エルサレムへの旅(12)

 この夜の反省会でS師は「モーセがネボ山から約束の地カナンを見たと聖書には記されている(申命記 34:1~4)が、そこが蜜と乳の流れる地であるかどうかは肉眼では確かめられなかったであろう。今日のような晴天でも、あんなにかすんでいてぼんやりとしか見えないのだから、多分モーセは、心の目、信仰の目で見たのであろう。私たちも信仰の目で主の御国を見よう、又見ることが出来る者でありたい」という感想を述べられた。

 確かに死海の周りの空気はいつもかすんでいて対岸の山々がぼんやりとしか見えない。高気温のため海水が蒸発し、その水蒸気のためそうなるのである。しかし聖書には「主はモーセにすべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダンまで、・・・・・」「わたしは、あなたがそれを自分の目で見るようにした」と明確に記されている。

 堺の西村牧師がネボ山に行かれた時、珍しく空気が澄んでいてカナンの地を北から南まで見渡せたと私に語って下さったことがある。主はモーセにすべての土地が見渡せるようにされた、とわざわざ念を押すように書かれてあるのだから、事実そうであったと私は信じている。自分の目で見たことや経験したことを絶対化するのでなく、謙虚に神のみ言葉に聴くことの大切さを私は尊重したいと思っている。翌朝(3/20)は5:50起床。朝食後アラブのバスでオリーブ山に行った。

エルサレムへの旅(11)

 園の墓の見学を終えて売店に行った。この店の価格はカイザリヤの店より、少し安価である。私たちはそこから旧市街のダマスコ門前までゆっくり歩いて行った。ダマスコ門はシリアのダマスコに通じているので一般的にダマスコ門と呼ばれているが、ユダヤ人たちはサマリヤのシェケムに通じているのでシェケム門と呼んでいる。

 旧市街の8つある門の中で門構えが最も大きく立派な造りである。私たちは門の外の階段部分に腰を下ろし、行き交う人々をぼんやりと見ながら夕食時間までの時を過ごした。食堂はかなり薄暗い地下の部屋であった。

 料理はアラブ料理と思われるもので、量は多くなく軽食程度のものである。夕食の時、アラブ音楽のライプ演奏があり、三人の演奏家が弦楽器と打楽器と歌で、熱のこもった演奏が途切れることなく続いていた。私はしばらく聴いていたいと思ったが、たばこの煙が充満し、明日の朝も早いということで、食べ終えると、他のメンバーとすぐに部屋に戻った。そしてここでもいつものように反省会をした。司会は私、S師がショートメッセージをされた。

エルサレムへの旅(10)

 園にある墓の内側は天井が低く、鉄柵で2部屋に区切られている。柵の向う側には入れない。その一番奥に棺が設けられているが蓋石は無くなっており石製の棺も一部壊れている。墓の中はこの他、特に見るべきものは何もないが、ただ入口の扉の裏に「彼はここに居ない。復活した」(ルカ 24:6)と英語で書かれたプレートが貼り付けられているのが印象的であった。

 墓の前方はコンクリートで敷き詰められたやや広いスペースがあり、更にその向う側には高い木々に囲まれた少し広いベンチ付きの集会所のような場所がある。ここは墓よりも数メートル高い位置にあり、この所のベンチに腰を掛けて黙想することも出来る。とても快適な空間である。

 以前に述べたように、この頃の私はイスラエルの聖書に関わる事跡にそれほどの関心がなく(健康の回復とヘブライ語の学びが主目的)、 ガイドブックも所持しておらず、日記にもそれほど詳しく書き残していないのが悔やまれる。

エルサレムへの旅(9)

 ゴルゴタの丘と主の墓は、4世紀にコンスタンティヌス皇帝の母へレナがパレスティナ巡礼の際に見つけた聖墳墓教会が旧市街の城壁内に既にある。考古学者、歴史学者、カトリック、ギリシャ正教等はここを支持している。「園の墓」は学者によるともっと古い第一神殿時代(B.C.7 世紀頃)のものであろうと言う。

 しかし、ここの岩の丘がしゃれこうベそのものだということと、そのすぐ近くに園と墓があることが注目され、1860年に、ここが真実のゴルゴタではないかと言う人が現れた。更に第一次世界大戦中に英国軍人ゴードンも同調したことから「ゴードンのカルバリ」と呼ばれるようになったのだという。

