独りヴォランティア(44)

 5/12(木)午後の作業を終えると例によってヨハナンがキブツの周辺を車で巡回してくれた。今回は小川のほとりに行った。雨季が終っていたので水は淀んで溜っていた。青鷺などの鳥が水辺で餌を捜していた。空を見上げると鷲が高い所で風に乗ってゆうゆうと飛んでいる。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲の様に翼を張って上る」(イザヤ 40:31)の聖句を思い起こす。周囲を見るとピーナッツ、トウモロコシ、香草などの広大な畑だ。ピツァの香料となるハーブを収穫している所や、熱帯植物を栽培している畑なども見て廻った。

 キブツに戻るとヨハナンがいいものがあると言って私を食堂裏に連れて行った。そこには一本の桑の木があった。現在の私の部屋の前の巨大な柔の木は葉だけが繁っているが、ここは赤黒い果や末だ緑色の果が沢山付いている。その完熟した果を採って食べてみるとジューシーで甘く、とびっきりの美味しさである。日本でも家の庭で実った桑の果を食べたことがあったが酸味の中に微かな甘味があり食感はザラザラしていたが、ここの果は口に入れると全てがジュースになって口の中で溶けてしまうのだ。

 私の驚き様と感激した顔を見たヨハナンは満足そうであった。私は「タイームメオッド(おいしい)、トダラバ(ありがとう)」と言ってヨハナンに感謝した。

独りヴォランティア(43)

 この雌ろばのムタールは小柄で薄赤茶色、体全体はとても清潔そうで可愛い。人懐っこく寂しがりやさんである。彼女は人の傍にやって来ては仕事の邪魔をし、びわの実を食べてしまう。何度もすり寄って来るので鼻の上を撫でたり首筋を探ってやったりすると喜んでもっともっとと要求してきたり、満足して離れて行ったりする。試しにと背に乗ってみた。その乗り心地はすこぶる良く、温かいビロードの上に座ったような初めて経験する感触であった。

 主イエスが最後のエルサレム入場をなさる際に、ベトファゲで調達した子ろばに乗ってオリーブ山を下って行かれた時(マタイ 21:1~7)も同じような感触を味わわれたのであろうか、と思った。この日は午後になって東風が吹きはじめ暑くなったため午後の作業は取り止めになった。

 私の部屋の机上にキブツで手に入れた羊の写真を立てて置いてある。イラストなどで見る羊はどれも可愛く描かれている。 しかし、この写真で見る羊の顔はどう見ても不細工である。じっと見つめていると吹き出してしまうほど滑稽である。目は顔の大きさと釣り合いが取れないほど小さく左右に離れすぎ、鼻も長く太すぎる。何とも間の抜けた顔立ちだ。

 英語でも羊は主体性のない、とんまな、間の抜けた人を指す言葉らしいが、主イエスは人を羊に喩えなさった(ヨハネ 10:11)。それでも人間にとって羊は価値の高い財産である。同様に神は人間を価値高い存在と見て下さっている。しかし神の手元から失われた時、どんな価値が残るか、この写真の羊を見ているとそのことをつくづく思わされるのである。

独りヴォランティア(42)

 5/10(火)畑でのこの日の作業が終わって庭で白髪の老人と親しく談じた。彼は40年程前にチェコから帰選したという81歳になるドフ氏。彼は私が庭で作業をしていると、よく声をかけて下さった人である。明日もチェコから帰還してくる人々がいるという。彼が言うには「エジプトの現在と昔とは違う。今はアラブ人に支配されているが、昔(2000 年前)は黒人(コプト人)の国であった」「アダム(人・赤土)のダムは血という意味」等等。

 5/11(木)午前3時過ぎから何度も目が覚めてしまう。仕方なく目覚し時計が鳴る前に起床した。それは窓の外からの小鳥たちの囀り声が中途半端でないからだ。一羽一羽の囀りはとっても愛らしく綺麗なのだが、その数が(音量が)凄いのだ。その上に遠くの鶏舎から雄鶏の鳴き声まで聞こえてくる。未だ明け方前の三時台なのに・・・。

 主イエスが「朝早くまだ暗いうちに・・・起きて・・・祈っておられた」(マルコ 1:35)にも、この様な天然の目覚し時計によるものであったのではないか、と思わせる。この日の仕事場であるびわ畑の柵の中に雑草を食べさせるために一頭のロバが放たれていた。彼女の名はムタールでヨハナンに懐いていた。

独りヴォランティア(41)

 5/4(水)今日は「罪」について学ぶことがあった。朝、目が覚めて目覚し時計に目を向けると、その時計は背を向けていた。私はこの時、「罪」とは何かということを瞬時に理解した。便利な時計がそこに置かれてあっても、人に背を向けていては何の役にも立たないということを。人間も神に対して同じだ、と思ったのである。

 どんな素晴らしい能力を有していても、神に背を向けていれば、神にとっては何の役にも立たない。神の方に向き直ること、これが悔改めである。神に応答してゆくことの大切さを、この時計を通して教えて頂いた。又、時計が正しい方向を向いていても、それを遮るものが置かれていても同様だ。神と私との間に、その交わりを遮断する何かを置いて神を見えなくさせる、神に近づくことを妨げてしまうこともある。

 今日は柿畑の除草作業をしたが、どの畑にも厄介な雑草が蔓延っている。その代表格はあざみと昼顔だ、他に衣類に種がくっつく何種類もの草、小麦、野生人参、美しい花を咲かせるものもある。しかし、どれも柿畑では邪魔な雑草にすぎないものである。これら全てはあるべき所にあれば良いものなのだ。雑草でさえ、このキブツではよい牧草として刈り取られて用いられる。しかし、柿畑では有害植物となる。私達も主がそこに居なさいと言われる所に留まり、そこで主にお仕えすることが大切なのだと。(コリントⅠ 7:17,24)

