エルサレムへの旅(24)

 繁盛しているのか、どの土産店も清潔で立派な店構えである。しかし子供達の投石騒ぎの為か、店内にもこの通りにも客らしき人の姿は全くなかった。生誕教会の裏側まで歩を進めてゆくと前方がパノラマのように開け、聖書に書かれているベツレヘムの野と思われる光景が目に飛び込んでくる。口では表現できないような感動を覚えた。

 正面下方にはベイトサフール村の家々が不規則に立ち並び、アラブ人の町には珍しく木々の緑が多くある。クリスチャン家庭が多いからであろうか、教会堂の十字架が所々に見える。教会堂の周囲にも木々が茂っている。土地はなだらかな傾斜面で、遠くには小麦畑のような白っぽい平面の場所が見える。

 私はすぐにルツ記にあるボアズの畑を想起した。ルツが麦の落ち穂拾いをした畑である。少年ダビデもきっとあの辺りを駆け回って遊んだのであろうと思うと胸に込み上げてくるものを感じた。左手の方は少し傾斜がきつく高くなっており木々が更に多く、家屋はほとんど見えない。キリスト生誕の夜、羊飾いたちが野宿をしていたのもあの辺りであろうか。是非ともあの辺りに行ってみたいという強い衝動が私の心を走った。もちろん今日は無理であるが。心ゆくまでこの光景を眺めていたいと思ったが、他の人々が待っているので急がなければならない。

エルサレムへの旅(23)

 アラブ人の少年達を追って行ったイスラエル兵達は皆若く見え、メンジャー(かいばおけ)広場は一瞬緊迫した状況になった。それでも私たちはここで昼食をとる事にしていたので、広場に面した食堂で、店頭のパラソル付きのテーブルを囲んでその椅子に腰を下ろした。

 リーダーのS師はこの状況にひどく動揺され、早々に食事を終え、このベツレヘムを去ろうと言われた。ツアーメンバーの安全を危惧なさったのである。しかし私はS師にせっかくの機会なので、私が生誕教会の外回りを一周見て回る時間を下さるように頼んだ。S師は渋々であったが了解して下さったので直ぐに一人で歩き始めた。

 まず、生誕教会の北西方に行きその角の駐車場の小さな広場の奥へ行き西側の景色を眺めた。家屋の向こう側に荒涼たる山々丘々が彼方に見える。家屋が邪魔をして満足できる光景ではなかったが、少し高い所から見ればきっと壮観な景色であろう。そして、そこから生誕教会の西側の細い道を南に向かって歩き始める。左側は教会敷地の高い石壁、右側は土産店が何軒か並んでいる。店内にはオリーブの木を彫って作った色々のサイズの置物(飼い葉おけの主イエス、ヨセフとマリア、羊飼い、博士達の家畜小屋のもの)などがあった。

エルサレムへの旅(22)

 この洞窟は聖誕教会に隣接するフランシスコ会(カトリック)の聖カテリーナ教会の地下まで繋がっている。この洞窟内でヒエロニムス(342 頃〜420)が聖書全巻をヘブライ語とギリシャ語からラテン語に翻訳した。

 彼の訳は「ヴルガータ」と呼ばれ、カトリック教会はこれを聖典として用いてきたのである。ヒエロニムスは翻訳に15 年もの年月を要したが、このベツレへムで地上の生涯を終えた。彼は信仰的理想が高く厳格な精神の持ち主であったが、怒りっぽく反対者達を侮辱したり、その毒舌は野蛮で無礼なものであった為、多くの人に嫌われたという。しかし友人や弟子達には深い愛情を示したため彼を慕う人々もいた。その中にはローマの貴族の末亡人パウラという・人もいた。

 彼女の資産がヒエロニムスのベツレヘム滞在の全ての必要(費用)を満たしたと伝えられている。パウラの死後ヒエロニムスは彼女の遺骨を見ながら翻訳を続け完成させた。聖カテリーナ教会堂の前庭には彼の石像が立てられているが、その足元にはパウラの骸骨像も置かれてある。

 私達は彼の石像を見てからメンジャー広場に戻った。その時アラブ人の少年たちがイスラエル兵達に対して、この広場で投石をしていた。その石の一つが S師の頭の直ぐ横をかすめていった。少年たちが逃げると数名のイスラエル兵がゴム弾銃を構えながら追っていったのある。

エルサレムへの旅(21)

 洞窟への入口も会堂の入口と同様にとても狭く、腰を屈めながら階段を10 段ほど下りてゆく。出てくる人とすれ違うことは不可能ではないが、かなり窮屈である。洞窟の幅は約2m、高さも2m、奥行きは間仕切りがされていて不明だが見学できるのは 10m ほどの長さである。中は灯火で少し明るい。