 現在は英国のプロテスタント系の教会が管理し、主にプロテスタントの信徒が多く訪れている。私たちは、そこでゆっくりしゃれこうべの岩を見てから、木々の間の道を歩いて墓の前の広場に来た。墓の入口の右側の部分の岩が壊れていてコンクリートブロックで修理されている。それが雰囲気を壊してしまっている印象を受けた。来場者があまり多くなかったので、私たちはすぐに墓の内側に入って見ることが出来た。

エルサレムへの旅(8)

 両側を石壁に囲まれた路地を50mほど歩いてゆくと右側に「園の墓」の入口がある。そこから入るとすぐ左手にこの園の事務所の窓口がある。女性の事務員から明るい声で「あなたのお国は?」と声をかけられたので「日本」と言うと日本語のパンフレットを下さったのには驚いた。

 この施設は入場無料で、この小さなパンフレットも無料であった。この「園の墓」はヨハネの福音書 19:41「イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった」から取られた名である。園の名にふさわしく緑に包まれた小公園だ。

 背丈の高い木々をぬうように石の小径が続いていてその両側には小木や草花がぎっしりと植え込まれている。その所々に小集会が出来るようにベンチが設けられている。私たちはその庭の一番奥まで歩いて行った。そこには屋根付の木製のテーブルとそれを囲んでベンチが置かれている小さな展望台のようなものがあった。その先の下方を見ると、そこはアラブ系のエルサレムのバスステーション(ターミナル)である。そしてその左手に巨大な人の頭蓋骨のような岩が私たちの眼前に迫っている。両目や口に当る部分が空洞になっていて、まさに「しゃれこうべ」(ゴルゴタ、ヨハネ 19:17)だ。

エルサレムへの旅(7)

 タクシーはクムランから5kmほど北上し死海北西端まで戻り、そこから進路を西に向け、エルサレムに上ってゆく。エルサレムの標高は約800m、死海との標高差は1200mもある。距離は約35kmなのでかなりの上り坂である。

 茶色の岩山を上りつづけて行くと途中にベドウィン(遊牧民)のテント(濃い茶色)やその周囲に黒や薄茶色の山羊や羊たちが見える。エルサレムに近付くとアラブ人の村と思われる地域に入り、舗装されていないガタガタ道を走る。街並みは古く雑然としている。オリープ山を回る道とは別の道を通ってエルサレム市街に入って行くようである。

 やがて車は旧市街のダマスコ門までやって来た。そこから北へ400mほどの所にある古い旅館の前に停車した。今夜はここで宿泊するのだ。アラブ(パレスチナ)人の経営する宿である。宿の中は薄暗く、部屋も古く、ドアもガタついている。壁はひび割れて、ベッドも古い。きっと料金は安価なのであろう。この宿の利点は旧市街に近いということだ。

 部屋に荷物を置いた私たちは、すぐ外に出て歩き出した。そこから東へ5分も歩かないうちに園の墓(ゴードンのカルバリー)と呼ばれている所に来た。

エルサレムへの旅(6)

 マサダの要塞を足早に立ち去り、今来た道を引き返し、車は北に向かい、死海北端から南へ5kmにあるクムランへ行く。クムランは死海写本が発見された地として世界的に有名な所だ。私たちはこの公園内に入り、発掘されている遺蹟などを見た。

 周囲はすべてマサダ同様真っ茶色の世界だ。発掘されたのは2000年前のエッセネ派(祭司階級を中心とした人々)の隠遁生活跡で英語の説明プレートが立てられているが、時間の関係でS師による説明もなく、ただ見て歩くだけで、よくわからない。

 大きく深い谷のすぐ向う側に聖書の写本が発見された洞窟の一つがある。書籍などで見た写真でおなじみのものだ。ここで発見されたイザヤ書の写本は世紀の大発見と言われるにふさわしいもので紀元前1〜2世紀のものである。それまでに現存していたイザヤ書最古の写本よりも1000年も古いものだが、その文章はほとんど相異がなく、聖書伝承の正確さが立証される結果となった。

 私たちはクムランの土産物店を見てからエルサレムに向かうのだ。私はキブツを出発する際にらくだのズボン下(下着)を着ていたので、暑くて参ってしまった。死海沿岸の3月下旬の平均最高気温は30度近いのである。

エルサレムへの旅(5)

 死海西 の道路は舗装されていて快適そのものである。しかも道が起伏に富んでいて低い所では死海海面に近く高い所では数百メートルにもなり、そこから見下ろす死海の光景も美しい。

 私たちの車は死海北端から南へ40kmほど下ったエンゲディに着いた。この地はサウル王に追跡されたダヴィデが逃げ回った地の一つとしてよく知られている(サムエル上24章)。

