エルサレム独り旅(16)

 発掘されたヘロデ王時代の数々の遺蹟を見ながら糞門の前を通り過ぎて、なお城壁伝いに歩いて行くと同様の遺蹟が発掘されている。更に城壁の南東の角近くは、城壁が北へ数十メートル 90度の角度で折れ、そして又、数十メートル東に続き、キロドンの谷の手前で旧市街の南側の城壁へとつながってゆく。

 この辺りは数多くの発掘物を見ることが出来るが、道路側からは柵があって中へ入って見ることはできない。ここは、旧約時代には、オフェルと呼ばれていた場所でエルサレムの要害であった(歴代下 27:3、33:14、ネヘミヤ3:26,27、11:21)

 ここは神殿で働く人々が住んだと書かれている。現在ここは城壁の内側も含めて南の壁考古学公園となっている。私はそこから更に北側へ南壁に添うように歩き続け現在は閉じられている黄金門のすぐ前まで歩いて行った。

 この周辺はアラブ人と思われる多くの古い墓石が立てられている。黄金門はアラブ人によって石のブロックで完全に塞がれている。私は更に城壁に添って北のステファノ(ライオン)門まで歩いて行った。

 この門の上にライオンの像が刻まれているのでライオン門と呼ばれているが、この門外でステファノが殉教したことからステファノ門とも呼ばれている(使徒 7:54-60)。

エルサレム独り旅(15)

 神殿詣のための水浴による体を清める行為はキリスト時代のユダヤ教では当然の義務とされていた。三大祭の際には何十万人もの参詣者が訪れたエルサレム神殿には、その周囲にかなりの数の水浴(沐浴)のためのプール(ミクべ)が必要であったと思われるが、この発掘跡にはそれを物語るように多数のミクべを見ることが出来る。

 岩を刳り抜いた横長の洞穴の入口の天井の高さは1mほどしかない。横幅は数メートル。入り口の部分から奥は石段が数段下り、その奥が水槽になっている。すべてのミクペには現在は水がないので、体を屈めて中まで入ってみた。かなり狭く窮屈な空間だ。

 天井が低く立ち上がることが出来ないので、こんな所に何人もの人が次々と水に浸かるのは、さぞ大変なことだったろう。水はすぐに不潔になったであろうから清めるというよりもかえって体が不潔になったのではなかろうか。うわべだけの単なる儀式がいかに空しいものであるか、ということを思い知らされる。

 当時のユダヤ教では外出から帰宅した時にも足を洗い、食事の際には手を洗うことが義務づけられていたようだが、それは「衛生上」のことよりも「宗教上」の行為であった。清潔な水を得ることが、現在よりも困難な時代にはなお更のことだ(ヨハネ13:5、ルカ7:44、マタイ 15:2)

エルサレム独り旅(14)

 6/18(土)朝5:30に宿を出て旧市街のヤッフォ門まで歩いてゆく。まだ車も少なく、朝靄がかかっている。旧市街手前の交差点を渡る時、ちょうど朝日が東の山から上ってくるところであまりの美しさに立ち止まってしまった。新門やダマスコ門、ヘロデ門に通じる道路の中央辺りからの日の出はまさに絶景でカメラに納めた(スライドフィルム)。

 私はそのまま南へ真直ぐ昨夕歩いたヤッフォ門前まで歩いて行った。昨夕はそこからベンヒノムの谷へ下りて行ったが、この日は旧市街の城壁に添って城壁のすぐ脇を歩くことにした。

 ヤッフォ門の外側を城壁伝いに南へ歩くと、そこは雑草の生える凸凹の地でこの辺りは未だ発掘はされていないようだ。しかし、しばらくそのまま門の方へと進んでゆくと、途中から発掘された数多くの遺跡を見て歩くことが出来た。ここぞという場所のあちらこちらに金属のプレートが立てられていて簡単な英文で説明されている。

 全ての建造物は地面から 50cm程の所の上は破壊されて何もなく、床とその少し上の部分だけが残っている。その多くは英語で「Bath.BC.1c」と録されている、エルサレムの宮詣に来る人々が体を清めるための「ミクベ」と呼ばれる水浴場である。(ヨハネ 13:4-10)

エルサレム独り旅(13)

 聖書には「アブサロムは生前、王の谷に自分のための石柱を立てていた。跡継ぎの息子がなく、名が絶えると思ったからで、この石柱に自分の名を付けていた。今日もアプサロムの碑と呼ばれている。」(サムエル下 18:18)と書かれている。

 現在あるこの碑は紀元一世紀頃のものと推定されているとのことで、再建されたものであろうか。それでもその前に立つと圧倒される迫力を感じ、古い時代に引き戻されたような錯覚に陥る。周囲には私の他は誰れも居らず自分は今ダビデ時代の王の谷に立っているのだという不思議な感動を覚えた。

 ふと気が着くと、周囲は夕闇に包まれ始めていたので急いでここから立ち去らねばならない状況になっていた。そこで急いで左側の急な斜面を両手をついてよじ登り、ずり落ちそうになりながらも何とか旧市街の城壁添いの道路にたどり着くことができた。