独りヴォランティア(40)

 私の部屋の壁には多くの落書が残されている。先住者の手によるものであるが全て英語である。フレッドへの暴行と放火でキブツから退去処分を受けた英国人ヴォランティア三人組も書いている。自分達を退去させたアロンと南アフリカ人達への不満と中傷である。

 夕食後二人のヴォランティアが私の部屋を訪ねて来て暫く話してから帰って行った。彼らはその落書きを真剣な目でじっくり読んでいた。二人の内、一人は南アフリカ人であった。彼らは私に質問してきた。「何故こんなに長く家族から離れてここに居るのか」と言う。私は牧師であること、神学校で(旧約聖書も)教えていること、それ故にヘブライ語を学んでいると話した。彼らは納得して出て行った。英国人と南アフリカ人との確執があった結果、今私はこの部屋で平穏に生活することが出来ている。全ての背後に主の御手の導きを覚えさせられる。

 5月3日(水)柿の若木畑の除草と施肥作業「良い果実を得るためには良い肥料を充分供給してあげること、除草、水と太陽の光。どんな良い苗木を植えても手入れが悪ければ甘い実は得られない」とヨハナンは言う。人間も同じだ。神が与えて下さる最良のもので充分満たされてこそ、甘き御霊の実を結ぶ者とされる。教役者と呼ばれる者が先ずこの祝福にあずかることをなくして、主の羊たちを養うことはできない(テモテⅡ 3:16、17、コリントI 3:5-9)。農作業から学ぶことは多い。

独りヴォランティア(39)

 ペテロもパウロもヨハネもその時代、その所で主からの召しを受け従って行った。そして彼らは今は居ない(文書は残されているが)。その時代の人々も殆んどの町々も今は存在しない。その痕跡だけは僅かに残されているだけである。

 このキブツの中にもその頃の遺物が残され、石柱、石棺、石器類が掘り出されている。ここにも主イエスの時代に人々が住んでおり家屋や町並みがあったのだ。主の弟子(使徒)達もかつてここで福音を宣べ伝えていた事であろう(例えばフィリポ、使徒21:8、ここはカイザリヤから 15km ほどの距離である)。初代のクリスチャン達が住んでいた事も想像できる。

 その時代から様々な人々が生き、そして死んでいった。主はそれら全ての時代に弟子達を召し福音を伝えさせなさったのである。そしてそれは今も継続され全世界にまで拡大している。そして今、私は主に召されて、2000年前にかつての弟子達が福音を伝えたであろうこの地の上に立ってここに住んでいる人々アブラハムやヨハナンやヘレナに福音を語っているのだ。

 私もまた主の遠大なご計画の中に生かされている。主の召しに素直に自発的に(喜んで)お従いし、主にお仕えする生涯を全うできるようにと祈ってこの聖日の礼拝を終えた。夕刻になってキッチンから貰ってきたタイ米を炊いてみた。とても美味しく炊けたので明日からは夕食はこれにしようと決める。

独りヴォランティア(38)

 4/29(金)体重が減り続けているので食べるように努めているため、胃に負担が掛かかっている。唇の左脇が荒れ始めた。

 4/30(土)今日は安息日だがびわの果の注文が入ったので早朝から収穫作業をすることとなった。胃が悲鳴をあげ始めた。神経性急性胃炎だ。睡眠が不足すると何時も起こる。食べるものを控えて休む他ない。午後(作業後)薬を服用すると胃の痛みは治まった。S 病院で処方して貰ったものを日本から持参していたものである。この薬は私にはよく効くのでとても助かっている(現在も)。

 5/1(日)作業後、聖日礼拝の時を持つ、創世記を読んで祈る。祈りと黙想の中で「私は今、ここでこんなことをしていていいのか。家族があり、(教会での)働きもある。」という思いが過る。しかし直ぐに「だが今の時も又必要なのだ。今、私には分からないが、後になれば主の御旨だったときっと分かる。主が開いて下さった道なのだから(ヨハネ13:7)。アブラハムの25年間(75〜100歳)も、ミディアンのモーセも、エジプトでのヨセフもサウルからの逃亡中のダビデもさぞかし同じであったろう。永遠者である主と結ばれているのだから、すべてを委ねることが最善なのである」という確信が訪れて来た。かって神は、ヨセフを唯一人でエジプトに送られた。奴隷として売り飛ばされて…。しかし、主はヨセフと共に居て下さった。そして今私は独りでこのキブツに居る(創世記 39:2、21)

独りヴォランティア(37)

 4/28(木)6時起床、午前中はびわの果の収穫、午後はバナナの出荷用箱の組立て作業をした。これらの作業中にヨハナンが「今、咲いている野の花が春の終りに咲く花々だ」と教えてくれた。ピンク色、赤紫色、黄色、白色の野菊やタンポポに似たもの、野生人参、タチアオイなどが周囲に咲いている。

 午後2時からヨナハンが車に何人かのヴォランティアを乗せてキブツの周辺を案内してくれた。周辺の地形、植物類、村や町とその歴史などを説明してくれるのだが、英語なので殆んど理解できない。東の方に見える小高い山の辺りがヤバドの町で、その向う側にドタンの野があるのだという。(ヨセフが兄たちからエジプトに売られた所、創世記 37:17)これだけは聞き取ることができた。ヤバドの辺りは小高い山、谷とむき出しの白っぽい岩石がごろごろしている。所々に低い木々が点々と見える。