 私たちはその国立公園には行かず、その近くにある死海の海水浴場に車を止めた。そこにビニールシートを敷いて、昼食をとる。キブツから持参したパンと水と、日本からの缶詰めなどを食べた。その後、水着に着替えて海水浴を楽しんだが、私は平服のまま水辺で石拾いをした。

 エンゲディから私たちは南へ約20km車で走ってマサダに向かった。マサダはアラム語で要塞という意味で、やはりダヴィデはここへも来て身を隠したという(サムエル23:14)。ここは周囲を絶壁で囲まれた高さ400mの山で天然の要塞である。時間の関係で下から眺めるだけで上には登らなかった。周囲は全く荒涼とした世界だが、ロープウエイで頂上迄行けるようになっている。ダヴィデの時代はこの辺りはどんなであっただろうか。

エルサレムへの旅(4)

 エリコから車で15kmほど南へ下ると死海の北西端に出る。周囲は茶一色の荒野である。車は死海の西岸に沿って走る(国道90号線)。ヨルダン王国との国境線は、ちょうど死海の中心部なので東岸はヨルダン王国の領土である。

 車の左窓から見える死海は道路から遥かに離れた所に見え、すこぶる穏やかな海面で、深青色が美しい。対岸には標高1000mを越えるモアブの山々が靄(もや)の彼方に霞んで 聳(そび)え立っている。

 死海北東端は標高が少しばかり低く、約800mくらいで、その辺りがモーセ最後の地、ネボ山やピスガの峰のあるあたりである。その時代はルベン族の相続地であった。死海は南北78km、東西18km、水面の標高は海面下 398mで、世界で最も低い場所である。しかし、ヨルダン川上流のガリラヤ湖から水利のために汲み上げる水量が過多のため、死海に流入する水の量が減少し、年々水位が下がり、現在は海面下400mを超えている。

 私たちが走っている道路際まであった水が、現在、遥か彼方にまで退いてしまっている。かっては、この道路も水面下に沈んでいたそうである。車の右側は高さ100mは遥かに越える断崖絶壁が延々と続いている。この雨季には降雨によりワジ(水無川)が突如として上流からの鉄砲水で溢れ、車が押し流され、死者が出ることもあるのだ、とS師から聞かされる。

エルサレムへの旅(3)

 旧約時代のエリコの遺蹟は予想よりずっと小さく、その広さは学校の運動場よりも狭いと思われる。城壁で囲まれた町ではあったが巨大都市ではなかったのだ。ガイドがいないので、歩いて見て回っても、どれが何か、さっぱりわからない。ただ、ここがヨシュアによって滅ぼされたカナンの地の最初の町であったということ、それは目に焼きつけることが出来た。

 この丘(テル)の上からの眺望はすばらしい。360度 パノラマで周囲を見渡すことができる。この地は海面下 350mに位置するために亜熱帯気候で、バナナやなつめやしなどがよく実り、周囲にはそれらの畑が点在し、緑がたくさんある。

 この遺蹟のすぐ東側にエリシャの泉(列王下 2:18~22)があり、そこからの湧き水がこの町を潤しているのだそうだ。その泉を見る時間がなく、ここでの滞在は30分足らずで、更に南に向かった。次の目的地は死海である。エリコの町を出ると周囲は茶一色の世界である。

エルサレムへの旅(2)

 トゥルカルムはシャロン平野では、パレスチナアラブ最大の町で、ここからもイスラエルへのテロリストが多数出ていて、日本のテレビでも時々この町が放映されている。運転手はアラブ人のフィベだがタクシーはイスラエルの会社のものなので、ナンバープレートの色でそれがわかる。

 フィベはサマリヤ地方を通り抜けて車を走らせるのだが、アラブ人の町や村の無い道を選んで走るのだ。そうしないと石を投げつけられたり、何が起こるかわからないからである。幸いなことにこの日の朝は雨でトゥルカルムの町中に人影があまり見られなかったので私たちは無事に通過できた。

 タクシーは南東方向に進み、サマリヤの山の中の道を走る。はじめて走る道なので(フィベは知り尽くしているが)私にはどの辺りを走っているのかさっぱり判らない。高い丘の頂きで小休止をし、山並みを眺める。そこで記念写真を撮ってもらった。

 巨大な建物跡の一部らしい石が残されている。車は峠を下り始めるが、南に進むごとに山肌が茶色っぽくなり、緑が減ってくる。そして平地にたどり着くと、そこはエリコの旧約時代の遺跡(テル)であった。そしてS師が入場料を支払って下さり、そのテルの上にのぼって行った。

エルサレムへの旅(1)

