再びキブツ生活(23)終

 私はヒレルに自説を述べてから、求めつづける心をもって聖書を読めば必ずそこに語られてあるメッセージが理解できるようになる。異邦人である私が信じているのだから、ユダヤ人であるヒレルは更に理解は容易なはずだ。何故なら、タナフ(旧約聖書)はすべて、あなたの先祖であるユダヤ人によってヘブライ語で書かれているのだから、と言って彼を励ました。

 彼はヨハナンと同じく菜食主義者であると語った。そのようになった理由は、彼がヨーロッパを旅行していた時、所持金がなくなって、肉が食べられなくなってしまった。そこで仕方なく安価な野菜を食べて空腹をしのいでいたのだが、それまで怒りっぽかった自分、いつもイライラしていた自分が心安らかで穏やかになったからだという。

 確かにヒレルは若く外見は精悍そうに見えるのだが性格はいたって温厚だ。私に対しても「よしかわさん」と優しく呼びかけるのだ。これらの他にもヒレルとはいろいろな会話を交わすことができた。

 この後、食堂へ行くとドフ氏に出会ったので、今日で作業は終了したこと、明後日に妻が来ることを伝えた。するとドフ氏は「今はエジプトやヨルダンにも自由に行けるが、行く予定はあるのか」と尋ねたので私は「言葉(英語)がダメなので難しい」と答えた。

 8/10(水)妻を迎えるために部屋の掃除などかなり重労働をした。ヨハナンに明早朝空港への迎車を再確認をした。

再びキブツ生活(22)

 バナナの幹の外側の枯れた葉茎を剥がされて、大量の卵が落下してしまった蟻たちは驚き慌てて右往左往している。地中にコツコツと穴を掘って地道に巣を作ることをしないで、腐った柔らかい葉茎にちゃっかり巣を作ってしまったために、ここの蟻たちはまた初めから巣を作り直さなければならなくなってしまった。

 私が今日、葉茎を剥がさなくても、一年以内には果実(房)の収穫後、確実にこの樹は根元から切り倒されてしまうのである。こんな所に巣を作るドジな蟻たちもいるのだ。私たちの住居も永遠の都(故郷)を本国としその国籍を取得しておかなければならないことをこの蟻たちから改めて教えてもらった(フィリピ 3:20,ペトロⅠ,1:4,コリントII,5:1)。

 この地上には永遠の都はなく、全ては過ぎ去るのだ(ヘブライ 13:14,マタイ 24:35,ペトロII 3:10,11)。「蟻たちよ、今度はしっかり地中に巣を作れよ、私も主イエス様(の御言葉)という揺るがない岩の上に家を建て続けるよ」と語りかけたくなった(マタイ 7:24-27)。

 今日の夕食は自宅で御飯を炊いて、塩昆布ととろろ昆布と海苔の佃煮のおにぎりを作り、じやがいもと玉ねぎとピーマンの天ぷらを揚げて、ヒレルを招待した。彼は初めて食べる日本食(らしきもの)に満足してくれた。

 実は彼とは昨夜も部屋の前のポーチにあるテーブルで夕食を共にしたのだが、その時、彼は私に旧約聖書、特に創世記の天地創造等について質問してきたのだ。そこで私の信じているところを説明させてもらった。(つづく)。

再びキブツ生活(21)

 8/9(火)キブツでのヴォランティア労働は今日で終わる。明後日の早朝、日本から妻たちが来るので、明日の作業をデイオフにして欲しいと、アロンに頼むと快くOKしてくれたのだ。

 妻達の部屋や滞在費(食事など)はどうしたら良いかと尋ねると「あなたはここで6ヶ月も働いてくれたんだ。そんな事は全く心配しなくてもよい」と、妻たちは「ゲストとして歓迎する」と言ってくれたので感謝した。

 最後の作業はプール近くの幼児室前庭の除草とバナナ畑の樹の手入れであった。このバナナ畑で蟻の巣を見つけたので、イスラエルの蟻の話をしよう。蟻については箴言に「蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ」と語られている(6:6-8)。

 キブツには特大のものから極小のものまで様々な蟻がいた。土の中や腐木の中などに巣を作っている。シャワールームに出没する蟻はビデオテープを早送りして見るような俊敏な動きをしていて、まるでアニメを見ているかのようだ。

