ツアーの人々との団体生活(96)

 M姉の困惑に対して、今、私が思い起こすのは、次の主イエスの言葉である。「もし『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう」(マタイ 12:7)。

 私は以後S師をつまずかせないように振る舞うべく努めた。しかし後日、聞いたことだが、S師は私たちが不倫を行っていると他のメンバーに語っておられたという。残念なことだ。私の皿から取って味見をしたのはM姉だけでなくK婦人牧師も同様になさっていた。

 それなら、私はその人ともそういう関係ということになる。こういう事由によりS師、K師、M姉は匿名にしたのだ。信仰の立場が著しく異なる人々との共同生活の難しさを思い知ることとなった。とにかく、このツアーのリーダーはS師なので、S師の前につまずきとなるようなことは控えるように注意しなければならない(ローマ 14:13~15:3)

 私はM姉が気の毒でならなかった。高額なツアー料金を支払い、きつい労働をし、その上、このような精神的苦痛を強いられ…。この日、更に残念な知らせが私に届いた。

ツアーの人々との団体生活(95)

 緑に包まれたのどかなシャロンの野の真中で日本人牧師に関する相談を聞いている私。同労者に対するこのような相談は日本でも何度か経験しているが、イスラエルでは想定外である。しかし人が共に生きる限りこのようなことは常に起こり得ることだ。

 M姉に対して私がどのように言ったか、残念ながら日記に書き残していないし、私の記憶も定かではない。この種の相談を受けた時のコメントには注意を要する。S師の批判をするのは簡単だが、「各自で、自分の行いを吟味してみなさい。互いに重荷を担いなさい」(ガラテヤ 6:4, 2)と奨められている。完全、完璧な人(牧師)など存在しないのだ(もちろん私も含めてのこと)。

 「食べる人は主のために食べる。また食べない人も主のために食べない。そして神に感謝しているのです」(ローマ 14:6)。お互いの信仰は尊重されねばならない。だから安易な批判は慎まねば私自身が違反者になってしまうのである(福音の根幹に関わる以外は)。

ツアーの人々との団体生活(94)

 M姉は20歳台後半で、ご主人と二人で中部地方在住の方である。このキブツツアーには昨年に続いての参加で、昨年以前にも何度か参加している常連だ。しかし体はそれほど丈夫ではないらしく、キブツでの作業も時々休まれていた。今籍のある教会には事情があって出席せず、別の教会に通っていて精神的にもナイーブな方らしい。

 その彼女がS師に内密で話を聞いて欲しいと言われるので物見の塔で会うことにした。彼女が話したのはツアーリーダーであるそのS師のことであった。朝食の時、私の皿のチョコレートを彼女がスプーンで少し取って味見をしたことを厳しく咎められたのだという。

 「既婚者はどんなことがあっても異性の体や物に触れることは良くない。私は家内以外には絶対触れない。たとえ目の前に溺れている女性がいても私は手を出して助けることもしない」というのである。昨年来た時にも彼女の上着が他の男性の上着に重ねて置いてあっただけで厳しく注意されたとも言った。

 彼女はこれらについて私の意見を求められたのだ。(そして私自身もS師から非難の対象になっていたのだ)。

ツアーの人々との団体生活(93)

 3月15日(火)今日は初めてガーデン(庭)での仕事。6:30より植樹の保護ネット張り。朝食後8:30より除草。最も厄介な雑草は茨で、刺の長さが 3~4cmもあり、数の太さも尋常ではない。こんなものを編んで冠とし頭に被せられその上から棒で叩かれたらと想像するだけでぞっとする。

 昼食後12:40からはバラの木の枝払い。この作業で手に刺が何度もささり、傷だらけになった。この日の夕食はヴォランティアのスペシャルディナーだったが、エリエゼル宅に招かれていたので日本人だけで簡単に食事を済ませた。

 エリエゼル宅ではテレビを見ながらケーキとコーヒーを頂いたが、特にこれと言った会話をすることもなく、エリエゼルがどういう人なのか、私には良く分からないままに終わった(英会話が出来ない悲しさ!)。

 3月16日(水」この日もガーデンでの仕事。高さ2mほどに育った杉の木の枝刈り。日本式に刈り込むとキブツの老人たちから礼を言われた。ただ剪定はさみの取手部分が木ではなく金属で恐ろしく重いもので開口した。この日の作業後M姉から相談を持ちかけられた。

ツアーの人々との団体生活(92)

 ヘレナ宅へ5時すぎに訪ねるとハバも居た。私がヘブライ語を学びたいと願っていることを知っている二人が真剣に考えて下さっていたのだ。「ヘブライ語学習で最も重要なのは、ヘブライ語以外の言語を一切使用しない環境の下に行くこと」とヘレナは語り、紹介は可能だとも言ってくれた。正規のルートでは無理だがハバの友人が居住しているキブツなので大丈夫だという。