 いよいよ明日からは二泊の予定でエルサレムに出かける。深夜だが、そのための荷造りなどをして備えた。その後に帰国する他の三人は、帰国後のイースター礼拝の聖餐式用の種なしパン(マッツァ)を分け合って持ち帰る備えなどもしていた。

 3/19(土) 安息日、明け方から雨が降り始めた。7:40 アラブ人運転手フェミ氏のタクシー(9人乗りのベンツ) に私たち四人とフェミの奥さんも同乗してキブツを出発する。南へ少し走るともうそこはヨルダン川西岸地域でパレスチナ人地区である。道幅は広く一応舗装されているが両端は整備されておらず、1950年代の日本の道を思い出す。

 早朝のためか人の姿は見えない。車はすぐに或る家の前に停車し私以外の三人は下車してその家に入っていった。土産としてアラビックコーヒーの豆を買うのだ。S師はアラビックコーヒーの出し方をフェミから聞いてメモを取っていた。 1.5kgで15シェケル(約600円)、安い買い物だ。車は更に南下しトゥルカルムの町中を走り抜ける。雨のせいか町は薄暗く人影もまばらで、道幅はとても狭い。

ツアーの人々との団体生活(102)終

 この日の夜はヘブライ語会話講習の三回目(20:30~21:40)。もう体が疲れ切っていて頭も休止状態で、睡魔と闘い続ける。その後に反省会をしてキブツの友人たち一人一人のために祈る。

 3/18(金)5:30起床。早朝の作業はバナナ畑での木の手入れ。朝食後はパッキンケース(バナナ出荷用)作り。今日は金曜日で午後の仕事は無い。昼食後洗濯をし、夕方4時からヘレナ宅を訪ね娘さんたちに折り紙を伝授する。安息日の夕食はいつもより豪華である。

 しかし牛肉の煮物はいただけない。ユダヤ教式の血抜き肉のためスカスカで塩っぱい。じゃがいもの丸ごとのフライは美味しかった。ツアーの人々は今日でこのキブツでの労働が終了する。明日からはエルサレムで二泊し、観光してからロンドンに向けて発つ予定である。

 それで夕食後は私以外の三人はキブツの友人にお別れの挨拶回りに行った。私は洗濯物の片付け。夜の反省会で、最近キブツ周辺でジャッカルが出没し、近くの帰人が噛みつかれたり、飼い猫がいなくなったりして警察官がキブツに情報を集めに来ているが、未だ解決していないという。

ツアーの人々との団体生活(101)

 そのシャロンの草原の中にベドウィン(遊牧民)の大きなテントが二張り立てられている。すぐ側には彼らの定住用の家屋もあった。周囲には牛や羊などの家畜が放牧されており、のどかな牧場の風景があった。

 イスラエル国内に住む遊牧民に対してイスラエル政府は定住化を推進しようと働きかけており、その支援もしているという。ここのベドウィンもそれを受け入れて家屋を建てたのであろう。昔は自由に遊牧できた彼らも近年は多くの国境に阻まれ、自由往来が利かなくなってしまった。

 そこからすぐ北西にイスラエル軍の野外記念劇場広場があり、そこの戦没者追悼施設の塔に上った。その石壁には独立戦争(1948年)から今日までの戦没者の氏名が刻まれている。そこで周囲の風景を眺めてからキブツに帰った。

 そして休む間もなくバスでハデラ市内に出向いた。先ず郵便局へ行って日本に電話をかける。局内の電話を利用するのだが混んでもいないのに25分も待たされた。料金は1200円。その後、ショッピングセンターなどで買物をした。グレープフルーツ(ルビー)5個70円、セロリ一株80円、イスラエルの道路地図の本(新書サイズ)1400円など。 キブツへはタクシーで帰った (1000円)。

ツアーの人々との団体生活(100)

 アラブ人の老人とヨハナンが穏やかな口調で会話を交わしているが、何を話しているのか、その内容はさっぱりわからない。30分ほどお邪魔をしたがその間老人の奥さんがオレンジのドリンクとアラビアンコーヒーを出して、もてなして下さった。

 そのお宅をいとまごいしてからアラブ人の村の中を車で見て回った。ヘロデ王時代の遺蹟も残っている。水だめ用の井戸も2基あり、どちらも2千年以上も前のもので、40年前まで現役として利用されていたのだという。一基は空で、もう一基は満水状態で外まで水が溢れていた。どちらも中はゴミだらけである。

 現在はイスラエルが水道を設置したので、もう使用する必要がなくなったのである。パレスチナ人地区の電気、水道、ガスなどのライフラインの多くはイスラエル側から供給されている(ガザ地区も同様)。