 今私が立っている足元にはあざみ、茨、野草がまばらに生えているが、ヨセフの時代も今とそれ程の違いはなかったのではないか。父ヤコブが当時住んでいたへブロンからシェケムまでは約100km(道路地図で 98km)、シェケムからドタンまでは 80km、ヨセフは独りで 180km 山道を旅して歩き、そのあげくに兄たちから虐待を受けたのだ。「神はそれを善に変え・・・、今日のようにしてくださったのです。」(創世記 50:20)

独りヴォランティア(36)

 私たちを乗せてバスは再び走り出した。ゴラン高原(バシャン)から北ガリラヤ高地を下ってエズレルの野へとまっしぐらに。主イエスと弟子たちもゴラン高原(フィリポカイザリヤ)から北ガリラヤ高原を通ってガリラヤ湖まで下り、そこからヨルダン川添いの道をエズレルの野の東端を通ってユダヤ(エルサレム)へと向かわれたのであった。

 私たちのバスはヨルダン川とは逆の方向タボル山から西へエズレルの野の真中を通り抜けて、カルメル山の南端にあるメギドの丘の南の谷を通り抜けてシャロン平野へと山合いの谷を下って行くのである。エズレルの野にはモレの丘がありその麓にはシュネムの村、ナインの村、エンドルの村々がありギデオンの勇士で有名なハロデの泉もある。

 その南にはサウル王が戦死したギルボアの山並みが見え、その彼方(南)にはヨセフが兄たちにエジプトに売られて行ったドタンの野がある。その向こうはサマリヤ、シェケム、シロ、ベテル、エルサレムへと続いているのである。

 いつかこの辺りを巡り回ってみたいという強い思いが心の中に湧き出てきた。その思いを背にバスはシャロンの野を走りつづけ、幾つかのキブツを回って次々と人々を降ろし、最後にアマニットに到着したのは夕方7時前であった。

独りヴォランティア(34)

 このツアーはヘルモン山(ゴラン高原)の自然観察が目的であった。様々な植物、動物、鳥類、石、砂などをガイドが説明して歩き回るのだ。小さな水晶や鉄の小塊のようなもの多数転がっている。鉄の小塊を手に取って表面の砂を除くと黒く輝く鉄の様なものが現れるのだが、手の中で見る見る赤茶色に錆びてゆく。

 山頂を見上げると地中海からの風に流されて来る大きな真白い雲の塊が頂上を打ちつけては東の方へ流れ去ってゆくのが見えた。流れてゆく速度はかなりのものであり雄大な光景であったので、暫く目を凝らして眺めていた。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。・・・ペテロがこう話しているうちに、光輝く雲が彼らを覆った。『これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け』と言う声が雲の中から聞こえた」(マタイ 17:2、5)が私の心の中に浮かんでいた。

 私たちは小休止をはさんで7時間も道なきところを登り降りしながら歩き回った。ヘルモンあざみ、樫、杉、野生チューリップ、クローバー、からし菜、名も知らない白い花、いたるところに様々な獣の糞もあった。

 イスラエル政府公認ガイドはそれらすべてについて解説していたが、彼の風貌は若くしたゴルバチョフのようで声も話す時の口元もそっくりであった。バスに帰り着いたのは夕方4時頃であった。参加者の大半が高齢者であったが、皆さん健脚であるのに驚かされる。

独りヴォランティア(33)

 ヘルモン山中腹で下車し歩き始めたのは午前 9時頃であった。キブツでは既に夏であったので半袖の上着でバスに乗ったのだが、ヘルモン山には寒風が吹き付けていた。あまりの寒さに震え上がっているとキブツ住民の男性の一人が自分が着ていた厚手のジャンパーを私に差し出し「これを着なさい」と言って下さったのでご厚意に甘えた。山頂付近を見上げると僅かだが残雪が見えた。

 マタイやマルコによる福音書では、主イエスはフィリポ・カイザリヤから三人の弟子達を連れて高い山に登り、そこで変貌しその後エルサレムに向かい過越祭に十字架に架けられた事が記録されている。この高い山がヘルモン山だとすれば(私はそう信じているが)主イエスの一行がこの山に登られたのは2月か3月頃になる。

 4月23日でもこの寒さなら、更に厳しい寒さの中、至る所に積雪が残っている山中に入って行かれた事になる。そのようにまでしてヤコブ、ヨハネとペテロの三弟子にだけは、どうしても見せなければならない事がこの山上で示されたのだと、その重大性を知らされた思いがした(マタイ 17:1-13、マルコ 9:2-13)。

 同じ季節にここに来てみて初めて知った福音書の記事の背景である。私たちツアーの一行は舗装された道路に別れを告げて山中に入ってゆく。先ずガードレールを乗り越え雑草を踏み分けながら谷間へとガイドに続いて下ってゆく。谷底まで下ると谷の向こう側の斜面を登り始める。ガイドはその所々で止まってその近くの植物や地質、地形についてヘブライ語で説明してくれるのだが、その内容は私には全く理解できなかった。

独りヴォランティア(32)

 4月23日(土) 4:10起床、今日は待ち望んでいたゴラン高原(ヘルモン山)を歩くツアー日である。5時過ぎにバスがキブツに到着した。周囲は未だ暗い。暫くしてからキブツ住民の参加者が来て食料などを積み込んで出発。

 隣のキブツ・バルカイや他の幾つかのキブツを回って次々と参加者をバスに乗せる。近隣のキブツとの合同のツアーなのだと知った。6 時を少し過ぎてからアフラ街道を東へ進む頃には夜は明けて、早朝のシャロン平野、カルメル山の谷間、エズレル平野を快適に進んで行く。

 タボル山から北に向かい、暫く走ると東方に微かにガリラヤ湖が見える。朝日は靄(もや)のため月の様に白い。目的地はヘルモン山であるが、途中その麓にあるキブツ・ダンに寄って、その中庭で朝食を摂った。緑の木々に囲まれた美しい所であるが、レバノンに近いため物見や高い塀とその上の物々しい鉄条網などが目に留まった。