 そのキブツにはウルパン(ヘブライ語会話教室)があり、ウルパンで学ぶヴォランティアの仕事は午前中だけで午後はヘプライ語の学習をする。私にとっては願ったりかなったりである。ニ人の厚意に感謝した。この後ヘレナの子供たちに折り紙で飛行機と紙鉄砲を作ってあげるととても喜んでくれた。

 この日の夕食はS師が日本より持参した即席ラーメンに玉葱、玉子、菜っ葉を入れて食した。夜の反省会ではそれぞれの「感謝」を語った。

S師「体調が良くなってきた。今日は最も楽しかった!」。

宮本姉「友を得る祈りがK師という最も頼れる方を与えられて、かなえられた」。

M姉「体が支えられ、騒がしいキッチンの仕事場でも密室(祈り場)がもてること」。

私「ヘレナとハバの厚意(へブライ語学習の道)」。

 この夜、9:40に就寝。

ツアーの人々との団体生活(91)

 夜の反省会で明朝K師がイスラエルを発ち、ローマ、ロンドンを観光してから帰日されることを聞いた。「イタリアは泥棒が多いので気を付けて下さいね」と全員が冗談混じりに忠告したが、後日、ローマでK師が盗難に遭われ、パスポート、財布、カメラなど一切盗まれたと、S師より聞いた。お気の毒であった(しかし後日、私も財布を盗まれる被害に遭う)。

 この日の夜突如として大粒の雹(ひょう)が宿舎の屋根をカンカンと打ちはじめ、それに続いて大粒の雨が激しく屋根を打ち付け雷が鳴り続け大荒れとなった。これが夜なか中続いた。翌朝4:15にK師はタクシーでキブツを離れ空港に向かわれ、アリーザも空港まで同伴した。

 この日は日曜日だが、イスラエルでは平日、6:30~14:30アボカドの収穫作業。この日は不思議なことにK師の出発時と畑仕事中は降雨せず、朝食、昼食中と仕事が終わって部屋に戻った後は雨であった。15:45より聖日礼拝の時を持った。この日は疲れていて夕食後19:00には床に就いた。

 翌朝3/14(月)は 4:35に起床、日本への手紙二通書く。この日はバナナ畑での作業を終えて、手紙をもう一通書いてからポストに投函、その後 ヘレナ宅を訪れた。

ツアーの人々との団体生活(90)

 先年あすか野教会でハイキングをし京都に行った時、南禅寺を訪れた。境内を歩いて行くと、どこかで見たことがあるような建造物が前方にあった。

 「カイザリヤで見た導水橋に似ているな」と私が言うと、妻が「きっとそうよ」と言う。石造りのアーチ状の土台の上を下から見ると鉄道の線路のよう見える。その下をくぐり抜けると、右手に階段があったので上まで上ってみた。すると、それはまさしく水路で、澄んだ水が勢い良く流れていた。私は思わず歓声を上げてしまった。

 上部の構造もカイザリヤで見たものと全く同じである。記念に写真を撮ってから下へ降りると、看板があり説明書きが書かれていた。ローマの導水橋をモデルにして建造された事情などが書いてあった。これなら十分飲料水になると思った。

 パウロやペトロ、そしてフィリポとその家族たちは、このような水を飲料水としていたのか、と思うと、彼らとの時代の距離が縮まったような気がした。

 カイザリヤで私たちは雷と強い霰(あられ)に見舞われ、ずぶ濡れになってキプツに帰った。

ツアーの人々との団体生活(89)

 「百聞は一見にしかず」でイスラエルで見た数々の遺跡を文字で説明するのはまことに難しい。読者も読むだけでは、なかなか想像が困難だと思う。この週報で写真が添付できれば一目瞭然なのだが…。今はキリスト教書店に行けば、イスラエルの写真集が何種類も入手出来るので、興味を覚える方は是非それらを手にいれて下さればと思う(又、DVDやVTRもある)。

 カイザリヤの導水橋も「一見にしかず」で、実際に現場で見るとその規模の大きさに圧倒されてしまう。又、その技術の素晴らしさや、ヘロデ大王の権勢がどれほどのもであったのか、ペトロやパウロが訪れた当時のこの町がどのようであったか、その背景が見えてくる。

 聖書には環境、風景、気候などについての記述は皆無である。しかし、ペトロもパウロも文章の中に生きた人ではなく、現実の世界(町や村)に生き、食べ、眠り、労していたのだ。私たちとは別世界の人ではない。それを実感しつつ聖書を読む時、時間を超えて、ストレートに迫ってくるのを覚える。

ツアーの人々との団体生活(88)