 そこから城壁に添ってヤッフォ門に向かって歩いて行ったが夕闇が迫ると城壁がカラフルにライトアップされ幻想的な雰囲気になった。ヤッフォ門に近づくに従って若いカップルとすれ違うようになり、彼らはこの幻想的な光景を楽しんでいるようである。一気に現在に戻され、そこからホテル(安宿)までの道は車の激しい往来と店舗の光の中、まさに現代のエルサレムそのものであった。

エルサレム独り旅(12)

 この大きな石塔はユダヤの言い伝えでは「ゼカリヤの墓」と呼ばれているもので厳密な時代考証などは行われていないようだ。紀元前2世紀頃のものという説から 4~5世紀のもの説があり、さまざまである。

 ユダヤ人は預言者ゼカリヤ(祭司エホヤダの子、石打され殉教した。歴代下24:20-22、マタイ 23:25)、クリスチャンたちはパプテスマのヨハネの父、祭司ザカリヤ(ルカ1:5)の墓とみなしているという。下の部分は高さ5m、横幅と奥行きは共に4mほどの長方型でその上にピラミッド型の屋根がついている。

 この墓の両側には崖の中央ぐらいの所に窓枠のようなものがついた洞窟が掘られている、右側のものは前回不明と書いたがその中には26の棺室があり、ユダヤ人たちは預言者ハガイやマラキたちの墓としているそうだ。

 左側のものは、この中から発見された碑文によりヘロデ王時代の祭司へジル家のものと判明している。又、それ以前にはユダの王アザルヤが重い皮膚病で隔離された部屋がこれであるとも伝えられている(列王下 15:5)。

 確かにギロドンの谷を挟んで向かい側はダビデの町であるのでその可能性がゼロとは言えない。更にその北側へ歩くとアプサロムの塔と呼ばれている大きな石造物が立っている。トンガリ屋根がついていて高さは十数メートルもあるだろうか。

エルサレム独り旅(11)

 現在のシロアムの池はビザンチン時代の一部が残ったものであり、最近になってここのすぐ南側から新約時代のものと見られる遺跡が見つかり現在発掘調査されているとの情報があった。(イスラエルツデイ誌)。

 キロドンの谷に戻って更に北に向かって歩いてゆくと左側にギボンの泉がある、現在の泉はコンクリート製(?)の箱型の建物の中にあるので一人で見るのは止めにした。

 この泉でダビデ王の息子ソロモンが祭司ツァドクと預言者ナタンによって油注がれて王に即位した事が列王記に録されている(上1:45)。

 ここから更に北へ上って行くと今度は右側に古くて大きい建造物に遭遇する。崖の岩をくりぬいて造ったもので、少なくとも4ヶ所確認できる。最も南側には高さ 10mぐらいの所に窓のようなものが並んで 3~4掘られており、その奥が部屋のようになっているが、これについてはどのガイドブックにも何の説明も書かれていない。

 それに隣接して左側に大きな墓のような建造物が立っている。幅8m、奥行8mにわたって岩がくりぬかれ、その中央に大きな墓石のようなものが掘られて立っている。

エルサレム独り旅(10)

 シロアムの池の水は薄茶緑色で濁っていた。深さは30cmほどであろうか。案内の若者が「トンネルの中を歩くか?最も深い所は胸のあたりまで水が来るので、荷物は持っていてやる」と言ったが私は「ノーサンキュー」と言って断った。

 トンネルの長さは 533mもあり、ギホンの泉まで通じている。中は真っ暗で懐中電灯がないと危険であるとパンフレットには書かれている。このトンネルは紀元前700年頃、アッシリア帝国の攻撃に備えてユダの王ヒゼキアがエルサレム城内の水を確保するために掘らせたもので、1880年にこのトンネルの中で工事に携わった職人が書き残した落書き(シロアム碑文)が発見され、その史実が証明された(列王下20:20、歴代下32:30)。

 重要な遺蹟なので本心は歩いてみたかったが、この夕刻にこの暗い中を衣服や靴もずぶぬれになること、この初対面のアラブ人の若者が信用できるかということもあって断ったのだ。旅行の体験としては最高のものとなったであろうが、あまりにもリスクが大きすぎた。それで若者と別れてキドロンの谷に戻った。

エルサレム独り旅(9)

 死海への道は蛇行しながら急な下り坂となって東の方へ向かっているが、100m先に右側に曲がっているので、その先は見えない。乾期なので道は白っぽく、また埃っぽい。三叉路に立った私は北のキドロンの谷の道へと進んだ。これからは登り坂だ。

 左側の崖は旧約聖書時代のシオンの丘、ダビデの町、エルサレム神殿に通じ、右側の崖はオリーブ山の南端の丘陵である。右側の崖にはアラブ人の住居、薄茶色の四角い建物が崖にへばり付くように、ぎっしり立ち並んでいる。

 少しばかり歩いて行くとアラブ人の若者が英語で「私がガイドしてやる」というのでついて行くと、キドロンの谷から左に外れて50mほど坂道を上って行った。すると右側に金網の柵があり、その奥の下方向にプールのような小さな四角い池(水槽)のようなものがある。石造りで水汲み場もあり池の中には丸い飛び石のようなものが3ケ置かれている。