 その井戸の側には、イスラムの名のある人の古い記念堂があり、棺が安置され祈り場となっていた。そこから少し行くとシャロンの野原。春菊、ひな菊など、黄色・ピンク色などの絨毯を敷き詰めたようだ。イスラエルでは春菊はあまりにもありふれた野草のため名前がないのだそうで、主イエスも春には、春菊をご覧になっていたのは間違いないという。

ツアーの人々との団体生活(99)

 3/17(木)早朝はバナナ畑の木の手入れ作業、枯葉の除去と雑草刈り。朝食後はビワ畑での摘果作業、一房(枝)に果を2個だけ残す。

 この日、昼食後は作業を止めて、バナナ畑で働いているアラブ(パレスチナ)人のご老人の家を訪問することになった。ヨハナンが車で連れて行ってくれる。マアニットからアフラ街道(65号線)に出てアフラ方向(北東)へ少しばかり走って右折。もうここはアラブ人の村で標識はほとんどアラビア語で村の名前も読めない。ユダヤ人地区とは違って道は舗装されておらず、私の子供の頃の村の雰囲気を思い起こされる情景だ。

 そのご老人が出迎えて下さり、細い道脇のそう広くない庭のベンチに全員腰を下ろした。そこにはかなり大きく育ったいちじくの木が葉をいっぱい繁らせており、他に木が数本あったが草花などは一切植えられていない。犬が一匹つながれており、鶏が飼われている。ベンチのすぐ横にはパンを焼くための土造りの釜があり、年代物である。釜の内壁に練り粉をはりつけて焼く古いタイプのものだった。

ツアーの人々との団体生活(98)

 この日の夕方はみんなでヨハナン宅を訪ねた後、食堂で夕食をとり、他国のヴォランティア仲間に折り紙とコマ回しを紹介し、楽しい交流の時を過ごした。又、この日、道端に植えられているいちじくの木にいくつかの青い実がついているのを見た。主イエスが受難の週に葉の繁ったいちじくの木を見て実を捜されたが見つからなかったことが聖書に記されている(マタイ 21:18,19)。マルコ福音書では「いちじくの季節ではなかった」(11:13)とある。

 キリストの受難はユダヤの過越の祭りの頃なので、毎年3月〜4月である。今日は3月16日だからその季節に入る頃である。マルコが書いたように本当にこの季節は実がないのか、と気になっていたのだが、実がついている木もあることを確認することが出来た。しかし実は未だ青く硬いもので食べるには適してはいない。ただそれだけのことなのだが、疑問に思っていたことの一つが確かめられたのは収穫である。

 日本の家族からの手紙(3/2付)が届いた。航空便で14日も要っている。イスラエルの郵便局の仕事ぶりは極めて緩慢なもので市民へのサービス精神はほとんど見られない。

ツアーの人々との団体生活(97)

一昨日ハバとヘレナが私のヘブライ語の学習のために取り計らってくれていた件がだめであったという連絡があった。そのキブツのウルパン(ヘブライ語教室)が「神の幕屋(原始福音)」グループ専用で一般は受け入れないということである。「神の幕屋」グループとは無教会系の異端的教派である。

 聖霊体験をキリストの贖いと規定し、十字架の死による贖い(罪の赦し)は弟子たちの創作(捏造)として否定する。仏教や神道など日本文化を尊いものとし、歴代天皇や歴史的人物もキリストを信じなくても救われると教える。ユダヤ人にもキリストの救いは伝えない。すでに聖なる民だから。(万人救済説の立場の団体と思われる。)

 この団体はユダヤ人とイスラエルの中に深く入り込んでいて、或るキブツと提携している。その中に神学校に類するものを作り、若者にヘプライ語を修得させているのである。このグループの人々の多くはとても真面目で信仰に熱心な人々である。私のイスラエル滞在中にこのグループの人々の集団を各地で見かけた。

ツアーの人々との団体生活(96)

 M姉の困惑に対して、今、私が思い起こすのは、次の主イエスの言葉である。「もし『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう」(マタイ 12:7)。

 私は以後S師をつまずかせないように振る舞うべく努めた。しかし後日、聞いたことだが、S師は私たちが不倫を行っていると他のメンバーに語っておられたという。残念なことだ。私の皿から取って味見をしたのはM姉だけでなくK婦人牧師も同様になさっていた。

 それなら、私はその人ともそういう関係ということになる。こういう事由によりS師、K師、M姉は匿名にしたのだ。信仰の立場が著しく異なる人々との共同生活の難しさを思い知ることとなった。とにかく、このツアーのリーダーはS師なので、S師の前につまずきとなるようなことは控えるように注意しなければならない(ローマ 14:13~15:3)