 今日、バナナ畑で見つけた蟻はバナナの樹の幹の中に(枯れかけた葉茎の内側に)巣を作っていたのだ。ここなら土を掘るよりもはるかに軽い労力で巣作りが出来るが、私が、それを剥がして除去すると多くの卵が地上に落下してしまった。

再びキブツ生活(20)

 ヨアブ氏は50歳前後で体格も私より小さく弱々しく見えた。彼は自分の身の上話を私に語り始めた。彼は生まれてすぐに彼の父が木から落下してしまった。その時はたいした怪我も無く見えたのだが、その後自転車で転倒し、体が正常に動かなくなってしまう。

 病院で検査を受けると胸に血腫があることが判明し、すぐに手術となったが9日後に亡くなった。彼の生後2週間の時であった。そのショックで彼の母までが、彼の生後 15週目に夫の後を追うように亡くなってしまった。

 彼の長兄はこのキブツの工場で元気に働いているのだが、彼自身は体は健康体だが精神を病んでいるのだという。しかし今は絨毯職人として働けるようになったので病状が少し良くなってきているのだそうだ。

 私は英語がダメなので彼に何一つ語ってあげることが出来ず、ただ頷くだけであった。英語で福音を語ることが出来れば、どんなに素晴らしいことかと、この時ほど思ったことはない。

 彼はこのキブツでの私の庭師としての仕事がとても良いので以前から感心していて、今日声をかけたのだという。「あなたはプロだ、ずっとここで庭の仕事を続けて欲しい」と言ってくれたので「ありがとう」と言ってから、しかしあと三日でヴォランティアの仕事を終えることを伝えて別れた。

再びキブツ生活(19)

 鈴木氏はテル・ダンの遺蹟(ヨシュア 19:47,士師 18章)の発掘の結果、町の入口の大きな門や、ヤロブアム王が築いた金の子牛の大きな祭壇(列王記上:12:28-30)が出土したことを教えてくれた。

 彼は帰国後、それらの映像のVTRを贈ってくれたので、神学校の「聖書地理」の講義に用いることができた。彼はキブツ住民の男性とへブライ語で会話を交わしていたが、最後に私に「つい先日、ギルガルが学者達によって同定されたよ」と語った。

 キルガルはヨシュアとイスラエルの民がヨルダン川を渡って最初に宿営した所である(ヨシュア 5:9,10)。発掘調査の結果、その場所が確定されたのだという。聖書に書かれてある地名が次々と発掘されて明らかにされてゆくことは素晴らしいことである。

 しかし、その中で語られている神からのメッセージに聴くことが比較にならない程、私達にとって重要であり、幸いだ、という意味で鈴木氏がキリスト教徒でないことは残念でならない。

 8/7(日)昨夜の食べ物が悪かったのか朝から腹痛と不快感があり、午後には血便となった。しかし作業は休まず、朝食前には花壇の除草、その後バナナ畑の房の袋掛け作業をした。夕食後に食堂から出た所で一人の男性が語りかけてきた。咄嗟でよく分からなかったが、私に話したいことがあるようであった。彼はキブツの住民で名前はヨアブだという。

再びキブツ生活(18)

 8月6日(土)、午前中は11日(木)にイスラエルに来る妻たちが滞在する部屋を整える作業をした。安息日のスペシャルランチを食した後、キブツ内を歩いていると一人の男性が語りかけてきた。

 彼は以前運転手をしていたが、事故に遭い負傷した為手術をしたが、その費用が何と5,000万円も要った。それが現在のキブツ・マアニットの大きな負担となっていて彼は肩身が狭いのだという(そう言えば、このキブツはとても貧しく食事も他のキブツに比べるとかなり質素だという)。

 それで彼は以前のように働くことが出来なくなったので、キブツ内に果樹を大量に植えることによって貢献しようとしているのだと言い、目の前の背丈1m程のなつめやしの木を指して「これらはみな私が植えたものだ」と言った。

 それから彼は「今、私の家に日本人が来ている」と言い、来るように勧めたので、私は驚いて彼について行った。部屋に入ってみると日焼けした一人の中年男性が椅子に座っていた。彼は鈴木重義という考古学に携っている人であった。丁度、ハツォール(士師記4:17)の発掘を終えたところで明日からベトシャン(サムエル記上 31:10)の発掘に行くのだと言う。

