独りヴォランティア(18)

 J・Sバッハの作曲したクリスマス・オラトリオは全6部から成り立っている。その第2部の冒頭に管弦楽だけで演奏されるシンフォニアという曲がある。これはパストラル・シンフォニーとも呼ばれ、聖夜にベツレヘムで羊飼達が羊を牧している情景を描いた曲とされている。同様の曲はヘンデルのオラトリオ「メサイア」の第一部やイタリヤの作曲家コレルリ、トリルリなどのクリスマス協奏曲でも数多く作曲されている。ラジオでライブ演奏のこの曲を聴いていると、先にベツレヘムに行った時の光景を思い起こし、聖書の記述の事などが心に迫って来た。

 ベツレヘムはエルサレムの南、ユダの荒野の丘陵地帯にある。今はアラプ人の町であるが丘と谷の合間にわずかばかりの平地があるが、町は丘の上にある。主の生誕教会も坂道をずっと登った上にあって、タクシーを下車してから教会堂まで、その上り坂の道を歩いて行った。こんな坂道をヨセフとマリアが歩いて行ったのかと思うと胸が熱くなる。

 現在の道はガタガタ道ではあるが、一応は舗装されている。2千年前はどんな悪路、どんな坂道であっただろうか、臨月のマリアにとっては死を覚悟しなければならない旅であったであろう。ここで産気づいたのも納得できる。クリスマスの夜の羊飼いたちのことを思う時、どこかロマンティックな光景を思い起こしていたが現実はとても厳しい場所であることが、ここに来て見て分かった次第である。

 羊飼いたちが天使のみ告げを聞いて「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」を探し当てるために、夜中急な坂道を捜し回わらなければならなかった。あざみやいばらが生い茂った大小の石ころだらけの坂道を捜し回って彼らは主イエスを見出したという事を(ルカ 2:12-16)。

独りヴォランティア(17)

 キブツでの余暇はヘレナから借りているラジカセでクラシック音楽を聴くことが楽しみの一つになっていた。(残念ながらカセットレコーダーの方は壊れていて録音も再生もできない代物である)「イスラエルのラジオ放送局についての知識が殆どないので確かなことは言えないが FM放送では多くのチャンネルがあり、旧約聖書の朗読を流している局、ヘプライ民謡ばかり放送している局、クラシック音楽の局など多くの電波が発信されているようだ。

 食堂には毎朝英字新聞の朝刊が1部机の上に置かれていて自由に読めるのだがヴォランティアの誰かが自室に持ち帰るためか、時々しか読めない。その新聞のラジオ棚を見て、今日はどんな曲を放送するかを知ることができるのである。LPレコードで音楽を流す番組が多いのだが、時々ライプ(実況)放送もある。

 レコード盤で放送する際は実に大雑把で日本のNHK のような放送に慣れている私には驚かされることが多かった。盤には大きな傷があり長い時間プツプツと大きな雑音が続いたり、溝がつぶれていて同じ所が何度も繰り返してしまうということが度々あるのである。それでも放送局の担当者はしばらく気付かないのか数分間も同じ箇所を繰り返しているのである。リスナーから苦情が届かないのだろうか。

 一昨晩はバッハのマタイ受難曲、昨晩はクリスマス・オラトリオのライブが放送されていた。イースターのシーズンなので受難曲は理解できるが、この時期にクリスマス・オラトリオとは珍しい。ユダヤ教徒の多いイスラエルでヒットラーの国のドイツ語でキリストの福音が大々的に放送されるのも不思議に思ったが、その放送から大きな慰めと励ましを頂いた。

独りヴォランティア(16)

 4/4(月)夕方宿舎の南の丘に登ってみる。ここは、それほど見晴らしは良くなかった。遠くの山の上の町と三種の野の花をスケッチした。こんな小さな一輪の野の花でも良く見ると目を見張るほど美しい。「明日は炉に投げ入れられ」、また除草剤をぷっかけられ、耕運機で根こそぎひっくり返されてしまう花々でさえ、「こんなに美しく装ってくださる」創造主なる神。

 この造形美の極みである花々は神の指の成せるところである。まして主の恵みに依り頼んで生きることを願う私たちをなおさら美しく、御霊の実で装って下さらぬ事があろうかと納得させられる。この主と共にあることを何よりも喜び、隣人の徳を高めることを心掛けて生きようと願う。

 4/5(火)昨夜から生暖かい風が宿舎に打ちつけキャビンを震わせているので熱睡ができない。早朝作業場に行くとき、ヨナハンがこの風は東から、つまりヨルダンの砂漠からの乾いた風であることを教えてくれた。一夜にして野の花を枯らしてしまうというあの風だ(創世記 41:6、ヨナ 4:8)。未だ4月上旬なので熱風とまではゆかないが生暖かい風だ。

 夏がもう直ぐそこまで来ているということ。この緑ときれいな花々は早々に野山から消えてしまうのであろう。今日の作業は日差しの下では熱かった。作業を終えてポストオフィスを覗いてみると家族からの手紙が届いていた。消印を見ると3月22日西宮局受付とある。航空便なのに16日も要っている。やはりイスラエルは日本からは遠い国なのだ。何んといっても家族からの便りが一番嬉しい。読んでいる間は遠く離れて住んでいるという感じがしない。

独りヴォランティア(15)

 この日、バナナの木の手入れ作業を午後3時に終えた私は部屋に戻り、昨夜へプライ語会話教室の後でドフ氏から聞いたことを思い返した。ドフ氏が語るところによるとイスラエルの多くの宗教家(ユダヤ教徒)はもはやトーラー (モーセ五書) がモーセによるものと信じていないのだという。イスラエルのヘブライ語学者が明確にしたところでは、モーセ五書のヘブライ語はバロン捕囚時代のそれも非常に後期のよく整理されたヘブライ語であるという。