 私はM姉が気の毒でならなかった。高額なツアー料金を支払い、きつい労働をし、その上、このような精神的苦痛を強いられ…。この日、更に残念な知らせが私に届いた。

ツアーの人々との団体生活(95)

 緑に包まれたのどかなシャロンの野の真中で日本人牧師に関する相談を聞いている私。同労者に対するこのような相談は日本でも何度か経験しているが、イスラエルでは想定外である。しかし人が共に生きる限りこのようなことは常に起こり得ることだ。

 M姉に対して私がどのように言ったか、残念ながら日記に書き残していないし、私の記憶も定かではない。この種の相談を受けた時のコメントには注意を要する。S師の批判をするのは簡単だが、「各自で、自分の行いを吟味してみなさい。互いに重荷を担いなさい」(ガラテヤ 6:4, 2)と奨められている。完全、完璧な人(牧師)など存在しないのだ(もちろん私も含めてのこと)。

 「食べる人は主のために食べる。また食べない人も主のために食べない。そして神に感謝しているのです」(ローマ 14:6)。お互いの信仰は尊重されねばならない。だから安易な批判は慎まねば私自身が違反者になってしまうのである(福音の根幹に関わる以外は)。

ツアーの人々との団体生活(94)

 M姉は20歳台後半で、ご主人と二人で中部地方在住の方である。このキブツツアーには昨年に続いての参加で、昨年以前にも何度か参加している常連だ。しかし体はそれほど丈夫ではないらしく、キブツでの作業も時々休まれていた。今籍のある教会には事情があって出席せず、別の教会に通っていて精神的にもナイーブな方らしい。

 その彼女がS師に内密で話を聞いて欲しいと言われるので物見の塔で会うことにした。彼女が話したのはツアーリーダーであるそのS師のことであった。朝食の時、私の皿のチョコレートを彼女がスプーンで少し取って味見をしたことを厳しく咎められたのだという。

 「既婚者はどんなことがあっても異性の体や物に触れることは良くない。私は家内以外には絶対触れない。たとえ目の前に溺れている女性がいても私は手を出して助けることもしない」というのである。昨年来た時にも彼女の上着が他の男性の上着に重ねて置いてあっただけで厳しく注意されたとも言った。

 彼女はこれらについて私の意見を求められたのだ。(そして私自身もS師から非難の対象になっていたのだ)。

ツアーの人々との団体生活(93)

 3月15日(火)今日は初めてガーデン(庭)での仕事。6:30より植樹の保護ネット張り。朝食後8:30より除草。最も厄介な雑草は茨で、刺の長さが 3~4cmもあり、数の太さも尋常ではない。こんなものを編んで冠とし頭に被せられその上から棒で叩かれたらと想像するだけでぞっとする。

 昼食後12:40からはバラの木の枝払い。この作業で手に刺が何度もささり、傷だらけになった。この日の夕食はヴォランティアのスペシャルディナーだったが、エリエゼル宅に招かれていたので日本人だけで簡単に食事を済ませた。

 エリエゼル宅ではテレビを見ながらケーキとコーヒーを頂いたが、特にこれと言った会話をすることもなく、エリエゼルがどういう人なのか、私には良く分からないままに終わった(英会話が出来ない悲しさ!)。

 3月16日(水」この日もガーデンでの仕事。高さ2mほどに育った杉の木の枝刈り。日本式に刈り込むとキブツの老人たちから礼を言われた。ただ剪定はさみの取手部分が木ではなく金属で恐ろしく重いもので開口した。この日の作業後M姉から相談を持ちかけられた。

ツアーの人々との団体生活(92)

 ヘレナ宅へ5時すぎに訪ねるとハバも居た。私がヘブライ語を学びたいと願っていることを知っている二人が真剣に考えて下さっていたのだ。「ヘブライ語学習で最も重要なのは、ヘブライ語以外の言語を一切使用しない環境の下に行くこと」とヘレナは語り、紹介は可能だとも言ってくれた。正規のルートでは無理だがハバの友人が居住しているキブツなので大丈夫だという。

 そのキブツにはウルパン(ヘブライ語会話教室)があり、ウルパンで学ぶヴォランティアの仕事は午前中だけで午後はヘプライ語の学習をする。私にとっては願ったりかなったりである。ニ人の厚意に感謝した。この後ヘレナの子供たちに折り紙で飛行機と紙鉄砲を作ってあげるととても喜んでくれた。