 主イエスの生誕の場所とされている所は入口の階段を下りて左に向いて、そのすぐ左側の岩壁の下側にある。そこは1mほど岩がくり抜かれ、その床に金属製の大きなベツレヘムの星が埋め込まれてある。その星の中央は丸くくり抜かれ、そこが主の生誕のメモリアルポイントとされている。

 当時の家畜小屋のほとんどは洞窟であり(貧しい人々の住居でもあった)マリアとヨセフが泊まった所もこのような洞窟であったと思われる。ここに会堂が建てられたのが主の生誕後350年も経ているので、考古学的には同定されるには至っていない。

 ベツレヘムにはこのような洞窟が他にもあって、学者達の意見もまちまちである。カトリック系の文献には、この生誕教会の一画にはへロデ大王によって殺害された幼児たちの多数の骨が残されていることに言及しているものがある。

エルサレムへの旅(20)

 ベツレヘムは主イエス様の生誕地として有名である。「ああベツレヘムよ」をはじめ多くのクリスマスキャロルでも歌われている。ルカによる福音書によれば、主イエスは家畜小屋の中でお生まれになったのであるが、この生誕教会はその場所の上に建てられたと伝えられている。この会堂の祭壇の地下にある洞窟こそが、その家畜小屋の跡だと言う。

 この教会堂は最初紀元 326年にローマ皇帝コンスタンティヌスによって建てられたのだが、その建物は現存せず、ただ床にその時代の古いモザイクの一部が残されており、観光客は誰でも見ることができる(この会堂は入場無料)。現在の会堂の形は6世紀のユスティアヌス帝時代のものだそうだ。

 私たちは前庭の右隅にある小さな入口、大人が身を屈めて一人ようやく入れるその入口をくぐり抜けてその会堂の中に入った。その会堂内は天井が高く石の柱が何本も並んであり、会衆は千人も入場できるほどの広さがある。堂内はかなり薄暗く床下の古いモザイク画も灰色に見える。会堂の右側を長い行列の後についてゆっくりゆっくり亀よりもゆっくり進んでいく。ようやく祭壇脇まで来ると、その直ぐ先の左側の洞窟を降りて行く入口があった。

エルサレムへの旅(19)

 嘆きの壁広場の見物も極短時間で済ませ、そこから旧市街の中を歩いてダマスコ門に戻り、門の外にある乗り合いタクシーでベツレヘムに向かう。このタクシーは8人乗りで満席になれば出発する。私たち4人とアラブ人4人が乗り込んだ。

 運賃は驚くほど安く、一人2シェケル(80円)、ダマスコ門前から西へ城壁に沿って少し進んで新門を通過し、ヒンノムの谷の手前で左折、城壁に沿って南へ走るとすぐにヤッフォ門、そこをそのまま南へ進んでゆく。

 この道がヘブロン街道で、その途中にベツレへムがある。道幅は広く車は混んでいない。車窓からの風景は、特に書くほどのものはない。ベツレヘムの街に入ると、車は左のわき道に入り、細い道を左右にカーブしながら走り、暫らくすると上り坂になる。その坂を登り切って右折すると広場に出る。

 その広場の中央が駐車場である。この広場はメンジャー広場で南側に生誕教会、西側は土産物店、北側にはツーリスト事務所、東側には食堂などがある。私たちは直ぐに生誕教会に向かった。とても古くて大きな石造りの会堂であるが、景観はグロテスクでお世辞にも美しくない。メンジャー広場から会堂前の広場に何の柵もなく、そのまま通じている。

エルサレムへの旅(18)

 入場のための検問は、所持品は当然の事(バッグの中も)ボディチェックも入念に行われる。それを1m程の銃を肩に提げた若い兵士5〜6名が鋭い目つきで行っている。本物の銃をこんなに近くに見るのは初めての事だし、兵士達の表情が硬く険しいので検問されている間、私はかなりの緊張感を覚えた。

 壁の前の広場はかなり広い。昔は壁の前は細い通りになっていて、直ぐ傍まで家屋が建っていたのだが 1968年の6 日戦争でエルサレムの旧市街がユダヤ人の手に堕ちた後、それらの建物が取除かれて現在のようになった。

 ユダヤ人達にとっては、この場所が聖地なのである。壁から50m程の所に低い鉄柵が設けられ、壁の前まで同様の鉄柵で左右に区別されてある。左側が男性用の祈り場、右側は女性用である。その中に入るには男性は頭に何かを被らなければならない。野球帽でもカウボウイハットでもハンカチでもタオルでも何でもよい。宗教的なユダヤ人男性はキッパという布製で円形の被り物をしているが、この祈り場の入口には紙製の簡易キッパが用意されていて、誰でも自由に使えるように配慮されている。

