独りヴォランティア(37)

 4/28(木)6時起床、午前中はびわの果の収穫、午後はバナナの出荷用箱の組立て作業をした。これらの作業中にヨハナンが「今、咲いている野の花が春の終りに咲く花々だ」と教えてくれた。ピンク色、赤紫色、黄色、白色の野菊やタンポポに似たもの、野生人参、タチアオイなどが周囲に咲いている。

 午後2時からヨナハンが車に何人かのヴォランティアを乗せてキブツの周辺を案内してくれた。周辺の地形、植物類、村や町とその歴史などを説明してくれるのだが、英語なので殆んど理解できない。東の方に見える小高い山の辺りがヤバドの町で、その向う側にドタンの野があるのだという。(ヨセフが兄たちからエジプトに売られた所、創世記 37:17)これだけは聞き取ることができた。ヤバドの辺りは小高い山、谷とむき出しの白っぽい岩石がごろごろしている。所々に低い木々が点々と見える。

 今私が立っている足元にはあざみ、茨、野草がまばらに生えているが、ヨセフの時代も今とそれ程の違いはなかったのではないか。父ヤコブが当時住んでいたへブロンからシェケムまでは約100km(道路地図で 98km)、シェケムからドタンまでは 80km、ヨセフは独りで 180km 山道を旅して歩き、そのあげくに兄たちから虐待を受けたのだ。「神はそれを善に変え・・・、今日のようにしてくださったのです。」(創世記 50:20)

独りヴォランティア(36)

 私たちを乗せてバスは再び走り出した。ゴラン高原(バシャン)から北ガリラヤ高地を下ってエズレルの野へとまっしぐらに。主イエスと弟子たちもゴラン高原(フィリポカイザリヤ)から北ガリラヤ高原を通ってガリラヤ湖まで下り、そこからヨルダン川添いの道をエズレルの野の東端を通ってユダヤ(エルサレム)へと向かわれたのであった。

 私たちのバスはヨルダン川とは逆の方向タボル山から西へエズレルの野の真中を通り抜けて、カルメル山の南端にあるメギドの丘の南の谷を通り抜けてシャロン平野へと山合いの谷を下って行くのである。エズレルの野にはモレの丘がありその麓にはシュネムの村、ナインの村、エンドルの村々がありギデオンの勇士で有名なハロデの泉もある。

 その南にはサウル王が戦死したギルボアの山並みが見え、その彼方(南)にはヨセフが兄たちにエジプトに売られて行ったドタンの野がある。その向こうはサマリヤ、シェケム、シロ、ベテル、エルサレムへと続いているのである。

 いつかこの辺りを巡り回ってみたいという強い思いが心の中に湧き出てきた。その思いを背にバスはシャロンの野を走りつづけ、幾つかのキブツを回って次々と人々を降ろし、最後にアマニットに到着したのは夕方7時前であった。

独りヴォランティア(34)

 このツアーはヘルモン山(ゴラン高原)の自然観察が目的であった。様々な植物、動物、鳥類、石、砂などをガイドが説明して歩き回るのだ。小さな水晶や鉄の小塊のようなもの多数転がっている。鉄の小塊を手に取って表面の砂を除くと黒く輝く鉄の様なものが現れるのだが、手の中で見る見る赤茶色に錆びてゆく。

 山頂を見上げると地中海からの風に流されて来る大きな真白い雲の塊が頂上を打ちつけては東の方へ流れ去ってゆくのが見えた。流れてゆく速度はかなりのものであり雄大な光景であったので、暫く目を凝らして眺めていた。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。・・・ペテロがこう話しているうちに、光輝く雲が彼らを覆った。『これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け』と言う声が雲の中から聞こえた」(マタイ 17:2、5)が私の心の中に浮かんでいた。

 私たちは小休止をはさんで7時間も道なきところを登り降りしながら歩き回った。ヘルモンあざみ、樫、杉、野生チューリップ、クローバー、からし菜、名も知らない白い花、いたるところに様々な獣の糞もあった。

 イスラエル政府公認ガイドはそれらすべてについて解説していたが、彼の風貌は若くしたゴルバチョフのようで声も話す時の口元もそっくりであった。バスに帰り着いたのは夕方4時頃であった。参加者の大半が高齢者であったが、皆さん健脚であるのに驚かされる。

独りヴォランティア(33)

 ヘルモン山中腹で下車し歩き始めたのは午前 9時頃であった。キブツでは既に夏であったので半袖の上着でバスに乗ったのだが、ヘルモン山には寒風が吹き付けていた。あまりの寒さに震え上がっているとキブツ住民の男性の一人が自分が着ていた厚手のジャンパーを私に差し出し「これを着なさい」と言って下さったのでご厚意に甘えた。山頂付近を見上げると僅かだが残雪が見えた。

 マタイやマルコによる福音書では、主イエスはフィリポ・カイザリヤから三人の弟子達を連れて高い山に登り、そこで変貌しその後エルサレムに向かい過越祭に十字架に架けられた事が記録されている。この高い山がヘルモン山だとすれば(私はそう信じているが)主イエスの一行がこの山に登られたのは2月か3月頃になる。

 4月23日でもこの寒さなら、更に厳しい寒さの中、至る所に積雪が残っている山中に入って行かれた事になる。そのようにまでしてヤコブ、ヨハネとペテロの三弟子にだけは、どうしても見せなければならない事がこの山上で示されたのだと、その重大性を知らされた思いがした(マタイ 17:1-13、マルコ 9:2-13)。

 同じ季節にここに来てみて初めて知った福音書の記事の背景である。私たちツアーの一行は舗装された道路に別れを告げて山中に入ってゆく。先ずガードレールを乗り越え雑草を踏み分けながら谷間へとガイドに続いて下ってゆく。谷底まで下ると谷の向こう側の斜面を登り始める。ガイドはその所々で止まってその近くの植物や地質、地形についてヘブライ語で説明してくれるのだが、その内容は私には全く理解できなかった。

