再びキブツ生活(10)

 エロンの体験談を聞いていると、困難や貧しさが人を不幸にするのか、順境と豊かさが人を本当に幸福に導くかどうか、キブツの現状を見るまでもなく、今の日本を見ても同様の現象が見て取れるのではないか、深く考えさせられることである。

 どのような土台の上に今の私達が築き上げられているのか、これは信仰者である私達が決して見失ってはならない視点でもある。私達の土台とは言うまでもなくイエスキリスト(の十字架と復活)である(コリントI、3:11)。尊い犠牲の上にあるということを。

 夕食後、エロン夫妻宅を訪ね、明日の除草場所を尋ねた。彼らは私が帰国する際に彼らの庭にあるカンナやゼラニウムをたくさん持ち帰るようにと言ってくださった。

 7/19(火)早朝からエロン宅の庭の除草作業、そして全てを完了した。夕刻になって隣室のヒレルが両手に何かをぎっしり詰め込んだビニール袋を持って私の部屋にやって来た。そしてその袋から乾燥して黒くなったいなご豆の莢(さや)を一本取り出して私に食べてみらと言う。そして彼が先ず自分で食べ始めたので私も食べるとにした。

 果肉が少なく表皮が硬くパサパサなのでなかなか喉を通らないが味は子供の頃によく食べた椋(むく)の小さな黒くなった実に似ていると思った。レーズンサンドのクッキーとも似た味なので噛んでいると甘い汁が出てくる。私はなかなか飲み込めなかったがヒレルは食べている。

再びキブツ生活(11)

 ヨハナンが語るところによると、いなご豆は完全栄養食で、昔の聖人たち(預言者、修道僧)はいなご豆と水だけで生きていたという。私はこのいなご豆のことから、ヒレルに英和対訳の新約聖書を見せ、ルカ福音書 15章の放蕩息子の記事を示した。

 そこにいなご豆への言及があること(15:16)、そこからイエスキリストについて話した。主の降誕から十字架の死、復活までのこと、そして私はこのイエスを主であり、ユダヤ人のメシヤであることを信じていること、使徒パウロのことを使徒の働き7-9章、コリント1、15章、コリントII、11章から話して聞かせ、初代のクリスチャンはすべてユダヤ人であり、新約聖書の殆んどはユダヤ人によって書かれているので是非読んでみるようにと薦めた。

 イスラエルに来て初めて主イエスを証しすることが出来たのである。カナダから来たユダヤ人のヒレルは神妙な表情で私の語るのを聞いていた。

 7/20(木)庭で共に働いていたキブツの青年アモスが18歳になり明日から兵役に就くので朝10時に小パーティの時を持った。パレスチナのテロ攻撃が頻発しているので徴兵されて3年間軍務に従事するのは命懸けである。しかし三年経て戻って来ると、精神的には立派な大人に成長しているのだという。

再びキブツ生活(12)

 7/21(木)押方恵師が「群」誌、神学校教師会の議事録とお便り(教団の動静)を送って下さり受け取った。日本からの便りは嬉しい。直ぐに返事を書いて送った。

 夜、ヘブライ語を暫く教えて下さっていたドフ氏がちょっと部屋に来ないか、と招いて下さったのでお邪魔をした。彼はイスラエルではインテリ階層の人物で日刊誌の論説も書く。彼は私が聖書を信じる者と知っているので、次のように語り始めた。

 「アブラハム、イサク、ヤコブは実在した人物ではない。イスラエル人がエジプトに行ったこともない。エジプト王朝がヒクソス(セム族、エジプト人はハム族)の時代に彼らが礼拝していた神の名がヤアコブであった。

 トーラー(律法、創世記から申命記)は多分ネヘミヤからマカベア時代、ユダヤの歴史の沈黙時代(旧約と新約の中間時代)に創作されたのだ。9月の新年祭とヨム・キプール(大贖罪日)などは預言者や諸書のどこにも見い出されてないのがその根拠の一つである。それらはネヘミヤ時代の後にバビロンの暦から取り入れたのだ」と断言した。

 私はリベラルな神学者たちがこういう説を主張していることを既に知っていたので別に驚くことなく「私はそうは思わない」と明言し、私が信じ理解しているところを彼に語った。ドフ氏はすでに80才を超えていたので、何とか福音を伝えたかったが、学者を自負する彼を納得させることは難しかった。

再びキブツ生活(13)

 夕方6時に食堂に行くと、ヨハナンがいて「家に夕食を食べに来ないか」と言ってくれたのでついていった。スパゲッティと茹でたアラビア豆を出してくれた。食卓でヨハナンは明日はヴォランティアトリップでゴラン高原(旧約時代のバシャン)へ行く、出発は朝7時、ガリラヤ湖で遊泳するので水着を持参するようにと告げた。

 7/25(月)朝7時半にキブツをいつもの車で出発した。いつもの道、キブツバルカイの横を通り過ぎてアフラ街道(国道65号)に出て東北に進む。カルメル山脈の南端の峡谷を上り切ると、左側にメギドの遺丘が見え、メギドジャンクションを過ぎると、エズレル平原に入る。周囲は畑である。

 エズレルの中心の町アフラに来ると直ぐ北側にナザレの町の丘が見える。そこから少し進むと南側にモレの丘が見え、その麗にはナインの村がある。すると進行方向にタボル山が見えてくる。その麓に来ると右側にエンドルの標識が立っている。