 プールの長さは約10m、幅は3mほどで小さい。池の向う側はトンネルになっていて、その入口部分はきれいなドーム型である。彼は柵を開け無人の池へ私を案内して行った。ここがシロアムの池であった(ヨハネ9:7~11)。

エルサレム独り旅(8)

 アケルダマは ベン・ヒノムとキドロン両谷の合流地点の南西崖の上にあるのだが、ここに来るまでこの場所が現存するなど全く知らなかった。この地は現在考古学的にも同定されている。

 使徒言行録でペトロが「主イエスを裏切ったユダが不正で得た報酬で取得した地で転落事故を起こして死んだことそこがアケルダマ」と語っている。(1:17~19)。マタイ福音書では別の報告を録している(27:3~10)が、どちらにしても12弟子のひとり、イスカリオテのユダと関わりのある場所だ。

 「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」(マルコ14:21)と主イエスに言われたユダと関わりのあるアケルダマがゲヘナの谷に隣接する場所にあることを知り、神の無言のメッセージを聞く思いがした。

 この場所からキドロン川が地球上で最も低い湖、死海に直結する谷となっていることも意味深長である。その分岐点に立って、死海の方に下ってゆく道を眺めながら、死海まで歩いて行ってみたいという強い衝動に駆られたが、夕刻であったので理性が押し止めた。

エルサレム独り旅(7)

 危険予防の為に旧市街の城壁と反対側の急な崖をよじ登ってヒンノムの谷の上に出た。上から見下ろす谷の底は木の枝の隙間から所々地面が見える。谷の上は雑草と岩と石の凸凹の地で、谷に転げ落ちないように腰を屈め手をつきながら用心しつつ進んで行った。

 谷底の所々に洗濯機や冷蔵庫が捨てられて転がっているのが見え、又ゴミを焼却した跡も見られた。自動車までも捨てられており、生活排(廃)水が垂れ流されていて、今も昔もゴミ捨て場になっているようだ。

 南に行くほど向かい側のエルサレム旧市街の城壁は遠のき、やがて見えなくなった。その先は谷が徐々に東に曲がってゆく。向こう側はシオンの丘だが、よく確認できなかった。更に進んで行くとキロドンの谷との合流点に着く。

 その合流点の南西角の上がアケルダマだが、何の標識もなく、ただ古い建物の基礎部分が残っているだけであった。それが何であるか分からなかった。そこから崖を下って谷に降りて行った。この辺りの谷底は人が歩いて通れる道になっていた。東北はキドロンの谷の道、北西はベン・ヒンノムの谷、そして東へは死海に通じる道(ナハル・キドロン、キドロン川)である。

エルサレム独り旅(6)

 エルサレム旧市街の西側の城壁に添うようにして南方向へヒンノムの谷を下ってゆくと、谷は少しずつ深くなってゆく。芝が敷かれている辺りを安宿で得た地図で確かめてみるとミッチェルガーデンと録されていた。

 更に南に行くと芝は無くなり尖った岩や石が散在する。正に谷底という景観を体してくる。この辺りの周囲は木々に囲まれさながら林の中だ。左側の上を眺めると、木の向う側のはるか上方に城壁が見え、谷がかなり深くなってきていることが判る。

 右側の崖の上の方を見上げると幾つもの穴があり、それぞれの穴は、自然の物か人工のものかよく判らないが横幅約50cm、高さ1m、奥行き50cmほどで全ての穴の天井部に煤のような物がこびりついていて黒くなっている。ここで何かを焼いた跡のように見える。

 まさか2500年前の偶像礼拝の跡ではあるまいと思うが、興味津々である。更に進んでゆくと谷はいよいよ深くなり、辺りが薄暗く、気味悪くなり、心が穏やかでなくなって来た。

エルサレム独り旅(5)

 今から 2500年前のヒンノムの谷の焼却場のゴミは既に燃え尽きて、現在はその火も跡形なく消滅している。これは確かめるべくもない事実なのだが、私はあえて自分の目でしかと確かめたいと思ったのだ。

 マルコ福音書には「地獄の消えない火の中に落ちるよりは…地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」(9:44、48)という微妙な表現が成されている。焼却場の火は焼かれる物が焼き尽くされるまでは燃え続け、蛆も尽きないが、焼き尽くされれば消える。

 マルコの福音書のこの箇所でも原語(ギリシャ語)ではゲヘナである。ルカ福音書でも「(麦の)殻を消えることのない火で焼き払われる」(3:17)とある。実を結ばない枝も同様だ(ヨハネ15:6)。これらは焼き尽くされ消滅してしまう事のヘプライ的表現なのだ(イザヤ 34:9、10、エレミヤ 17:27)。

 エドムの地もエルサレムのかつての門を焼き尽くした消えることのない火も今は消えている。(ヘブライ 10:27、12:29を参照のこと)。元来聖書にはない霊魂不滅説(ギリシャの思想)の影響を受けしまった人々が「滅びる人々は永遠の時を地獄の火の中で苦しみ続ける」と思い込んでしまい、今もそのように信じている人々が多い。私は今、アドベントの条件的不滅のルーツとなった場所を自分の足で歩こうとしているのだ。