独りヴォランティア(32)

 4月23日(土) 4:10起床、今日は待ち望んでいたゴラン高原(ヘルモン山)を歩くツアー日である。5時過ぎにバスがキブツに到着した。周囲は未だ暗い。暫くしてからキブツ住民の参加者が来て食料などを積み込んで出発。

 隣のキブツ・バルカイや他の幾つかのキブツを回って次々と参加者をバスに乗せる。近隣のキブツとの合同のツアーなのだと知った。6 時を少し過ぎてからアフラ街道を東へ進む頃には夜は明けて、早朝のシャロン平野、カルメル山の谷間、エズレル平野を快適に進んで行く。

 タボル山から北に向かい、暫く走ると東方に微かにガリラヤ湖が見える。朝日は靄(もや)のため月の様に白い。目的地はヘルモン山であるが、途中その麓にあるキブツ・ダンに寄って、その中庭で朝食を摂った。緑の木々に囲まれた美しい所であるが、レバノンに近いため物見や高い塀とその上の物々しい鉄条網などが目に留まった。

 ヘルモン山は三つの峰があり、最高峰は2818m。バスが山に上り始めるとキブツらしき集落があったり、城砦の様なものもある。後で調べると十字軍が築いた要塞ニムロデであった。私達は標高1200mの所で下車し歩く準備を整えた。

独りヴォランティア(31)

 安息日(シャバット)の夕食後(金曜日の夜)にキブツの全住民と諸外国からのヴォランティアがドリンクやスナックを飲食しながら自由にくつろぎ歓談する機会が毎週一回ハビーバーという施設でもたれていたのだ。建物に入るとロビーがあり、そのカウンターで大人も子供も自由にドリンクとスナックを受け取り、野外のベンチや室内のホールで賑やかに歓談している。

 私はホールに入り周りを見回しているとガーディナーのアブラハムがいたので、彼の座っているテーブルの所に行って彼の隣に座った。彼らはクラシック音楽のことを話し合っていた。今夜 10時からルネッサンス音楽のライブ演奏会がこの場所であるからであろう。

 この建物の地下にはこのキブツの歴史を見ることができる小博物館がある。以前に一度だけ来たことがあった。このような機会があったのにツアーリーダーのS師は私たちに全く知らせず勿論参加もしなかったのは何故だろう。全く不可解だと思った。明日は早いのでコンサートは聴かず部屋に戻って休んだ(疲労が重なっていたので)。

独りヴォランティア(30)

 ナザレからキブツに帰り、食堂に行って夕食を摂っていると、久しぶりにドフ氏を見かけたので声をかけ挨拶をした。ドフ氏はハデラの病院に入院していたのだと言う。それで前回のへブライ語クラスに来なかったのだとわかった。未だ体調がよくないので今晩のクラスも出来ないと言われた。ジャンが来て明後日のツアーの出発時間は朝5時だと伝えてくれた。

 4月22日(金)6:00~10:30びわの実の収穫、10:30~12:00 バナナ畑の施肥。家畜の堆肥と枯草とカウバイトを混ぜて発酵させた有機肥料である。未だ発酵中で湯煙を上げているのを手でバケツに掻き込んで、バナナの木の根元近くに施肥するのだが、きつく、汚い作業だ。しかしこれが有機栽培であり、体にも安全なのだ。作業中ヨハナンは今夕、キブツ内でルネッサンス音楽のコンサートがあると教えてくれた。今夕から安息日になるので、安息日にはこのようなイベントも行われるのだろう。

 夕食後、デンマークからのヴォランティア、クリスティアンがコンサート会場に案内してくれた。ハピーバーという会場は毎安息日夕食後、、自由にコーヒーやドリンクが飲め歓談も出来る施設であった。

独りヴォランティア(29)

 主イエスの母マリヤ受胎告知教会を出て、北へ少し上って行くとシナゴグ教会(ギリシャ正教)があったが入口が閉まっていた。そこへハンガリーからの巡礼者の団体が来て、門が開いたので、私たちも彼らについて中へ入って行った。門の左側に古い会堂がありその団体に紛れてそこに入ってみる。

 会堂内はかなり薄暗く、100人ほど入れる広さである。主イエスがここで説教をした(ルカ 4:16~29)と言われている。しかし詳しい発掘調査などはされていないらしく真偽は不明である。ハンガリーからの巡礼者たちが彼らの司祭たちによる集会を始めかけ、ドアが閉じられようとしたので私たちはその前に外に出た。続いてヨセフの家の教会に行ってみようとしたが、場所が分からず、ナザレを去ることにした。中央通りに戻ると、ナザレの旅行案内所があったので、そこでナザレの観光地図をもらった。ここでユースホステルを利用した28日間のツアーについて尋ねてみると、ナザレにはユースホステルが無いので詳細は分からないということであった。

 少し歩いたので喫茶店に入ろうということになり、そこで軽食を摂った。ピタパンにファラフェル(ひよこ豆の団子のフライ)とトマトとマヨネーズ、マスタードを入れて、ミネラルウォーターと一緒にイスラエルのファーストフード体験をした。とても美味しく、「タイーム・メオッド(美味しい)」を連発した。

独りヴォランティア(28)

 カナの町のすぐ北を東西に走る道路に沿った広大な土地は西瓜畑である。そして、その道路端では大量の西瓜が積み上げられて販売されている。未だ四月の下旬に入ったばかりなのに…。しかし今日の暑さもすごい!つい一時間前のツファットが嘘のようだ。気分が悪くなる程である。呼吸するだけでも息苦しい暑さである。しかしこの暑さの中で道路脇のあちらこちらに若いイスラエル兵が長袖の軍服を着て銃を持って立ち続けているのには感服してしまう。彼らの努力があってこの国の秩序が維持され、国民(ユダヤ人もアラブ人も)の安全が辛うじて保たれているのだと思う。