 タボル山の麓を回るようにして進路を北に取り、その先のゴラニジャンクションを直進する。(右折すればガリラヤ湖の町ティベリヤまで10km 少々)65号線はアッコからコラジンまで東西に走る85号線まで続いている。その合流点で右折しゴラジンジャンクションで左折し北に向かう。ハツォール遺丘の手前の分岐点を右に行くと95号線。ここを 10km程北東に進むとヨルダン川を渡っていよいよゴラン高原に入る。

再びキブツ生活(14)

 ゴラン高原で先ず私達が目にしたものは第三次中東戦争の爪跡であった。先ずイスラエルが建造した戦争記念碑を見てから、シリア軍が残していった夥しい塹壕跡に出くわした。

 30年近く前の戦争跡が今も生々しく残され、又、コンクリート作りの要塞跡には、多数の銃弾痕が刻まれていた。赤茶色く変色し、スクラップ化した戦車や軍用車の残骸があちこちに見られる。まさにここで激しい戦闘が繰り広げられていた事が判る。

 身を翻して西方を見ると、ヘルモン山から流れ下るヨルダン川が遠方に見えたのでカメラに収めた。ヨハナンが同行する旅行は必ずかなりの距離を歩かされるが今回も同様であった。

 ゴラン高原にある深い谷底へと下って行った。そこはダヴラ峡谷であった。谷底には水の流れがあり、これはヨルダン川に注ぐゴラン高原からの支流の一つである。

 流れに添って上流へ歩いて行くと、美しい滝があり数十メートルもある落差を豊かな水が落下していて見惚れてしまう美しさだ。そして、そこが遊泳の場所で若者達は暫くの時間楽しそうに泳いでいたが、水が土色に濁っていたので、私は見物と決め込んで滝の写真を撮ったりしていた。

再びキブツ生活(15)

 谷底のダブラ川での遊泳を終えると、車に戻るために急な崖の岩場を 100m以上登った。酷暑の中を息を切らせ喘ぎながら「ヨハナンと来るといつもこうだ」と半ば観念しながら歩かされた。旧約時代のマナセ族の女性たちはこんな谷底まで水を汲みに下りて来たのだろうか。

 そこから車で更に北東へと高原を上がるのだが、車中は窓を開けても気分が悪くなるほど暑い。窓から入ってくる風が熱風なのだ。7月下旬のゴラン高原の暑さがどれほどのものかを体験できたのは或る意味で貴重な体験であったが、この時はただ苦しいだけであった。

 車はシリヤとの停戦ラインの非武装地帯の金網の柵の前まで来て停車し、私達は下車した。そして東側の非武装地帯とその中にある国連軍の建物(日本の自衛隊も駐屯している)や、その向う側のシリヤの緑の山の風景、そして無人の町となったクネイトラを暫く眺めていた。

 すぐ北の緑の小高い山の上には高い電波塔が建っており、その彼方には薄っすらと茶色にくすんだ真夏のヘルモン山を見ることができた。この辺りは古代からダマスコに至る街道であるので、使徒パウロがダマスコのキリスト教徒を捕らえるために 2000年前に歩いたのは、この辺だと思い(ここから東北へ少し進んだ所で復活のイエスに出会ったのだ)感慨深くその方向を見入っていた(使徒9:1-8)。

再びキブツ生活(16)

 シリア国境の非武装地帯を金網越しに眺めてから、アビダル山南側にある公園で昼食を楽しんだ。ここには、イスラエル軍によって破壊されたシリア軍の戦車や砲台が置かれていたので戦車の上によじ登って中を覗いてみたりしていた。ここにもシリア軍の築いた要塞や塹壕跡が多数残されていて、激しい戦場であった事がわかる。

 中東戦争やパレスチナ紛争に関しては様々な立場からの見解があるが、その根底にある問題については、余程注意深く検証してからでないと安易な見解は差し控えた方が良いと思う。日本での報道は根底にある問題に目を閉ざし表面的な浅い議論や無責任な発言が余りにも多いように思う。

 私達の車はそこから暫く国境の金網の柵に添って南へと走った。柵のすぐ向う側は深い谷になっている。その向うの台地の枯草の中に野生の鹿の親子が数頭づつゆっくり歩いているのが見える。この辺りの道は舗装されていないので、酷い揺れ方だ。しかも酷暑の中をとろとろ走るので忍耐の限界を超える程の心持ちだ。金柵の反対側はとうもろこし畑や放牧地になっている。

再びキブツ生活(17)

 シリア国境添いに更に南へ暫く走るとヨハナンが「ここがシリヤ、ヨルダン、イスラエルの国境だ」と教えてくれた。この後、車は西に向きを変えガリラヤ湖に向かって下り始めた。途中、素晴らしい景観の場所で車を止め、そこからガリラヤ湖全景を見下ろし、私はそこで何度もカメラのシャッターを押した。

 その後キブツ・エンゲブ近くの湖畔まで下って行き、キブツの南側の湖岸で下車した。湖岸は石垣で護られ、ユーカリや松の木が植えられている。私たちは 1.5mの高さの石垣を下りて砂利の浜に出て、そこで暫く遊泳を楽しんだ。

 昨年の大雨で水位が高く、昨年は岸辺に生えていたと思われる枯れた葦があちこちの水面から顔を出していて、気を付けて泳がないと危ないと思った。水は薄茶色に濁っていて生温かった。私は 15分ほど遊泳した後、湖岸の小石を拾い集めた。

 今日のツアーの予定はここで終わり帰途に着く。車がヨルダン川に添って南へ下りベテシャンの手前で西へ右折するまで対岸のヨルダン(昔のギレアド)の風景を眺めた。ベテシャンからギルボア山を左に見ながらハロデの泉のすく近くを通るがどこかは確認できなかった。