エルサレム独り旅(4)

 シオン門前からヒンノムの谷の中ほどまで降りて行き、舗装道路から左に外れて芝の上を南側に降って歩いて行く。

 ヒンノムの谷を散策しようとする人は一人もおらず、ましてや観光コースでもないので旅行者もなく、ここからは全くの独り歩きになる。案内地図もなく唯ひたすらに谷を歩くだけだ。

 何故この谷にこだわりがあるのか、それは私達アドベント・クリスチャンが信じている信仰に関わりがある場所だからだ。

 アドベント教理に条件的不滅という信仰理解がある。主イエスを救い主と信じ受け入れる人に神は永遠の命をお与え下さると約束して下さっているが、この恵みを信じない人は滅びると聖書に明記されている。(ヨハネ福音書 3:16)

 この「滅びる」とは地獄(ゲヘナ)で焼き尽くされて消滅すると信じているのである(マタイ福音書 10:28)。この地獄の原語「ゲヘナ」がへブライ語では「ヒンノム」、「ベンヒノム」の谷なのである。この谷でユダの王が偶像に息子や娘を人身供犠としてささげ(歴代下28:3、33:6、列王下23:10)たため、エレミヤは、ここが「殺戮の谷と呼ばれる日が来ると予言している(エレミヤ7:31.32、19:5.6)。後にゴミの焼却場となり。日夜、火が燃え続けていたという。

エルサレム独り旅(3)

 ヤッフォ通りを旧市街に向かって南東方向に歩いて行くが道を外れてしまい、遠回りをし少し時間をロスしてしまった。ヤッフォ門に着いた頃には夏至に近い太陽も西に傾き始めていた。ヤッフォ門の前の道路は北はナブルス(シェケム)、南はベツレヘムからへブロンに通じる道で車の往来は激しい。

 そこから西側を見ると直ぐ前がヒンノムの谷である。この辺りの谷はそれ程深くなく、谷幅も広い。斜面はなだらかで美しく芝が敷き詰められており、人々がテニスやサッカーをして楽しんでいる。

 谷の向こう側の丘の斜面から頂上には築後百年ほどのユダヤ人の住居や店舗が建っている。その一画にはヘロデ王家の墓が残されているのだが、時間があれば見てみたい(結局行けなかった)。

 ヤッフォ門は旧市街の西側にある唯一の門であるがヒンノムの谷は旧市街の西側から南側にある。因みに東はキデロンの谷である。ヤッフォ門前の道路を南へ歩くと直ぐに谷へ下って行く道がある。

 そこを下って行くと谷を貫いて向こう側の丘に通じている道と南へ行く道に分かれていて、南側に行く道にはアケルダマという表示と矢印のある看板が立てられていた。使徒言行録1章19節に出てくる地名だ。私は目を見張ってその看板を見、心はときめいた。

エルサレム独り旅(2)

 観光の場合、日本からイスラエルへの渡航はビザ無しで3ヶ月間滞在できる。私はヴォランティアなのでビザ無しで来たが、南アフリカのヴォランティアは就労ビザを取得して来ていたのか、キプツを出た若者達がエルサレムでアルバイトをしている事を聞いていた。

 そしてチャンタルがここで働いていた。1泊食事なしで15シェケル(約500円)であった。一部屋8人で左右に二段ベッドが二列並んでいた。男女同室でベッドにはカーテンも何も無い。

 私は空いていた右奥の上段を確保し、重い荷物をベッドの上に持ち上げた。そして直ぐに貴重品と菓子の袋とペットボヘトルを持ってエルサレム旧市街を目指して、ヤッフォ通りを歩き始めた。夕食代わりの菓子を食べながらヤッフォ門まで歩いた。

 この日の目的はヒンノムの谷を自分の足で歩くことである。地獄(ゲヘナ、マタイ 10:28)の語源となったヒンノムの谷とはどんな所なのか、自分のこの目で見、この足で歩いてみる、これがアドベント・クリスチャンである私の心意気とでも言おうか。ゴミの焼却場の痕跡らしきものが残っているか。

エルサレム独り旅(1)

 6/17(金)今日は午後だけの作業なので、午後からエルサレムへ行くことにした。(21日(火)まで休暇を取った。)昼食後シャワーを浴び、荷造りをし、1時過ぎに部屋を出た。

 車を乗り継いでハデラバスセンターまで行き、エルサレム行きの切符(19.5 シェケル700円)を買った。16番乗場から乗車し風景を見ながらエルサレムに向かった。

 バスは海岸沿いの2号線ではなく。内陸側の4号線を経て40号線を走りシャロン平野の真中を南下して行く。エルサレム行きなのでテルアヴィブを経由しないで、クファルサバ、ペタフティクバを通ってベングリオン空港の東から1号線に合流する。

 この道路だと東側にサマリアの連山を見ながら行けるので興味が尽きない。途中で眠くなり、いい気持ちになっているうちにエルサレム・セントラルバスステーションに到達した。