 ナザレの町に着いた。中央通りの道幅はかなり広いが舗装が雑で砂埃が立ち込め、町並みが白っぽく見えた。建物も大半が古く雑然としている。路線バスが走っている中央大通り脇に車を止めて、私達は左側の広い道幅の商店街を少し上り坂を歩く。

 すると急に道幅が狭くなりエルサレムの旧市街のような雰囲気になってくる。道は石畳の薄暗い露地で、その両側には土産物店などが並んでいる。先ず、マリアの受胎告知教会堂へ行った。14年もの年月をかけて建てられたフランシスコ派のこの会堂は巨大である。その頂は丸型の三角屋根でこの町の象徴的な建物である。

 会堂内は薄暗く真中の聖堂にはマリヤが天使ガブリエルから受胎を告知された(ルカ 1;26-38)とされる洞がある。でも私達はそこまでは行かず2階の礼拝堂から見下ろすだけで済ませた。

独りヴォランティア(27)

 ツファットの町は新約聖書時代、山頂に火を灯し、新年と祭日の始まりを全イスラエルに告知したという記録が残されている。「山の上にある町は隠れることができない」と主イエスが言われたのはこの町のことと考えられている。(マタイ 5:14)

 現在の人口は約1万7千人。高地の避暑地として夏には観光客が多く、この日も平日だが観光客らしい人を多く見かけた。又、ユダヤ教の神秘思想(カバラ)発祥の地としても知られている。

 芸術家たちのアトリエの店は百件以上もあり、絵画では神殿、正統派ユダヤ教徒、楽器を奏でる人、ヘブライ語(トーラー・律法)文字で描いた絵や絵本など様々なユダヤ教に関連ある題材のものが多い。彫刻やアクセサリーなど芸術的なものから安っぽいものまで色々あるが値段は安くない。

 一筋上の通りに行くと、そこは普通の商店街になっていて、その通りにある店で軽い昼食を摂ってから更にウィンドショッピングをし、午後1時半に車に戻った。乗車するとヘレナが「どこへ行きたいか」と尋ねてくれたので即座に「ナザレへ」と答えた。車は来た道に戻らず反対側の西に向かった。

 5km 程行くと直ぐ前に標高1208mのメロン山が迫って来る。そこから南下すると右手にヒレル山(1071m)が見え、その麓を走ってゆく。緑に囲まれた美しい道だ。更に40km 程南下するとカナの町の横を通って更に南に下るとナザレの町だ。

独りヴォランティア(26)

 バト・ヤアル(森の娘)公園は名の通り、イスラエルには珍しい森の中の公園で高地にあるのでとても涼しい。公園内の柵の中には孔雀が 2 羽、乗馬用馬が10頭飼われていた。孔雀は羽を大きく広げておりとても美しかった。ここは生駒の山麓公園のキャンプ場に似た雰囲気であった。

 ここから車で少し西へ上った所に今日の目的地ツファットがある。車中でヘレナが私に「この町の名前を正しく発音してごらん」と言うので「ツファット」と何度も繰り返して言ってみるのだが全て「ダメ」であった。英語では SAFAD と呼ばれるがヘブライ語の音読みは Tzfat で、日本人はTsufat と発音してしまうのだ。町に入って駐車場に車を置いて中央通りらしい石畳の道をそぞろ歩きする。道幅3m 程の上り下りの多い細い道の両側に続く様々な店や工房などを覗き見しながら進んでゆく。

 この町は芸術家の町としてイスラエルでは有名で絵画、彫刻、工芸品などのギャラリーが多くある。或る工房ではユダヤ教のラビらしき人が頭にキッパをかぶって手作りでカラフルなろうそくを作っている。その工房に入ってしばらく見学させてもらった。芯になる長い紐を熱して溶かした蝋の中に沈めては引き上げ、又沈めては引き上げ、それを何百回も繰り返し直径2~3cm長さ30cmに作り上げる忍耐の要る作業である。安息日や祭日に各家庭などで用いるのだという。

 この町の名は「眺望する」という意味から来ていて、標高は 884mの高地にある。ガリラヤ湖面からは1,044mの高地になる(ここはガリラヤ湖畔のクファルナウムの北西 12km にある)。

独りヴォランティア(25)

 東風による酷暑を避けて部屋の床にへばり着いていた大量の蝿は夕食後には、まるで嘘のようにその姿を消し去っていた。しかし未だ蚊、蜘蛛、その他いろいろな虫がいた。窓と戸口の網戸が大きく破れていたので、先ずそれらを応急的に修理して虫が入って来ないようにした。

 次にトイレの大掃除をしてから荷物を整備した。ベッド横の壁にはイスラエルの地図をを貼った。シャワーを浴びると既に夜の11時半。しかしこの部屋も電灯の熱でけっこう暑いが、キャビンのように人が動くと床が揺れることがないのでゆっくり眠れそうだ。この建物の戸口にはコンクリートの広いポーチがあり、大きな木々に囲まれている。玄関先には桑の木が屋根を覆い、私の背丈ほどのとうごまの木も生えている。

 4月21日(木)窓の外から聞こえる小鳥の鳴き声で目覚め 6時に起床。今日はヘレナたちと北ガリラヤへの旅行日だ。7時過ぎにヘレナのご主人アミーカムの運転する車で出発、途中へレナの従兄弟夫妻を乗せてメギド、アフラ、タボール山を経て、北に向かう。ガリラヤ湖北のコラジンのすぐ西を通過すると、両側には山と丘の連続である。ローシュピナで西に折れツァットの町に向かう。

 その途中バト・ヤアルという自然レジャー公園のような所で野外の木製テーブルを囲んで座り朝食を摂った。周囲は松の木の林、地面にはシクラメンが咲いていて、とても涼しい所であった。

独りヴォランティア(24)

 この日(4/24)は東風の日で大変な暑さと乾燥のため、仕事は午前中で終わった。野草は既に黄色く変色し始め、あれだけ美しく咲いていた花々、とりわけ「あざみ」は既に綿帽子を飛ばし、葉も枯れてきている。何という季節の変わりの速さか、しかし野の花々もしたたかである。花の状態から極く短期間で実(種)を結んでしまっている!

