめやしの木などが整然と植えられてある。

 この回廊から見下ろすガリラヤ湖も実に美しい。なだらかな丘陵の下は果樹園、そしてその先にガリラヤ湖全景を見渡すことが出来る。ガリラヤ湖北西に位置するこの場所から先ほどのヒッティンの丘や、その対岸のバシャン高原も霧の彼方に見渡せるのだ。霧が晴れたら更に素晴らしい光景になるだろう。

 主イエスがこの場所で弟子たちに神の国の憲章を語られたのであろうか。ここはカファルナウム (カペナウム)に近いので、その可能性もあろだろう。S師の話では、或るツアーで日本の音響専門家がここを訪れた時、「この地形は音響的には素晴らしい。何千人が居ても説教者の声はマイクなしで聞ける」と語ったそうだ。

 私たちがここに到着したのは11:30であった。だがこの会堂は 12:00~14:30のあいだ閉館されるので私たちは30分足らずでここを離れ、車で更に北方へ向かった。一度ガリラヤ湖岸まで下り、東に進み、カファルナウムの遺蹟横を素通りし、ヨルダン川にかかる橋を渡ってから左折し、北へ上って行った。

ツアーの人々との団体生活(65)

 ヒティンの断崖の下は緑の小丘のようで、東の湖の方へ歩いてゆくと、キブツの車が待っていた。ここは東のガリラヤ湖の他の三方は山に囲まれ、北西側に谷川があり、北ガリラヤに通じている。ヨシュアのイスラエル軍が、ガリラヤ北方のカナン軍を制圧するのにこの谷を北上して行ったと伝えられている(ヨシュア 11:5-9)。

 再び車に乗って、私たちはガリラヤ湖西岸に添って北上してゆく。初めて見るガリラヤ湖は霧に霞んでいた。マグダラ、ギノサル(ゲネサレ)を通過して、車は丘の上に上って行き、脇道に入って行った。

 巨大なアカシアの木が何本も繁っている日陰に停車した。その駐車場から庭の方へ歩いてゆくと、植木の垣根の向こうにドーム屋根の8角形の美しい教会堂が見えた。ここは祝福の山と言われる場所で、主が山上の説教をした場所と伝えられている(マタイ 5〜7章)。

 会堂内に入ると多くの巡礼者たちがグループごとに集まって讃美を歌ったり、祈ったりしている。その中には日本人のグループもいて讃美していた。このグループは神の幕屋に属する人々で、ロンドンからの飛行機でも一緒であった。

ツアーの人々との団体生活(64)

 このヒッティンの丘について、ヨハナンはかなり詳しい解説をしてくれたが、S師の通訳が断片的なので概要しか判らない。ヒッティンの丘やアルベール山は聖書には登場しないが、マカベア戦争(B.C. 2世紀)、ヘロデ大王(B.C.1世紀)、対ローマ戦争(1世紀)時代ここは難攻不落の要塞となり、シリア(ギリシャ)もヘロデ大王も、ローマもここを陥とすのに大変苦戦を強いられたという。

 この絶壁には天然の洞窟がいくつもあって、敵がひとたびここに篭城してしまうと、なかなかその攻路は難しかったのである。ヘロデ大王に反抗する者たちが篭城した時も攻路は難航を極め、最後はこの頂上から兵士を吊り下ろし、洞窟内の者を一人一人槍で刺し殺していったのだという。

 敗北を悟った人々は、この洞窟から投身して全滅したそうだ。ヨハナンの話が終わると、私たちは車に戻って次の場所に行くのかと思ったのだが、何と、この絶壁を降りて行くのだという。絶壁に鎖やロープを張ってあり、何とか下って行けるようにしてある。

 下る途中は、もうガリラヤ湖など眺める余裕はないが、その絶壁を下る途中に大きな洞窟があり、そこに入ることも出来る。私もそこに入り、2千年前にここに篭城し投身していった人々に思いを寄せることが出来た。又、この絶壁に野生のチューリップが赤い花を咲かせている。チューリップはパレスチナが原産地で、今も原種のまま咲いている。

ツアーの人々との団体生活(63)

 タボル山麓から15分ほど北上すると車は細い脇道に進入し、曲がりくねりしながら無舗装の石ころ道を走る。駐車している2台の大型バスの横を更に少し進んだ所で車は停止した。そこで下車した私たちは岩や石だらけの所を歩いて上ってゆくと、何と、そこは断崖絶壁の頂上であった。

 平らな岩地であるが、その北と東の端は高さ 500mの絶壁である。私たちはその崖っ淵まで行って下の景色を見た。高所恐怖症の私は、腰を屈め、おどろおどろしながら歩を進めて淵の岩まで行き、四つん這いになり腰を後ろに引きながら下を覗いて見た。

 その景観の美しさに恐さも忘れて私は見入ってしまった。、眼下には青々としたガリラヤ湖の北半分が開け、その湖畔のオレンジ、グレープフルーツ、バナナ畑の緑、左側には深い谷、その前方にはガリラヤ高地の緑の山々。まさに絶景だ。