再びキブツ生活(18)

 8月6日(土)、午前中は11日(木)にイスラエルに来る妻たちが滞在する部屋を整える作業をした。安息日のスペシャルランチを食した後、キブツ内を歩いていると一人の男性が語りかけてきた。

 彼は以前運転手をしていたが、事故に遭い負傷した為手術をしたが、その費用が何と5,000万円も要った。それが現在のキブツ・マアニットの大きな負担となっていて彼は肩身が狭いのだという(そう言えば、このキブツはとても貧しく食事も他のキブツに比べるとかなり質素だという)。

 それで彼は以前のように働くことが出来なくなったので、キブツ内に果樹を大量に植えることによって貢献しようとしているのだと言い、目の前の背丈1m程のなつめやしの木を指して「これらはみな私が植えたものだ」と言った。

 それから彼は「今、私の家に日本人が来ている」と言い、来るように勧めたので、私は驚いて彼について行った。部屋に入ってみると日焼けした一人の中年男性が椅子に座っていた。彼は鈴木重義という考古学に携っている人であった。丁度、ハツォール(士師記4:17)の発掘を終えたところで明日からベトシャン(サムエル記上 31:10)の発掘に行くのだと言う。

 彼は 1973年に日本キブツ協会からイスラエルに来て 1年半滞在し、その間へブライ語を学んだ。その後イギリスへ3年、そして 1980年再びイスラエルに来て 6ヶ月間ウルパン(ヘブライ語学校)で学び、ヘブライ大学に入学し、それから考古学に携ってイスラエル中を発掘し、日本で講演もしているという。

再びキブツ生活(19)

 鈴木氏はテル・ダンの遺蹟(ヨシュア 19:47,士師 18章)の発掘の結果、町の入口の大きな門や、ヤロブアム王が築いた金の子牛の大きな祭壇(列王記上:12:28-30)が出土したことを教えてくれた。

 彼は帰国後、それらの映像のVTRを贈ってくれたので、神学校の「聖書地理」の講義に用いることができた。彼はキブツ住民の男性とへブライ語で会話を交わしていたが、最後に私に「つい先日、ギルガルが学者達によって同定されたよ」と語った。

 キルガルはヨシュアとイスラエルの民がヨルダン川を渡って最初に宿営した所である(ヨシュア 5:9,10)。発掘調査の結果、その場所が確定されたのだという。聖書に書かれてある地名が次々と発掘されて明らかにされてゆくことは素晴らしいことである。

 しかし、その中で語られている神からのメッセージに聴くことが比較にならない程、私達にとって重要であり、幸いだ、という意味で鈴木氏がキリスト教徒でないことは残念でならない。

 8/7(日)昨夜の食べ物が悪かったのか朝から腹痛と不快感があり、午後には血便となった。しかし作業は休まず、朝食前には花壇の除草、その後バナナ畑の房の袋掛け作業をした。夕食後に食堂から出た所で一人の男性が語りかけてきた。咄嗟でよく分からなかったが、私に話したいことがあるようであった。彼はキブツの住民で名前はヨアブだという。

再びキブツ生活(20)

 ヨアブ氏は50歳前後で体格も私より小さく弱々しく見えた。彼は自分の身の上話を私に語り始めた。彼は生まれてすぐに彼の父が木から落下してしまった。その時はたいした怪我も無く見えたのだが、その後自転車で転倒し、体が正常に動かなくなってしまう。

 病院で検査を受けると胸に血腫があることが判明し、すぐに手術となったが9日後に亡くなった。彼の生後2週間の時であった。そのショックで彼の母までが、彼の生後 15週目に夫の後を追うように亡くなってしまった。

 彼の長兄はこのキブツの工場で元気に働いているのだが、彼自身は体は健康体だが精神を病んでいるのだという。しかし今は絨毯職人として働けるようになったので病状が少し良くなってきているのだそうだ。

 私は英語がダメなので彼に何一つ語ってあげることが出来ず、ただ頷くだけであった。英語で福音を語ることが出来れば、どんなに素晴らしいことかと、この時ほど思ったことはない。

 彼はこのキブツでの私の庭師としての仕事がとても良いので以前から感心していて、今日声をかけたのだという。「あなたはプロだ、ずっとここで庭の仕事を続けて欲しい」と言ってくれたので「ありがとう」と言ってから、しかしあと三日でヴォランティアの仕事を終えることを伝えて別れた。

再びキブツ生活(21)

 8/9(火)キブツでのヴォランティア労働は今日で終わる。明後日の早朝、日本から妻たちが来るので、明日の作業をデイオフにして欲しいと、アロンに頼むと快くOKしてくれたのだ。

 妻達の部屋や滞在費(食事など)はどうしたら良いかと尋ねると「あなたはここで6ヶ月も働いてくれたんだ。そんな事は全く心配しなくてもよい」と、妻たちは「ゲストとして歓迎する」と言ってくれたので感謝した。

 最後の作業はプール近くの幼児室前庭の除草とバナナ畑の樹の手入れであった。このバナナ畑で蟻の巣を見つけたので、イスラエルの蟻の話をしよう。蟻については箴言に「蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ」と語られている(6:6-8)。

 キブツには特大のものから極小のものまで様々な蟻がいた。土の中や腐木の中などに巣を作っている。シャワールームに出没する蟻はビデオテープを早送りして見るような俊敏な動きをしていて、まるでアニメを見ているかのようだ。