 ヘルモン山は三つの峰があり、最高峰は2818m。バスが山に上り始めるとキブツらしき集落があったり、城砦の様なものもある。後で調べると十字軍が築いた要塞ニムロデであった。私達は標高1200mの所で下車し歩く準備を整えた。

独りヴォランティア(31)

 安息日(シャバット)の夕食後(金曜日の夜)にキブツの全住民と諸外国からのヴォランティアがドリンクやスナックを飲食しながら自由にくつろぎ歓談する機会が毎週一回ハビーバーという施設でもたれていたのだ。建物に入るとロビーがあり、そのカウンターで大人も子供も自由にドリンクとスナックを受け取り、野外のベンチや室内のホールで賑やかに歓談している。

 私はホールに入り周りを見回しているとガーディナーのアブラハムがいたので、彼の座っているテーブルの所に行って彼の隣に座った。彼らはクラシック音楽のことを話し合っていた。今夜 10時からルネッサンス音楽のライブ演奏会がこの場所であるからであろう。

 この建物の地下にはこのキブツの歴史を見ることができる小博物館がある。以前に一度だけ来たことがあった。このような機会があったのにツアーリーダーのS師は私たちに全く知らせず勿論参加もしなかったのは何故だろう。全く不可解だと思った。明日は早いのでコンサートは聴かず部屋に戻って休んだ(疲労が重なっていたので)。

独りヴォランティア(30)

 ナザレからキブツに帰り、食堂に行って夕食を摂っていると、久しぶりにドフ氏を見かけたので声をかけ挨拶をした。ドフ氏はハデラの病院に入院していたのだと言う。それで前回のへブライ語クラスに来なかったのだとわかった。未だ体調がよくないので今晩のクラスも出来ないと言われた。ジャンが来て明後日のツアーの出発時間は朝5時だと伝えてくれた。

 4月22日(金)6:00~10:30びわの実の収穫、10:30~12:00 バナナ畑の施肥。家畜の堆肥と枯草とカウバイトを混ぜて発酵させた有機肥料である。未だ発酵中で湯煙を上げているのを手でバケツに掻き込んで、バナナの木の根元近くに施肥するのだが、きつく、汚い作業だ。しかしこれが有機栽培であり、体にも安全なのだ。作業中ヨハナンは今夕、キブツ内でルネッサンス音楽のコンサートがあると教えてくれた。今夕から安息日になるので、安息日にはこのようなイベントも行われるのだろう。

 夕食後、デンマークからのヴォランティア、クリスティアンがコンサート会場に案内してくれた。ハピーバーという会場は毎安息日夕食後、、自由にコーヒーやドリンクが飲め歓談も出来る施設であった。

独りヴォランティア(29)

 主イエスの母マリヤ受胎告知教会を出て、北へ少し上って行くとシナゴグ教会(ギリシャ正教)があったが入口が閉まっていた。そこへハンガリーからの巡礼者の団体が来て、門が開いたので、私たちも彼らについて中へ入って行った。門の左側に古い会堂がありその団体に紛れてそこに入ってみる。

 会堂内はかなり薄暗く、100人ほど入れる広さである。主イエスがここで説教をした(ルカ 4:16~29)と言われている。しかし詳しい発掘調査などはされていないらしく真偽は不明である。ハンガリーからの巡礼者たちが彼らの司祭たちによる集会を始めかけ、ドアが閉じられようとしたので私たちはその前に外に出た。続いてヨセフの家の教会に行ってみようとしたが、場所が分からず、ナザレを去ることにした。中央通りに戻ると、ナザレの旅行案内所があったので、そこでナザレの観光地図をもらった。ここでユースホステルを利用した28日間のツアーについて尋ねてみると、ナザレにはユースホステルが無いので詳細は分からないということであった。

 少し歩いたので喫茶店に入ろうということになり、そこで軽食を摂った。ピタパンにファラフェル(ひよこ豆の団子のフライ)とトマトとマヨネーズ、マスタードを入れて、ミネラルウォーターと一緒にイスラエルのファーストフード体験をした。とても美味しく、「タイーム・メオッド(美味しい)」を連発した。

独りヴォランティア(28)

 カナの町のすぐ北を東西に走る道路に沿った広大な土地は西瓜畑である。そして、その道路端では大量の西瓜が積み上げられて販売されている。未だ四月の下旬に入ったばかりなのに…。しかし今日の暑さもすごい!つい一時間前のツファットが嘘のようだ。気分が悪くなる程である。呼吸するだけでも息苦しい暑さである。しかしこの暑さの中で道路脇のあちらこちらに若いイスラエル兵が長袖の軍服を着て銃を持って立ち続けているのには感服してしまう。彼らの努力があってこの国の秩序が維持され、国民(ユダヤ人もアラブ人も)の安全が辛うじて保たれているのだと思う。

 ナザレの町に着いた。中央通りの道幅はかなり広いが舗装が雑で砂埃が立ち込め、町並みが白っぽく見えた。建物も大半が古く雑然としている。路線バスが走っている中央大通り脇に車を止めて、私達は左側の広い道幅の商店街を少し上り坂を歩く。

 すると急に道幅が狭くなりエルサレムの旧市街のような雰囲気になってくる。道は石畳の薄暗い露地で、その両側には土産物店などが並んでいる。先ず、マリアの受胎告知教会堂へ行った。14年もの年月をかけて建てられたフランシスコ派のこの会堂は巨大である。その頂は丸型の三角屋根でこの町の象徴的な建物である。