エルサレムへの旅(17)

 エルサレムで最も知られている名所の一つ「嘆きの壁」に行くのに、最も便利な門が糞(ふん)門である。この門の外側には、いつも観光ツアー用大型バスが何台も列を成して停車している。

 イスラエル(エルサレム)観光に来る人は必ず立ち寄る場所だからである。門から入って真直ぐ100m 程歩いて行くと「嘆きの壁」広場に入る検問所があり、そこで手荷物などの検問を受ける。そのすぐ手前の右手には神域(黄金のドーム)に行く細い通路もある。その周辺には、発掘によって出士した遺跡があり、ローマによって破壊された建造物の残骸の一部が見える。

 「嘆きの壁」はヘロデ王によって大修復された第二神殿の神域の西側の外壁を指す。現在の壁の高さは約 20m、長さは約60mで、下から7段目までの巨石がヘロデ時代のものである。その石の大きさに驚いてしまうが、主イエスの弟子達(当時のユダヤ人たち)も同様であった(マルコ13:1)。

 地中には、まだ17段(21m)埋まっていると言うのだから更に驚く。キリスト時代の地面は、20m以上下なのだ。石の間から細長い枝葉の雑草の様なものが生えている。それは、詩篇51 編で歌われている「ヒンプ」だと知らされると、またまた驚かされる。夜露がヒソプの葉から滴り落ちるのが、この前で祈るユダヤ人たちの涙のようで、「嘆きの壁」と呼ばれるのだという。

エルサレムへの旅(16)

 ゲッセマネの園はオリーブ山西の麓、そのすぐ下はキドロンの谷、ここで主イエスが逮捕された(マルコ 14:32、ルカ 22:39、ヨハネ 18:1)。

 北側の古い石壁の小さな門から中に入ると巨大なオリーブの古木が8本植えられた庭(園)である。その古木は樹齢2千年と言われ、幹は怪獣の下半身のようでグロテスクな形状である。これらは鉄柵で囲まれていて、見物人はその周囲を歩いて見て回るのである。

 柵の周囲にはバラの花が咲き乱れている。「ゲッセマネ」はヘブライ語で「油搾り」の意で収穫したオリーブの果を搾ってオリーブ油を作った場所である。この敷地の南には万国民の教会堂がある。4世紀の会堂跡に1919年に再建されたもので多くの国からの献金で建てられたので万国民の教会と呼ばれている。

 会堂内は真昼でもかなり暗く、祭壇の前に、主イエスが血の汗を流して祈ったという岩がある(ルカ 22:44)。それで別名「苦悶の教会」とも呼ばれている。とても大きな会堂だ。

 S師たちにとってはもう何度も訪れている場所なので短時間で見学を終え、タクシーで糞(ふん)門に向かった。この門は南側の城壁にある。南城壁には二つの門があるが、糞門は東の方(西側はヤッフォ門)である。

エルサレムへの旅(15)

 正面にイスラムの黄金のドームのモスクを眺望するオリーブ山の展望台、そこから5mほど下った山の斜面に、私たちは腰を下ろした。そこで主日礼拝を守るためである。その場所は展望台からは死角になっていて、私たちの声は聞こえても姿は見えない。

 そこで私たちは主を贅美し聖書を開いた。箴言 3:5, 6「心を尽して主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」この箇所からS師はメッセージを語られた。

 主イエスはこの辺りからエルサレム神殿を見て弟子たちにその滅亡を予告されたのであろうと語りルカ 21:20を読まれた。この場所に立つと、イエスがオリーブ山からエルサレムを見て、預言し、又涙を流された理由がわかるような気がする。ここはエルサレムより少しばかり高い位置にあり、エルサレム全体を見渡すことが出来るのである。

 私たちはそこから徒歩でケデロンの谷の方(西)へ下って行きゲッセマネの園とそこにある万国民の教会(堂)へ行った。その道は古い石畳だがとても急な坂で両側は石壁で囲まれている。幅は2mほどであろうか、広くはない。

エルサレムへの旅(14)

 昇天記念会堂の敷地内は草木一本生えていない殺風景な空間で園の墓とは対象的である。会堂から出ると門番の少年がテーブルに聖地のポスターや絵葉書を小さな机の上に並べて「ワンダラー、ワンダラー」と懸命に売り込もうとしている。

 見学無料のはずの場所に門番が居るのが不思議だと思っていたが、これが目的だったのだ。ここでは誰も何も買わなかった。そこから南西方向に少し歩くと、エルサレム旧市街と黄金のドーム(神域)が真正面に展望できる絶景の場所がある。グラビア写真(旅行パンフレット)などで見る風景である。