 彼は 1973年に日本キブツ協会からイスラエルに来て 1年半滞在し、その間へブライ語を学んだ。その後イギリスへ3年、そして 1980年再びイスラエルに来て 6ヶ月間ウルパン(ヘブライ語学校)で学び、ヘブライ大学に入学し、それから考古学に携ってイスラエル中を発掘し、日本で講演もしているという。

再びキブツ生活(17)

 シリア国境添いに更に南へ暫く走るとヨハナンが「ここがシリヤ、ヨルダン、イスラエルの国境だ」と教えてくれた。この後、車は西に向きを変えガリラヤ湖に向かって下り始めた。途中、素晴らしい景観の場所で車を止め、そこからガリラヤ湖全景を見下ろし、私はそこで何度もカメラのシャッターを押した。

 その後キブツ・エンゲブ近くの湖畔まで下って行き、キブツの南側の湖岸で下車した。湖岸は石垣で護られ、ユーカリや松の木が植えられている。私たちは 1.5mの高さの石垣を下りて砂利の浜に出て、そこで暫く遊泳を楽しんだ。

 昨年の大雨で水位が高く、昨年は岸辺に生えていたと思われる枯れた葦があちこちの水面から顔を出していて、気を付けて泳がないと危ないと思った。水は薄茶色に濁っていて生温かった。私は 15分ほど遊泳した後、湖岸の小石を拾い集めた。

 今日のツアーの予定はここで終わり帰途に着く。車がヨルダン川に添って南へ下りベテシャンの手前で西へ右折するまで対岸のヨルダン(昔のギレアド)の風景を眺めた。ベテシャンからギルボア山を左に見ながらハロデの泉のすく近くを通るがどこかは確認できなかった。

再びキブツ生活(16)

 シリア国境の非武装地帯を金網越しに眺めてから、アビダル山南側にある公園で昼食を楽しんだ。ここには、イスラエル軍によって破壊されたシリア軍の戦車や砲台が置かれていたので戦車の上によじ登って中を覗いてみたりしていた。ここにもシリア軍の築いた要塞や塹壕跡が多数残されていて、激しい戦場であった事がわかる。

 中東戦争やパレスチナ紛争に関しては様々な立場からの見解があるが、その根底にある問題については、余程注意深く検証してからでないと安易な見解は差し控えた方が良いと思う。日本での報道は根底にある問題に目を閉ざし表面的な浅い議論や無責任な発言が余りにも多いように思う。

 私達の車はそこから暫く国境の金網の柵に添って南へと走った。柵のすぐ向う側は深い谷になっている。その向うの台地の枯草の中に野生の鹿の親子が数頭づつゆっくり歩いているのが見える。この辺りの道は舗装されていないので、酷い揺れ方だ。しかも酷暑の中をとろとろ走るので忍耐の限界を超える程の心持ちだ。金柵の反対側はとうもろこし畑や放牧地になっている。

再びキブツ生活(15)

 谷底のダブラ川での遊泳を終えると、車に戻るために急な崖の岩場を 100m以上登った。酷暑の中を息を切らせ喘ぎながら「ヨハナンと来るといつもこうだ」と半ば観念しながら歩かされた。旧約時代のマナセ族の女性たちはこんな谷底まで水を汲みに下りて来たのだろうか。

 そこから車で更に北東へと高原を上がるのだが、車中は窓を開けても気分が悪くなるほど暑い。窓から入ってくる風が熱風なのだ。7月下旬のゴラン高原の暑さがどれほどのものかを体験できたのは或る意味で貴重な体験であったが、この時はただ苦しいだけであった。

 車はシリヤとの停戦ラインの非武装地帯の金網の柵の前まで来て停車し、私達は下車した。そして東側の非武装地帯とその中にある国連軍の建物(日本の自衛隊も駐屯している)や、その向う側のシリヤの緑の山の風景、そして無人の町となったクネイトラを暫く眺めていた。

 すぐ北の緑の小高い山の上には高い電波塔が建っており、その彼方には薄っすらと茶色にくすんだ真夏のヘルモン山を見ることができた。この辺りは古代からダマスコに至る街道であるので、使徒パウロがダマスコのキリスト教徒を捕らえるために 2000年前に歩いたのは、この辺だと思い(ここから東北へ少し進んだ所で復活のイエスに出会ったのだ)感慨深くその方向を見入っていた(使徒9:1-8)。

再びキブツ生活(14)