 昼食後ゆっくり休もうと思ってキャビンに戻った。でも、この猛烈な暑さは、ベッドに横になって眠ろうとしても、本を読むにしてもそれを不可能にしてしまう。気分が悪くなり、意識が朦朧としてくる。これではどうにもならないと思い、昨日帰国したスイスからのヴォランティアが住んでいた部屋を見に行った。ドアを開けて中に入って見ると床が一面真っ黒である。

 腰を屈めてよく見てみると、それは何とハエの大群であった。床にへばりついて、幾重にもなってじっとしている。外の暑さから逃れて室内の涼しい床に避暑しているのだ。これがイスラエルの聖書が語っている東風だったのだ。(ヨナ 4:8、エゼキエル 17:10、19:12、ホセア 13:15)。

 この建物は木造、土壁、瓦葺さなのでキャビンとは比べものにならない程涼しい。直ぐにアロンに部屋替えを申し出ると、簡単に許可してくれた。夕食後すぐに引越しに取りかかった。この暑さの中での荷物運びは大変であったが、とにかく運び終えた。この建物はこのキブツの最古の住居だそうで、三軒長屋であるがその右端(東側)の部屋に落ち着いたのだった。

独りヴォランティア(23)

 4月14日(木)キプツのプール開き。昼食はプール横の木立の中で摂る。へレナが私を呼び、次週木曜日にドイツ在住の従兄二人、ゴラン高原に住んでいる友人とガリラヤへ行くので一緒に行こうと誘ってくれた。もう真夏の暑さである。4月19日(火)夕方、アロンがヴォランティア全員をハデラ近くの地中海岸へ連れて行き、そこで夕食をすると言う。

 イスラエルの地中海岸は砂浜がきれいで海水は澄んで輝くような透明さで美しい。或る者は泳ぎ、他の者は食べて自由な時間を過ごした。私は足だけ水に浸かった。この辺りはかつてペトロがヨッパからカイザリアに行き来する際に通り、パウロも第三伝道旅行後エルサレムに行く途中に通り、この景色を見たことであろう。

 海の向う側は霧でかすみ、水平線ははっきり見えるが水面は真っ白である。太陽が水平線に沈む前に、その霧の中へ隠れて行った。幻想的な美しい光景であった。4月20日(水)5:45からヴォランティア全員でとうもろこし畑の除草作業。土が固いのと畝(うね)の長さが200m以上もあるので8:50まで働いたが完了せず、後は近くのアラブ人を雇った。

独りヴォランティア(22)

 夕食後、隣室のフレッド(南アフリカ共和国からのヴォランティア)に今早朝に何があったのか尋ねてみた。早朝に突然キャビンがけたたましい音や奇声と共に大きく揺れ動くのでベッドから起きて窓の外を見た。ニッキ(女性)たち(英国人ヴォランティア)が隣室の前に立っていて、フルヴォリュームでラジカセを鳴らし、じっとフレッドの部屋の窓の方を見ていたのだ。

 時は夜中の3時だ。フレッドが語るところによると、ウォッカで泥酔した彼らは窓を破って室内に侵入しようとしたのだが果たすことが出来ず、一度は引き揚げた。6時頃に再び来て今度は窓を壊して室内に優入し、フレッドのパジャマとシーツに放火したり暴行を加えたのだと言う。南アフリカのヴォランティアリーダーがフレッドからこのことを聞いてアロン(キブツのヴォランティア世話係)に連絡していたので、アロンとヴォランティアたちが、キャビンに集まって来た。フレッドはアロンから事情を聞かれていた。この事がきっかけでフレッドといろいろ話せた。彼の両親は熱心なクリスチャンだそうである。

 4月13日(水)、この日は午前10時に近くの町ハデラでテロによる爆破事件があり6人が犠牲になった。先日はアフラであったが、すぐ近くまでテロが迫っていると思った。今タはイスラエル独立記念日のアトラクションがキブツ内でも夕食後にあるらしい。(この日をねらったテロであった)。食堂横の芝の上で夜会が盛大に行われていたが、疲れていたのでキャビンに戻ってシャワーを浴びてから休んだ。

独りヴォランティア(21)

 夕食後へレナが来て、日本の相撲のVTR を購入したので明日午後4時に来て、子供(娘)達に解説するように頼まれる。

 4月9日(土) 安息日、夕刻ヘレナ宅を訪ね、相撲のVTR を見ながらルールなどを説明した。又、日本について多くの質問を受けた。天皇の戦争責任について、日本のアジア侵略、物価、食べ物、教会などなど。夕食後も来ないかとの誘いを受けたがそれはお断りした。

 4月10 日(日)夕食後イギリスの男性ヴォランティアから声をかけられ「スイモー、スイモー」と言うので何のことかと思ったが相撲を取りたいのだと言うことであった。大相撲が英国のロンドンで興行したので、それを見て是非したいのだと言う。三人共身長180cmを超え体重もあり怪力であったが、押し込まれても打っちゃりの技などで何とか日本人としての面目を保つことができた。