 正面にはイスラム教徒によって閉じられた黄金門が見え、右側の遠方にはステファノ(ライオン)門も見える。城壁の左方向には旧約時代のダビデの町だが、今はアラブ人の家屋がびっしりと建ち並んでいる。それは左に行くほど低くなっている。城壁に囲まれた旧市街の向う側には近代的な高層ビルが見える。ここは最高の観光スポットであろう。

エルサレムへの旅(13)

 エルサレムの神殿の丘の東側にはケデロンの谷があり、そのすぐ向う側は3つの峰を持つ丘陵が南北に横たわっている。北の峰はヘブライ大学のあるスコーパス(展望)山(829m)、真中の峰がオリーブ山(815m)、南の峰が滅亡の山(列王下 23:13、747m)である。

 オリーブ山の頂上にはキリストの昇天記念会堂があるので私たちは先ずそこを見学した。ドーム型の屋根を持つ石造りの8角形の小さな会堂である。この会堂の敷地は高い石垣で囲まれていて西側に門がある。

 入場は無料だが、アラブ人少年が門番のように入口に立っている。その門から敷地に入ると正面にその会堂があり、正面に入口がある。中は照明設備はなく小さな窓から入ってくる光だけである。

 そこにあるのはそこから主イエスが昇天した(使徒 1:9) という岩だけである。その岩にはイエスが昇天した際に出来た足跡のくぼみらしきものがある、というのだが、笑ってしまう。ここが昇天地だという確証は何もないが、4世紀にはここに会堂が建てられたのだという。現在の会堂は十字軍によって再建されたものを1835年に修復したものだ。

エルサレムへの旅(12)

 この夜の反省会でS師は「モーセがネボ山から約束の地カナンを見たと聖書には記されている(申命記 34:1~4)が、そこが蜜と乳の流れる地であるかどうかは肉眼では確かめられなかったであろう。今日のような晴天でも、あんなにかすんでいてぼんやりとしか見えないのだから、多分モーセは、心の目、信仰の目で見たのであろう。私たちも信仰の目で主の御国を見よう、又見ることが出来る者でありたい」という感想を述べられた。

 確かに死海の周りの空気はいつもかすんでいて対岸の山々がぼんやりとしか見えない。高気温のため海水が蒸発し、その水蒸気のためそうなるのである。しかし聖書には「主はモーセにすべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダンまで、・・・・・」「わたしは、あなたがそれを自分の目で見るようにした」と明確に記されている。

 堺の西村牧師がネボ山に行かれた時、珍しく空気が澄んでいてカナンの地を北から南まで見渡せたと私に語って下さったことがある。主はモーセにすべての土地が見渡せるようにされた、とわざわざ念を押すように書かれてあるのだから、事実そうであったと私は信じている。自分の目で見たことや経験したことを絶対化するのでなく、謙虚に神のみ言葉に聴くことの大切さを私は尊重したいと思っている。翌朝(3/20)は5:50起床。朝食後アラブのバスでオリーブ山に行った。

エルサレムへの旅(11)

 園の墓の見学を終えて売店に行った。この店の価格はカイザリヤの店より、少し安価である。私たちはそこから旧市街のダマスコ門前までゆっくり歩いて行った。ダマスコ門はシリアのダマスコに通じているので一般的にダマスコ門と呼ばれているが、ユダヤ人たちはサマリヤのシェケムに通じているのでシェケム門と呼んでいる。

 旧市街の8つある門の中で門構えが最も大きく立派な造りである。私たちは門の外の階段部分に腰を下ろし、行き交う人々をぼんやりと見ながら夕食時間までの時を過ごした。食堂はかなり薄暗い地下の部屋であった。

 料理はアラブ料理と思われるもので、量は多くなく軽食程度のものである。夕食の時、アラブ音楽のライプ演奏があり、三人の演奏家が弦楽器と打楽器と歌で、熱のこもった演奏が途切れることなく続いていた。私はしばらく聴いていたいと思ったが、たばこの煙が充満し、明日の朝も早いということで、食べ終えると、他のメンバーとすぐに部屋に戻った。そしてここでもいつものように反省会をした。司会は私、S師がショートメッセージをされた。

エルサレムへの旅(10)

 園にある墓の内側は天井が低く、鉄柵で2部屋に区切られている。柵の向う側には入れない。その一番奥に棺が設けられているが蓋石は無くなっており石製の棺も一部壊れている。墓の中はこの他、特に見るべきものは何もないが、ただ入口の扉の裏に「彼はここに居ない。復活した」(ルカ 24:6)と英語で書かれたプレートが貼り付けられているのが印象的であった。

 墓の前方はコンクリートで敷き詰められたやや広いスペースがあり、更にその向う側には高い木々に囲まれた少し広いベンチ付きの集会所のような場所がある。ここは墓よりも数メートル高い位置にあり、この所のベンチに腰を掛けて黙想することも出来る。とても快適な空間である。