 旧約聖書の中で最も古い時代のヘプライ語で書かれているのは、ヨシュア記、そしてダニエル書が最も新しい時代のものであり、紀元前2世紀頃のアラム語も多く含まれている。更にエズラ・ネヘミヤ記もその時代のヘブライ語とアラム語だという。

 私はその研究に基く著作時代はかなり正しいと思わされた。日本語も昭和初期、明治初期、江戸時代、奈良時代それぞれ専門の学者がそれらの時代の文章を見れば、それがおおよそどの時代のものか推定できるのと同様だと思った。しかし、それだからといってモーセ五書がバビロニア捕囚期に創作されたものと断定することはできない。エズラ時代のイスラエル人にとっては読むことは難しくなっていたであろうモーセ時代の書物や口伝をエズラ達、律法学者達が当時のヘプライ語に精確に訳し編さんした可能性が高いように思う。

 今から千年前の「源氏物語」も現在の一般人には現代訳でないと読めないようにモーセの時代はエズラの時代よりも900年も前なのだから。後世に編さんされたとしても神の言葉としての価値は何ら減じることはない。それは編さん者達が、神の言葉を信じ怖れる人々であったからである。

独りヴォランティア(14)

 サマータイムで昨朝より一時間早く起こされて送迎車に飛び乗ってバナナ畑に向かった。しかし昨夜来の雨の影響で雲が低く薄暗くて周囲がよく見渡せない。バナナ樹の枯葉除去の作業だが、濡れた葉がとても冷たく手が悴んでしまう。これでは仕事にならないので作業を始めて10分もしないうちにヨハナンは私達を部屋に戻し、朝食後8時半から作業を再開するという。ところが、また雨が降り始めたので結局午前中の作業は午後に回し(この日は金曜日なので、本来は午後の仕事は休む)、車で野鳥観察に連れて行ってくれた。

 行き先はキブツの北方約 20kmの地中海沿岸の国立公園に指定されているナハショリムという所である。地図で見ると、ここは旧約聖書時代のドル(ヨシュア12:23、17:11他)のすぐ近くで、すぐ南に現在のドルの町がある。「囲み」という意味でソロモン王時代の重要な地点であったらしい(Ⅰ列王 4:11)。

 下車すると、そこにローマ時代の岩を掘った大きな墓穴が3つあり、それぞれの墓には3体を安置できる奥行きの深い立派なものである。入口の横幅は約1m、高さは1.3m程なので屈まなければ中には入れない。直ぐ近くには、昨夜からの雨で勢いよく流れる川があり、そこで釣りをする人、投げ網を打つアラブ系の人達がたくさんいた。

 私たちは先ずバードウォッチングコースを歩いて行ったが、道が水溜りだらけで足が滑って転びそうになり、鳥を観察するどころではなく足元ばかり見て歩かねばならない。それでもカメラを撮りに来ている人が数人ばかり居た。流れに浴って河口まで行き地中海を暫く眺めていた。近くにはヘロデ大王が築いた水道橋やその他の建物跡が数多く残され、雨さらしのためかなり風化している。

独りヴォランティア(13)

 他のヴォランティアに誘われてキプツの体育館に入って行った。日本の高校にある体育館と同じ程広くバスケットボール、バレーボール、バトミントンなどができる。外国のヴォランティアやキプツ住民の青年達は専らバスケットボールをしている。日本の野球熱を思わせる程バスケットボールが好まれているのを見て異文化の中に居る自分を改めて認識した。

 キブツの運動施設には他に野外のバスケットコート一面と夏季には自由に泳げる25mプールがある。体育館の利用はキブツ住民が優先らしくヴォランティアが 15人程ゲームをしていてもキブツの青年が2人来てバスケットを始めようとするとヴォランティアはそこを明け渡していた。体育館を出て部屋に戻る途中、キプツの子供達が(キャンプ)ファイヤーを楽しんでいる。過越祭シーズンだからだろうか。空の月が美しい。

 4/1(金)早朝、ドアが強く叩かれて出て見ると、今日からサマータイムで時計を1時間進ませるという事、つまり1時間早く仕事が始まるというのだ。英語を解せない私一人だけの失態であろう。これから、この珍道中を主がどのように導いて下さるのか楽しみだ。「主はわが牧者」!

独りヴォランティア(12)

 丘の上から地中海方面に没してゆく夕日を見てから夕食のために食堂に戻るとクリスチャン(フランスのヴォランティア男性)が青い顔色をして弱々しく座っている。テープルには丼いっぱいのヨーグルトと飲み物だけを置いている。横のパット(南アフリカの女性)とニッキ(イギリスの女性)も風邪をひいて喉の痛みと鼻水を訴えていた。隣の青年もだ。

 ヴォランティアの間に風邪が流行している。彼らに私の手持ちの風邪薬を提供したが、私の分の残りが僅かになってしまった。私自身が風邪をひかないように、よく食べて特に野菜と乳製品(これらはキブツには豊富にあるので感謝)を摂取し、よく寝ておかなければならない。食後部屋で内村鑑三の『一日一生』を読んでから祈る。

 明日、西宮(夙川)から生駒(あすか野)に引越しする家族のために。3/28(月)5時起床、『一日一生』を読む。聖書箇所はイザヤ書43:18、19「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな、見よ、私は新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。…確かに私は荒野に道を、荒野に川を設ける」。

 家族があすか野に転居するこの日、神がお与え下さったみ言葉に、私は神の最善を身に感じた。今、日本はちょうど正午頃。荷物が着いて昼食を摂ろうとしているだろうか。改めて主の守りを求めて祈った。