 ゴラン高原で先ず私達が目にしたものは第三次中東戦争の爪跡であった。先ずイスラエルが建造した戦争記念碑を見てから、シリア軍が残していった夥しい塹壕跡に出くわした。

 30年近く前の戦争跡が今も生々しく残され、又、コンクリート作りの要塞跡には、多数の銃弾痕が刻まれていた。赤茶色く変色し、スクラップ化した戦車や軍用車の残骸があちこちに見られる。まさにここで激しい戦闘が繰り広げられていた事が判る。

 身を翻して西方を見ると、ヘルモン山から流れ下るヨルダン川が遠方に見えたのでカメラに収めた。ヨハナンが同行する旅行は必ずかなりの距離を歩かされるが今回も同様であった。

 ゴラン高原にある深い谷底へと下って行った。そこはダヴラ峡谷であった。谷底には水の流れがあり、これはヨルダン川に注ぐゴラン高原からの支流の一つである。

 流れに添って上流へ歩いて行くと、美しい滝があり数十メートルもある落差を豊かな水が落下していて見惚れてしまう美しさだ。そして、そこが遊泳の場所で若者達は暫くの時間楽しそうに泳いでいたが、水が土色に濁っていたので、私は見物と決め込んで滝の写真を撮ったりしていた。

再びキブツ生活(13)

 夕方6時に食堂に行くと、ヨハナンがいて「家に夕食を食べに来ないか」と言ってくれたのでついていった。スパゲッティと茹でたアラビア豆を出してくれた。食卓でヨハナンは明日はヴォランティアトリップでゴラン高原(旧約時代のバシャン)へ行く、出発は朝7時、ガリラヤ湖で遊泳するので水着を持参するようにと告げた。

 7/25(月)朝7時半にキブツをいつもの車で出発した。いつもの道、キブツバルカイの横を通り過ぎてアフラ街道(国道65号)に出て東北に進む。カルメル山脈の南端の峡谷を上り切ると、左側にメギドの遺丘が見え、メギドジャンクションを過ぎると、エズレル平原に入る。周囲は畑である。

 エズレルの中心の町アフラに来ると直ぐ北側にナザレの町の丘が見える。そこから少し進むと南側にモレの丘が見え、その麗にはナインの村がある。すると進行方向にタボル山が見えてくる。その麓に来ると右側にエンドルの標識が立っている。

 タボル山の麓を回るようにして進路を北に取り、その先のゴラニジャンクションを直進する。(右折すればガリラヤ湖の町ティベリヤまで10km 少々)65号線はアッコからコラジンまで東西に走る85号線まで続いている。その合流点で右折しゴラジンジャンクションで左折し北に向かう。ハツォール遺丘の手前の分岐点を右に行くと95号線。ここを 10km程北東に進むとヨルダン川を渡っていよいよゴラン高原に入る。

再びキブツ生活(12)

 7/21(木)押方恵師が「群」誌、神学校教師会の議事録とお便り(教団の動静)を送って下さり受け取った。日本からの便りは嬉しい。直ぐに返事を書いて送った。

 夜、ヘブライ語を暫く教えて下さっていたドフ氏がちょっと部屋に来ないか、と招いて下さったのでお邪魔をした。彼はイスラエルではインテリ階層の人物で日刊誌の論説も書く。彼は私が聖書を信じる者と知っているので、次のように語り始めた。

 「アブラハム、イサク、ヤコブは実在した人物ではない。イスラエル人がエジプトに行ったこともない。エジプト王朝がヒクソス(セム族、エジプト人はハム族)の時代に彼らが礼拝していた神の名がヤアコブであった。

 トーラー(律法、創世記から申命記)は多分ネヘミヤからマカベア時代、ユダヤの歴史の沈黙時代(旧約と新約の中間時代)に創作されたのだ。9月の新年祭とヨム・キプール(大贖罪日)などは預言者や諸書のどこにも見い出されてないのがその根拠の一つである。それらはネヘミヤ時代の後にバビロンの暦から取り入れたのだ」と断言した。

 私はリベラルな神学者たちがこういう説を主張していることを既に知っていたので別に驚くことなく「私はそうは思わない」と明言し、私が信じ理解しているところを彼に語った。ドフ氏はすでに80才を超えていたので、何とか福音を伝えたかったが、学者を自負する彼を納得させることは難しかった。

再びキブツ生活(11)

 ヨハナンが語るところによると、いなご豆は完全栄養食で、昔の聖人たち(預言者、修道僧)はいなご豆と水だけで生きていたという。私はこのいなご豆のことから、ヒレルに英和対訳の新約聖書を見せ、ルカ福音書 15章の放蕩息子の記事を示した。