 今日、バナナ畑で見つけた蟻はバナナの樹の幹の中に(枯れかけた葉茎の内側に)巣を作っていたのだ。ここなら土を掘るよりもはるかに軽い労力で巣作りが出来るが、私が、それを剥がして除去すると多くの卵が地上に落下してしまった。

再びキブツ生活(22)

 バナナの幹の外側の枯れた葉茎を剥がされて、大量の卵が落下してしまった蟻たちは驚き慌てて右往左往している。地中にコツコツと穴を掘って地道に巣を作ることをしないで、腐った柔らかい葉茎にちゃっかり巣を作ってしまったために、ここの蟻たちはまた初めから巣を作り直さなければならなくなってしまった。

 私が今日、葉茎を剥がさなくても、一年以内には果実(房)の収穫後、確実にこの樹は根元から切り倒されてしまうのである。こんな所に巣を作るドジな蟻たちもいるのだ。私たちの住居も永遠の都(故郷)を本国としその国籍を取得しておかなければならないことをこの蟻たちから改めて教えてもらった(フィリピ 3:20,ペトロⅠ,1:4,コリントII,5:1)。

 この地上には永遠の都はなく、全ては過ぎ去るのだ(ヘブライ 13:14,マタイ 24:35,ペトロII 3:10,11)。「蟻たちよ、今度はしっかり地中に巣を作れよ、私も主イエス様(の御言葉)という揺るがない岩の上に家を建て続けるよ」と語りかけたくなった(マタイ 7:24-27)。

 今日の夕食は自宅で御飯を炊いて、塩昆布ととろろ昆布と海苔の佃煮のおにぎりを作り、じやがいもと玉ねぎとピーマンの天ぷらを揚げて、ヒレルを招待した。彼は初めて食べる日本食(らしきもの)に満足してくれた。

 実は彼とは昨夜も部屋の前のポーチにあるテーブルで夕食を共にしたのだが、その時、彼は私に旧約聖書、特に創世記の天地創造等について質問してきたのだ。そこで私の信じているところを説明させてもらった。(つづく)。

再びキブツ生活(23)終

 私はヒレルに自説を述べてから、求めつづける心をもって聖書を読めば必ずそこに語られてあるメッセージが理解できるようになる。異邦人である私が信じているのだから、ユダヤ人であるヒレルは更に理解は容易なはずだ。何故なら、タナフ(旧約聖書)はすべて、あなたの先祖であるユダヤ人によってヘブライ語で書かれているのだから、と言って彼を励ました。

 彼はヨハナンと同じく菜食主義者であると語った。そのようになった理由は、彼がヨーロッパを旅行していた時、所持金がなくなって、肉が食べられなくなってしまった。そこで仕方なく安価な野菜を食べて空腹をしのいでいたのだが、それまで怒りっぽかった自分、いつもイライラしていた自分が心安らかで穏やかになったからだという。

 確かにヒレルは若く外見は精悍そうに見えるのだが性格はいたって温厚だ。私に対しても「よしかわさん」と優しく呼びかけるのだ。これらの他にもヒレルとはいろいろな会話を交わすことができた。

 この後、食堂へ行くとドフ氏に出会ったので、今日で作業は終了したこと、明後日に妻が来ることを伝えた。するとドフ氏は「今はエジプトやヨルダンにも自由に行けるが、行く予定はあるのか」と尋ねたので私は「言葉(英語)がダメなので難しい」と答えた。

 8/10(水)妻を迎えるために部屋の掃除などかなり重労働をした。ヨハナンに明早朝空港への迎車を再確認をした。

最後の2週間(1)

 8月11日(木)早朝に妻が空港に着くのでヨハナンと二人、車で4時25分にキブツを出発。5時25分にベングリオン空港に着く。6時少し前に妻がゲートから出てきた。5ヶ月ぶりの再会である。

 車でキブツに向かう途中、周囲の風景を説明しながら7時にキブツに到着した。ヨハナンはバナナ畑での作業があるので、私たちも一緒にバナナ畑に行き、そこで働いているヒレルとナアマやヴォランティア仲間を妻に紹介した。

 その後荷物を部屋に運び込んでから7時45分に食堂で朝食を摂った。妻は食事が気に入ったようで、特にチーズが美味しいと言う。食後キブツを少し歩いてから部屋に戻って休んでもらう。

 11時半にアロンとハビーバー夫婦宅を訪ね妻を紹介し、日本からの手土産を手渡した。夕方5時に再度訪ねるようにと言ってくれた。続いてアリーザ宅を訪ねると、ケーキと飲み物を出してくれ、妻にチョコレートケーキの作り方を教えてくれた。それは妻が出された手作りのチョコレートケーキを美味しいと言ってくれたためである。

 その後、食堂で昼食を摂ってから、キブツの中にある色々な植物やローマ時代の遺跡を案内して回った。糸杉、レバノン杉、いなご豆、いちぢく桑、ピスタチオ、水溜井戸、墓など。その途中、ハバさん宅に寄って日本からの手土産を届ける。

 午後2時半から3時45分までプールで泳いでから4時半からヨハナン宅、ヘレナ宅へ土産物を届けた。ヘレナ宅ではチーズケーキとコーヒーを出し下さった。アブラハム宅は留守だったので5時10分にアロンとハビーバー夫妻宅を訪ね歓談の時を持った。

 互いの家族の事など話し合った。その後夕食のため食堂に行き、そこであすか野教会での牧会、夙川教会の最後など午後8時まで妻から聞くことができた。

最後の2週間(2)