 そこからは徒歩でヤッフォ通りを旧市街に向かって行く。旧市街まであと 700m程の所にシオン広場という所があり、そこにある安宿にチエックインした。

 この宿は安いという情報をキブツのヴォランティアから聞いていたからである。ここはベンユダ通りや旧市街にも近く便利な宿だ。石段を上って2階のカウンターに行って手続きをするのだが、そこに立っていたのは、何とキブツで働いていた南アフリカの女性チャンタルだった。

独りヴォランティア(63)終

 キブツ滞在が長くなるに従ってキブツ側のヴォランティアに対する様々な配慮(福祉)が除々に分かってきた。つい先日までは奴隷か使用人のように扱われている様に思い、自由が少なく飼われているような窮屈さを感じていた。

しかし今日、係のレビに会って話してからはこのキブツが配慮に満ちている事が判かり、心が開放されたような気分になった。それと共にヴォランティアに対して与えられているこのような配慮について、どうしてS師は日本のヴォランティアに対して伝えず、受けさせなかったのか理解に苦しんだ。

 S師はいつも「キブツに迷惑や負担をかけてはいけない。それがクリスチャンとしてキブツの人々への証しになる」と口癖のように語っておられた。しかし、これは逆に躓きになっているのだ。「日本人のクリスチャンはクレイジーだ(狂っている)何が楽しくて働いているのだろうか、あんな風にはなりたくない」と陰口を叩かれているのだ。キリストの福音に生きる事と、証しについて考えさせられる。

独りヴォランティア(62)

 ペタフ•ティクバの町並は閑静で平屋の一戸建ての家々が規則正しく並んでいる。各々の庭には木々が植えられており緑に囲まれている。これがアラブ人の家との明確な違いだ。

 フラワーショップは広大である。ガラスの温室内で苗の売買がなされているが、温室の外側の苗床は際限のない程広い。どこまで続いているのか判らない程だ。その向う側の彼方(東方)にはサマリヤの山並みが見える。この地がかつてはマラリヤが大発生する沼地であったとは、今は想像できない程美しい土地になっている。

 今日は午後の作業はしなくてもいいとアブラハムが言ってくれたので午後は部屋に戻って昼寝をしてからへプライ語の学習。夕方、ヴォランティアハウスに行って作業靴の交換などをした。兵役に行ったアロンに代ってレビ(女性)が私達の担当になっていた。彼女が「どんな物でも必要なものがあれば必ず言うように!作業の希望も遠慮せずに言うように」と言ってくれた。

 この日まで作業場は全てアロンが決めるとばかり思っていたが自分で希望を出すのが、このキブツのシステムであった。又、作業靴も自分の足のサイズに合ったものをヴォランティアハウスの棚にある靴から自由に選んで使えば良いのだ、と言うことを知った。後にレビがトイレ用洗剤や、それに類する物を私の部屋に届けてくれたので驚かされた。

独りヴォランティア(61)

 6/12(日)早朝は庭の除草作業、朝食後は花の苗の買付けのためにペタフ・ティクバへ車で出かけた。運転はアブラハム。彼の兄嫁も同行した。ペタフ・ティクバはテルアピブの北10km、シャロン平野南部にある人口12万人の都市である。「開拓村の母」と呼ばれるこの町は150年前にはひどい沼地であった。

 イスラエルで最初の農業開拓村であるこの村の創設者達の一人てあるソロモンは「友よエルサレムの城壁を出て大地に帰ろう。我々の父祖たちは、この約束の地を耕し、その収穫物を神に捧げたのだ」とユダヤ人達に呼びかけたのであった。

 彼らは 1878 年にこの沼地を購入して開拓を始めたが努力の限界を超えた過酷故に一度はエルサレムに退去しなければならなかった。首まで泥に浸かっての作業、翌年のマラリアの大流行により多数の死者発生。大雨による川の氾濫で家屋と畑の流出のためであった。

 大半の人々が開拓を断念したが、三人が再度不屈の精神で開拓に向かい、遂に1882年にロシアからの移民を受入れるまでになった。この地の開拓の成功によって全イスラエルで建国に向かっての開拓が進められる基が据えられたのであった。”ペタフ・ティクバ”は「希望の門」の意味でホセア書から取られた(2:17)。

独りヴォランティア(60)

 6/1(水)日本から私のカメラとフィルムが届いた。

 6/2(木)早速キブツ内を写真に撮って回る。糸杉、古代の墓を閉じる石、レバノン杉、いちじく桑、いなご豆の木など。

 6/3(金)カナダからのヴォランティア、ユダヤ人のヒレルが隣室に来た。黒髪、濃く太い髭、大きな鼻、大きく黒い目と、アッシリアから発掘された石のリレーフに描かれた男性の顔に酷似しているので驚かされた。20代前半の若者でへプライ語も話し、現在アラビア語を学んでいる。

 6/4(土)安息日、ヒレルの部屋の掃除を手伝う。その後カメラを持って裏の丘へ行き、古代の水貯め井戸、ぶどう搾り槽やとうごまの木などを撮る。

 6/6(月)ヒレルが私にヘプライ語で語りかけてくれる。ヘプライ会話の手ほどきをしてくれる。感謝。

 6/9(木)今日はシクラメン畑の球根を機械で掘り起こし篭に集める作業であった。午前の休憩時間にアプリコット(杏)を食す。美味であった。昼食後、部屋に帰る途中、通路を工事している人がいたので「シャローム」と声を掛けると英語で応答してきた。彼らは毎日ベエルシェバから車で2 時間かけて働きに来ている人達でベドウィン人だという。