 4月11日(月)朝食の時、日本の家族から電話があった。イスラエル情勢が悪化して寺西師が行く予定のツアーが中止になったが大丈夫かというものであった。全く問題ないと伝える。

 4月12日(火)日本から手紙が三通届いた。夙川教会からは最後の聖日礼拝の日に書いてくださった寄せ書き。押方師からは群誌や原稿依頼などである。祈って下さっている、そして、その祈りに支えられて今ここで守られているのだ、ということを強く覚えさせられる。(あと一通は私の実姉からのもの)

独りヴォランティア(20)

 4月6日(水)毎日一回食堂裏の大きな計量器で体重を測るのが習慣となっている。それというのも体重が除々に減少しているからである。主食のパンをあまり食べないので、いつも空腹感がある。今日の作業はビワ畑だが立ち眩みで倒れそうになる。夕方イギリスのヴォランティアグループが夕食にバーベキューをするので来ないかと誘ってくれた。ミートハンバーガー、ステーキ、ソーセージ、ピタパン、牛乳、フルーツドリンクなど思う存分食することができた。

 4月7日(木)朝から元気一杯バナナ畑で働くことができた。昨夕のバーベキューが利いている!しかし胃の負担が大きかったのか唇を噛んでしまうようになった。難しいものである。昨日から風向きが東から西に変わり、地中海から涼しく湿気のある風が吹いている。そして多くの水蒸気が運ばれて来て霧がたちこめ視界が 500 メートル程しかない。太陽が月のように真っ白である。主イエスもこのような光景を見られたであろう。夜はドフ氏によるへブライ語の学び。創世記1章〜3章を読んだ。ヘブライ語を習得するのに旧約聖書をヘブライ語で暗誦するのは良い方法の一つだと言われた。

 4月8日(金)夕方食堂に行く途中、フランス人ヴォランティア、ジャンが23 日(土)にゴラン高原(ヘルモン山)を歩くツアーがあるのを教えてくれた。費用は23 シェケル(約800円)で〆切は10日(日)との事、直ぐ申し込むことにする。

独りヴォランティア(19)

 ベツレヘムの羊飼たちが飼葉桶に寝かされている乳飲み子を捜し当てた 1000年前、この野原では少年ダビデが羊飼をしていた。(サムエル上 16:1、11-13)山坂の多いこの様な野で育ったダビデは足腰の丈夫な少年であり、野獣から羊を守ることが日常の務めてあったため精悍(せいかん)な男子であったであろう。そしてこの様な環境が彼の性格や信仰を育んだのだ(同 17:34-37)。

 彼の曹祖父母ボアズとルツはこの野で出会い、ルツはこの野で落穂拾いをしたのだった。捨った大量の麦の袋を担いで義母ナオミの所に戻るのには大変な労力を要したことであろう。何しろこんな坂道なのだから(ルツ 2:1-19)。更にその1000年近く前には族長ヤコブの愛妻ラケルが若くして死にベツレヘム近くの街道添いに葬られた(創世記 35:16-26)。メソポタミアのハランの地からサマリヤのシェケムまでの長旅、ベニヤミンを身ごもってシェケムからネゲブに向かう旅の途中での出来事である。妊婦にはこの旅はあまりにも厳しかったのである(主イエスの母マリヤも)。

 このようなことを心に思い浮かべながら、小型のラジカセから流れてくるバッハのパストラルシンフォニー(牧歌曲)をシャロンの野の中で聴いている私は、何千年の時空を超えて働いている神の不思議な御手の中に自分も守り導かれていることを全身で感じていた。それにしても室内のなんと暑いことか。すでに真夏である。未だ 4 月初旬なのだが東風のせいである。

独りヴォランティア(18)

 J・Sバッハの作曲したクリスマス・オラトリオは全6部から成り立っている。その第2部の冒頭に管弦楽だけで演奏されるシンフォニアという曲がある。これはパストラル・シンフォニーとも呼ばれ、聖夜にベツレヘムで羊飼達が羊を牧している情景を描いた曲とされている。同様の曲はヘンデルのオラトリオ「メサイア」の第一部やイタリヤの作曲家コレルリ、トリルリなどのクリスマス協奏曲でも数多く作曲されている。ラジオでライブ演奏のこの曲を聴いていると、先にベツレヘムに行った時の光景を思い起こし、聖書の記述の事などが心に迫って来た。

 ベツレヘムはエルサレムの南、ユダの荒野の丘陵地帯にある。今はアラプ人の町であるが丘と谷の合間にわずかばかりの平地があるが、町は丘の上にある。主の生誕教会も坂道をずっと登った上にあって、タクシーを下車してから教会堂まで、その上り坂の道を歩いて行った。こんな坂道をヨセフとマリアが歩いて行ったのかと思うと胸が熱くなる。

 現在の道はガタガタ道ではあるが、一応は舗装されている。2千年前はどんな悪路、どんな坂道であっただろうか、臨月のマリアにとっては死を覚悟しなければならない旅であったであろう。ここで産気づいたのも納得できる。クリスマスの夜の羊飼いたちのことを思う時、どこかロマンティックな光景を思い起こしていたが現実はとても厳しい場所であることが、ここに来て見て分かった次第である。

 羊飼いたちが天使のみ告げを聞いて「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」を探し当てるために、夜中急な坂道を捜し回わらなければならなかった。あざみやいばらが生い茂った大小の石ころだらけの坂道を捜し回って彼らは主イエスを見出したという事を(ルカ 2:12-16)。

独りヴォランティア(17)

 キブツでの余暇はヘレナから借りているラジカセでクラシック音楽を聴くことが楽しみの一つになっていた。(残念ながらカセットレコーダーの方は壊れていて録音も再生もできない代物である)「イスラエルのラジオ放送局についての知識が殆どないので確かなことは言えないが FM放送では多くのチャンネルがあり、旧約聖書の朗読を流している局、ヘプライ民謡ばかり放送している局、クラシック音楽の局など多くの電波が発信されているようだ。