 会堂内は薄暗く真中の聖堂にはマリヤが天使ガブリエルから受胎を告知された(ルカ 1;26-38)とされる洞がある。でも私達はそこまでは行かず2階の礼拝堂から見下ろすだけで済ませた。

独りヴォランティア(27)

 ツファットの町は新約聖書時代、山頂に火を灯し、新年と祭日の始まりを全イスラエルに告知したという記録が残されている。「山の上にある町は隠れることができない」と主イエスが言われたのはこの町のことと考えられている。(マタイ 5:14)

 現在の人口は約1万7千人。高地の避暑地として夏には観光客が多く、この日も平日だが観光客らしい人を多く見かけた。又、ユダヤ教の神秘思想(カバラ)発祥の地としても知られている。

 芸術家たちのアトリエの店は百件以上もあり、絵画では神殿、正統派ユダヤ教徒、楽器を奏でる人、ヘブライ語(トーラー・律法)文字で描いた絵や絵本など様々なユダヤ教に関連ある題材のものが多い。彫刻やアクセサリーなど芸術的なものから安っぽいものまで色々あるが値段は安くない。

 一筋上の通りに行くと、そこは普通の商店街になっていて、その通りにある店で軽い昼食を摂ってから更にウィンドショッピングをし、午後1時半に車に戻った。乗車するとヘレナが「どこへ行きたいか」と尋ねてくれたので即座に「ナザレへ」と答えた。車は来た道に戻らず反対側の西に向かった。

 5km 程行くと直ぐ前に標高1208mのメロン山が迫って来る。そこから南下すると右手にヒレル山(1071m)が見え、その麓を走ってゆく。緑に囲まれた美しい道だ。更に40km 程南下するとカナの町の横を通って更に南に下るとナザレの町だ。

独りヴォランティア(26)

 バト・ヤアル(森の娘)公園は名の通り、イスラエルには珍しい森の中の公園で高地にあるのでとても涼しい。公園内の柵の中には孔雀が 2 羽、乗馬用馬が10頭飼われていた。孔雀は羽を大きく広げておりとても美しかった。ここは生駒の山麓公園のキャンプ場に似た雰囲気であった。

 ここから車で少し西へ上った所に今日の目的地ツファットがある。車中でヘレナが私に「この町の名前を正しく発音してごらん」と言うので「ツファット」と何度も繰り返して言ってみるのだが全て「ダメ」であった。英語では SAFAD と呼ばれるがヘブライ語の音読みは Tzfat で、日本人はTsufat と発音してしまうのだ。町に入って駐車場に車を置いて中央通りらしい石畳の道をそぞろ歩きする。道幅3m 程の上り下りの多い細い道の両側に続く様々な店や工房などを覗き見しながら進んでゆく。

 この町は芸術家の町としてイスラエルでは有名で絵画、彫刻、工芸品などのギャラリーが多くある。或る工房ではユダヤ教のラビらしき人が頭にキッパをかぶって手作りでカラフルなろうそくを作っている。その工房に入ってしばらく見学させてもらった。芯になる長い紐を熱して溶かした蝋の中に沈めては引き上げ、又沈めては引き上げ、それを何百回も繰り返し直径2~3cm長さ30cmに作り上げる忍耐の要る作業である。安息日や祭日に各家庭などで用いるのだという。

 この町の名は「眺望する」という意味から来ていて、標高は 884mの高地にある。ガリラヤ湖面からは1,044mの高地になる(ここはガリラヤ湖畔のクファルナウムの北西 12km にある)。

独りヴォランティア(25)

 東風による酷暑を避けて部屋の床にへばり着いていた大量の蝿は夕食後には、まるで嘘のようにその姿を消し去っていた。しかし未だ蚊、蜘蛛、その他いろいろな虫がいた。窓と戸口の網戸が大きく破れていたので、先ずそれらを応急的に修理して虫が入って来ないようにした。

 次にトイレの大掃除をしてから荷物を整備した。ベッド横の壁にはイスラエルの地図をを貼った。シャワーを浴びると既に夜の11時半。しかしこの部屋も電灯の熱でけっこう暑いが、キャビンのように人が動くと床が揺れることがないのでゆっくり眠れそうだ。この建物の戸口にはコンクリートの広いポーチがあり、大きな木々に囲まれている。玄関先には桑の木が屋根を覆い、私の背丈ほどのとうごまの木も生えている。

 4月21日(木)窓の外から聞こえる小鳥の鳴き声で目覚め 6時に起床。今日はヘレナたちと北ガリラヤへの旅行日だ。7時過ぎにヘレナのご主人アミーカムの運転する車で出発、途中へレナの従兄弟夫妻を乗せてメギド、アフラ、タボール山を経て、北に向かう。ガリラヤ湖北のコラジンのすぐ西を通過すると、両側には山と丘の連続である。ローシュピナで西に折れツァットの町に向かう。

 その途中バト・ヤアルという自然レジャー公園のような所で野外の木製テーブルを囲んで座り朝食を摂った。周囲は松の木の林、地面にはシクラメンが咲いていて、とても涼しい所であった。

独りヴォランティア(24)

 この日(4/24)は東風の日で大変な暑さと乾燥のため、仕事は午前中で終わった。野草は既に黄色く変色し始め、あれだけ美しく咲いていた花々、とりわけ「あざみ」は既に綿帽子を飛ばし、葉も枯れてきている。何という季節の変わりの速さか、しかし野の花々もしたたかである。花の状態から極く短期間で実(種)を結んでしまっている!