 カイザリヤの発掘現場を通過すると十字軍時代の遺跡群の場所があり、そこを見学してから、東方向に歩いて行くとビザンチン時代の街道跡が発掘されている。その街道脇の一角に赤色と白色の首のない像が互いに向かい合って残されてある。白色像の首は折れて失われており、もう一方は首を取り替えられるように造られてある。

 ヨハナンの説明によれば、折れている方はゼウス(神)像、他方は皇帝像であるという。皇帝が代わる度ごとに頭部を新皇帝のものに差し替えたという説明に私たちは納得できた。更に東に行くと口ーマ時代の戦車競技場遺蹟があり、映画「ベン・ハー」の有名な戦車競技シーンは、ここで撮影されたというが、私たちはそこ迄は足を向けなかった。

 その後、車で北へ5分ほど移動し、ヘロデ大王が建造した導水橋遺蹟を見た。カルメル山から水を9kmも離れたカイザリヤまで水を流す立派なものだ。京都の南禅寺にある導水橋はローマ時代のを模したもので、現在も水が流れている。イスラエルに行かずとも京都で現役の導水橋を見ることが出来るのだ。

ツアーの人々との団体生活(87)

 カイザリヤの半円形劇場の最上階に上ってみた。石造りの階段を頂上までのぼるのもひと苦労である。息が切れ汗がにじむ。上から舞台を見下ろすと舞台上の人は小人 (こびと)のように見える。

 ツアーの女性の一人がそこで大声をあげて讃美歌を歌うと、最上階まで、とてもよく聞こえたのは驚きであった。又そこからの眺望も素晴らしい。正面(西)は、すぐそこに地中海、左側(北)は美しい海岸線とローマ時代の発掘中の遺蹟群、その向う側には十字軍時代の数々の建造物、そして遥か彼方にはカルメルの山並みが劇場の後方(東)まで連なっている。

 私たちは海岸沿いを北側に歩いて行った。右側の方向は発掘中なので幕が壁のように張られていて発掘現場を見ることはできなかった。ここからはローマ時代の硬貨(金貨も含まれる)が多数発掘されていて、その一部がここの食堂下の売店で売られていた。

 この海岸にはきれいな貝殻がよく打ち上げられてくるということで、みんな下を見ながら歩いた。するとK姉がこぶし大のきれいな巻き貝殻を見つけ、ヨハナンは「これは見事なものだ」と感心していた。

ツアーの人々との団体生活(86)

 このカイザリアには使徒ペトロがローマの百卒長コルネリオ邸を訪ねて来ている(使徒10章)。パウロも伝道旅行の帰途に立ち寄り、その後この町で2年間幽閉され、この港からローマへ護送されて行ったのであった(同18:22,23, 19:8,23:33~)。

 私たちはカイザリア(遺跡)国立公園の入口で入場料を支払い、英語のパンフレットを一部もらって広大な公園に入場した。先ず海辺に向かって左手にある巨大な半円形野外劇場に向かった。この劇場の直径は約180m、高さは約30m、収容人数は4千人に及ぶ。

 こんな巨大な建造物が砂に埋もれてしまっていたというのだから驚きだ。ベテシャンにも同様のものが発掘されている。ここでは残虐な見せ物、人間とライオンとの闘いや剣闘士の殺し合いなどが行われており、客席の下には今も、ライオンが入れられていた檻や剣闘士たちの待合室が残されている。

 舞台の周囲はライオンが観客席に行けないようにプールで囲まれている。ペトロやパウロもこの劇場を見たことは確かであろうがここで見せ物も見たのであろうか(I・コリント9:26)。

ツアーの人々との団体生活(85)

 ドフ氏からキブツの話を聞き終えて私たちは昼食までの時間、近くの丘を散歩した。春の野花の絨毯の上で心ゆくまで楽しんだ。「シャロンの花イエスきみよ」の賛美が自然と口から湧き出てくる。ぎっしり詰まったスケジュールの日々を過ごしてきた私たちにとってまさに安息の時であった。

 昼食後、午後1時からヨハナンが私たちを車でカイザリアの遺蹟へ案内してくれた。カイザリアはテルアヴィブ・ヤッファ(ヨッパ)の北約50kmの地中海沿岸にある古代遺蹟で、現在も発掘が続行中である。

 イスラエルではキサリアと呼ばれ、現在は遺蹟周辺に高級住宅地が造成され、政府高官らの面々が住んでいるそうだ。カイザリアはガリラヤ湖畔の町ティベリアと同様、イスラエルでは新しい部類に属し、その歴史は旧約聖書の時代にまでは逆上らない。