 食堂には毎朝英字新聞の朝刊が1部机の上に置かれていて自由に読めるのだがヴォランティアの誰かが自室に持ち帰るためか、時々しか読めない。その新聞のラジオ棚を見て、今日はどんな曲を放送するかを知ることができるのである。LPレコードで音楽を流す番組が多いのだが、時々ライプ(実況)放送もある。

 レコード盤で放送する際は実に大雑把で日本のNHK のような放送に慣れている私には驚かされることが多かった。盤には大きな傷があり長い時間プツプツと大きな雑音が続いたり、溝がつぶれていて同じ所が何度も繰り返してしまうということが度々あるのである。それでも放送局の担当者はしばらく気付かないのか数分間も同じ箇所を繰り返しているのである。リスナーから苦情が届かないのだろうか。

 一昨晩はバッハのマタイ受難曲、昨晩はクリスマス・オラトリオのライブが放送されていた。イースターのシーズンなので受難曲は理解できるが、この時期にクリスマス・オラトリオとは珍しい。ユダヤ教徒の多いイスラエルでヒットラーの国のドイツ語でキリストの福音が大々的に放送されるのも不思議に思ったが、その放送から大きな慰めと励ましを頂いた。

独りヴォランティア(16)

 4/4(月)夕方宿舎の南の丘に登ってみる。ここは、それほど見晴らしは良くなかった。遠くの山の上の町と三種の野の花をスケッチした。こんな小さな一輪の野の花でも良く見ると目を見張るほど美しい。「明日は炉に投げ入れられ」、また除草剤をぷっかけられ、耕運機で根こそぎひっくり返されてしまう花々でさえ、「こんなに美しく装ってくださる」創造主なる神。

 この造形美の極みである花々は神の指の成せるところである。まして主の恵みに依り頼んで生きることを願う私たちをなおさら美しく、御霊の実で装って下さらぬ事があろうかと納得させられる。この主と共にあることを何よりも喜び、隣人の徳を高めることを心掛けて生きようと願う。

 4/5(火)昨夜から生暖かい風が宿舎に打ちつけキャビンを震わせているので熱睡ができない。早朝作業場に行くとき、ヨナハンがこの風は東から、つまりヨルダンの砂漠からの乾いた風であることを教えてくれた。一夜にして野の花を枯らしてしまうというあの風だ(創世記 41:6、ヨナ 4:8)。未だ4月上旬なので熱風とまではゆかないが生暖かい風だ。

 夏がもう直ぐそこまで来ているということ。この緑ときれいな花々は早々に野山から消えてしまうのであろう。今日の作業は日差しの下では熱かった。作業を終えてポストオフィスを覗いてみると家族からの手紙が届いていた。消印を見ると3月22日西宮局受付とある。航空便なのに16日も要っている。やはりイスラエルは日本からは遠い国なのだ。何んといっても家族からの便りが一番嬉しい。読んでいる間は遠く離れて住んでいるという感じがしない。

独りヴォランティア(15)

 この日、バナナの木の手入れ作業を午後3時に終えた私は部屋に戻り、昨夜へプライ語会話教室の後でドフ氏から聞いたことを思い返した。ドフ氏が語るところによるとイスラエルの多くの宗教家(ユダヤ教徒)はもはやトーラー (モーセ五書) がモーセによるものと信じていないのだという。イスラエルのヘブライ語学者が明確にしたところでは、モーセ五書のヘブライ語はバロン捕囚時代のそれも非常に後期のよく整理されたヘブライ語であるという。

 旧約聖書の中で最も古い時代のヘプライ語で書かれているのは、ヨシュア記、そしてダニエル書が最も新しい時代のものであり、紀元前2世紀頃のアラム語も多く含まれている。更にエズラ・ネヘミヤ記もその時代のヘブライ語とアラム語だという。

 私はその研究に基く著作時代はかなり正しいと思わされた。日本語も昭和初期、明治初期、江戸時代、奈良時代それぞれ専門の学者がそれらの時代の文章を見れば、それがおおよそどの時代のものか推定できるのと同様だと思った。しかし、それだからといってモーセ五書がバビロニア捕囚期に創作されたものと断定することはできない。エズラ時代のイスラエル人にとっては読むことは難しくなっていたであろうモーセ時代の書物や口伝をエズラ達、律法学者達が当時のヘプライ語に精確に訳し編さんした可能性が高いように思う。

 今から千年前の「源氏物語」も現在の一般人には現代訳でないと読めないようにモーセの時代はエズラの時代よりも900年も前なのだから。後世に編さんされたとしても神の言葉としての価値は何ら減じることはない。それは編さん者達が、神の言葉を信じ怖れる人々であったからである。

独りヴォランティア(14)

 サマータイムで昨朝より一時間早く起こされて送迎車に飛び乗ってバナナ畑に向かった。しかし昨夜来の雨の影響で雲が低く薄暗くて周囲がよく見渡せない。バナナ樹の枯葉除去の作業だが、濡れた葉がとても冷たく手が悴んでしまう。これでは仕事にならないので作業を始めて10分もしないうちにヨハナンは私達を部屋に戻し、朝食後8時半から作業を再開するという。ところが、また雨が降り始めたので結局午前中の作業は午後に回し(この日は金曜日なので、本来は午後の仕事は休む)、車で野鳥観察に連れて行ってくれた。

 行き先はキブツの北方約 20kmの地中海沿岸の国立公園に指定されているナハショリムという所である。地図で見ると、ここは旧約聖書時代のドル(ヨシュア12:23、17:11他)のすぐ近くで、すぐ南に現在のドルの町がある。「囲み」という意味でソロモン王時代の重要な地点であったらしい(Ⅰ列王 4:11)。