 昼食後ゆっくり休もうと思ってキャビンに戻った。でも、この猛烈な暑さは、ベッドに横になって眠ろうとしても、本を読むにしてもそれを不可能にしてしまう。気分が悪くなり、意識が朦朧としてくる。これではどうにもならないと思い、昨日帰国したスイスからのヴォランティアが住んでいた部屋を見に行った。ドアを開けて中に入って見ると床が一面真っ黒である。

 腰を屈めてよく見てみると、それは何とハエの大群であった。床にへばりついて、幾重にもなってじっとしている。外の暑さから逃れて室内の涼しい床に避暑しているのだ。これがイスラエルの聖書が語っている東風だったのだ。(ヨナ 4:8、エゼキエル 17:10、19:12、ホセア 13:15)。

 この建物は木造、土壁、瓦葺さなのでキャビンとは比べものにならない程涼しい。直ぐにアロンに部屋替えを申し出ると、簡単に許可してくれた。夕食後すぐに引越しに取りかかった。この暑さの中での荷物運びは大変であったが、とにかく運び終えた。この建物はこのキブツの最古の住居だそうで、三軒長屋であるがその右端(東側)の部屋に落ち着いたのだった。

独りヴォランティア(23)

 4月14日(木)キプツのプール開き。昼食はプール横の木立の中で摂る。へレナが私を呼び、次週木曜日にドイツ在住の従兄二人、ゴラン高原に住んでいる友人とガリラヤへ行くので一緒に行こうと誘ってくれた。もう真夏の暑さである。4月19日(火)夕方、アロンがヴォランティア全員をハデラ近くの地中海岸へ連れて行き、そこで夕食をすると言う。

 イスラエルの地中海岸は砂浜がきれいで海水は澄んで輝くような透明さで美しい。或る者は泳ぎ、他の者は食べて自由な時間を過ごした。私は足だけ水に浸かった。この辺りはかつてペトロがヨッパからカイザリアに行き来する際に通り、パウロも第三伝道旅行後エルサレムに行く途中に通り、この景色を見たことであろう。

 海の向う側は霧でかすみ、水平線ははっきり見えるが水面は真っ白である。太陽が水平線に沈む前に、その霧の中へ隠れて行った。幻想的な美しい光景であった。4月20日(水)5:45からヴォランティア全員でとうもろこし畑の除草作業。土が固いのと畝(うね)の長さが200m以上もあるので8:50まで働いたが完了せず、後は近くのアラブ人を雇った。

独りヴォランティア(22)

 夕食後、隣室のフレッド(南アフリカ共和国からのヴォランティア)に今早朝に何があったのか尋ねてみた。早朝に突然キャビンがけたたましい音や奇声と共に大きく揺れ動くのでベッドから起きて窓の外を見た。ニッキ(女性)たち(英国人ヴォランティア)が隣室の前に立っていて、フルヴォリュームでラジカセを鳴らし、じっとフレッドの部屋の窓の方を見ていたのだ。

 時は夜中の3時だ。フレッドが語るところによると、ウォッカで泥酔した彼らは窓を破って室内に侵入しようとしたのだが果たすことが出来ず、一度は引き揚げた。6時頃に再び来て今度は窓を壊して室内に優入し、フレッドのパジャマとシーツに放火したり暴行を加えたのだと言う。南アフリカのヴォランティアリーダーがフレッドからこのことを聞いてアロン(キブツのヴォランティア世話係)に連絡していたので、アロンとヴォランティアたちが、キャビンに集まって来た。フレッドはアロンから事情を聞かれていた。この事がきっかけでフレッドといろいろ話せた。彼の両親は熱心なクリスチャンだそうである。

 4月13日(水)、この日は午前10時に近くの町ハデラでテロによる爆破事件があり6人が犠牲になった。先日はアフラであったが、すぐ近くまでテロが迫っていると思った。今タはイスラエル独立記念日のアトラクションがキブツ内でも夕食後にあるらしい。(この日をねらったテロであった)。食堂横の芝の上で夜会が盛大に行われていたが、疲れていたのでキャビンに戻ってシャワーを浴びてから休んだ。

独りヴォランティア(21)

 夕食後へレナが来て、日本の相撲のVTR を購入したので明日午後4時に来て、子供(娘)達に解説するように頼まれる。

 4月9日(土) 安息日、夕刻ヘレナ宅を訪ね、相撲のVTR を見ながらルールなどを説明した。又、日本について多くの質問を受けた。天皇の戦争責任について、日本のアジア侵略、物価、食べ物、教会などなど。夕食後も来ないかとの誘いを受けたがそれはお断りした。

 4月10 日(日)夕食後イギリスの男性ヴォランティアから声をかけられ「スイモー、スイモー」と言うので何のことかと思ったが相撲を取りたいのだと言うことであった。大相撲が英国のロンドンで興行したので、それを見て是非したいのだと言う。三人共身長180cmを超え体重もあり怪力であったが、押し込まれても打っちゃりの技などで何とか日本人としての面目を保つことができた。

 4月11日(月)朝食の時、日本の家族から電話があった。イスラエル情勢が悪化して寺西師が行く予定のツアーが中止になったが大丈夫かというものであった。全く問題ないと伝える。

 4月12日(火)日本から手紙が三通届いた。夙川教会からは最後の聖日礼拝の日に書いてくださった寄せ書き。押方師からは群誌や原稿依頼などである。祈って下さっている、そして、その祈りに支えられて今ここで守られているのだ、ということを強く覚えさせられる。(あと一通は私の実姉からのもの)

独りヴォランティア(20)

 4月6日(水)毎日一回食堂裏の大きな計量器で体重を測るのが習慣となっている。それというのも体重が除々に減少しているからである。主食のパンをあまり食べないので、いつも空腹感がある。今日の作業はビワ畑だが立ち眩みで倒れそうになる。夕方イギリスのヴォランティアグループが夕食にバーベキューをするので来ないかと誘ってくれた。ミートハンバーガー、ステーキ、ソーセージ、ピタパン、牛乳、フルーツドリンクなど思う存分食することができた。