 この日の夕食はS師が日本より持参した即席ラーメンに玉葱、玉子、菜っ葉を入れて食した。夜の反省会ではそれぞれの「感謝」を語った。

S師「体調が良くなってきた。今日は最も楽しかった!」。

宮本姉「友を得る祈りがK師という最も頼れる方を与えられて、かなえられた」。

M姉「体が支えられ、騒がしいキッチンの仕事場でも密室(祈り場)がもてること」。

私「ヘレナとハバの厚意(へブライ語学習の道)」。

 この夜、9:40に就寝。

ツアーの人々との団体生活(91)

 夜の反省会で明朝K師がイスラエルを発ち、ローマ、ロンドンを観光してから帰日されることを聞いた。「イタリアは泥棒が多いので気を付けて下さいね」と全員が冗談混じりに忠告したが、後日、ローマでK師が盗難に遭われ、パスポート、財布、カメラなど一切盗まれたと、S師より聞いた。お気の毒であった(しかし後日、私も財布を盗まれる被害に遭う)。

 この日の夜突如として大粒の雹(ひょう)が宿舎の屋根をカンカンと打ちはじめ、それに続いて大粒の雨が激しく屋根を打ち付け雷が鳴り続け大荒れとなった。これが夜なか中続いた。翌朝4:15にK師はタクシーでキブツを離れ空港に向かわれ、アリーザも空港まで同伴した。

 この日は日曜日だが、イスラエルでは平日、6:30~14:30アボカドの収穫作業。この日は不思議なことにK師の出発時と畑仕事中は降雨せず、朝食、昼食中と仕事が終わって部屋に戻った後は雨であった。15:45より聖日礼拝の時を持った。この日は疲れていて夕食後19:00には床に就いた。

 翌朝3/14(月)は 4:35に起床、日本への手紙二通書く。この日はバナナ畑での作業を終えて、手紙をもう一通書いてからポストに投函、その後 ヘレナ宅を訪れた。

ツアーの人々との団体生活(90)

 先年あすか野教会でハイキングをし京都に行った時、南禅寺を訪れた。境内を歩いて行くと、どこかで見たことがあるような建造物が前方にあった。

 「カイザリヤで見た導水橋に似ているな」と私が言うと、妻が「きっとそうよ」と言う。石造りのアーチ状の土台の上を下から見ると鉄道の線路のよう見える。その下をくぐり抜けると、右手に階段があったので上まで上ってみた。すると、それはまさしく水路で、澄んだ水が勢い良く流れていた。私は思わず歓声を上げてしまった。

 上部の構造もカイザリヤで見たものと全く同じである。記念に写真を撮ってから下へ降りると、看板があり説明書きが書かれていた。ローマの導水橋をモデルにして建造された事情などが書いてあった。これなら十分飲料水になると思った。

 パウロやペトロ、そしてフィリポとその家族たちは、このような水を飲料水としていたのか、と思うと、彼らとの時代の距離が縮まったような気がした。

 カイザリヤで私たちは雷と強い霰(あられ)に見舞われ、ずぶ濡れになってキプツに帰った。

ツアーの人々との団体生活(89)

 「百聞は一見にしかず」でイスラエルで見た数々の遺跡を文字で説明するのはまことに難しい。読者も読むだけでは、なかなか想像が困難だと思う。この週報で写真が添付できれば一目瞭然なのだが…。今はキリスト教書店に行けば、イスラエルの写真集が何種類も入手出来るので、興味を覚える方は是非それらを手にいれて下さればと思う(又、DVDやVTRもある)。

 カイザリヤの導水橋も「一見にしかず」で、実際に現場で見るとその規模の大きさに圧倒されてしまう。又、その技術の素晴らしさや、ヘロデ大王の権勢がどれほどのもであったのか、ペトロやパウロが訪れた当時のこの町がどのようであったか、その背景が見えてくる。

 聖書には環境、風景、気候などについての記述は皆無である。しかし、ペトロもパウロも文章の中に生きた人ではなく、現実の世界(町や村)に生き、食べ、眠り、労していたのだ。私たちとは別世界の人ではない。それを実感しつつ聖書を読む時、時間を超えて、ストレートに迫ってくるのを覚える。

ツアーの人々との団体生活(88)

 カイザリヤの発掘現場を通過すると十字軍時代の遺跡群の場所があり、そこを見学してから、東方向に歩いて行くとビザンチン時代の街道跡が発掘されている。その街道脇の一角に赤色と白色の首のない像が互いに向かい合って残されてある。白色像の首は折れて失われており、もう一方は首を取り替えられるように造られてある。