 この日の夕食後、ゆったりくつろいでいると、ヴォランティアの仲間でバスケットボールをしないかと誘われたので付き合うことにした。

独りヴォランティア(11)

 過越の食後アロンに明日の作業のことを尋ねると「明日は過越祭休日だ」と言う。この年は過越祭が日曜日と重なっていたのだ。食堂から部屋に帰る時、空には美しい満月が輝いていた。そう言えば過越祭は春分の日の次に来る満月の日に始まるのであった事を思い出した。

 3月27日(日)バナナ畑に行き一人で礼拝の時を持つ。ルカ福音書20章~22章を朗読し、イスラエル、日本、家族、夙川教会最後の礼拝のために祈る(時差のため既に日本ではお昼過ぎになっているが…)。午後3時頃に窓の外に見える北側の丘に行ってみた。

 そこはもうウェストバンク(ヨルダン西岸のパレスチナ地域らしく、アラブ人の牧場であった。そこの主人らしき人に挨拶をすると、「いつから来ていつまでいるのか」とか「牛の糞があるので足元に気をつけなさい」と語りかけてくれた。

 丘の西側に石を積み上げた遺蹟らしきものが見えるので行ってみると、ドーム型の門や家屋らしきもの、通路のようなものがあって、やはりこの丘も遺丘のようだ。丘の上まで登ると視界が開けてシャロン平野が一望できた。シャロンの野を東西に走るアフラ街道を自動車が行き交っている。

 西側にはハデラの町を象徴する 3 本の高い煙突が見える。その直ぐ北側にはカイザリヤがあるはずだが見えない。その少し北側にはかなりはっきりと丘の上の町が見える。ワインの町ジクロン・ヤアコブらしい。その遥か彼方の山の上にも町が見えるのがカルメル山のようだ。

独りヴォランティア(10)

 過越の祭りで食される種なしパンは、現在では統一されているらしく市販品である。小麦粉100%(一切の添加物なし)のクラッカーで 15cm角の大きさである。これはマッツァと言われるもので、今年は入手できたので 4月の聖餐式でいつもの食パンの代わりに、これを使用した。何の味付けもしていないので小麦粉の香りだけのもので、上顎にくっ付いたり喉に引っ掛かって飲み込み難いものだ。

 過越の食事の際に主イエスが弟子達に分け与えたパンとワインには共通点があるのに気付かされた。それらは共に砕かれて混ざり合ったものだと言う事である。一粒一粒の小麦が砕かれ混ぜ合わされた粉がパンの原料となり、それがキリストの体(教会)となるのだ(マタイ 26:26)。ワインの元になるブドウ汁も、一粒一粒のブドウの果実が踏み潰されて、汁となって混ざり合い発酵してワインになるのだ。

 ありのままの姿が砕かれて混ざり合わされ、愛によって互いに一つとされ赦し合い赦され合って神の国は形造られてゆく(エフェソ 4:15、16)ということを明示しているのではないか。聖書の示す愛は他者と自分との区別を排するものである(マタイ 22:39)。

 後で知ったのだが過越の食事にはヴォランティアの席はなく、私はヘレナー家の一員として特別に参加させて頂いたということ。(他のヴォランティアは見学するだけであった)。

独りヴォランティア(9)

 過越しの祭りについては「この日は、あなた達にとって記念すべき日となる。あなた達は、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。」(出エジプト記 12:14)。

 「第一の月の14日の夕暮れが主の過越しである。同じ月の15日は主の除酵祭である。あなた達は七日間酵母を入れないパンを食べる。」(レビ記 22:5、6)。

 「アビブの月を守り、あなたの神、主の過越祭を祝いなさい。七日間国中どこにも酵母があってはならない。」(申命記16:1、4)」と律法でイスラエルの民に命じられている。多くのユダヤ人は今なおこれを忠実に守っているのである。キリストの最後の晩餐も過越しの食事であった事を福音書は伝えている(マルコ14:12・26)。式が始まるとハガダーが朗読されていく。

 聖書の出エジプト記の物語に基いて、大人も子供も男も女も区別なく、一人づつ順々に読んでゆく。そして適当な箇所で合唱や三重唱や独唱が入れられ、一ヶ所ではダンスも入った。又、ある箇所では大人も子供もワインで乾杯をする。四度目の乾杯が終わると食事を始めるのである(それまでに食べ始めてしまっている人もいた)。

 食事の時が来ると魚(鱒)、肉(牛とチキン)、団子入りスープが出された。野菜はサラダ菜とピーマンにドレッシングしたものだ。ハガダーはバッハのオラトリオ(受難曲やクリスマスなど)とよく似た構成だと思った。

独りヴォランティア(8)

 夕刻になったので、昨日に声をかけて下さったへレナの家に出向いた。ヘレナ宅で何かあるのか、と思ったがそうではなくヘレナ一家と共に中央食堂に向かった。過越の夕食はキブツの全住民と全ヴォランティアが食堂で一堂に会して過越の祭りの食事をするのであった。ヘレナは私を自分たちの家族のゲストとしてヘレナの家族のテープルでこの祭りを祝えるように取り計らってくれたのである。

 ヴォランティアの中で私一人だけがユダヤ人達と一緒の席に座り、他のヴォランティアたちは、いつもは料理を並べてある一画に集められて座っていた。私は最も窓辺の壁際のテーブルであったが、他のヴォランティアたちはその反対側の一番奥まった所に居て、遠くて暗かったので彼らの顔とその表情はよく見えなかった。