 そこにいなご豆への言及があること(15:16)、そこからイエスキリストについて話した。主の降誕から十字架の死、復活までのこと、そして私はこのイエスを主であり、ユダヤ人のメシヤであることを信じていること、使徒パウロのことを使徒の働き7-9章、コリント1、15章、コリントII、11章から話して聞かせ、初代のクリスチャンはすべてユダヤ人であり、新約聖書の殆んどはユダヤ人によって書かれているので是非読んでみるようにと薦めた。

 イスラエルに来て初めて主イエスを証しすることが出来たのである。カナダから来たユダヤ人のヒレルは神妙な表情で私の語るのを聞いていた。

 7/20(木)庭で共に働いていたキブツの青年アモスが18歳になり明日から兵役に就くので朝10時に小パーティの時を持った。パレスチナのテロ攻撃が頻発しているので徴兵されて3年間軍務に従事するのは命懸けである。しかし三年経て戻って来ると、精神的には立派な大人に成長しているのだという。

再びキブツ生活(10)

 エロンの体験談を聞いていると、困難や貧しさが人を不幸にするのか、順境と豊かさが人を本当に幸福に導くかどうか、キブツの現状を見るまでもなく、今の日本を見ても同様の現象が見て取れるのではないか、深く考えさせられることである。

 どのような土台の上に今の私達が築き上げられているのか、これは信仰者である私達が決して見失ってはならない視点でもある。私達の土台とは言うまでもなくイエスキリスト(の十字架と復活)である(コリントI、3:11)。尊い犠牲の上にあるということを。

 夕食後、エロン夫妻宅を訪ね、明日の除草場所を尋ねた。彼らは私が帰国する際に彼らの庭にあるカンナやゼラニウムをたくさん持ち帰るようにと言ってくださった。

 7/19(火)早朝からエロン宅の庭の除草作業、そして全てを完了した。夕刻になって隣室のヒレルが両手に何かをぎっしり詰め込んだビニール袋を持って私の部屋にやって来た。そしてその袋から乾燥して黒くなったいなご豆の莢(さや)を一本取り出して私に食べてみらと言う。そして彼が先ず自分で食べ始めたので私も食べるとにした。

 果肉が少なく表皮が硬くパサパサなのでなかなか喉を通らないが味は子供の頃によく食べた椋(むく)の小さな黒くなった実に似ていると思った。レーズンサンドのクッキーとも似た味なので噛んでいると甘い汁が出てくる。私はなかなか飲み込めなかったがヒレルは食べている。

再びキブツ生活(9)

 7/18(月)朝食後エロンとハビーバー老夫妻宅の除草作業である。今日は玄関までの通路脇に生い繁った雑草を根から引き抜くことにした。

 エロンはその時85歳、バルト三国のエストニアからのアリアー(帰還者)だ。彼が私に話して聞かせたところによると、1934 年に彼が現在地に入植した時はひどい荒地で、石ころと蛇とさそりだけの地であったという。体よりも大きな石を朝から晩まで働いて取り除いて畑作りをし、夜はテントで疲れ果てて寝る。

 アラブ人の襲撃からキブツを守るために徹夜の警戒を毎晩交代でする。そういう苦難を通して今のマアニットが築かれて来た。エロン自身は植樹の担当であった。その当時は井戸も水道も無かったので雨期に天から降ってくる雨だけを頼りに雨期の期間だけ木を植えたそうだ。現在のキブツは木々の林に囲まれ、まるでエデンの園のようになっているが、当初は一本の木も生えていなかったという。

 彼は私に自分の手と足を見せた。両膝、両肘、手の指の関節の全てが団子のように醜く大きく膨らんでしまっている。体の全ての部分が傷んでしまっているという。このキブツの先輩達は皆、体がこんなにボロボロになるまで働いてきたのだ。現在の環境は与えられたものではなく勝ち取って得たものなのだ。(土地は正当にアラブ人地主から買い取ったものである。)しかし、今のキブツの若者たちはエロンたちの労苦を全く理解していないのだという。

再びキブツ生活(8)

 7/14(木)今日も墓地の除草作業。続々と陶器の小片が出土してくるので拾う。くすんではいるが彩色されている物や取っ手の一部とみられるものも混じっている。

 この日南アフリカの景勝地ケープタウンから来ていた姉妹が帰国して行った。妹(18才)は4ヶ月、姉(22才)は2ヶ月間の滞在であった。この二人は非喫煙者だったが、このキブツに来て、女性の喫煙者が多いのに驚かされる。