 以前に述べたように、この頃の私はイスラエルの聖書に関わる事跡にそれほどの関心がなく(健康の回復とヘブライ語の学びが主目的)、 ガイドブックも所持しておらず、日記にもそれほど詳しく書き残していないのが悔やまれる。

エルサレムへの旅(9)

 ゴルゴタの丘と主の墓は、4世紀にコンスタンティヌス皇帝の母へレナがパレスティナ巡礼の際に見つけた聖墳墓教会が旧市街の城壁内に既にある。考古学者、歴史学者、カトリック、ギリシャ正教等はここを支持している。「園の墓」は学者によるともっと古い第一神殿時代(B.C.7 世紀頃)のものであろうと言う。

 しかし、ここの岩の丘がしゃれこうベそのものだということと、そのすぐ近くに園と墓があることが注目され、1860年に、ここが真実のゴルゴタではないかと言う人が現れた。更に第一次世界大戦中に英国軍人ゴードンも同調したことから「ゴードンのカルバリ」と呼ばれるようになったのだという。

 現在は英国のプロテスタント系の教会が管理し、主にプロテスタントの信徒が多く訪れている。私たちは、そこでゆっくりしゃれこうべの岩を見てから、木々の間の道を歩いて墓の前の広場に来た。墓の入口の右側の部分の岩が壊れていてコンクリートブロックで修理されている。それが雰囲気を壊してしまっている印象を受けた。来場者があまり多くなかったので、私たちはすぐに墓の内側に入って見ることが出来た。

エルサレムへの旅(8)

 両側を石壁に囲まれた路地を50mほど歩いてゆくと右側に「園の墓」の入口がある。そこから入るとすぐ左手にこの園の事務所の窓口がある。女性の事務員から明るい声で「あなたのお国は?」と声をかけられたので「日本」と言うと日本語のパンフレットを下さったのには驚いた。

 この施設は入場無料で、この小さなパンフレットも無料であった。この「園の墓」はヨハネの福音書 19:41「イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった」から取られた名である。園の名にふさわしく緑に包まれた小公園だ。

 背丈の高い木々をぬうように石の小径が続いていてその両側には小木や草花がぎっしりと植え込まれている。その所々に小集会が出来るようにベンチが設けられている。私たちはその庭の一番奥まで歩いて行った。そこには屋根付の木製のテーブルとそれを囲んでベンチが置かれている小さな展望台のようなものがあった。その先の下方を見ると、そこはアラブ系のエルサレムのバスステーション(ターミナル)である。そしてその左手に巨大な人の頭蓋骨のような岩が私たちの眼前に迫っている。両目や口に当る部分が空洞になっていて、まさに「しゃれこうべ」(ゴルゴタ、ヨハネ 19:17)だ。

エルサレムへの旅(7)

 タクシーはクムランから5kmほど北上し死海北西端まで戻り、そこから進路を西に向け、エルサレムに上ってゆく。エルサレムの標高は約800m、死海との標高差は1200mもある。距離は約35kmなのでかなりの上り坂である。

 茶色の岩山を上りつづけて行くと途中にベドウィン(遊牧民)のテント(濃い茶色)やその周囲に黒や薄茶色の山羊や羊たちが見える。エルサレムに近付くとアラブ人の村と思われる地域に入り、舗装されていないガタガタ道を走る。街並みは古く雑然としている。オリープ山を回る道とは別の道を通ってエルサレム市街に入って行くようである。

 やがて車は旧市街のダマスコ門までやって来た。そこから北へ400mほどの所にある古い旅館の前に停車した。今夜はここで宿泊するのだ。アラブ(パレスチナ)人の経営する宿である。宿の中は薄暗く、部屋も古く、ドアもガタついている。壁はひび割れて、ベッドも古い。きっと料金は安価なのであろう。この宿の利点は旧市街に近いということだ。

 部屋に荷物を置いた私たちは、すぐ外に出て歩き出した。そこから東へ5分も歩かないうちに園の墓(ゴードンのカルバリー)と呼ばれている所に来た。

エルサレムへの旅(6)

 マサダの要塞を足早に立ち去り、今来た道を引き返し、車は北に向かい、死海北端から南へ5kmにあるクムランへ行く。クムランは死海写本が発見された地として世界的に有名な所だ。私たちはこの公園内に入り、発掘されている遺蹟などを見た。

 周囲はすべてマサダ同様真っ茶色の世界だ。発掘されたのは2000年前のエッセネ派(祭司階級を中心とした人々)の隠遁生活跡で英語の説明プレートが立てられているが、時間の関係でS師による説明もなく、ただ見て歩くだけで、よくわからない。