 全てのテーブルの上には紙製の白いテープル掛けを敷いてあり、その上に種なしパン(マッツァ)、ワイン、コーラ、スプライト、ピクルス、野菜の漬物(濃い紫色でみじん切りのもの)が置かれている。そして各々の前には 3 種の紙製の皿、プラスチック製のフォーク、スプーン、ナイフ、コップ大小とナプキンが置かれてあった。

 時間(7時)が来るとヨハナンの奥さんマリアン(彼女はこのキブツ内で聖書<旧約>学習会を主催していると聞く)が司式をしてセデル(過越の食事)が進められてゆく。手元に配られたプログラム用紙の式順に従ってハガダー(過越祭用式次第)が読まれてゆく。6時にラジオでもハガダーを放送していた。

独りヴォランティア(7)

 イスラエルには2000年前の遺物や遺蹟がそこかしこに残されている。このキプツ・マアニットもその頃の遺丘の上にあって、住民の中に発掘品のマニアも居ると聞く。しかし公機関による発掘は手付かずである。奈良県下では先日卑弥呼の邪馬台国跡らしき遣蹟の発掘ニュースが大きな話題となったが、それらは2〜3世紀頃のものである。

 しかし、マアニットの遺跡はそれよりも2~3世紀以上も古いのである。毎日この道を歩いていたのにドフ氏に指摘して頂くまで全く気付かなかったのだ。又、「これがレバノン杉だよ」と指してキブツ内に植えられているのを教えて下さった。そして「今夜はハガダーと呼ばれる出エジプト記の物語を朗読して、歌ったり踊ったりするんだ」とも言われる。

 イスラエルに住んでみると、ここが正に聖書の世界であり、ユダヤ人達は聖書の民であるという事、そして自分が今その真っ只中に居るという事をじわじわ実感してくる。イスラエルはもっと国をあげて貴重な遺跡の発掘に力を注いで欲しいと切に願うのであるが、現状はあまり進んでいない。それどころではないのだ。

 国防の為の予算が莫大なので国民の福祉の為の予算さえ不足している。遺蹟の発掘の為の予算は当然後回しになるのである。その為に多くの発掘は外国人(大学)の発掘隊が自費で発掘に来るのである。日本からも奈良の大学の発掘隊が来てガリラヤ湖東岸の発掘をしていた。イスラエルでの遺跡発掘のヴォランティアも募集されている。ハツォール、メギド、エルサレム、ベテシュメシュ、マレシャ、ダンなど、私の滞在中に発掘がなされていた。

独りヴォランティア(6)

 「明日の夕食に来なさい」とへレナが朝食の時、私に声をかけてくれた。事情がよく分からなかったが「ケン、トダラバ(はい、ありがとう)」と答えた。又、庭の作業中に横を通りがかったハバ(エヴァ)が私に声をかけ「明日のパスハ(過越の祭り)の夕食は楽しいよ」と言った。この時私は明日の夕刻から過越祭が始まる事を知った。私はそのハバに作業服の胸ポケットに入れていた家族写真を見てもらった。

 昼食後同じ写真をアブラハムにも見せた。アブラハムが昨日の作業中に是非見せて欲しいと私に頼んでいたので朝からポケットに入れておいたのである。アブラハムはそれを手に取って実に嬉しそうな顔で長い時間見入ってから「ありがとう、ありがとう」と満面の笑みでそれ返してくれた。暖かい心の人々に包まれて、独り住まいのキブツ生活を始めていることに主の護りを強く感じつつ部屋に戻った。

 シャワーを浴び、作業衣上下を洗濯して干す。風は寒いが強く、天気がよいので直ぐに乾いた。数日前からスギ花粉が飛散しているらしく鼻炎の症状が出て眠い。夜8時過ぎには電灯を点けたままうつらうつらと眠ってしまう。

 3/26(土)安息日なので作業と朝食は休み、昼食後ドフ氏と部屋に戻る道を歩く。彼は道脇に無雑作に置かれてある 2 つの大きな石を指して言った「これはローマ時代の物だ。丸型の方は墓穴の入口を閉じる石、屋根型の方は棺の蓋だ」という。

独りヴォランティア(5)

 3/25(金)この日は一人でガーデンの作業をした。中央食堂周辺の花の除草である。花の中に入って一本一本雑草を丁寧に引き抜いていると、側を通りがかったキブツ住民のご老人が笑顔で「ビューティフル」と声をかけて下さり「ジャパニーズガーディナーイズナンバーワン」と言って下さる。

 多くのキブツ住民のご老人は外国人ヴォランティアに対して好意的ではない。服装や生活態度を見て顔をしかめ、あまり近づいて来られない。しかし、以前私が中央食堂裏の一画に植えられている杉の枝の刈り込み作業をしているのを見て、何人かのご老人が「ワンダフル」と声をかけて下さった事があった。

 日本の庭師が庭の杉を丸く刈るのを真似て刈っていたのである。今回は極く小さな雑草までも完全に抜き取ってパンジーの苗だけ残るようにしていたのであるが、この作業ぶりが気に入れられたようだった。この日以来、何人かのご老人が朝、顔を合わせると「ボケルトープ(おはよう)」と挨拶して下さるようになった。

 キブツの住民は、植物、花をとても愛し大切にしておられる事がよく判った。作業後、私の除草した花を見たアブラハムは「とても美しい、昨日の仕事と今日の仕事とどちらが好きか」と言った。私は「今日の方だ」と答えると、なるほどと頷いてくれた。この日は日没から安息日なので労働は午前中だけであった。

独りヴォランティア(4)

 アブラハムが私に尋ねたことは、家族のこと、職業、キプツに来た理由、滞在期間などであった。私は自分が牧師であることを彼に語った時、全く拒絶反応を示すことなく笑顔でこう語った。「イエスもペテロもヨハネもパウロも皆ユダヤ人なんだよ」と。