 4月7日(木)朝から元気一杯バナナ畑で働くことができた。昨夕のバーベキューが利いている!しかし胃の負担が大きかったのか唇を噛んでしまうようになった。難しいものである。昨日から風向きが東から西に変わり、地中海から涼しく湿気のある風が吹いている。そして多くの水蒸気が運ばれて来て霧がたちこめ視界が 500 メートル程しかない。太陽が月のように真っ白である。主イエスもこのような光景を見られたであろう。夜はドフ氏によるへブライ語の学び。創世記1章〜3章を読んだ。ヘブライ語を習得するのに旧約聖書をヘブライ語で暗誦するのは良い方法の一つだと言われた。

 4月8日(金)夕方食堂に行く途中、フランス人ヴォランティア、ジャンが23 日(土)にゴラン高原(ヘルモン山)を歩くツアーがあるのを教えてくれた。費用は23 シェケル(約800円)で〆切は10日(日)との事、直ぐ申し込むことにする。

独りヴォランティア(19)

 ベツレヘムの羊飼たちが飼葉桶に寝かされている乳飲み子を捜し当てた 1000年前、この野原では少年ダビデが羊飼をしていた。(サムエル上 16:1、11-13)山坂の多いこの様な野で育ったダビデは足腰の丈夫な少年であり、野獣から羊を守ることが日常の務めてあったため精悍(せいかん)な男子であったであろう。そしてこの様な環境が彼の性格や信仰を育んだのだ(同 17:34-37)。

 彼の曹祖父母ボアズとルツはこの野で出会い、ルツはこの野で落穂拾いをしたのだった。捨った大量の麦の袋を担いで義母ナオミの所に戻るのには大変な労力を要したことであろう。何しろこんな坂道なのだから(ルツ 2:1-19)。更にその1000年近く前には族長ヤコブの愛妻ラケルが若くして死にベツレヘム近くの街道添いに葬られた(創世記 35:16-26)。メソポタミアのハランの地からサマリヤのシェケムまでの長旅、ベニヤミンを身ごもってシェケムからネゲブに向かう旅の途中での出来事である。妊婦にはこの旅はあまりにも厳しかったのである(主イエスの母マリヤも)。

 このようなことを心に思い浮かべながら、小型のラジカセから流れてくるバッハのパストラルシンフォニー(牧歌曲)をシャロンの野の中で聴いている私は、何千年の時空を超えて働いている神の不思議な御手の中に自分も守り導かれていることを全身で感じていた。それにしても室内のなんと暑いことか。すでに真夏である。未だ 4 月初旬なのだが東風のせいである。

独りヴォランティア(18)

 J・Sバッハの作曲したクリスマス・オラトリオは全6部から成り立っている。その第2部の冒頭に管弦楽だけで演奏されるシンフォニアという曲がある。これはパストラル・シンフォニーとも呼ばれ、聖夜にベツレヘムで羊飼達が羊を牧している情景を描いた曲とされている。同様の曲はヘンデルのオラトリオ「メサイア」の第一部やイタリヤの作曲家コレルリ、トリルリなどのクリスマス協奏曲でも数多く作曲されている。ラジオでライブ演奏のこの曲を聴いていると、先にベツレヘムに行った時の光景を思い起こし、聖書の記述の事などが心に迫って来た。

 ベツレヘムはエルサレムの南、ユダの荒野の丘陵地帯にある。今はアラプ人の町であるが丘と谷の合間にわずかばかりの平地があるが、町は丘の上にある。主の生誕教会も坂道をずっと登った上にあって、タクシーを下車してから教会堂まで、その上り坂の道を歩いて行った。こんな坂道をヨセフとマリアが歩いて行ったのかと思うと胸が熱くなる。

 現在の道はガタガタ道ではあるが、一応は舗装されている。2千年前はどんな悪路、どんな坂道であっただろうか、臨月のマリアにとっては死を覚悟しなければならない旅であったであろう。ここで産気づいたのも納得できる。クリスマスの夜の羊飼いたちのことを思う時、どこかロマンティックな光景を思い起こしていたが現実はとても厳しい場所であることが、ここに来て見て分かった次第である。

 羊飼いたちが天使のみ告げを聞いて「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」を探し当てるために、夜中急な坂道を捜し回わらなければならなかった。あざみやいばらが生い茂った大小の石ころだらけの坂道を捜し回って彼らは主イエスを見出したという事を(ルカ 2:12-16)。

独りヴォランティア(17)

 キブツでの余暇はヘレナから借りているラジカセでクラシック音楽を聴くことが楽しみの一つになっていた。(残念ながらカセットレコーダーの方は壊れていて録音も再生もできない代物である)「イスラエルのラジオ放送局についての知識が殆どないので確かなことは言えないが FM放送では多くのチャンネルがあり、旧約聖書の朗読を流している局、ヘプライ民謡ばかり放送している局、クラシック音楽の局など多くの電波が発信されているようだ。

 食堂には毎朝英字新聞の朝刊が1部机の上に置かれていて自由に読めるのだがヴォランティアの誰かが自室に持ち帰るためか、時々しか読めない。その新聞のラジオ棚を見て、今日はどんな曲を放送するかを知ることができるのである。LPレコードで音楽を流す番組が多いのだが、時々ライプ(実況)放送もある。

 レコード盤で放送する際は実に大雑把で日本のNHK のような放送に慣れている私には驚かされることが多かった。盤には大きな傷があり長い時間プツプツと大きな雑音が続いたり、溝がつぶれていて同じ所が何度も繰り返してしまうということが度々あるのである。それでも放送局の担当者はしばらく気付かないのか数分間も同じ箇所を繰り返しているのである。リスナーから苦情が届かないのだろうか。