独りヴォランティア(59)

 私達を車に乗せたヨハナンは、以前一度行ったキブツのバナナ畑で働いているアラブ人の家へ連れて行った。今回は収穫したバナナの一部を贈り物として持参したのだ。今日は紅茶のもてなしを受けた。丁度土釜でパンを焼くところであったので見学させてもらった。丸形で薄いピタというパンである。焼きたてのほかほかのピタをオリーブ油と香菜(乾燥して粉末にした緑色のもの)を混ぜたものに浸して食べさせて下さった。おつまみとしてカボチャの種も出された。

 これが今日午前の休憩で 11時半から昼までバナナの樹の切り倒し作業を再開した。昼食までに一列全部切り倒す事ができた。午後は昨日に続いてバナナの収穫に用いたトレーラーのクリーニングである。汚れや錆を落としてペンキを塗り直すのだ。その作業で出る塵埃は中途半端ではない。マスクは無いので鼻の中が真っ黒になってしまう。

 作業後、部屋に戻りャワーを浴びて鼻を洗浄するが、何度洗っても真っ黒い鼻汁が出てくる。口からも汚い唾が出て来るのには参ってしまう。まさに(俗に言う)3Kの作業である。

独りヴォランティア(58)

 朝食後は収穫し終えたバナナの樹の切倒し作業。この作業は重労働だ。直径 20~30cmはあるバナナ樹を根元近くから切り倒すのだ。刃渡り70cmもある剣で切ってゆくのだが、一本切り倒すのにかなりの労力と時間が要る。

 そこで試しに侍が竹を一刀切りする仕方で振り下ろしてみた。すると見事に一打で切り倒す事が出来、作業はどんどん進んだ。私のこのやり方を見たヨハナンは目を見張って「ミラクル」と叫び、他のヴォランティア達を呼び寄せて私の仕事ぶりを見せた。いい気分であった。

 しかし太陽が高くなってくると大変な暑さだ。喉は乾き、頭は朦朧とし、全身は脱力感に襲われる。口からは自然と「主よ影(雲)を、水を!」との声が出る。そこへヨハナンが車で来て「乗れ」と言う。時間は10時25分、休憩だ。そこで冷たい水を思い切り飲むことができた。

 イスラエルの乾期の暑さは尋常ではない。この経験でマタイ 20:12.を実感し、詩篇 121:5、6「主はあなたを覆う影・・・昼は太陽があなたを打つことなく」の意味を解することが出来た。

独りヴォランティア(57)

 キブツ・マアニットには常時、アラブ人も出入りしている。ここではアラブ人もユダヤ人もとても友好的に暮らしているように見える。昼食時には何人ものアラブ人がキブツの住民と談笑しながら食事をしている。

 とうもろこし畑の除草作業の為に来た十数名のアラブ人達は臨時に雇われた人達だ。アラブの村には良い働き場が少ないので、キプツでの仕事が入ると喜んで働きに来るのだと云う。ヨハナンが言うには「ユダヤ人を雇うより、アラブ人を雇う方が人件費が安く、半額以下で済む」のだそうだ。

 それでもアラブ人達は自分達の村で働くよりは10倍もの収入(時給)になるのだ。ユダヤ人の下で仕事を得ているアラブ人達は、アラブ人社会の中では高給取りで、良い家を持つ事が出来るのだ。同じ距離でもイスラエルのタクシーでは 40 シェケル要るのにアラブのタクシーでは 1.5 シェケルであった事を思い出す(ベタニアからエルサレム旧市街のライオン門まで、車は同じベンツの9人乗り)。

 イスラエルの地にキブツが出来てから、キブツでの仕事を求めるアラブ人達がパレスチナの地に殺到し、この地のアラブ人人口が急激に増加した理由が、これでよく理解出来る。この人達の多くがイスラエル建国の混乱で難民となって、「自分達は先祖代々この地に住んでいた。」と主張する事で、ユダヤ人達が苦労して開拓した農地を自分達のものだと主張している人々も多くいるのが現実なのだ。

独りヴォランティア(56)

 朝食後、2日前に収穫し箱詰めしてあったバナナをヨーロッパへ輸出するために少し北にある別のキブツへ車で輸送するのに同行した(車への積み込みと積み降ろし作業のため)。そのキブツではバナナの他にグレープフルーツの有機栽培もしていた。ここもバナナとグレープフルーツの今シーズンの収穫は終わっていたが、収穫されずに木に残っている果実があったので尋ねてみると自由に持ち帰っても良いと言う。15個程貰った!