 ここはティベリアの北西5km、標高326m、ヒティンの丘(アルベル山)だと後で知った。ガリラヤ湖は海面下約200mなので、この絶壁は500mもあるのだ。

ツアーの人々との団体生活(62)

 タボル山の頂上には建物らしきものが車窓から見える。この山頂にはフランシスコ会(カトリック)とギリシャ正教会の会堂が建てられている。ここがイエス様の変貌の山(マタイ 17:1~8)だという説に基いている。麓には観光バスが数台停まっているのも見える。

 バスでは頂上までは上れないが、乗合タクシーで頂上に行けるという。頂上からの眺望は格別らしいが、プロテスタントの人々が参加するツアーのコースには、この山の登頂は入っていないようである。

 タボル山と道路向いにエンドルという標識がある(「住居の泉」の意味)。サウル王がここに居た口寄せ女のもとを訪れ(サムエル上 27:7~25)、そのすぐ後にペリシテ軍との戦いで、戦死を遂げたのである。詩篇によれば、カナン軍のシセラとヤビンは、この地で戦死したと歌われている-83:11(10)。

 エンドルの方の地は平坦ではなく、潅木が生い繁っている。私たちを乗せた車はこの辺りからタボル山を回るように北方に進路を変えて進んでゆく。

ツアーの人々との団体生活(61)

 アフラから南東への道に行くと、サウル王と彼の王子ヨナタンが戦死したギルボア山とその麓を通ってベテシャン、ヨルダン川に通じている。南の道に進むと、パレスチナ人の町ジェニン、ヨセフが兄たちからエジプトに売られたドタン平野、サマリヤへ通じ、北東に進めばタボル山からガリラヤ湖に至る。

 南西への道は今、私たちが進んで来た道で、カイザリヤから地中海に至っている。このようにアフラはエズレル平野の交通の要衝である。現在の町は1925年にアメリカから帰還したユダヤ人たちによって開拓創建され、農業によって支えられ発展した町である。

 私たちの車は北東への道に進んで行く。15kmほど先に進むと、タボール山の麓にさしかかった。車の左手にお椀を伏せたような形の山がそびえ立っている。標高は588m。ここは女士師デボラが指揮するイスラエル軍が将軍バラクに率いられて、シセラ将軍に率いられたカナン軍と激戦を繰り広げた場所として知られている(士師記 4~5章)、麓から山頂まで上ってゆく道も確認することが出来る。山全体は緑色に包まれている。

ツアーの人々との団体生活(60)

 メギドから北東へ10km、車はアフラの町を通過した。この町はエズレルの野のほぼ中央にあり、人口2万人を超す町である。度々通過するのだが、メギドと同じく、一度も観光したことがない。アフラはアラビア語の名称で、聖書では丘を意味する「オフェル」から変化した名と考えられている。この町の南には古代住居跡があり、エジプトのトトメス3世(B.C. 15世紀)の書いたリストにもあるという。

 預言者エリシャがシリヤの将軍ナアマンと会見したのもエズレル周辺(カルメル山かモレの丘)であったと考えられる。ナアマンのらい病がきよめられた後エリシャの下僕ゲハジが帰国しようとしたナアマンの後を追い贈り物を受け取った場所がこの地であったと伝えられる。

 「オフェル(丘)に着いた時、ゲハジは彼からそれらを受け取って家にしまいみ…」(列王下 5:24)。車の窓からは丘らしきものは確認出来なかった。 アフラからは5方向に道路が走っている。

 北側への道は主イエスが育ったナザレに通じている。アフラから北方を見るとガリラヤ南端の山地が見え、その山の上にある町を見ることができる。そこがナザレで約10kmほどの道のりなので歩いても行けるほどの距離である。 ナザレと聞いて私の胸は高鳴るのを覚えた。

ツアーの人々との団体生活(59)

 メギドは「ハルマゲドン」(メギドの山)で世界的に有名な地名である。ここには今から6千年も前にカナン人が住んでいたことが発掘調査で判明している。それ以来この地で幾多の戦争が繰り返され、何度も破壊されては再建され、遺跡の層は20を超える。

 ヨシュアの時代、士師時代 (デボラ、ギデオンなど)から王国時代まで旧約時代にも幾度もの戦いが繰り広げられ、近年も英国とトルコがここで決戦をし、イスラエルの独立戦争でも戦場になった。しかし、今はそれらが嘘であったかのような静かな田園風景なのだ。その広々とした畑の真中を車は真っ直に東に進んでゆく。

 エズレルは正確にはイズレエルと発音する。「神が(種を)播かれる」という意味で、ギリシャ語でエスドラエロンとも呼ばれる。古代からこの地は水に恵まれ、豊かな農産物の収穫が得られたところから付けられた地名と思われる。 周囲の山々の麓から湧き出る泉がこの地を潤している。ハロデの泉(土師 7:1~7) もそのうちの一つである。

ツアーの人々との団体生活(58)