 紀元前3世紀頃はフェニキア人の小村であった。その小村をヘロデ大王が壮大な港町に改築したのは紀元前10年のことで、主イエスの誕生数年前のことである。その後約500年間ここにローマ帝国の総督府が置かれ、ポンテオ・ピラト、フェリクス、フェストゥスなどの総督たちが福音書、使徒言行録(24:27)に登場している、ここからは ポンテオ・ピラトの名入りの碑が発掘されている。

ツアーの人々との団体生活(84)

 各々のキブツ連合体はイデオロギーを同じくするキブツが連合しており、その連合体によって支持する政党が異なっている。マアニットの属する団体は、日本の政党で言えば現在の社民党、旧社会党左派に近い非宗教的なグループだ。

 三大連合体の他にも中小の連合体があり、その中には宗教的(ユダヤ教を厳格に守る)なものもあり、それらのキブツは非ユダヤ人の労働者やヴォランティアは受け入れない。元々これらの連合は自衛のための組織で、キブツの農業、住宅、技術などの援助・指導などを行い、文化センターも持っている。マアニットの属する連合体は私たちが前々日に見学したギヴァット・ハビーバーがその文化センターなのだ。

 これらのキブツは、一般的には、ヨーロッパから移住してきたユダヤ人がアラブ人たちから奪い取ったかのように日本では思われているが、そうではない。その全ては、アラブ人地主から正当に買って得た土地で、その資金はフランスの銀行家ロスチャイルド(ロートシルト)の支援による。その購入価格は原野なのに当時のニューヨークの中心地の地価と同等の額を要求され、要求通りに支払ったという。

ツアーの人々との団体生活(83)

④全ての子供は親から離して(産院から退院するとすぐ) 一ケ所に集めて育て教育する。

 親と過ごす時間は16:00~19:00のみ。しかし子供の共同養育は3年前に廃止され、②の共有もくずれてしまってきているとのこと。外国に親族が居る人は、その援助や仕送りがキブツに納められなくなり、貧富が生じてきている。

 例えば或る家には子供用自転車があるが、無い家もあるというようなことが起こっている。だが、そうしなければここで成長した若者たちがキブツを出てしまうのだという。

 現在、キブツの収益の7割が工場(粉ミルクやでんぷんの缶詰)によるもので農業、酪農は3割にとどまっている。それに携わっている人員の割合はその逆で、土に根差した労働だけではキブツの運営の維持が困難とのことだ。

 この資料館には1948年の独立戦争で戦死した7名の若者たちの遺影も掲げてあった。2000年現在、イスラエルには 約270のキブツがあるが、その大部分はいずれかのキブツ連合体に所属している。3つの大きな連合体があり、マアニットは青年監視隊全国キブツ(キブツ・ハアルツイ・ハショメール・ハツァイール)に属している。

ツアーの人々との団体生活(82)

 ヨーロッパでのユダヤ人たちは国家から土地の所有が禁じられていたので金融業、医者、法律家、学者、音楽家がほとんどであり、インテリが多かった。そういう父母の世代の生き方ではなく、人間の本来の営みの根本である土を耕して生きることへの回帰を目指すムーヴメントに若者たちは燃え上がった。

 キブツマアニットの創設者となる若者たちは、第二次世界大戦前1935年にパレスチナに帰還し、現マアニットから数キロ離れた場所に入植した。チェコからの55人であった。しかし、開拓は困難を極め、8年後に現在地に移った。そこは木は一本も無く石だらけの土地で水もなく、毎日数キロ離れた所まで汲みに行かなければならず、この地の開拓もハードなものであった。

 井戸を掘ることを何度も試みたが英国人はこの場所から水は出ないと断言した。しかし米国の専門家が調査してくれ、彼らが出ると言った所を掘ってみると水が出て、それはそれは喜んだという。

 日中の厳しい開拓作業を終えて一同は夜遅くまでどのような規律を作ってキブツを運営すべきかを熱心に話し合い次のことを決めた。

①全員が労働に服する(父母の時代には考えられないこと)

②全てが共有(下着一枚までも)、もらった物もすべてキブツに

③イコール(全員平等)

つづく

ツアーの人々との団体生活(81)

 3月12日(土)安息日、休日である。昨夜から未明にかけて珍しく、日本の梅雨のような雨が降り続き、朝6時頃にはかなり強い雨になった。今まではにわか雨(通り雨)のようでザーッと降るとすぐにやんで日がさす、というような降り方であった。しかし7時になると快晴になっていた。7時半になるとツアーの女性たちが朝食の準備をして下さる。

 キブツでは安息日の朝食は出ない。安息日は火を使えないので調理しない食品を食べる。この日の朝食はピタパン、マッツァ(種無しパン、クラッカーの特大サイズ)、昨日にゆでた卵、きゅうり、トマト、チーズ、ミルク、コーヒーなどであった。