 8/12(金、2日目)昨夜の相談で今日はエルサレムに行こうということで朝6時半のバスで先ずテル・アヴィヴに向かった。そこからエルサレム行きに乗り換えるのだが 20分程待ち時間があったので食物を調達した。エルサレム行きのバスは2階建てで、私達は2階の最前列に座ることが出来たので前方と左右の景色をパノラマで観ることが出来た。

 エルサレム中央バスステーションに着いたのは9時頃であった。そこからヤッフォ通りを約 3kmを東にぶらぶら歩いて商店を見ながら旧市街に向かった。途中の店でランチョンマット、ぶどう、いちじく、グレープフルーツ、オレンジ、ココナッツなどを買う。

 そして旧市街の城壁まで来ると、新門の道路向かいにあるノートルダムホテルに行ってチエックインしようとしたが断られた。そこで紹介された旧市街のカサノバホテルにチェックインした。館内は清潔で美しく、トイレ、シャワー、洗足槽も各部屋にあり、1泊2食付でツインで一人2,200円という安さだ。

 部屋でパンなどの昼食を摂り、午後1時半にホテルを出て城壁沿いに南に向ってシオン門を目指した。右側のヒンノムの谷を見ながら暫く行くと、左側にヘロデ大王時代の遺蹟が発掘されているので自由に見て歩けるのだ。

最後の2週間(3)

 城壁の角まで来て左折し、東の方へ少し行くとシオン門の前に出る。今は門の外側にあるアパルーム(最後の晩餐とペンテコステの部屋)を見に行ったが工事中で中に入れなかった。すく隣にあるダビデの墓と大きな棺を見てから鶏鳴教会(カヤファ邸)へ行った。

 入場料一人3シェケル(100円)を支払って、先ず土産店に入り缶ジュースを買い喉の渇きを潤した。とにかく暑い。そこで小休止してから会堂内に入った。ペトロが主を否んだ場所、主が鞭で背中を打たれた獄、そして投げ込まれた地下牢を見た。他の観光客は一人も居なかったのでゆっくり見ることが出来た。

 そこを出て今度は南側へ坂道を下って行った。この辺りは旧約時代にダビデの町と呼ばれていた地域で、主イエスの時代には城壁内にあったが、今は城壁の外にあり、アラブ人の居住地域である。左側の急斜面は最近発掘されて、ダビデの町考古学公園になっている。

 更に下って行ってシロアムの池に行く(ヨハネ9:6)。そこを見てからキドロンの谷に降り、北側へ歩いて行くとギホンの泉に着く。ここでソロモンは王として油を注がれたのである(列王上1:38)。その泉の水に入ってみた。この辺りの記事は以前に書いたので詳細な記述は省かせて頂く。

最後の2週間(4)

 ギホンの泉の四角い建物の裏手の急な坂道を上ってアラブ人の家々の間の細い道を通り、元来た道に向って行くと、ダビデの町記念公園の前に出た。ここは現在も発掘が続けられているが、夕刻になっていたので、ロープが張られ閉園されていた。

 ここではダビデが攻め落としたエブス人の城壁跡や、攻略の際に進入した水汲みのトンネルなどの貴重な遺蹟が発掘されている。(サムエル下 5:6~9)私達はそこを素通りして糞門(ふんもん)を通って城壁内に入り嘆きの壁に行った。

 私は男性のための左側、妻は女性のための右側の区域に入って、その前で祈る人々に混じって巨大な神殿の壁石などを見た。最も大きな石は下から七段目までで第二神殿時代のものでヘロデ大王によって建てられたものである。

 この壁石は更に十七段も地中に埋まっているのだという。キリスト時代の地表は 20m近くも下にあるのだ。ローマ帝国による破壊がいかに激しいものであったか、想像もできない程だ。(マタイ 24:2)

 私達はそこから旧市街の商店街を通り抜けてホテルに戻った。18時30分であった。夕食までの間、中庭でくつろぎの時を過ごした。夕食は19時30分からでスープと玉子焼きとバウンドケーキだけという簡素なものであった。その後部屋に戻って明日の予定を話し合い、祈って休んだ。

最後の2週間(5)

 8/13(火)エルサレム2日目、早々に朝食を済ませ、食べ残したパンと水のペットボトルを昼食用に持って8時半にホテルを出た。旧市街のカサノバ通りを南に下りヤッファ門の横を更に南に行くとそこはアルメニアン地域である。

 少し歩くと右側にクライスト・チャーチがある。更に進むとアルメニアン教会の入口が右側にある。突き当たりを右に曲がると直ぐシオン門に出る。私達はそこから城外に出て城壁に添って東に向って歩いて行く。すると左側にヘロデ大王時代の遺蹟が発掘されていて自由に入って見る事ができる。

 最も多く目につくのはミクベと呼ばれる沐浴場である。ペサハ(過越)、シャブオット(七週、ペンテコステ)、スコット(仮庵)のユダヤ三大祭には、ユダヤ成人男子は参拝を義務付けられているので、世界各地から詣でて来る。

 ヘロデ大王時代には数十万人もの礼拝者が集まったという(使徒2:1~1、ヨハネ12:12~21)。これらの人々は神殿域に入る前に必ず水浴して身体を清める慣わしであった。(ヨハネ13:10)

 その為には相当数のミクベが必要であったと考えられるが、それを裏付けるかのように、至る所にそれらが発掘されている。自由に出入りできるので入ってみたが、天井が低く身を屈めて入らなければならない。今は水槽には水がなく、空缶やペットボトルなどのゴミが転がっていた。そこを通り抜けるとふん門の前に出る。