 ヴォランティアの女性の半数近くが喫煙し、キブツ住民の女性にも喫煙者が多い。それに比べると男性の喫煙者は数えるほどしか見当たらない。それは食堂での食後の情景を見るとよくわかる。又、ヴォランティア女性の多くが手や足にタトウ(入れ墨)としているのにも驚かされた。

 男性にもいたが欧米人にとってはタトウは単なるアクセサリーの一種なのだろう。それに性的タブーも殆んど無いようで、その経験を求めてヴォランティアに来ているように見えた。これらはキブツの青年たちも同様のようで、長老格の方々が嘆いておられた。

 イスラエルの兵役は男女共にあるために兵役中に妊娠する女性が極めて多く、その中絶費用は全額国が負担する制度ができている。年間万単位の胎児が暗に葬られているのが現在のイスラエルだ。

 ユダヤ教のラビたちは胎児を人間とは認めないので中絶は宗教的に合法と認めている。神の法よりも人間の欲望や都合が大手を振っている社会は世界中を覆っており、このイスラエルも例外ではない。

再びキブツ生活(7)

 7/12(火)、キブツの墓地の除草作業。キブツの墓地は居住地域の南西にある小さな丘の上にあり、この丘も遺蹟の丘(テル)らしい。雑草を根ごと引き抜くとローマ時代の物と思われる模様入りの土器(つぼ)の破片が一緒に出てくるのだ。それらを拾い集めて持ち帰ることにした。

 墓石を見て回り墓石名を見ると、アブラハム、イツハク(イサク)、ヤアコブ(ヤコブ)など旧約聖書中の人物と同名のものもちらほらあり(当然のことだが)、へブライ語のその文字を見ると思わず立ち止まってじっと見てしまう。

 7/13(水)今日はキブツの庭担当前任者(名前は聞かなかったが 65年前ルーマニアから帰還した人)の家の庭の除草を頼まれた。そこはジャングルのように草木が蔓延ってしまっていた。その大半はブラウンベリーの棘だらけの木で、それをすべて刈り取った。

 ここの庭には、びわ、グレープフルーツ、ペカーンナッツの木などの他にさまざまな花が植えられていて、この時はダリヤが美しく咲いていた。

 キブツでは度々停電が発生したが、今日も午後から夕方 6時半になっても停電のままなので夕食は中央食堂で食べることにした。パン2切れといちごジャムとレタスだけであった。7時40分になって電気が回復したが9時頃まで何度も停電した。

再びキブツ生活(6)

 拳式後には祝宴があり、その最後に再び七つの祝福が唱えられる。安息日や祝日の挙式は禁じられている。喜びを混ぜてはならないからである(旧約聖書では混ぜることは汚れること、分離することは聖別することとされる)。

 また新月(大陰暦の月初め)とオーメルの期間(過越祭から七週祭〈シャブオット・ペンテコステ〉までの期間)、又は畏れの日々にも挙式はしない。結婚年齢は男子は13歳以上、女性は12歳以上であれば「大人」とみなされ、結婚は有効とされる。旧約聖書では多妻は禁止されてはいないが、11世紀初頭に発布された「禁止令」以降は殆んどのユダヤ社会では多妻は見られないという。以上が前掲書の要約である。

 この夜の結婚式の模様を一部始終、強いライトの下で2台のビデオカメラで収録していた。それもビデオ編集機まで持ち込んでの本格的なもので、ショー的要素満点だ。祝宴は夜を徹して行われ、歌や様々なアトラクションが登場するのだが、私には翌朝の作業が控えているので祝宴が始まるとすぐに部屋へ戻って休んだ。

 7/8(金)、日没後、キブツ内のべイト・ハビーバーでモロッコから帰還したユダヤ人たちの演奏とダンスの公演があった。私は所用があって最後の 5分少々しか見ることが出来なかった。5人の男性が踊り、管楽器と太鼓を演奏していた。

再びキブツ生活(5)

 フッパの下に来た二人にラビは杯のワインを祝福して二人に飲ませると、花婿は花嫁の右手の人差指に指輪をはめながら「見よ、モーセとイスラエルの律法に従い、この指輪によってあなたは私のために聖別された」と唱える。ラビはクトゥパ(誓約書)を読み、花婿はクトゥパを花嫁に手渡して婚約式(エルシン)は終わる。