 この日は朝10時にキブツマアニットの資料館を訪ね、ドフ氏(ヘブライ語講師とは別の方)から、このキブツの歴史と現状を話してもらった。この資料館は談話室の地下にあり、古い写真も展示されてあったが、1時間だけの予定だったので展示物等をゆっくり見る時間がなく、ドフ氏の語って下さることを聞くだけであった。以下、彼の話を紹介する。

 イスラエルのキブツは、1800年代にロシアやチェコなどから起こったシオニズム運動に発端をもつ。そのほとんどが10代(16,17才、ドフ氏の場合は17才)の青年たちによる運動であった。彼らがイスラエルに来る以前、すでにプラハで数年間若者たちのコミューンが形成されていた。(つづく)

ツアーの人々との団体生活(80)

 この日は金曜日、日没から安息日になるので仕事は午前中で終わる。タクシーを除く陸上の交通機関は夕刻までにすべてがストップする。午後1時すぎからキブツ内の小学校を訪問し、下級クラスの子供たちと交流の時を過ごした。

 私たちは古いユダヤ民謡「ヘベヌ シャロム アレヘム(私たちはあなた方に平和を持って来た)」と「ハバナギラ(さあ喜ぼう)」をヘブライ語で、日本語で「しゃぼん玉」を歌った。K師は手振りをつけて「賢い人が家を建てた」を歌い、私は駒回しをし、駒を私の手の上から、子供たちの手の上に回っている状態で乗せてあげた。子供たちはとても喜んでくれた。

 その後短い寸劇を片言のヘブライ語でし、その小道具として折り紙を用いた。その折り紙を子供たちに教えてあげるのだ。宮本姉は紙コップ、私は紙鉄砲を指導。紙コップは日本から持参した折り紙で、鉄砲は新聞紙を用いた。最後は全員で、キブツが準備して下さったケーキを頂き子供たちには折り紙5枚ずつをプレゼントした。

 食堂で、昼に会った子供たちが私たちに会釈してくれたり、手を振ってくれる。その手には紙鉄砲が揺られている。入口でそれをパンパン鳴らしている子供たちもいた。みんな嬉しそうな表情をしていた。

ツアーの人々との団体生活(79)

 1970年代、全世界にオイルショックが走り抜けた。日本でもトイレットペーパーや砂糖などが店頭から姿を消したり、大騒ぎになったことがあった。

 サウジアラビアをはじめとするアラブ湾岸諸国がイスラエルと友好関係を結んでいる国には原油を売らないと世界に宣告したからである。当時の日本政府はその圧力に屈し、総理大臣らが中東に行き、何とか原油獲得に努めた。

 このようなアラブ諸国の不当な圧力に対して敢然(かんぜん)と立ち向かったごく少数の国があった。オランダや南アフリカなどである。それ以来南アフリカ共和国とイスラエルとの友好関係は更に深まったのだという。

 南アフリカから当時来ていた若者ヴォランティアは全て白人であった。私の滞在中にマンデラ氏が指導者に選ばれてそのことを報じるイスラエルの新聞記事の切り抜きが共同食堂の掲示板に貼られた。キブツ住民の多くは歓迎していたが、私は南アフリカの女性ヴォランティアにそのことを尋ねると、一言「私たちはマンデラは嫌いだ」と言った。

 又、南アフリカの学校では白人が先住民だと教えているとも 、言っていた。学校教育が歪められているのだ、支配者たちが自分に都合がよい情報だけを国民に与えているのだという事をここでも知らされた。

ツアーの人々との団体生活(78)

 ギヴァット・ハヒーバーの見学を終えて部屋に戻った私は夕食まで休憩を取ることにした。S師は午後4時からK師と共にキブツ住民のハバさんとアリーザさんを訪問すると言って出かけて行った。

 この訪問の際にアリーザは「私の心にイエスが入って下さるとK師のようになれるか?。どうしたらイエスは心に入って下さるか?」と自分から言い出し、自分の過去を語ったとS師は反省会の時に報告された。

 午後8時からの反省会では明日の小学校訪問の準備などをした。この夜は一晩中雷雨が降ったりやんだりしていた。

 翌朝(3/11)もアホカド畑での作業。この日は昨日のアントワネットの他に南アフリカからのヴォランティア3人と共に落果を捨い集めた。南アフリカのヴォランティアは来週6名帰国し、8名新たに来るということだ。

 イスラエルと南アフリカの関係はすこぶる良好で南アフリカにはユタヤ人のコミュニティもあるという。当時、南アフリカはアパルトヘイト(人種差別)で世界中から非難されていた時期である。その南アフリカがイスラエルと関係が良好なのには理由がある。

ツアーの人々との団体生活(77)