最後の2週間(6)

 糞門の前をそのまま通過して城壁添いに東へ歩いて行くと、道はそのまま東から北へ弧を描いてカーブしているが、城壁は直角に北側に折れ曲がり、数十メートル先で再び東に折れて、キドロンの谷の手前で北側に向って折れ曲がっている。

 この城壁が凹んだ部分が旧約聖書でオフェルと呼ばれる丘の遺蹟である(歴代下 27:3,33:14,ネヘミヤ 3:26,27)。ここには神殿の使用人たちが住み、高い城壁で囲まれ神殿を守る砦とされていた事が録されている。

 この区域は地下深くまで発掘されていて多くの建築跡を見る事ができるが柵に囲まれて中に入ることが出来なかった。この直ぐ北側にはムスリムのエル・アクサ寺院が建っていて黒いドーム屋根を見せている。

 私たちは道なりに歩いて北に向かって行く。左側には城壁、右側にはキドロンの深い谷とその向うにオリーブ山を見ることが出来る。キドロンの谷には多くのオリーブの樹々が植えられている。

 その直ぐ向う側にはゲッセマネの園と万国民の教会堂が見え、この景色は素晴らしい。私たちはライオン門(ステファノ門)まで歩いて、そこから東へ下ってキドロンの谷を渡り、ゲツセマネの園の前で一休みし、屋台でオレンジを目の前で搾ってジュースにして売っているアラブ人から紙コップ一杯のジュースを買って飲んだ。

 この辺りは初代エルサレム教会の執事ステファノが殉教した地と伝えられ、キドロンの谷に記念会堂が建っている。(使徒7:54-60)。その少し北側の谷にはマリヤの記念堂(墓がある洞窟の上に建てられている)がある。多分ゲッセマネの園の所有者であったマルコの母のマリヤの墓であろう。ひと休みした私たちはゲッセマネの園と万国民の教会堂を見学した。(マルコ 14:32-52)

最後の2週間(7)

 ゲッセマネは(オリーブ)油しぼりという意味で、この場所でオリーブ油の精製が行われていたことがうかがわれる。この周辺は今もオリープの樹が多く植えられている。

 ここは主イエスと弟子達がエルサレム滞在中にしばしば利用したことが福音書に録されている(ヨハネ 18:1,2)。主はここでユダヤ人たちによって夜中に逮捕され、翌日に十字架に架けられて処刑されたのである。

 ここは現在教会の所有地とされ、「苦悶の教会」「万国人の教会」と呼ばれている会堂が立っている。休館日はなく毎日無料で入場することができる。昼の2時間は閉館するが朝8時から夕刻まで自由に出入りできるので有難い。

 ここは静まって黙想・瞑想する空間である。私たちはそこから石畳の急な坂道を登ってオリーブ山上を目指した。この道は多分、ダビデ王も(サムエル下 15:30)主イエスとその弟子たちも登り降りしたであろう道である。この道は左右に緩やかに曲がりながら上っているが杖があると案外楽である。

 右側にはメシヤの来臨の時に復活することを願って眠っているユダヤ人たちの墓地が広がっており、左側は石塀に囲まれ緑に包まれた庭を持つ教会堂が急な斜面に並んで建っている。「主の祈りの教会」「主の涙の教会」「マグダラのマリヤの教会(堂)」である。

最後の2週間(8)

 息をハァハァさせ、前屈みの姿勢でオリーブ山頂まで登りつめると、そこには広い道路があり車が往来し、町並みが開けている。店舗やホテルもある。ここはアラブ人の町である。大通りを南へ少し歩くと、エルサレム市街を一望できる展望台がある。

 キドロンの谷を挟んで西側に広がるエルサレムの光景は美しい。正面には先程歩いてきたオフィルの丘があり、その右側に延びる城壁は閉じられた黄金門からライオン(ステファノ)門の向うまで続き、オフィルの丘の北の城壁は糞門からシオンの丘(門)を経て更に向こう側へと少し折れ曲がって続いている。

 左側は昔のダビデの町、今はアラブ人の家々がギドロンの谷やヒンノムの谷に向って下ってゆく斜面にぎっしりと立ち並んでいる。

 正面には黄金に輝くドーム屋根を持つムスリムのモスク、少し向こう側には聖墳墓教会の黒いドーム屋根、その向うには近代的な高層ビルの建ち並ぶ新エルサレム市街を見渡せるのだ。この景色を十分堪能してから昇天記念会堂に向った。

 主イエスがここから。弟子たちが仰ぐ中を天に昇天したと言われる所に建てられた小さな会堂である(使途1:9,12)。しかしここを管理しているらしいアラブ人少年が私たちの前に立ちはだかって敷地内に入れてくれないので、私たちはオリーブ山の裏側にあるベタニヤを目指した。

最後の2週間(9)

 ベタニヤはマルタ・マリヤ・ラザロ姉弟、らい病人シモンの家があった村で、主イエスは度々訪れ滞在された村である(ヨハネ 11,12:1-8、マルコ14:3)。主の最後の週はこのマルタとマリヤの家で滞在されたと考えられるので、イスラエルに行く機会があれば是非とも訪ねてみたい所である。

 団体ツアーの場合は車でオリーブ山麓を半周して行くのだが、主が弟子達と共に歩いてエルサレムを往復された道を歩いてゆく経験は別格である。山頂の目抜き通りから東側へ抜ける細い狭い路地は両側が背丈よりも高い石壁に挟まれていて、地元の人に教えてもらわないと一旅行者には見つけ出すことは難しい。