 このキブツには19世紀にアフリカ(スーダン)から連れて来られてアラブ人の奴隷となっていた人々が住む村から働きに来ている黒人達がいた。現在、彼らは自由人となっているが、肌の色が黒いという理由だけで嫌われ大きなハンディキャップを負わされて来た人々だ、とヨハナンは話してくれた。キブツ住民はこのような人々に仕事を提供し、彼らの生活支援をしてきたのだという。このキブツでの仕事ぶりはマアニットとは大いに違っていた。バナナの箱詰め作業の速度はマアニットの3分の1程で、実におおらかな仕事ぶりだ。

 無農薬の為か小バエが大量に飛び交っている。選外品の果実はマアニットではバナナもアボガドもキブツ住民用にしていたが、ここではバナナは大房ごと、グレープフルーツは落果したまま捨て置かれている。しかし、畑自体は雑草も少なくきれいに管理されており、バナナの果も美品であった。

 5/31(水)トウモロコシ畑の早朝除草作業は 26 日(木)から続いているが、なかなか進まないので今日で終了。朝食後はアラブ人の村人を雇って除草を終えた。彼らは鍬を用いて上手に除草をしていた。

独りヴォランティア(55)

 5/29(日)今朝は5時集合、5時半からとうもろこし畑の雑草取りの作業だ。ヴォランティア全員が刈り出され横一列になって広大な畑を一人一畝づつ、素手で雑草を取ってゆく。一畝の長さは100m以上もあり、雑な作りで土が細かく砕かれていない。

 とうもろこしの苗はせいぜい 10cm 程しか伸びていないのに雑草はずっと大きく根も張っているので、仕事はなかなか捗らない。私だけではなく他の若いヴォランティア達も同じだ。1時間も作業を続けると全身の筋肉や関節が痛んで悲鳴をあげる。8時前にひとまず作業を中断し朝食に向かった。2時間以上も作業をしたのだが、除草できたのは数十メートルだけであった。

 とうもろこしの苗は弱々しく茎の上に土の塊が少し被るだけで曲がってしまい、真直ぐに伸びる事ができない。だが、一方雑草は逞しく硬い土にも勢いよく根を張り成長も速い。下手に引き抜こうとすると土の地ごと持ち上げてしまったり、とうもろこしの苗ごと抜いてしまう事になる。

 主イエスは、私達を畑(土地)に譬えておられる(マタイ 13 章)が、アーメン(その通り)だと思う。私達の心の善意や良い習慣は弱く、なかなか根付かないが、悪意や悪習慣は強力で簡単に根付いて蔓延(はびこ)る。それを抜き去るのは難しく、善意を育むのは容易ではない。主が手入れして下さらないと誰一人雑草に打ち勝てないのだ(ヨハネ 15:1-3)。主の手入れ(介入)を受け入れる者だけが愛(善意)の結実を得られるのだ。(ヨハネ 15:6-12)

独りヴォランティア(54)

 ヴォランティアの日帰り旅行から戻って夕食後、洗濯物の件でジャンに訪ねてみた。この3ヶ月間ずっと自分の衣類や寝具を手洗いで洗濯し、自分で干していたのだ(日本人のヴォランティアは全員その様にしていたのだが、他のヴォランティアは誰も自分で洗濯していなかったのだ)。

 ジャンはこう答えた「洗濯物は木曜日の朝8時迄にネットに入れて決められた所(トラクターの荷台)に置いておけば、午後には戻ってくる。勿論、費用などは要らない」と。S 師はどうしてこの事を教えてくれなかったのだろうか、配給される作業着や靴や日用品のことも知らなかった。無知の故に3ヶ月間も要らぬ労をし、貴重な水も浪費してしまった。キリストの救いの福音も同じことだと思う。知れば、その恩恵に与かり要らぬ不安や心労からも開放されるのだ。しかし、それを伝えてくれる人がいなければどうにもならない(ローマ 1:14)。

 5/26(木)今日でキブツ滞在 3 ヶ月になった。朝、洗濯物を出しておくと、午後には戻って来た。湿気が少し残っていたが上出来である。

 5/27(金)今シーズンのバナナの収穫は今日で終り。1ケース 15Kg入りを94 ケース収穫し、機材一切を収納室に納める。次の収穫は9月のこと。

独りヴォランティア(53)

 ロスチャイルド家の三兄弟は、夫々ドイツとイギリスとフランスに銀行を構え、ヨーロッパの金融界に多大な影響を及ぼしていた。シオニズムに協力して支援し続けたのは、フランスのエドモンド・ロスチャイルドであった。

 ルーマニアから入植して来た人々にエドモンドが支援してこの地にぶどう園が出来、現在は人口約5,000人の町になっている。それで、この町の名はエドモンド達の父の名ヤコブにちなんでジクロン・ヤコブ(ヤコブの記念)と呼ばれるようになった。ユダヤ人であるエドモンドは、その妻と共に父祖の地であるイスラエルに葬られることを望み、ここに葬られた。

 そして、その周囲が美しい公園となり、町の人々によって大切に管理されているのだ。この公園でキブツが準備してくれた昼食を摂り、その後高台に上って、そこからの風景を楽しんだ。正面の地中海はエメラルドグリーンで美しい。海岸の手前には沢山の養魚池が陽光を受けて銀色に輝いている。その後、私達は海岸まで下りて行き、そこで暫くの時間を過ごした。若者達は海に飛び込んで遊泳を楽しんでいたが、私は周囲の眺望を楽しんだ。