 ヨハナンの説明によれば、折れている方はゼウス(神)像、他方は皇帝像であるという。皇帝が代わる度ごとに頭部を新皇帝のものに差し替えたという説明に私たちは納得できた。更に東に行くと口ーマ時代の戦車競技場遺蹟があり、映画「ベン・ハー」の有名な戦車競技シーンは、ここで撮影されたというが、私たちはそこ迄は足を向けなかった。

 その後、車で北へ5分ほど移動し、ヘロデ大王が建造した導水橋遺蹟を見た。カルメル山から水を9kmも離れたカイザリヤまで水を流す立派なものだ。京都の南禅寺にある導水橋はローマ時代のを模したもので、現在も水が流れている。イスラエルに行かずとも京都で現役の導水橋を見ることが出来るのだ。

ツアーの人々との団体生活(87)

 カイザリヤの半円形劇場の最上階に上ってみた。石造りの階段を頂上までのぼるのもひと苦労である。息が切れ汗がにじむ。上から舞台を見下ろすと舞台上の人は小人 (こびと)のように見える。

 ツアーの女性の一人がそこで大声をあげて讃美歌を歌うと、最上階まで、とてもよく聞こえたのは驚きであった。又そこからの眺望も素晴らしい。正面(西)は、すぐそこに地中海、左側(北)は美しい海岸線とローマ時代の発掘中の遺蹟群、その向う側には十字軍時代の数々の建造物、そして遥か彼方にはカルメルの山並みが劇場の後方(東)まで連なっている。

 私たちは海岸沿いを北側に歩いて行った。右側の方向は発掘中なので幕が壁のように張られていて発掘現場を見ることはできなかった。ここからはローマ時代の硬貨(金貨も含まれる)が多数発掘されていて、その一部がここの食堂下の売店で売られていた。

 この海岸にはきれいな貝殻がよく打ち上げられてくるということで、みんな下を見ながら歩いた。するとK姉がこぶし大のきれいな巻き貝殻を見つけ、ヨハナンは「これは見事なものだ」と感心していた。

ツアーの人々との団体生活(86)

 このカイザリアには使徒ペトロがローマの百卒長コルネリオ邸を訪ねて来ている(使徒10章)。パウロも伝道旅行の帰途に立ち寄り、その後この町で2年間幽閉され、この港からローマへ護送されて行ったのであった(同18:22,23, 19:8,23:33~)。

 私たちはカイザリア(遺跡)国立公園の入口で入場料を支払い、英語のパンフレットを一部もらって広大な公園に入場した。先ず海辺に向かって左手にある巨大な半円形野外劇場に向かった。この劇場の直径は約180m、高さは約30m、収容人数は4千人に及ぶ。

 こんな巨大な建造物が砂に埋もれてしまっていたというのだから驚きだ。ベテシャンにも同様のものが発掘されている。ここでは残虐な見せ物、人間とライオンとの闘いや剣闘士の殺し合いなどが行われており、客席の下には今も、ライオンが入れられていた檻や剣闘士たちの待合室が残されている。

 舞台の周囲はライオンが観客席に行けないようにプールで囲まれている。ペトロやパウロもこの劇場を見たことは確かであろうがここで見せ物も見たのであろうか(I・コリント9:26)。

ツアーの人々との団体生活(85)

 ドフ氏からキブツの話を聞き終えて私たちは昼食までの時間、近くの丘を散歩した。春の野花の絨毯の上で心ゆくまで楽しんだ。「シャロンの花イエスきみよ」の賛美が自然と口から湧き出てくる。ぎっしり詰まったスケジュールの日々を過ごしてきた私たちにとってまさに安息の時であった。

 昼食後、午後1時からヨハナンが私たちを車でカイザリアの遺蹟へ案内してくれた。カイザリアはテルアヴィブ・ヤッファ(ヨッパ)の北約50kmの地中海沿岸にある古代遺蹟で、現在も発掘が続行中である。

 イスラエルではキサリアと呼ばれ、現在は遺蹟周辺に高級住宅地が造成され、政府高官らの面々が住んでいるそうだ。カイザリアはガリラヤ湖畔の町ティベリアと同様、イスラエルでは新しい部類に属し、その歴史は旧約聖書の時代にまでは逆上らない。

 紀元前3世紀頃はフェニキア人の小村であった。その小村をヘロデ大王が壮大な港町に改築したのは紀元前10年のことで、主イエスの誕生数年前のことである。その後約500年間ここにローマ帝国の総督府が置かれ、ポンテオ・ピラト、フェリクス、フェストゥスなどの総督たちが福音書、使徒言行録(24:27)に登場している、ここからは ポンテオ・ピラトの名入りの碑が発掘されている。