 通常多くのユダヤ人はクリスチャンや宣教師を悪魔以上に嫌悪し怖れるのだと言う。それは、この二千年間彼らが教会や宣教師、クリスチャンの名の下で私たちの想像を絶するような迫害を受けてきたからである。しかし、アブラハムは私に対して自慢げにそう言ったのである。 私は「その通りキリスト教はユダヤ人によって出来たのだよ」と答え、私とアブラハムとは意気投合していくのである。

 彼は「私の車でイスラエルのいろんな所へ案内してあげよう」とまで言ってくれたが、この約束は残念ながら果たされることはなかった。一つの例外だけを除いてだが、そのことは又後で述べる。

 この日の夜はドフ氏による四回目のヘブライ語教室である。この日は一日の生活をヘブライ語で話すという課題で、ドフ氏のキブツ生活の一日を話して下さった。私の理解力に合わせて忍耐強く丁寧に教えて下さる。宿題は日本での私の一日をヘプライ語で報告する事であった。8:30~9:50 までの学びで私は疲れ果ててしまった。部屋に戻ると祈って直ぐに床に就いた。

独りヴォランティア(3)

 3/24(木)5:30起床、エルサレムのホテルで食べ残して持ち帰っていたカチカチになったパン一個とコーヒーで軽食をとって、6:30 より今日もガーデンの仕事をする。アブラハムと二人で除草液を散布した。アプラハムと二人で歩きながら、彼が指示した場所に散水するのだが、雑草といってもどれもこれも綺麗な花が咲いている。

 そんなこともお構いなしに道端に生えた野草を枯らすのである。しかしシクラメンだけはどこに咲いていても散水してはならないのであった。この日も言葉が通じないための失敗をしてしまった。彼から注意された時、私は咄嗟に昨夜ポケットに入れておいた紙切れを彼の目前に突き出した。

 そこにはヘブライ語で「スリハー(ごめんなさい)」と書かれている。それを読んだ彼は大声を発し、満面に笑みを浮かべて笑い出した。暫くその笑いが止まらず、ようやく笑いをこらえた彼は私に抱きついて来た。この時から彼は急に親しみを表し、いろんなことを私に語りかけ、自分の事を話すと共に私にも質問してきたのである。

 彼も私と同じ46歳、私より4ヶ月だけ年上だが、未だ独身であることも知った。彼は私と同じ背丈だが小太りで顔は年取ったアンパンマンに似た丸顔である。髪は短くカールしていて薄くなっているが、その笑顔は素晴らしい。失敗を契機に私は良き友を与えられたのである。

独りヴォランティア(2)

 3/23(水)5:30起床、洗面後昨日届いた小包の中から赤だしとポテトスナックで軽食をとって、6:30よりガーデンの草取り、8:30 からはガーデンの除草液散水作業をアプラハム(ガーデン管理のボス、私と同じ1947年生まれ)と二人でする。アブラハムの語る英語を充分理解できない私は、最初から失敗をした。

 散水ポンプを肩から担いで注水するので水性肥料の散布作業と思って木の根元や芝生に注ぐと彼は慌てて大声でノーノーと叫んだ。私はキョトンとして立ちすくんでいると彼は「キルウォーター、キルウォーター」と言う。「殺す水」という意味と思い除草液だと気付く。私は「アイムソーリー」と言って頭を下げた時、手に持っていた散水器のノズルを押してしまったので除草液が噴射しアプラハムの頭から顔に掛けてしまった。彼はててタオルで顔を拭ったが、私は「アイムソーリー」を繰り返すばかりであった。この後、言葉を聞き取れないで犯す失敗を何度も繰り返すことになる。

 この作業中にアブラハムの両親の住居前に来た時、ご両親が私にペカーンナッツ(くるみに似た実)を少し下さった。家の前に大きなペカーンの木が植えられていた。彼らはチェコスロバキアからのアリアー(帰還者)だという。この日の作業は1:20で終わったので部屋に戻ってシャワーを浴び休息をとる。夜は手紙を書いた後、ヘプライ語文法の本から学び始める。ヘブライ語で「御免なさい」を調べると「スリハー」と言うのが分かったので、それを紙に書いてポケットに入れておいた。10:30就寝

中央がアブラハム(1994年8月24日マアニットの結婚式にて)

独りヴォランティア(1)

 部屋に戻ってシャワーを浴びた後、暫く休息の時を過ごした。昨夜までの3週間はずっとS師と同室で1日 24時間プライバシーも自由も殆どなく拘束された生活であった。しかし、この午後からは一切の束縛から解放され自由時間を持てるのだ。この開放感は言葉では表現できない。今まではすべてが団体行動であって朝の起床から夜の就寝まで自由行動ができず、息が抜けなかった。私の心は窒息してしまいそうであったが、今は思いっ切り深呼吸ができるのだ。

 部屋でくつろいでいると、南アフリカからのヴォランティアの一人が「ユキオ、荷物届いているよ」と日本からの郵便物を届けてくれた。家内からの小包だ。中には便りと食品が入っていた。嬉しくて直ぐに返事を書いた(家内からの手紙はこれで3信目である)。夕食を済ませて更に日本への手紙を二人の方に書き終えた。午後8時になって、これから後の自由時間の過ごし方の計画を立てた。

 日本から持ってきた書物は「聖書」、「聖歌」、「ヘプライ語入門」、「一日一生」(内村鑑三)、「地の基ふるい動く」(パウル・ティリッヒ説教集)である。他に英会話、和英辞典も持参したが、先に書いたように、これらは遺失した。これらの書物を日課として読み、学ぶことにした。