 そこを抜けると前方は一気に開けて、エルサレムと裏側の景色が眼前に飛び込んで来る。この風景は17年を経た今でも私の脳裏に鮮やかに刻まれている。

 幅の広い砂利道は緩やかな下り坂で、右側に広がる遠方の景色を眺めながらゆっくり歩いていると、突然前方から男の子が駆け足で近づいて来て石を投げつけてきた。

 私たちは驚いて歩を止めると、男の子の背後から母親らしい女性が駆け寄ってきて、投石を止めさせてくれ、私たちに謝罪の仕種をし、男の子を連れて立ち去って行った。私たちは再び歩を進めた。

最後の2週間(10)

 男の子が投石してきたこの辺りの村落は 2000年前ベトファゲと呼ばれていた村である。エルサレムに入場される主が子ろばを調達した村として知られている(マタイ 21:1,2)。

 このエルサレムとベタニアを結ぶ道は、主と弟子たちが度々歩いたことがほぼ確実だと私は思っている。この道のすぐ右下側にある深い谷と遠方のベツレヘムを見渡す光景は今も昔もほぼ変わらない眺めではないだろうか。

 山腹のなだらかな坂道を数分下ってゆくと、道は弧を描いて右に曲がっている。その辺りまで来ると道添いの左側にベトファゲコンヴェントと英語で書かれた大きな鉄の扉が構えている。それでここがベトファゲであることを実感させられられるのだ。

 道はそのまま南東方向へ下って行くのだが、左(東)側に抜けてゆく脇道がある。この分岐点は前方にある小高い丘を避けるように分岐しており、その丘の上に赤い屋根を持つ横長の教会堂が建てられている。ここが以前書いたように主の昇天場所ではなかったか、と私は考えている(ルカ24:50,51)。

 私たちは左側の細い脇道を通ってベタニヤ村を目指した。その道は右側は教会の塀、左側は背の高い竹の雑木林で、真昼間でも薄暗く、風で木の技が触れ合う音、私たちが踏み歩く砂利の音が大きく鳴り響く静寂とした空間であった。

最後の2週間(11)

 昼間でも薄暗く静寂に包まれた道を通り抜けるとひなびて砂埃っぽい田舎風の小村に出る。景色は一気に明るくなって前方が広く開ける。前方の彼方は霞んで白っぽいがヨルダンの深く広い谷と死海の北端、その彼方にはモアブの山々が聳えていて、空気が澄んでいればそれらを見渡すことができるであろう。

 辻の左側には何も植えられていない枯草だけの小さな畑と古い家があり、そこで行き止まる道を右側に向うと 50m足らずの急な下り坂、その向うは上り坂になっていて、そこから小型自動車がこちらに向って走ってくる。

 しかし、こちらの急な上り坂を上り切ることか出来ずに途中からずるずる後戻りをしてしまう。再度向う側の坂の上からスピートを上げて思いつきりエンジンを吹かしてようやく私たちの所まで上って来ることが出来た。私たちはその様子を見てから注意深くその道を下り始めた。

 舗装がされておらず、手で支えるものがないので持参した杖が大いに役立った。これはゲッセマネの園からオリーブ山頂に上る時にもとても役立ったものである。主イエスと弟子たちもこの急な坂道を上り下りされたのであろうか。

 この坂を下りきった所で左側に下る少し広い道がある。そこを下って行くとすぐに右側にラザロの墓の入口があり、その裏手には十字軍時代の建物の大半が崩れ落ち、只石積みの塔の跡のようなものが5m程の高さで残されている。

 私達はそこを通り過ぎて下って行き、、マリヤとマルタの記念教会の前へ行ったが残念ながら正午を過ぎていたので中を見ることが出来なかった。この教会もゲッセマネの万国民の教会同様昼休みを2~3時間とるので、その間は休館するのである。

最後の2週間(12)

 ベタニアのマルタとマリヤの記念会堂が昼休み中であったので仕方なく私達は坂道を引き返し、ラザロの墓の入口の前にある土産物店に向った。そしてこの店で暫く休憩させてもらう事にした。何しろ朝からずっと歩きずめで、しかもきつい坂道が多かったので足の疲労と空腹でくたくたであった。

 店に入ると女主人が居て「ラザロの墓を見学しろ」と煩く言い続けるので、先ず料金を支払って店の直ぐ前の墓の入口から中に入った。入口は岩を掘って作ったもので高さ 1m程、横幅も 50cm程で体を屈めて入らなければならない、急な石段を左旋回して下って行くと石棺が納められた小さな部屋の前に出る。

 その部屋へは余程身を屈めないと入れないので妻たちだけが入って見学した。遺骨などは無いようだ。この墓の入口は元々マルタとマリヤの家の会堂の前にあったがイスラム教徒たちによって塞がれてしまったので、現在の入口が新たに掘られたという(ヨハネ11:38~44)。

 4日前に死んで既に墓に葬られたラザロを生き返らせた主イエスは「もし、じるなら、神の栄光を見れる。私は復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と語られた。私は、この御言葉によって救われた。19歳の時である。

最後の2週間(13)

 ラザロの墓への入場料は一人 2 シェケル(当時70円)であった。見学を終えた私たちはすぐ前の土産物店に戻ったが、女主人は居らず彼女の主人らしい男性が居た。

 私は二度目の来店であったので彼も憶えていて、私の妻を紹介した。ここでホテルから持参したパンと水で昼食を摂り、教会堂が見学できる時間まで休ませて欲しいと彼に頼むと快く承諾してくれた。暫くすると彼は「昼食を家でしてくるので、留守を頼む」と言うとさっさと出て行ってしまった。