 大きく深い谷のすぐ向う側に聖書の写本が発見された洞窟の一つがある。書籍などで見た写真でおなじみのものだ。ここで発見されたイザヤ書の写本は世紀の大発見と言われるにふさわしいもので紀元前1〜2世紀のものである。それまでに現存していたイザヤ書最古の写本よりも1000年も古いものだが、その文章はほとんど相異がなく、聖書伝承の正確さが立証される結果となった。

 私たちはクムランの土産物店を見てからエルサレムに向かうのだ。私はキブツを出発する際にらくだのズボン下(下着)を着ていたので、暑くて参ってしまった。死海沿岸の3月下旬の平均最高気温は30度近いのである。

エルサレムへの旅(5)

 死海西 の道路は舗装されていて快適そのものである。しかも道が起伏に富んでいて低い所では死海海面に近く高い所では数百メートルにもなり、そこから見下ろす死海の光景も美しい。

 私たちの車は死海北端から南へ40kmほど下ったエンゲディに着いた。この地はサウル王に追跡されたダヴィデが逃げ回った地の一つとしてよく知られている(サムエル上24章)。

 私たちはその国立公園には行かず、その近くにある死海の海水浴場に車を止めた。そこにビニールシートを敷いて、昼食をとる。キブツから持参したパンと水と、日本からの缶詰めなどを食べた。その後、水着に着替えて海水浴を楽しんだが、私は平服のまま水辺で石拾いをした。

 エンゲディから私たちは南へ約20km車で走ってマサダに向かった。マサダはアラム語で要塞という意味で、やはりダヴィデはここへも来て身を隠したという(サムエル23:14)。ここは周囲を絶壁で囲まれた高さ400mの山で天然の要塞である。時間の関係で下から眺めるだけで上には登らなかった。周囲は全く荒涼とした世界だが、ロープウエイで頂上迄行けるようになっている。ダヴィデの時代はこの辺りはどんなであっただろうか。

エルサレムへの旅(4)

 エリコから車で15kmほど南へ下ると死海の北西端に出る。周囲は茶一色の荒野である。車は死海の西岸に沿って走る(国道90号線)。ヨルダン王国との国境線は、ちょうど死海の中心部なので東岸はヨルダン王国の領土である。

 車の左窓から見える死海は道路から遥かに離れた所に見え、すこぶる穏やかな海面で、深青色が美しい。対岸には標高1000mを越えるモアブの山々が靄(もや)の彼方に霞んで 聳(そび)え立っている。

 死海北東端は標高が少しばかり低く、約800mくらいで、その辺りがモーセ最後の地、ネボ山やピスガの峰のあるあたりである。その時代はルベン族の相続地であった。死海は南北78km、東西18km、水面の標高は海面下 398mで、世界で最も低い場所である。しかし、ヨルダン川上流のガリラヤ湖から水利のために汲み上げる水量が過多のため、死海に流入する水の量が減少し、年々水位が下がり、現在は海面下400mを超えている。

 私たちが走っている道路際まであった水が、現在、遥か彼方にまで退いてしまっている。かっては、この道路も水面下に沈んでいたそうである。車の右側は高さ100mは遥かに越える断崖絶壁が延々と続いている。この雨季には降雨によりワジ(水無川)が突如として上流からの鉄砲水で溢れ、車が押し流され、死者が出ることもあるのだ、とS師から聞かされる。

エルサレムへの旅(3)

 旧約時代のエリコの遺蹟は予想よりずっと小さく、その広さは学校の運動場よりも狭いと思われる。城壁で囲まれた町ではあったが巨大都市ではなかったのだ。ガイドがいないので、歩いて見て回っても、どれが何か、さっぱりわからない。ただ、ここがヨシュアによって滅ぼされたカナンの地の最初の町であったということ、それは目に焼きつけることが出来た。

 この丘(テル)の上からの眺望はすばらしい。360度 パノラマで周囲を見渡すことができる。この地は海面下 350mに位置するために亜熱帯気候で、バナナやなつめやしなどがよく実り、周囲にはそれらの畑が点在し、緑がたくさんある。

 この遺蹟のすぐ東側にエリシャの泉(列王下 2:18~22)があり、そこからの湧き水がこの町を潤しているのだそうだ。その泉を見る時間がなく、ここでの滞在は30分足らずで、更に南に向かった。次の目的地は死海である。エリコの町を出ると周囲は茶一色の世界である。

エルサレムへの旅(2)

 トゥルカルムはシャロン平野では、パレスチナアラブ最大の町で、ここからもイスラエルへのテロリストが多数出ていて、日本のテレビでも時々この町が放映されている。運転手はアラブ人のフィベだがタクシーはイスラエルの会社のものなので、ナンバープレートの色でそれがわかる。