 今朝帰国された宮本姉が『イスラエル・ガイド』(ミルトス社)を私に残して下さった。これは滞在中大変役立った。

エルサレムへの旅(36)終

 12時40分博物館内のレストランで昼食をとった。ライスと魚、ほんの少しの野菜とドリンク(スプライト)で30 シェケル(1200 円)。味は今一つでかなり高額なので驚かされる。博物館前から路線バスでエルサレムセントラルステーションまで行き、そこから2:30発ハデラ行きに乗り換えた。

 エルサレムからアヤロンの谷の方へカーブの多い急な下り坂を90〜100Km/hで走るバスにも驚いた。周囲の景色は素晴らしかったが眠気に襲われる。ハデラからはタクシーでキブツに戻った。夕方 5 時頃であった。直ぐに夕食を済ませ、私を除く三人はギブツでお世話になった人々へのお別れの挨拶回りに出かけて行った。その後、食堂で食事をしていた他国のヴォランティアと記念写真を撮ってから部屋に戻って最後の反省会をする。

 3月 22 日(火)朝4時にS師と二人の姉妹はキブツを出て帰国の途に着かれた。いよいよ今日から日本人は私一人の生活が始まるのだ。身の引き締まる思いと主の導きへの期待が重なる。今朝の仕事は7時からの予定であったが迎えの車が来ず、早い目に朝食を済ませて 8 時から作業を始めた。ビワ畑での摘果作業であった。午後 2 時過ぎまで働いたが、南アフリカから来たパットが風邪気味で足に傷を負ったので日本から持参していた風邪薬と塗り薬をあげた。

エルサレムへの旅(35)

 死海写本館展示物の中で印象に残ったものは、クムランの洞窟から発見されたイザヤ書全巻の羊皮紙の巻物と詩篇第 151篇のコーデックス。共に BC2~3世紀のもので信じ難いほど貴重な資料だ。私たちの手元にある旧約聖書詩篇は 150篇までなので、どのような文章が書かれているのか興味は大いにあるのだが、悲しいかな私には全く歯が立たない。その他ナホム書注解などである。エンゲディから発見されたものではバル・コクバ手紙である。

 そこを出て隣接の土産店を見たが全体的に割高値なので何も買わずに出た。本館では先ず特別展示があり、「エルサレムでの生活の今と昔(1900年頃から)」を見て歩いた。そこから民族美術館、子供館、聖書・考古学館を観て回った。美術館では時間的余裕がないので絵画を中心に速足で見たが、モネ、マスネ、ルノワール、ゴッホなどの絵画が目線の高さでガードマンはいるが、ガラスや防護柵なしに展示されているのは驚かされた。直かに名画に接する事ができるのだ。子供たちがそのフロアで走り回っているのに。

 考古学館ではエジプト、シリア、アッシリア、イスラエルの BC4000〜AD400 年頃までの出土品が大量に展示されており、とても半日で見て回る事は出来ない。ここでは小さな女性像(アシュラ)と子牛の偶像の多さに旧約時代をリアルに見せ付けられる体験をした。

エルサレムへの旅(34)

 夕食後ホテルに戻った私たちは恒例の夜のミーテイングをした。主を賛美し、み言葉に聞く。S師はゼカリヤ書を開いてショートメッセージを語られた後、このツアーの明日からの予定の説明をされた。明日がキブツ最後の日で明後日の早朝には私以外のメンバーは帰国の途につかれるのだ。

 3月21日(月)朝7時半からホテルで朝食。パンとコーヒー、魚の酢づけ、フルーツドリンクなどであった。9時すぎにホテルをチェックアウトしてバスでイスラエル博物館に向かった。イスラエル博物館は旧市街のヤッフォ門の西方約2.3kmにあるクネセット(国会議事堂)の道路を挟んだ南側にある。エルサレムの右も左も全く分からなかった私であったので、連れて行かれる所へただ付いて行くだけであったがクネセットとイスラエル博物館が隣接していることを知ることができた。双方とも充分な広さを有する緑豊かな美しい敷地だ。

 入館の手続きをするとロビーでしばらく待ってから荷物を全てインフォメーションに預けた。そして先ず写本館に向かった。この建物の外観はクムランから発見された死海写本が納められていた壷の蓋を模って造られていることで有名である。館内は写本が発見された洞窟をイメージしてかなり暗い照明である。私は光による展示写本の劣化を防ぐためではないかと思った。展示物はそれほど多くなかった。

エルサレムへの旅(33)

 鶏鳴教会はシオン山の頂から東へ 200m 程下った傾斜地に建てられている。曲がった道を下っていくと少しばかり広い駐車場があるが、車は一台も駐車していない。そこから教会堂の方へ行くところに大きな鉄柵があり、それが閉じられていたので、その先へは進めなかった。日曜日は休館日であったのだ。鶏鳴教会は大祭司カイアファ邸跡と推定されている場所で、主イエスがここでユダヤ人による裁判を受けたのだ。

 弟子のペテロが三度「私はイエスを知らない」と否んだ時に鶏が鳴いたという福音書の証言からこの名がつけられた(マタイ 26:57-75)。仕方なく私達は坂を上ってシオン門まで戻り再び徒歩でダマスコ門まで行き、そこからホテルへ行って荷物を持ち出した。

 そしてダマスコ門前のタクシー乗場から乗車して新市街に向かいキングスホテルにチェックインした。ここはエルサレムの北部で近代的な町並みでホテルも高級である。

 部屋で少し休憩をとった後、夕食のために市街に出かけた。その光景は大阪の中心部と殆ど変わらない。道路は歩道も車道も大阪の御堂筋並みの広さがあり建物も高層ビルである。私達は軽食店でイタリアンを食べた。私はスパゲティナポリタン、野菜スープ、いちごジュースを注文して約1500円であった。スパゲティはセモリナ粉ではなく安物のうどんのように腰のないものであった。