 この日のアボカド畑の作業は午前中だけで終え、昼食後から午後三時迄、隣の敷地にあるギヴァット・ハビーバーという学校を訪ねた。リーダーのS師と宮本姉と、私の三人だけが参加した。

 この学校はキブツマアニットが所属する組合が運営している職業訓練(専門)学校でユダヤ人とアラブ人が共学している。この学校の目的とするところは、ユダヤ人とアラブ人の共存で様々な技術者の教育・養成を行っていて、「私たちは平和を言う口を持っている」という標語を掲げている。

 ここの活動を紹介する映画を見せてもらったが、説明が英語なのですぐに眠気がきて、睡魔との闘いで疲れ果ててしまった。又、展示されている古い写真によってイスラエルに帰還し、キブツを結成するという運動が東欧のユダヤ人青少年たちによって進められたことがよくわかった。

 戦前にチェコから帰還し、今は老帰人となっているハバ(エヴァ)さんも、その中の一人で現在この学校で職員として働いておられる。日本では、ユダヤ人とアラブ人の対立ばかりが報道されているが友好を実践している人々の方がはるかに多いことを知って嬉しい驚きを覚えた。

ツアーの人々との団体生活(76)

 翌朝はアボカドの収穫作業、といっても落果したものを捨い集めるだけの簡単なもの。この日一緒に働いた人は昨年(1992年)11月にスイスから弟さんとヴォランティアで来ている20才の女性。名前はアントワネット(通称トニー)、4月迄の6ヶ月間滞在後帰国し、大学で数学などを学ぶ予定だという。

 ブラジルやメキシコも旅して来たのでもう財布が底をついたそうだ。彼女は東京、名古屋、京都などの多くの日本人と文通しており、18才の時から煙草を吸いはじめたとも言った。彼女は私に一つの質問をした。「バナナ畑とアボカド畑とどちらの仕事が好きか?」と。私は「アボカド」と答えた。バナナ畑と比べると作業が楽だから。彼女は「バナナ」と言う。理由を尋ねると「私はヨハナンが好きだから」と言う。「私もヨハナンは好きだ」と答えた。

 彼女が楽なアボカドより重労働のバナナの方が良いと言うのは、優れた人格者であるヨハナンとの交わりが嬉しいのだという。ここでも私は大切な事を学んだ。主イエス様のもとで仕事が出来ることに優る喜び、光栄はない、と。どんなにきつい働きでも、主と共にある喜びは最高だ。トニーのような若者を引きつけられる魅力ある教会形成が出来れば素晴らしいのにと思った。

ツアーの人々との団体生活(75)

 先にも書いたように、このキブツツアーに参加した私の目的の第一は療養、そして第二はヘブライ語を学ぶということである。神学校(四条畷)で旧約概論や釈義を担当するようになり、ヘプライ語の基礎知識を学ぶことは当面の課題であった。だから80才になられるドフ氏がご好意でヘブライ語会話クラスを指導下さることはこの上なく有り難いことであった。

 早朝からの一日旅行から帰ってからすぐのこの教室は肉体的には厳しかったが、眠気と闘いながら2時間近いレッスンを受けた。この夜は動詞(現在形)だった。

 ヘプライ語では、男性、女性、単数、複数で動詞が変化するのだ。「神は人を男と女とに区別して造られた」と創世記1章にあるように動詞や数詞もはっきり区別されている。「私はヘプライ語を学んでいる」と言うのは、

(男)アニ ロメード イプリートゥ
(女) アニ ロメデトゥ イプリートゥ
(男)アナフヌ ロムデイム イブリートウ
(女)アナフヌ ロムドットゥ イプリートゥ

といった具合である(複数は「私たち」)。

 「あなた」「彼」「後女」も性別と単複によって同じように変化する。キプツの住民である女性に男性形で尋ねて嫌な顔をされたことを今も恥ずかしく思い出す。「男性と女性は同じではない」これは聖書のメッセージであるとへブライ語で教えられた。

ツアーの人々との団体生活(74)

 ティベリアにはスタウンズ教授(米国アドベント神学校)ご夫妻が在住であると押方恵師より教えていただいているが、今回はお会い出来ない。

 自由時間が終わると、午後5時半、もうタ刻だが、更に車を南へと走らせ、ガリラヤ湖から南へと流れ下るヨルダン川を左に見ながらベテシャンに向かう。ヨルダン川の東岸にはヨルダンの街明かりが灯りはじめている。ベテシャンに着いた時は、もう日も暮れていたので下車せずにそのまま帰途についた。

 この町の古代の城門にイスラエルの初代の王サウルと王子ヨナタンの遺体がさらし物にされたとサムエル記上に記されている(31:10~12)。車が西へ少し進むと左手(南側)にサウル王とヨナタンたちが戦死したギルボア山がすぐ横に見える(同31:8)。19時15分にキブツに帰着し、軽く夕食を摂った。そして20:30~22:10まで2回目のヘブライ語会話の学び。