 フィベはサマリヤ地方を通り抜けて車を走らせるのだが、アラブ人の町や村の無い道を選んで走るのだ。そうしないと石を投げつけられたり、何が起こるかわからないからである。幸いなことにこの日の朝は雨でトゥルカルムの町中に人影があまり見られなかったので私たちは無事に通過できた。

 タクシーは南東方向に進み、サマリヤの山の中の道を走る。はじめて走る道なので(フィベは知り尽くしているが)私にはどの辺りを走っているのかさっぱり判らない。高い丘の頂きで小休止をし、山並みを眺める。そこで記念写真を撮ってもらった。

 巨大な建物跡の一部らしい石が残されている。車は峠を下り始めるが、南に進むごとに山肌が茶色っぽくなり、緑が減ってくる。そして平地にたどり着くと、そこはエリコの旧約時代の遺跡(テル)であった。そしてS師が入場料を支払って下さり、そのテルの上にのぼって行った。

エルサレムへの旅(1)

 いよいよ明日からは二泊の予定でエルサレムに出かける。深夜だが、そのための荷造りなどをして備えた。その後に帰国する他の三人は、帰国後のイースター礼拝の聖餐式用の種なしパン(マッツァ)を分け合って持ち帰る備えなどもしていた。

 3/19(土) 安息日、明け方から雨が降り始めた。7:40 アラブ人運転手フェミ氏のタクシー(9人乗りのベンツ) に私たち四人とフェミの奥さんも同乗してキブツを出発する。南へ少し走るともうそこはヨルダン川西岸地域でパレスチナ人地区である。道幅は広く一応舗装されているが両端は整備されておらず、1950年代の日本の道を思い出す。

 早朝のためか人の姿は見えない。車はすぐに或る家の前に停車し私以外の三人は下車してその家に入っていった。土産としてアラビックコーヒーの豆を買うのだ。S師はアラビックコーヒーの出し方をフェミから聞いてメモを取っていた。 1.5kgで15シェケル(約600円)、安い買い物だ。車は更に南下しトゥルカルムの町中を走り抜ける。雨のせいか町は薄暗く人影もまばらで、道幅はとても狭い。

ツアーの人々との団体生活(102)終

 この日の夜はヘブライ語会話講習の三回目(20:30~21:40)。もう体が疲れ切っていて頭も休止状態で、睡魔と闘い続ける。その後に反省会をしてキブツの友人たち一人一人のために祈る。

 3/18(金)5:30起床。早朝の作業はバナナ畑での木の手入れ。朝食後はパッキンケース(バナナ出荷用)作り。今日は金曜日で午後の仕事は無い。昼食後洗濯をし、夕方4時からヘレナ宅を訪ね娘さんたちに折り紙を伝授する。安息日の夕食はいつもより豪華である。

 しかし牛肉の煮物はいただけない。ユダヤ教式の血抜き肉のためスカスカで塩っぱい。じゃがいもの丸ごとのフライは美味しかった。ツアーの人々は今日でこのキブツでの労働が終了する。明日からはエルサレムで二泊し、観光してからロンドンに向けて発つ予定である。

 それで夕食後は私以外の三人はキブツの友人にお別れの挨拶回りに行った。私は洗濯物の片付け。夜の反省会で、最近キブツ周辺でジャッカルが出没し、近くの帰人が噛みつかれたり、飼い猫がいなくなったりして警察官がキブツに情報を集めに来ているが、未だ解決していないという。

ツアーの人々との団体生活(101)

 そのシャロンの草原の中にベドウィン(遊牧民)の大きなテントが二張り立てられている。すぐ側には彼らの定住用の家屋もあった。周囲には牛や羊などの家畜が放牧されており、のどかな牧場の風景があった。

 イスラエル国内に住む遊牧民に対してイスラエル政府は定住化を推進しようと働きかけており、その支援もしているという。ここのベドウィンもそれを受け入れて家屋を建てたのであろう。昔は自由に遊牧できた彼らも近年は多くの国境に阻まれ、自由往来が利かなくなってしまった。

 そこからすぐ北西にイスラエル軍の野外記念劇場広場があり、そこの戦没者追悼施設の塔に上った。その石壁には独立戦争(1948年)から今日までの戦没者の氏名が刻まれている。そこで周囲の風景を眺めてからキブツに帰った。

 そして休む間もなくバスでハデラ市内に出向いた。先ず郵便局へ行って日本に電話をかける。局内の電話を利用するのだが混んでもいないのに25分も待たされた。料金は1200円。その後、ショッピングセンターなどで買物をした。グレープフルーツ(ルビー)5個70円、セロリ一株80円、イスラエルの道路地図の本(新書サイズ)1400円など。 キブツへはタクシーで帰った (1000円)。