 エズレルの野が眼前に開けて来た時、右側の車窓から「タアナク」を指す標識が見えた。この地は現在はテル(廃丘) で人は住んでいないが、旧約聖書(ヨシュア記、土師記など)だけで言及されている。

 ヨシュアのイスラエル軍によって占領されたこの地域はマナセ部族に割り当てられたが、マナセ部族はタアナクを支配下に置けなかった(土師 1:27)。1901年以降の発掘調査により、「タアナクのアシュタロテ」と呼ばれる女神の像が15個も出士し、それらが紀元前12世紀(ヨシュア・土師時代)のものであることが判明している。

 タアナクはメキドの南東8km、エズレルの野の南東端に位置しているが、エズレルの野はメギドの野とも呼ばれ戦争が頻繁に行われた戦場の野なのである。平原に入るとすぐメギドジャンクションがあり、左折すればハイファに、右折すればタアナク方向に行く。

 この交差点のすぐ右手がテルメギドで有名なメギドの遺丘である。後にも何度かここを通過したが、この遺丘を観光する機会を得られなかったのは残念であるが、その地形や位置を知ることが出来たことは幸いであった。

ツアーの人々との団体生活(57)

 車はシャロン平野からエズレル平野に向かって山合いの谷間の道を上ってゆく。この谷は北のカルメル山脈から南のサマリヤ、ユダヤ山脈に連なる山々の間を縫ってゆく道で、現在はきれいに舗装されている。

 この道は古代はエジプトとバビロン、ペルシャを結ぶ海の道と呼ばれる幹線道路の一部であった。エジプトから地中海沿いにガザ、そして後世のカイザリヤ付近から東に向かい、メギド、シリヤのダマスコ、後のパルミラ、更にユーフラテス川沿岸の町々、マリ、アッカド、バビロンそしてシュシャン(ペルシャのスサ)に迄至る1500kmにも及ぶ道であった。

 この車の窓から左右の山々を見ながら、この道を行き来した古代の人々のことを思い描いた。今から2600年も前にエジプトの玉ネコは、大軍を率いてこの道を上り、メギドでユダの王ヨシュアを撃ち、アッシリアに向かったのであった(列王記下 23:29)。この谷間の道を何万もの軍勢が武具を装備して行き来したことを想像するだけでも私は疲労感を覚えた。20分ほどで視界が開けて来た。エズレルの野である。

ツアーの人々との団体生活(56)

 3月9日(水)、この日はキブツがヴォランティアのために月一回催す日帰り旅行(ヴォランティア・トゥリップ)の日である。目的地はガリラヤ湖周辺とのこと。6時起床だが睡眠が不足して体が重く起床が辛い。

 キブツの年代物のワゴン車に乗って7時半に出発。日本人は前2列の席に陣取り、他のヴォランティアは後部で賑やかに喋り続けている。車は65号線(アフラ街道)を北東方向に走る。私は窓の外の景色に釘付けになりながら、時々ツアーリーダーS師が説明して下さる言葉に耳を傾ける。以下の説明の多くはS師によるものである。

 途中にある村々の殆どはアラブ人の村で、その目印は高い塔と月のデザインのあるモスクだそうだ。それらの村の多くは山の上にある(「山の上にある町は隠れることができない」マタイ 5:14)。

 買物をするにも水を汲むにも不便な山の上に人々はどうして住もうとするのだろう。古代から平地は常に戦場と化し、容易に略奪されるので、少しは安全な山頂に住むのだという。又、山頂だと敵をいち早く発見することが出来るからとの説明を受けた。

 「山の上にある町」と何気無く読んでいた主イエスの言葉だったが、現地に来て見て、平地よりも、むしろ山の上に多くの村落があるという、この地では誰もが日常的に知っている背景の下に語られていたのだ、と認識を深められたのであった。

ツアーの人々との団体生活(55)

 この日の作業を終えてキャビンに戻り、衣類を手洗いで洗濯し、キャビンの前に張ってあるロープにかけて干す。キャビンの裏側(東側)の野には急激に巨大あざみが群生しはじめた。私の背丈(175cm)ほどの高さで、葉は白と緑で特大サイズ。先端には緑色の球状の蕾がついている。蕾の直径は5cmほどある。見渡す限りあざみの原である。

 聖書にはいばらとあざみがペアで荒廃の象徴として書かれている(創世記 3:18、ホセア 10:8、ヘブライ 6:8)。日本ではあざみは川の土手や、あぜ道などで時々見かける程度である。

 しかし、イスラエルのあざみは、日本人の目には想像を絶するものである。野原全体が巨大なあざみの海で、その棘はものすごい。「土地は・・・耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます」(ヘブライ 6:7, 8)。

 「このあざみの原を現実に見ると、機械を持たない古代人はもうお手上げであろう。刈り込むことは不可能で、乾期の立ち枯れを焼却する他に手の打ちようがないことを納得した。

 聖書の記事の茨とあざみは日本の茨とあざみを思い浮かべて理解しようとしても難しいことがよくわかった。これは他の多くの事例にも当てはまることだと思わされた。