 私たちは店番をすることになってしまったが、客は私たちの他は誰も来ない。カウンターの上には私たちが支払ったお金がそのまま置かれてあり、私たちを信用しきっているのだ。私たちがキリスト教徒の牧師夫妻と知っているので安心したのであろう。

 ベツレヘムのベイト・サフール(羊飼の野)村にある店の主人同様、”キリスト教徒は正直者”という事がパレスチナムスリム(イスラム教徒)たちには、このベタニヤでも周知されているのであろう。

 彼は一時間足らずで戻って来たが、私たちは二時まで待つことが出来ず1時40分になってエルサレムに戻ることにした。歩いて帰るのはさすがに体力的に自信がないので彼に相談すると即座に「タクシーで行けばよい、150.だ」と言う。私たちは仰天し「150 シェケル?」と言うと笑いながら「150アゴロット」と言う。一人約50円だ。あまりの安さに私たちは再度仰天した。

最後の2週間(14)

 ベタニヤからエルサレムに戻るためにタクシーの利用を決めた私たちは、土産物店主に教えてもらった通りに、店の前の道を東へ下り、マルタとマリヤの教会堂の前を通ってエリコとエルサレムとを結ぶ街道に出た。道幅は広いが舗装されていない。道路の向う側(東側)は死海の谷まで続く傾斜地ですぐ先は崖である。

そこで待っているとすぐにエリコ方面からタクシーが通りかかったので、止めて行き先を告げ料金を尋ねた。すると「40だ」と言う。1400円だ。高いので値切るとダメだと言うので断った。次のタクシーも同様だった。両方ともイスラエルのタクシーである。

 日本だと1メーターか2メーターの距離なので高すぎる。次に来たタクシーはパレスチナナンバーで運転手もパレスチナ人だった。イスラエルナンバーのタクシーと同じベンツの9人乗りである。運転手に料金を聞くと、やはり「40」という。

 そこで、「あそこの店の主人が 150アゴロットで行けると言っていたのだが」と言うと、「それでいい」と言うので私達は喜んでそれに乗り込んだ。タクシーは 100m程走ると或る建物の前で止まった。

 するとその建物からさっきの土産物の店主が出て来たではないか。彼は「私はこの仕事もしている」と言った。彼はタクシー会社のオーナーでもあったのだ。帰国後に知ったのだが彼はこの村の名家の人で、米国に移住した彼の兄弟が「ベタニヤ村の人々』を著し、日本語にも訳されていた。

最後の2週間(15)

 ベタニヤ村の土産物店の主人はこの村の有力者サイード家の人であった。前掲書によれば四次に亘る中東戦争では常にパレスチナ側に立ってイスラエルと戦い、何人もの戦死者を出したという事である。

 彼は私に「ベツレヘムやへブロンに行く時は私のタクシーを使ってくれ」と言って名刺を手渡した。それからタクシーはオリーブ山麓を時計回りで西側に行き、ゲッセマネの園の前で左折し、キドロンの谷の石橋を渡り、石畳の細い通路を上ってライオン門のすぐ前まで私たちを運んでくれた

 道幅ギリギリの道を門前まで送ってくれた運転手に感謝しながら支払った運賃は3人分で 150円ほどであった。車はそのまま 100mほどの細道をバックで戻って行った。私達はその門から城壁内(旧市街)へ入った。

 次の目的地はベテスダの池である。歩いて1分程の聖アンナ教会の敷地内にある。この教会も昼休みが3時まであり閉館している。開場まで30分あったので門の直ぐ近くの店でアイスキャンディー(1シェケル)を買ってベンチに腰を掛けて食べながら待つことにした。

 3時になって聖アンナ教会に行き入口で入場料を支払い英文の小さなパンフレットを貰って入った。多くの人は左側の会堂へ入ってゆく。聖アンナは主の母マリヤの母、即ち主イエスの祖母にあたる人物である。私たちはここには入らず右手にあるベテスダの池の発掘された遺蹟の方に向った。

最後の2週間(16)

 「ベテスダ」は新共同訳では「ベトザタ」と表記されている。ヘブライ語「ベイト・ハシダ(憐れみの家)に由来するがヨハネ福音書5章(1-9)に登場する。この池はヘロデ大王が造ったとされていて神殿詣での人々の沐浴や、犠牲の羊の洗い場に用いられていたらしい。

 38年も病気で苦しんでいた人がここでキリストに癒された。5つの回廊があったと記述されている(5:2)が、発掘の結果5つの柱廊と2つの水槽が現れ、現在自由に見学することが出来る。石を積み上げて建造された柱や壁は地表から 10m以上も深い底まで達している。

 この池を前にして妻の目は輝き始め、力に溢れて一人池の底まで下って行き、隅々まで歩いて建造物を見て回っている。ベタニアまで歩いて最もくたびれていた妻がまるで生き返ったかの様である。私はというと、底まで降りると、再び上がって来なければならない事を思うだけで足は動かなかった。

 戻って来た妻が言うには「つい先ごろ、ベテスダの池のメッセージをした。この遺蹟はまさに聖書の記述の通りだった」と大いに感激していた。帰国後、入口で貰った英文の小さなリーフレットをパワーズ宣教師にお見せした時も、その文章にとても興味を示され、コピーを求められたことも印象に残っている。

 この池の脇で横たわっていた人が癒されたように妻も別人のように元気にされ、この後の見学も活き活きと続行して行くのである。