ツアーの人々との団体生活(100)

 アラブ人の老人とヨハナンが穏やかな口調で会話を交わしているが、何を話しているのか、その内容はさっぱりわからない。30分ほどお邪魔をしたがその間老人の奥さんがオレンジのドリンクとアラビアンコーヒーを出して、もてなして下さった。

 そのお宅をいとまごいしてからアラブ人の村の中を車で見て回った。ヘロデ王時代の遺蹟も残っている。水だめ用の井戸も2基あり、どちらも2千年以上も前のもので、40年前まで現役として利用されていたのだという。一基は空で、もう一基は満水状態で外まで水が溢れていた。どちらも中はゴミだらけである。

 現在はイスラエルが水道を設置したので、もう使用する必要がなくなったのである。パレスチナ人地区の電気、水道、ガスなどのライフラインの多くはイスラエル側から供給されている(ガザ地区も同様)。

 その井戸の側には、イスラムの名のある人の古い記念堂があり、棺が安置され祈り場となっていた。そこから少し行くとシャロンの野原。春菊、ひな菊など、黄色・ピンク色などの絨毯を敷き詰めたようだ。イスラエルでは春菊はあまりにもありふれた野草のため名前がないのだそうで、主イエスも春には、春菊をご覧になっていたのは間違いないという。

ツアーの人々との団体生活(99)

 3/17(木)早朝はバナナ畑の木の手入れ作業、枯葉の除去と雑草刈り。朝食後はビワ畑での摘果作業、一房(枝)に果を2個だけ残す。

 この日、昼食後は作業を止めて、バナナ畑で働いているアラブ(パレスチナ)人のご老人の家を訪問することになった。ヨハナンが車で連れて行ってくれる。マアニットからアフラ街道(65号線)に出てアフラ方向(北東)へ少しばかり走って右折。もうここはアラブ人の村で標識はほとんどアラビア語で村の名前も読めない。ユダヤ人地区とは違って道は舗装されておらず、私の子供の頃の村の雰囲気を思い起こされる情景だ。

 そのご老人が出迎えて下さり、細い道脇のそう広くない庭のベンチに全員腰を下ろした。そこにはかなり大きく育ったいちじくの木が葉をいっぱい繁らせており、他に木が数本あったが草花などは一切植えられていない。犬が一匹つながれており、鶏が飼われている。ベンチのすぐ横にはパンを焼くための土造りの釜があり、年代物である。釜の内壁に練り粉をはりつけて焼く古いタイプのものだった。

ツアーの人々との団体生活(98)

 この日の夕方はみんなでヨハナン宅を訪ねた後、食堂で夕食をとり、他国のヴォランティア仲間に折り紙とコマ回しを紹介し、楽しい交流の時を過ごした。又、この日、道端に植えられているいちじくの木にいくつかの青い実がついているのを見た。主イエスが受難の週に葉の繁ったいちじくの木を見て実を捜されたが見つからなかったことが聖書に記されている(マタイ 21:18,19)。マルコ福音書では「いちじくの季節ではなかった」(11:13)とある。

 キリストの受難はユダヤの過越の祭りの頃なので、毎年3月〜4月である。今日は3月16日だからその季節に入る頃である。マルコが書いたように本当にこの季節は実がないのか、と気になっていたのだが、実がついている木もあることを確認することが出来た。しかし実は未だ青く硬いもので食べるには適してはいない。ただそれだけのことなのだが、疑問に思っていたことの一つが確かめられたのは収穫である。

 日本の家族からの手紙(3/2付)が届いた。航空便で14日も要っている。イスラエルの郵便局の仕事ぶりは極めて緩慢なもので市民へのサービス精神はほとんど見られない。

ツアーの人々との団体生活(97)

一昨日ハバとヘレナが私のヘブライ語の学習のために取り計らってくれていた件がだめであったという連絡があった。そのキブツのウルパン(ヘブライ語教室)が「神の幕屋(原始福音)」グループ専用で一般は受け入れないということである。「神の幕屋」グループとは無教会系の異端的教派である。

 聖霊体験をキリストの贖いと規定し、十字架の死による贖い(罪の赦し)は弟子たちの創作(捏造)として否定する。仏教や神道など日本文化を尊いものとし、歴代天皇や歴史的人物もキリストを信じなくても救われると教える。ユダヤ人にもキリストの救いは伝えない。すでに聖なる民だから。(万人救済説の立場の団体と思われる。)

 この団体はユダヤ人とイスラエルの中に深く入り込んでいて、或るキブツと提携している。その中に神学校に類するものを作り、若者にヘプライ語を修得させているのである。このグループの人々の多くはとても真面目で信仰に熱心な人々である。私のイスラエル滞在中にこのグループの人々の集団を各地で見かけた。