エルサレムへの旅(32)

 「最後の晩餐の部屋」の建物の一階部分の入口は閉められており、現在何に使われているのか分らなかった。そこから棟続きの建物を右に曲がるとダビデの墓と言われる部屋に行き着く。そこは薄暗く、その左側の部屋の低い鉄柵の向こう側に特大の棺が濃い赤紫色のビロードのような布で覆われて安置されその布の正面の中央に 30cm 大のダビデの星が白色で刺繍されてある。その周囲に小さなヘブライ文字で何か書かれている。最初の文字はダヴィドと読める。

 ここには年輩のユダヤ教徒らしき人がたむろしている。多分、管理している人々であろう。伝えられるところによればダビデの墓は紀元 135 年のバルコクバの乱の時にローマ軍によって破壊されたことが伝えられている。近年の調査によると、この建物は1世紀頃に建てられたシナゴーグ(ユダヤ教会堂)であったらしいという。こんなシオン山上にダビデの墓が設けられているとは考え難い。私達は10分程でここを離れ鶏鳴教会に向かった。

エルサレムへの旅(31)

 「最後の晩餐の部屋」の建物の前に来ると一見して後代の建物であることが判る。現在の建物は十字軍がビザンチン時代の教会跡に建てた「シオンの丘の聖母マリア教会」の一部である。16世紀以降、イスラム教のモスクに用いられていたが、1948年のイスラエル独立後からはイスラエル政府の管理下に置かれ、宗教の区別なく誰でも自由に出入りできるようになっている。私たちも裏の階段を上って2階の部屋に入って見学したが、主イエスと弟子たちの最後の晩餐のままの部屋ではないので、見学する意味を感じなかった。

 しかし、その土地の上に建てられたものだとすれば興味深い。最後の晩餐(ルカ 22:7~38)の部屋はペンテコステの聖霊降臨の部屋(使徒1:13~2:4)と同じ場所で、マルコの母マリアの家のことであり、初代エルサレム教会の集会所(使徒 12:12〜17)となっていたと考えられる。このマルコの従兄弟バルナバ(コロサイ4:10)はレビ人であった(使徒4:36)ので、マルコの家系もレビ人か祭司であったと考えられる。

 彼の家が神殿に近いシオンの丘の上にあったのも不思議ではない。この直ぐ下には大祭司カヤパ邸跡と言われる鶏鳴教会もある。マルコの父の名が明記されていないのも、神殿に仕える者であったためであろうと思われる。これらのことは、私が帰国後に推理したことである。

エルサレムへの旅(30)

 シオン門はシオンの丘へ通じているので、この名で呼ばれているが、アラブ人達はダビデの門と呼んでいる。1948年のイスラエル独立戦争時にヨルダン軍に包囲されてしまったユダヤ人地区の住民を救出するためにイスラエル義勇軍がこの門から城内に侵入したが、敗北し多くのユダヤ人が虐殺された。その後 1967年の第三次中東(6 日間)戦争で旧市街(城内)がイスラエルの占領下になり再移住が成されたのだが、門に残る無数の銃弾痕がその戦闘がいかに激しいものであったかを物語っている。門周辺の壁面は痛々しい程害われている。

 私たちはこの門から城壁の外に出た。この辺りがシオンの丘であり、マリヤ永眠教会、最後の晩餐の部屋(アパルーム)、ダビデの墓などがある。ダビデ王や主イエスの時代はこの辺は城壁内にあったが、現在は門の外になってしまっているのには事情がある。現在の城壁やシオン門を再建したのはオスマン・トルコ帝国のスレイマン大帝で 1537〜1541年のことである。大帝は石工に昔の城壁を忠実に再建す るように命じたのだが、石工は誤って古代の重要な部分(シオンの丘やダビデの町)を城壁の外にしてしまったのだという。その為にエルサレム旧市街の南半分が城壁外になってしまっている。

 私たちはマリヤ永眠教会の高い石壁に添った道を通って最後の晩餐の部屋と言われている建物に向かって歩いた。その道はそれ程広くなくやや左へと曲がっていた。

エルサレムへの旅(29)

 聖墳墓教会を半ば素通りで見学した後、私達はその正面玄関を出て、石段を上ってそのまま真直ぐ南へ歩いて行った。土産物店が並んでいたが、どこにも立ち寄らず、ゆっくりした足取りで進んでいく。突き当たりまで行くとダビデ通りに出た。そこを右に曲がり西に歩いて行く。ここは狭く暗い石畳の上り坂の道で、左右にいかにも古い土産物店などが、あふれるばかりの商品を並べて売っている。

 キリスト教徒地区なのでキリスト教徒向けの商品(木彫りのもの)が多い。この道をただひたすら黙々と歩いて行く。200mほど歩くと急に明るい広場に出た。ここはヤッフォ門前広場であった。この門の南側にはダビデの塔があり、現在はその一画が歴史博物館(有料)になっている。この塔はダビデには全く無関係で現在ある塔は 1655 年に建造されたものだという。元々は BC20 年にヘロデ大王がエルサレム防衛のために、ここに要塞を築き3つの尖塔を建てた。

 それは壮麗を極めたもので、史家ヨセフスも絶賛していると言うが、現在の塔はただの塔にしか見えない。私たちはここも素通りし、城壁に沿うようにして南へ歩いて行った。こからがアルメニア人地区で、アルメニア正教関連の建物が左手に続くが殺風景な通りである。200mほど行くとアルメニア博物館があるがそこも素通り。その先 100m は何もなく道なりに左に曲がって 100m 行くと今度はシオン門に出た。