 北と東はカルメルの山並み、南は美しい海岸線と、その彼方にはハデラの町の三本の煙突が見える。そこからの帰途、或るキブツに立ち寄り錦鯉の養殖槽とワニの養殖池を見学して午後五時過ぎにマアニットに戻り着いた。

独りヴォランティア(52)

 ジクロン・ヤアコブはカルメル山脈南西端麓の小高い斜面にある村落である。カイザリアの北約25km、地中海岸の東 10km 足らずの所にあり、地面の大半は岩である。この場所に入植したユダヤ人達は大変な労苦を強いられたと聞く。この地を購入した際、アラブ人地主に見せられた土地はこことは全く別の耕作に適した一等地であった。その為にこの土地の為に支払った代金は当時のニューョークの地価に相当する非常に高額なものであった。

 しかし、地主が入植者達を連れて来た所が現在の場所であったのだ。カルメル山の斜面の岩ばかりの土地で緑の全く無い不毛の地である。けれどもユダヤ人達は想像を絶する努力の末、緑豊かな村に作り上げ、イスラエル有数のぶとう畑とワイン製造工場を建て上げた。この工場のワインはカルメルワインの銘柄で知られている。

 先ず、私達は簡単な工場見学をしてから、この村と工場の設立の経緯を説明するスライド映像を見せてもらった。ビデオによる動画ではなく、スライド写真を巧みに組み合わせ編集した見事なもので、日本では見た事のない手法のものである。

 その後でワインの試飲をさせてもらった。赤、白、ロゼ、スパークルの四種類を試飲したが、とても甘口で特にロゼとスパークルは香りも抜群であった。スパークル1本と小瓶の詰め合わせセットを 40 シェケルで購入した。スパークルー本(720ml)で 8 シェケル(280円)だった。

 次に私達はロスチャイルド記念公園を見物した。この公園の中に奥深い洞窟があり、その最奥にロスチャイルドと彼の妻の墓があり、その洞窟内も見学する事ができた。

独りヴォランティア(51)

 5/23(月)この日は休みを取って滞在延長のビザを申請しにハデラに出かけて行った。スウェーデンから来ているハンズとアンドリューがこの日アッコへ観光に行くついでに、ハデラの政府事務所まで案内してくれたので大いに助かった。

 手続きを終えてからハデラの街を歩きながら店々を見て廻った。イスラエルの植物の本(39シェケル)、名所のシール、果物(メロンと桃)を買った。メロンは2個で60 アゴロット(何と24円)だ。帰って部屋で食べてみたがメロンも桃もとっても美味しい。イスラエルの果物は最高だ(苺は不味かったが)。

 キブツの小学生達が一泊でマサダに行くと云うのでヨハナンに同行させてもらえるか尋ねてもらったが、許可は貰えなかった。残念!

 5/25(木)昨夜、急に今日朝からヴォランティア旅行に出掛けるとの連絡が入った。8時に小さなバスでハデラとハイファの中間にあるズィクロン・ヤアコブに向かって出発した。その途中でローマ時代の円形劇場のある遺跡に行って見学をした。

 先ずこの遺跡の解説ビデオを観賞してから円形劇場内に入って行った。カイザリヤの大劇場に比べると小劇場だ。カイザリヤから5マイルしか離れていないこの場所に何故こんな劇場があるのか。或る学者はローマ兵の傷病者の療養地ではなかったか、と説明していると言う。20 世紀になってから発掘され、住居跡も発掘されたが、私達はこの劇場だけを見て、目的地に向かった。

独りヴォランティア(50)

 創世記37章で17歳のヨセフは父ヤコブの使いとして、家畜の遊牧をしている兄たちの無事を見届けるためにヘブロン(エルサレムの南 25km)からシケム(エルサレムの北 55km)へと旅立った事が記緑されている。ところが兄たちはシケムよりも北 25kmのドタンまで移動していた。

 その道のりは100km を越える旅となった。ところがヨセフはこのドタンで兄たちによってエジプトに向かっている隊商に売り飛ばされてしまうのだ。その前に穴に投げ落とされた事が書かれている。この穴がこの地方に多く散在する貯水用の穴であると考えられている。乾期にはこの水は使い尽くされ空井戸となる。ヨセフがこの旅をしたのは乾期の終り頃(9~10月)か。南部には牧草がなく、ヤコブの家畜は北部の牧草を求めて移動した事からも、この事が推測できる。この貯水用の穴がドタンだけでなくイスラエル各地にあり、キブツ・マアニットにも残されているのだが、これはすでに書いた。

 私は再度この穴を観察した。そしてこの穴の周囲を枯れ草を踏み分けながら歩き回って見る事にしたのだ。そこには死海近くのクムランの遺跡を見たのと同じ様な浴槽型の水槽らしきものがあった。幅3.5m、長さ7mの石造りで2つに分割されていて石段で中に降りられるようになっている。

 ユダヤ人の儀式用清めのミクベと呼ばれるものかも知れない。更にその近くに墓穴らしきものが三箇所、直径30cm に丸く刳り貫いた石、住居跡らしきものが多く、土の中から顔を覗かせている。