 下車すると、そこにローマ時代の岩を掘った大きな墓穴が3つあり、それぞれの墓には3体を安置できる奥行きの深い立派なものである。入口の横幅は約1m、高さは1.3m程なので屈まなければ中には入れない。直ぐ近くには、昨夜からの雨で勢いよく流れる川があり、そこで釣りをする人、投げ網を打つアラブ系の人達がたくさんいた。

 私たちは先ずバードウォッチングコースを歩いて行ったが、道が水溜りだらけで足が滑って転びそうになり、鳥を観察するどころではなく足元ばかり見て歩かねばならない。それでもカメラを撮りに来ている人が数人ばかり居た。流れに浴って河口まで行き地中海を暫く眺めていた。近くにはヘロデ大王が築いた水道橋やその他の建物跡が数多く残され、雨さらしのためかなり風化している。

独りヴォランティア(13)

 他のヴォランティアに誘われてキプツの体育館に入って行った。日本の高校にある体育館と同じ程広くバスケットボール、バレーボール、バトミントンなどができる。外国のヴォランティアやキプツ住民の青年達は専らバスケットボールをしている。日本の野球熱を思わせる程バスケットボールが好まれているのを見て異文化の中に居る自分を改めて認識した。

 キブツの運動施設には他に野外のバスケットコート一面と夏季には自由に泳げる25mプールがある。体育館の利用はキブツ住民が優先らしくヴォランティアが 15人程ゲームをしていてもキブツの青年が2人来てバスケットを始めようとするとヴォランティアはそこを明け渡していた。体育館を出て部屋に戻る途中、キプツの子供達が(キャンプ)ファイヤーを楽しんでいる。過越祭シーズンだからだろうか。空の月が美しい。

 4/1(金)早朝、ドアが強く叩かれて出て見ると、今日からサマータイムで時計を1時間進ませるという事、つまり1時間早く仕事が始まるというのだ。英語を解せない私一人だけの失態であろう。これから、この珍道中を主がどのように導いて下さるのか楽しみだ。「主はわが牧者」!

独りヴォランティア(12)

 丘の上から地中海方面に没してゆく夕日を見てから夕食のために食堂に戻るとクリスチャン(フランスのヴォランティア男性)が青い顔色をして弱々しく座っている。テープルには丼いっぱいのヨーグルトと飲み物だけを置いている。横のパット(南アフリカの女性)とニッキ(イギリスの女性)も風邪をひいて喉の痛みと鼻水を訴えていた。隣の青年もだ。

 ヴォランティアの間に風邪が流行している。彼らに私の手持ちの風邪薬を提供したが、私の分の残りが僅かになってしまった。私自身が風邪をひかないように、よく食べて特に野菜と乳製品(これらはキブツには豊富にあるので感謝)を摂取し、よく寝ておかなければならない。食後部屋で内村鑑三の『一日一生』を読んでから祈る。

 明日、西宮(夙川)から生駒(あすか野)に引越しする家族のために。3/28(月)5時起床、『一日一生』を読む。聖書箇所はイザヤ書43:18、19「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな、見よ、私は新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。…確かに私は荒野に道を、荒野に川を設ける」。

 家族があすか野に転居するこの日、神がお与え下さったみ言葉に、私は神の最善を身に感じた。今、日本はちょうど正午頃。荷物が着いて昼食を摂ろうとしているだろうか。改めて主の守りを求めて祈った。

 この日の夕食後、ゆったりくつろいでいると、ヴォランティアの仲間でバスケットボールをしないかと誘われたので付き合うことにした。

独りヴォランティア(11)

 過越の食後アロンに明日の作業のことを尋ねると「明日は過越祭休日だ」と言う。この年は過越祭が日曜日と重なっていたのだ。食堂から部屋に帰る時、空には美しい満月が輝いていた。そう言えば過越祭は春分の日の次に来る満月の日に始まるのであった事を思い出した。

 3月27日(日)バナナ畑に行き一人で礼拝の時を持つ。ルカ福音書20章~22章を朗読し、イスラエル、日本、家族、夙川教会最後の礼拝のために祈る(時差のため既に日本ではお昼過ぎになっているが…)。午後3時頃に窓の外に見える北側の丘に行ってみた。

 そこはもうウェストバンク(ヨルダン西岸のパレスチナ地域らしく、アラブ人の牧場であった。そこの主人らしき人に挨拶をすると、「いつから来ていつまでいるのか」とか「牛の糞があるので足元に気をつけなさい」と語りかけてくれた。

 丘の西側に石を積み上げた遺蹟らしきものが見えるので行ってみると、ドーム型の門や家屋らしきもの、通路のようなものがあって、やはりこの丘も遺丘のようだ。丘の上まで登ると視界が開けてシャロン平野が一望できた。シャロンの野を東西に走るアフラ街道を自動車が行き交っている。

 西側にはハデラの町を象徴する 3 本の高い煙突が見える。その直ぐ北側にはカイザリヤがあるはずだが見えない。その少し北側にはかなりはっきりと丘の上の町が見える。ワインの町ジクロン・ヤアコブらしい。その遥か彼方の山の上にも町が見えるのがカルメル山のようだ。

独りヴォランティア(10)

 過越の祭りで食される種なしパンは、現在では統一されているらしく市販品である。小麦粉100%(一切の添加物なし)のクラッカーで 15cm角の大きさである。これはマッツァと言われるもので、今年は入手できたので 4月の聖餐式でいつもの食パンの代わりに、これを使用した。何の味付けもしていないので小麦粉の香りだけのもので、上顎にくっ付いたり喉に引っ掛かって飲み込み難いものだ。