 一昨晩はバッハのマタイ受難曲、昨晩はクリスマス・オラトリオのライブが放送されていた。イースターのシーズンなので受難曲は理解できるが、この時期にクリスマス・オラトリオとは珍しい。ユダヤ教徒の多いイスラエルでヒットラーの国のドイツ語でキリストの福音が大々的に放送されるのも不思議に思ったが、その放送から大きな慰めと励ましを頂いた。

独りヴォランティア(16)

 4/4(月)夕方宿舎の南の丘に登ってみる。ここは、それほど見晴らしは良くなかった。遠くの山の上の町と三種の野の花をスケッチした。こんな小さな一輪の野の花でも良く見ると目を見張るほど美しい。「明日は炉に投げ入れられ」、また除草剤をぷっかけられ、耕運機で根こそぎひっくり返されてしまう花々でさえ、「こんなに美しく装ってくださる」創造主なる神。

 この造形美の極みである花々は神の指の成せるところである。まして主の恵みに依り頼んで生きることを願う私たちをなおさら美しく、御霊の実で装って下さらぬ事があろうかと納得させられる。この主と共にあることを何よりも喜び、隣人の徳を高めることを心掛けて生きようと願う。

 4/5(火)昨夜から生暖かい風が宿舎に打ちつけキャビンを震わせているので熱睡ができない。早朝作業場に行くとき、ヨナハンがこの風は東から、つまりヨルダンの砂漠からの乾いた風であることを教えてくれた。一夜にして野の花を枯らしてしまうというあの風だ(創世記 41:6、ヨナ 4:8)。未だ4月上旬なので熱風とまではゆかないが生暖かい風だ。

 夏がもう直ぐそこまで来ているということ。この緑ときれいな花々は早々に野山から消えてしまうのであろう。今日の作業は日差しの下では熱かった。作業を終えてポストオフィスを覗いてみると家族からの手紙が届いていた。消印を見ると3月22日西宮局受付とある。航空便なのに16日も要っている。やはりイスラエルは日本からは遠い国なのだ。何んといっても家族からの便りが一番嬉しい。読んでいる間は遠く離れて住んでいるという感じがしない。

独りヴォランティア(15)

 この日、バナナの木の手入れ作業を午後3時に終えた私は部屋に戻り、昨夜へプライ語会話教室の後でドフ氏から聞いたことを思い返した。ドフ氏が語るところによるとイスラエルの多くの宗教家(ユダヤ教徒)はもはやトーラー (モーセ五書) がモーセによるものと信じていないのだという。イスラエルのヘブライ語学者が明確にしたところでは、モーセ五書のヘブライ語はバロン捕囚時代のそれも非常に後期のよく整理されたヘブライ語であるという。

 旧約聖書の中で最も古い時代のヘプライ語で書かれているのは、ヨシュア記、そしてダニエル書が最も新しい時代のものであり、紀元前2世紀頃のアラム語も多く含まれている。更にエズラ・ネヘミヤ記もその時代のヘブライ語とアラム語だという。

 私はその研究に基く著作時代はかなり正しいと思わされた。日本語も昭和初期、明治初期、江戸時代、奈良時代それぞれ専門の学者がそれらの時代の文章を見れば、それがおおよそどの時代のものか推定できるのと同様だと思った。しかし、それだからといってモーセ五書がバビロニア捕囚期に創作されたものと断定することはできない。エズラ時代のイスラエル人にとっては読むことは難しくなっていたであろうモーセ時代の書物や口伝をエズラ達、律法学者達が当時のヘプライ語に精確に訳し編さんした可能性が高いように思う。

 今から千年前の「源氏物語」も現在の一般人には現代訳でないと読めないようにモーセの時代はエズラの時代よりも900年も前なのだから。後世に編さんされたとしても神の言葉としての価値は何ら減じることはない。それは編さん者達が、神の言葉を信じ怖れる人々であったからである。

独りヴォランティア(14)

 サマータイムで昨朝より一時間早く起こされて送迎車に飛び乗ってバナナ畑に向かった。しかし昨夜来の雨の影響で雲が低く薄暗くて周囲がよく見渡せない。バナナ樹の枯葉除去の作業だが、濡れた葉がとても冷たく手が悴んでしまう。これでは仕事にならないので作業を始めて10分もしないうちにヨハナンは私達を部屋に戻し、朝食後8時半から作業を再開するという。ところが、また雨が降り始めたので結局午前中の作業は午後に回し(この日は金曜日なので、本来は午後の仕事は休む)、車で野鳥観察に連れて行ってくれた。

 行き先はキブツの北方約 20kmの地中海沿岸の国立公園に指定されているナハショリムという所である。地図で見ると、ここは旧約聖書時代のドル(ヨシュア12:23、17:11他)のすぐ近くで、すぐ南に現在のドルの町がある。「囲み」という意味でソロモン王時代の重要な地点であったらしい(Ⅰ列王 4:11)。

 下車すると、そこにローマ時代の岩を掘った大きな墓穴が3つあり、それぞれの墓には3体を安置できる奥行きの深い立派なものである。入口の横幅は約1m、高さは1.3m程なので屈まなければ中には入れない。直ぐ近くには、昨夜からの雨で勢いよく流れる川があり、そこで釣りをする人、投げ網を打つアラブ系の人達がたくさんいた。

 私たちは先ずバードウォッチングコースを歩いて行ったが、道が水溜りだらけで足が滑って転びそうになり、鳥を観察するどころではなく足元ばかり見て歩かねばならない。それでもカメラを撮りに来ている人が数人ばかり居た。流れに浴って河口まで行き地中海を暫く眺めていた。近くにはヘロデ大王が築いた水道橋やその他の建物跡が数多く残され、雨さらしのためかなり風化している。