ツアーの人々との団体生活(73)

 ティベリヤの町は約2千年の歴史を有し、ユダヤ人にとっては極めて重要な町である。紀元17年、ヘロデ・アンティパスが、かってラカットと呼ばれた古い町の遺蹟の上にこの町を建て始め、22年に完成させたが、時のローマ皇帝ティベリウスに因んでティベリヤと命名した。それ以来今日に至るまでユダヤ人たちはこの町に住み続けている。

 紀元70年にローマによるエルサレム陥落後、この町はユダヤ教の中心地となり、2世紀にはサンへドリン(最高裁判所)が置かれ、ミシュナ(ユダヤ教の口伝を文書化、法制化したもの)が編纂されたのもこの町であった。

 4世紀にはここでエルサレム版タルムードが完成した。ヘブライ語の母音記号が創案されたのもこの町である。新約聖書にはヨハネ福音書6:23だけにこの町の名が記されているが、主イエスがこの町を訪れた記録は残されていない。

 主イエスは当時、新興都市として栄えていたであろうこの町に宣教拠点を置かず、漁村にすぎぬカファル・ナウムに拠を構えなさった意図はどこにあったのか。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」と語られた主イエスの言葉(ルカ10:21)がそのことを暗示しているのではないか、と私は思っている。

ツアーの人々との団体生活(72)

 次に私たちはガリラヤ湖から少し西に戻って、イスラエルの人々には知られているが、外国人には殆ど知られていないワジ・アムドに行った。車から下りた私たちは雑草だらけの道を歩き始めた。

 暫く行くと小川に出た。水深20cmほどの浅く細い川で、川沿いに上流へと歩いてゆくと、両側が高い崖の峡谷に入ってゆく。崖の中途には洞窟が散見される。ヨハナンが詳しく説明してくれるのだが、通訳が断片的でよく理解できなかった。

 これらの洞窟はB.C.11世紀頃から利用されていたそうで、イスラエルの初代の王サウルよりも以前の土師時代からの遺物が出土しているそうだ。これらの洞窟もその時代時代の政権と対立する勢力の人々が立て篭って抵抗する場所として用いたのだという。

 戻る途中、川辺で自生していたクレソンを摘んで夕食の足しにした。そこから私たちはガリラヤ湖畔で最大の町ティベリヤへ行った。ここで50分間の自由行動になったので私は文具店を捜し、B5サイズのノートを2冊購入した(約200円)。紙質は中質で日本のノートより劣るが、これに今日からの日記を書き残すことにした。

ツアーの人々との団体生活(71)

 「パンと魚の増加教会」と「ペトロ召命教会」のある場所は「タブハ」と呼ばれるが、これはギリシャ語の「へプタペゴン」がアラビア語訛りしたもので、「7つの泉」の意味という。

 この辺りには7つの泉があるが、中には塩分を含んでいる泉もある。その泉の所へ行って水を舐めてみると塩気を感じた。ガリラヤ湖畔には他にも塩分を含む泉が幾つかあり、その水は、ガリラヤ湖には流さず、すべて直接死海に流れ込むようにしてあるのだそうだ。

 それらの泉の中で最大のものはエン・ヌルで、私たちは車でその泉に向かった。タブハからティベリヤの方へ少し南下した所の道路脇に駐車しグレープフルーツ畑の中へ入って行った。既に収穫時期が終わっているのか、あちこちに黄色い玉が落下している。1個捨ってみるとどこも傷んでいないので、食してみると、水分が多く、とても美味しいものであった。

 私たちは、その畑をつき抜けて湖畔の手前まで行くと円形の石囲いがあり、その形は日本の五右衛門風呂と同じで直径5m、高さも5mもある。梯子で上ると透明な水がたっぷり入っていた。この泉の水温は1年中 28℃で暖かく、早速二人の男性が衣服を着たままこの中に飛び込んで泳ぎ始めた。外国の若者たちは野性的で行動的だ。

ツアーの人々との団体生活(70)

 私の心の中に激震が走った。イスラエル滞在中に受けた最大の衝撃の一つであった。主イエスが復活後、ガリラヤ湖畔で弟子たちにお会いになったヨハネ福音書21章の記事は、私の最愛読箇所の一つである。

 その現場とされる所が、現在もイスラエルに存在し、記念会堂まであるとは全く知らなかったので、一瞬唖然となり、次に驚嘆となり、続いて強い感動・感激が心に走ったのだ。歴史的な根拠、確証はないのであろうが、私の心は単純に喜びに舞い上ってしまった。