 過越の食事の際に主イエスが弟子達に分け与えたパンとワインには共通点があるのに気付かされた。それらは共に砕かれて混ざり合ったものだと言う事である。一粒一粒の小麦が砕かれ混ぜ合わされた粉がパンの原料となり、それがキリストの体(教会)となるのだ(マタイ 26:26)。ワインの元になるブドウ汁も、一粒一粒のブドウの果実が踏み潰されて、汁となって混ざり合い発酵してワインになるのだ。

 ありのままの姿が砕かれて混ざり合わされ、愛によって互いに一つとされ赦し合い赦され合って神の国は形造られてゆく(エフェソ 4:15、16)ということを明示しているのではないか。聖書の示す愛は他者と自分との区別を排するものである(マタイ 22:39)。

 後で知ったのだが過越の食事にはヴォランティアの席はなく、私はヘレナー家の一員として特別に参加させて頂いたということ。(他のヴォランティアは見学するだけであった)。

独りヴォランティア(9)

 過越しの祭りについては「この日は、あなた達にとって記念すべき日となる。あなた達は、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。」(出エジプト記 12:14)。

 「第一の月の14日の夕暮れが主の過越しである。同じ月の15日は主の除酵祭である。あなた達は七日間酵母を入れないパンを食べる。」(レビ記 22:5、6)。

 「アビブの月を守り、あなたの神、主の過越祭を祝いなさい。七日間国中どこにも酵母があってはならない。」(申命記16:1、4)」と律法でイスラエルの民に命じられている。多くのユダヤ人は今なおこれを忠実に守っているのである。キリストの最後の晩餐も過越しの食事であった事を福音書は伝えている(マルコ14:12・26)。式が始まるとハガダーが朗読されていく。

 聖書の出エジプト記の物語に基いて、大人も子供も男も女も区別なく、一人づつ順々に読んでゆく。そして適当な箇所で合唱や三重唱や独唱が入れられ、一ヶ所ではダンスも入った。又、ある箇所では大人も子供もワインで乾杯をする。四度目の乾杯が終わると食事を始めるのである(それまでに食べ始めてしまっている人もいた)。

 食事の時が来ると魚(鱒)、肉(牛とチキン)、団子入りスープが出された。野菜はサラダ菜とピーマンにドレッシングしたものだ。ハガダーはバッハのオラトリオ(受難曲やクリスマスなど)とよく似た構成だと思った。

独りヴォランティア(8)

 夕刻になったので、昨日に声をかけて下さったへレナの家に出向いた。ヘレナ宅で何かあるのか、と思ったがそうではなくヘレナ一家と共に中央食堂に向かった。過越の夕食はキブツの全住民と全ヴォランティアが食堂で一堂に会して過越の祭りの食事をするのであった。ヘレナは私を自分たちの家族のゲストとしてヘレナの家族のテープルでこの祭りを祝えるように取り計らってくれたのである。

 ヴォランティアの中で私一人だけがユダヤ人達と一緒の席に座り、他のヴォランティアたちは、いつもは料理を並べてある一画に集められて座っていた。私は最も窓辺の壁際のテーブルであったが、他のヴォランティアたちはその反対側の一番奥まった所に居て、遠くて暗かったので彼らの顔とその表情はよく見えなかった。

 全てのテーブルの上には紙製の白いテープル掛けを敷いてあり、その上に種なしパン(マッツァ)、ワイン、コーラ、スプライト、ピクルス、野菜の漬物(濃い紫色でみじん切りのもの)が置かれている。そして各々の前には 3 種の紙製の皿、プラスチック製のフォーク、スプーン、ナイフ、コップ大小とナプキンが置かれてあった。

 時間(7時)が来るとヨハナンの奥さんマリアン(彼女はこのキブツ内で聖書<旧約>学習会を主催していると聞く)が司式をしてセデル(過越の食事)が進められてゆく。手元に配られたプログラム用紙の式順に従ってハガダー(過越祭用式次第)が読まれてゆく。6時にラジオでもハガダーを放送していた。

独りヴォランティア(7)

 イスラエルには2000年前の遺物や遺蹟がそこかしこに残されている。このキプツ・マアニットもその頃の遺丘の上にあって、住民の中に発掘品のマニアも居ると聞く。しかし公機関による発掘は手付かずである。奈良県下では先日卑弥呼の邪馬台国跡らしき遣蹟の発掘ニュースが大きな話題となったが、それらは2〜3世紀頃のものである。

 しかし、マアニットの遺跡はそれよりも2~3世紀以上も古いのである。毎日この道を歩いていたのにドフ氏に指摘して頂くまで全く気付かなかったのだ。又、「これがレバノン杉だよ」と指してキブツ内に植えられているのを教えて下さった。そして「今夜はハガダーと呼ばれる出エジプト記の物語を朗読して、歌ったり踊ったりするんだ」とも言われる。

 イスラエルに住んでみると、ここが正に聖書の世界であり、ユダヤ人達は聖書の民であるという事、そして自分が今その真っ只中に居るという事をじわじわ実感してくる。イスラエルはもっと国をあげて貴重な遺跡の発掘に力を注いで欲しいと切に願うのであるが、現状はあまり進んでいない。それどころではないのだ。

 国防の為の予算が莫大なので国民の福祉の為の予算さえ不足している。遺蹟の発掘の為の予算は当然後回しになるのである。その為に多くの発掘は外国人(大学)の発掘隊が自費で発掘に来るのである。日本からも奈良の大学の発掘隊が来てガリラヤ湖東岸の発掘をしていた。イスラエルでの遺跡発掘のヴォランティアも募集されている。ハツォール、メギド、エルサレム、ベテシュメシュ、マレシャ、ダンなど、私の滞在中に発掘がなされていた。