エルサレムへの旅(28)

 聖墳墓教会はキリストが十字架に架けられたカルヴァリの丘と遺体が収められた墳墓跡とされる場所に建てられた会堂である。この会堂内にカルヴァリの丘とキリストの墓とされる場所があるのだ。会堂内部はローマカトリック、ギリシャ正教、アルメニア正教、エチオピアのコプト正教などの区分に分離され管理されている。私たちはそのコプト正教会の入口から入場したのだ。コプト教会の礼拝堂は古めかしく、それほど広くはなく薄暗い。

 続いて他の区域に入って行ったが、会堂内は相当に広く、多くの見学者が行き来している。ゴルゴダの丘と言われる所も長い行列ができていて、私たちは並ばずに会堂から出た。ガイドの説明がなければ、どこが何かよく判らない。私たちが出た所は正面玄関のようで広い幅の前庭があり、その先は広い石段になっている。聖墳墓教会の地面は現在の町の地面より 10m 低いということが、この石段を見ることで納得できる。

 この会堂内は当時のカルヴァリの丘や園の墓の雰囲気を想起させてくれるものは皆無のように思った。むしろ先に訪れたゴードンのカルヴァリと園の墓の方が当時を偲ばせる雰囲気を残していた。主イエスキリストの十字架と復活は福音の核心である。しかし、この教会堂で見たものは、その抜け殻に思えた。この場所で静かに黙想するには相当の努力を要するであろう。

エルサレムへの旅(27)

 ヴィア・ドロローサは主イエスの時代は現在の道より約10mも地中に埋まっている。ローマ帝国がエルサレム市内の建物を徹底的に破壊してしまい、その瓦礫の上に今の建物が構築されているからである。

 キリスト時代の町を発掘し再現しようとすれば、現在の建造物を全て除去し、土を10m堀り起こさなければならず、その様な事は現実的に不可能である。1967年の第三次中東戦争でエルサレムの旧市街(城壁内)をイスラエルがヨルダンから奮還した際、旧ユダヤ人居住区からイスラム教徒を排除したのだが、建物全部を取り壊して 10m 下まで発掘することはしなかった。ほんの一部分だけ掘り起こし、主イエス時代の地面を調査しただけである。

 私達は第七ステーションを過ぎた所で右折し、細い路地のような所に入り、石段を上がりながら左折したり右折したりして鉄壁の小さな門をくぐって中庭のような所に出た。その庭は花らしきものも植えられておらず、殺風景で塵っぽい感じがした。ただ、壁近くに大きなからし種の木らしきものが枝を広げて垂れ下がっている。淡いセピア色の空間だ。その庭の右手の小さな入口から建物の中に入って行った。そこはコプト・オーソドックス教会の領域で聖墳墓教会堂の一部であった。

エルサレムへの旅(26)

 ダマスコ門から城内に入ると活気に満ちた空間であった。人々が行き交い、じっと立ち止まっていることが難しいほどである。

 道幅は充分に広い。その両側は店が並び、更に道の中央にも露店が続いていて青果や雑貨を売っている。そのために通路は狭くなり、人々は前に歩く人をかき分けながら前進して行かなければならない。道は石畳でゆるやかな下り坂になっている。この辺りはアラブ人(イスラム教徒)地区で彼らの生活の中心の市場なのであろう。エルサレム旧市街は四つの地区に分かれており、最も広い地域(約4割)、ダマスコ門周辺から東側全部と神殿跡がイスラム教徒地区とされている。

 その雑踏の中を真直ぐ歩いてゆくとヴィアドロローサの第七ステーション辺りに出る。ヴィアドロローサ(悲しみの道)とは主イエスが十字架を背負わされ刑場のゴルゴタまで歩かされた道のことを言う。第一ステーションは主イエスが死刑判決を受けた場所で現在はアラブ人の小学校敷地内にある。そして最後の第十四ステーションは聖墳墓教会内の主イエスの墓とされる場所である。第七ステーションは主イエスが十字架を背負って二度目に倒れた所とされ、ここにはフランシスコ会(カトリック)の小聖堂がある。この辺りから西側はキリスト教徒地区で、旧市街の北西地区全体を占めている。

エルサレムへの旅(25)

 ベツレヘムの生誕教会堂の裏側は、幅 20m程の雑草の生えた空地になっており鉄条網の簡素な柵で囲まれてある。その空地に沿った細い道を東に向かって歩を進めると、左手のその空地の奥の方からガサガサと物音が聞こえてきた。その方に目を向けると数人の人影が雑草の合間から見え隠れする。よく目を凝らして見ると、どうやら先程メンジャー広場でイスラエル兵に投石して、兵士に追われて逃げていった少年達である。

 彼等はじっと私を見つめているのが判ったので、私は咄嗟に左手を挙げて彼等に手を振ってみた。すると彼等はそこに立ち上がって私に向けて笑顔で手を振ってくれるではないか。私も笑顔で応え、足を止めることなくそのままそこを通り過ごした。平静を装ったが心は動揺し、足は地に着いた感がしなかった。

 会堂の東側に出て左折しメンジャー広場に向かった。この道は南側がかなりの下り坂になっていた。私は北側に上って行き S 師達が待って下さっている所に戻った。この広場からアラブのタクシーでエルサレムのダマスコ門まで帰ったが、帰りのタクシー代は行きより 10 倍以上も料金が高かった。タクシーを下りた私達はダマスコ門から旧市街(城壁内)に入りヴィアドロローサ(悲しみの道)に向かった。