 私は岸辺に駆け寄り、しゃがみ込んで、記念品とするために、貝がらを捨い集めた。濃淡ある茶色の長さ1cmほどの小さな巻き貝がたくさんあった。会堂の中の奥の祭壇は自然のままの岩の向う側にある。この岩の上で復活の主が火を焚いておられたのだという(ヨハネ 21:9)。

 又、この場所は、主がペトロとアンデレたちを最初に召した場所でもあるとされている(マルコ 1:16~20)。この時のガリラヤ湖は水量が多く、会堂のすぐ横まで水が来ていた。会堂の湖側から、湖に下りる石段があるがその石段は中程から下が水面下で隠れていた。その石段の上に座って一人の旅行者らしい若い女性が全く身動きせず本(聖書?)を読み続けていたのが印象的であった。

ツアーの人々との団体生活(69)

 主イエスの5000人給食の記事は福音書では ガリラヤ湖の対岸(ヨハネ)、寂しい所へ舟で(マタイ)、ベトサイダ(ルカ)と書かれていて、タブハとは異なる。マタイ15章には4000人給食の記事があり、その場所はガリラヤ湖のほとり(15:29)で、こちらの方が地理的には合致しているようだ。

 この会堂には土産店が併設されていて、私はここで「イスラエルの花」の本を買った(13ドル)。このタブハの敷地には「パン増加教会堂」の隣に「ペトロ召命教会」があり、そこも見物した。ここに徒歩で移動して来た時、私はここがどういう場所か全く見当がつかず、ただぼんやりと立って、ガリラヤ湖を眺めていた。

 誰もここがどこであるか説明してくれなかったからだ。会堂への入口の少し前に二人の人物の像があり、一方はひざまづいて立っている人の方へ手を差し伸ばしている。立っている人は、ひざまづいている人の方を向いて手は斜め上に伸ばしている。これは主イエスとペトロではないかと思い、S師に尋ねると「そうだ」と答えて下さり「ここは復活の主イエスがペトロ に現れて再召命をされた所の記念会堂だ」と教えて下さった。

ツアーの人々との団体生活(68)

 早春のヨルダン川上流の水はヘルモン山の雪解け水も混じっているためかとても冷たかったが、澄んではおらず薄茶色に濁っている。そのままではとても飲めるようなものではなかった。それに大きな枯れ枝やゴミなども次々と流れ下って来て、落ちた石橋に絡まっている。

 ヨルダン川の流れを充分に堪能してから車に戻ろうとしたが右後輪がパンクしていて修理中だという。タイヤ交換に手間取っている間、川に小石を投げ込んだりして時間をつぶした。

 その後私たちが向かったのはガリラヤ湖畔のタブハという所であった。そこには「パンと魚の増加教会」の会堂があり、そこを見物した。古い建物と新しい建物が混在している。古いものは「ベネディクト派」の僧院、新しい方が会堂で、ここもアーチ状の柱の回廊が庭に面していて、その白っぽい壁が印象的である。

 会堂内の石の祭壇の前には、古いビザンチン時代のモザイク石の床が残されている。絵柄は籠に入った四個のパンと二匹の魚。四つの福音書 すべてに書かれている、5つのパンと2匹の魚で5000人の空腹を満たした主イエスの奇跡を記念する会堂である。紀元 350年には既にここに会堂が建てられていて、6世紀に修復され、現在のものはその土台の上に建てられているのだという。ガリラヤ湖畔では最も古い歴史を有する教会堂なのだ。

ツアーの人々との団体生活(67)

 ガリラヤ湖から北に上り、車で10分程走り左折して細く曲がりくねった未舗装の道に入った。車は大きく揺れ、車内は大騒ぎだが、そんなことはお構いなしに坂道を下る。まもなく河岸に出て全員下車した。ここでキブツ側で準備してくれた昼食を摂るのである。

 ここはヘルモン山、バニアス (フィリポカイザリヤ)、ダン辺りから流れ下ってガリラヤ湖に注ぐヨルダン川の岸辺である。驚いたのはここは以前対岸と橋で結ばれた道路であったということだ。石橋が破壊され、川の中央で折れて落ちており、対岸には西方向に通じる道がある。

 道の両側は雑草が繁り、この道路が使用されなくなって何年かを経ていることがわかる。中東戦争(多分シリアとの戦い)の時に破壊されたのであろう。川幅はさほど広くはないが、雪解け水のためか水量はとても多く、その流れも速い。その水が落ちた石橋に激突して激しい渦巻きを生じさせて、その石を乗り越えて流れ下っていく様は今も目に焼き付いている。

 ユダヤ人たちがこの地に戻って来てからも永く続く周辺国との厳しい戦いを強いられて来たことを、いやがうえにも想起させられる光景である。尽きることなく流れ下ってゆくヨルダン川の流れを見ていると、時の流れにも似ているようにも思えてきた。