 式の後半は「ニスイン」(結婚)と言う。昔は婚約と結婚の間には一定の期間があった。マタイ福音書 1:18、ルカ福音書 1:27のマリヤとヨセフはこの婚約期間中であり、同居は許されなかったが公的には夫婦と認められていたのである。だから当然「シドゥヒン」(結婚式)と「ニスイン」とは別々に行われていたが、今日では一連の儀式として一つになっている。

 ラビは二杯目のワインの杯を祝福し「婚姻の七つの祝福」という頌栄を唱える。その詩は「我らの神、宇宙の王なる主よ、ぶどうの実の創造主であるあなたは誉むべきかな」で始まり、「花婿を花嫁をもって喜ばせるあなたは誉むべきかな」で終わる。最後に花婿がガラスのコップを踏み砕くという見せ場がある。結婚の喜びの時においても、神殿の崩壊以来、ユダヤ人の味わってきた悲しみを忘れないためにと説明されているが結婚の脆弱性や今なお購いを必要とする世界を象徴するものとも言われる。

再びキブツ生活(4)

 ユダヤ人の結婚式は 15世紀以降は習慣的にラビが司るようになり、現在に至っている。そして二人の結婚が公になるために公的祈り「ミシヤン」に必要な最小限 10人の成人男子の臨席が一般的に受け入れられており、今回のキブツでの挙式もそれは充分に満たされている。当人二人だけとか少数の身内や友人だけの挙式はユダヤ人の間では、有効と見做されていないようだ。

 式そのものは二部に分かれていて、前半は婚約の儀式で「エルシン」又は「キドゥシン」と呼ばれる。「エルシン」は申命記 20:7にある「エラス」(婚約する)からきている。「キドゥシン」は「ヘクデシュ」(奉献する)からきており神殿に捧げられた物は他の用途に用いることができないように、花嫁は夫以外の男性には禁じられた存在となったことを示唆するものである。

 この婚約式で「クトッパ」(婚約誓約書)の作成をする。この誓約の中で花婿は、もし離婚することになった時に女性に支払う金額をこの誓約書に書き込むことになっている。誓約書に二人が署名すると、花婿は花嫁の所へ案内されて花嫁の顔のヴェールを下ろす。

 花嫁が聖別されて未来の夫ものとなったことを示すためである。この後花婿は彼の父と花嫁の父に伴われ「フッパ」という天蓋の下へ移動する。続いて花嫁も両方の母に伴われてフッパの中に入る。

 フッパは一辺が1.5m前後の四角い布で、その四隅を棒の柱で支える。それを四人の男性が柱を持って支えるのだ。これは二人の新家庭の象徴である。その貧相な造りが家庭の平和の脆さを象徴するのだ。

再びキブツ生活(3)

 7/14(月)午前中は庭の除草作業。日差しは厳しく、昼前にもなると作業着を突き抜けて熱が背中をジンジンと焼き付けてくる。しゃがんでの作業なのでそれほど重労働ではない。西(海)側からの風が心地良い。

 昨日、妻がキブツに来る日程(8/11-24)が判明したのでキブツ側(アロン)に伝えた。昼にミニマーケットで土産用のオリーブオイルを三本購入し箱詰めにした。

 7月6日(水)庭の花の植え替え作業、乾燥で固くなった石だらけの土地を掘り起こす作業は大変であった。午後、荷物を船便で一箱発送した。重さ16Kgで送料 5700円(155シェケル)もする。日本に着くのに2ヶ月かかる(9月上旬)という。

 7月7日(木)ようやく食堂前の花壇をきれいに出来た。エストニアからの帰還者エロンとハビーバー夫妻が通りかかって「日本に帰ったら、あなたはプロの庭師になれるよ」と声をかけてくれた。そして今夕、このキブツで結婚式があることを教えてくれた。そういえば昨夜から食堂横の庭の芝の上にテーブルを並べたりライトを設置して準備をしている。

 今日、島崎藤村の『破戒』を読み終えた。以前ここで働いていた日本人が事務所の本棚に残していった文庫本である。

再びキブツ生活(2)

 6/27(月)午前中はシクラメン畑で球根の収穫作業だ。専用の特殊トラクターで球根を掘り起こし車上まで引き上げてから布袋に穫り入れる。同時にローマ時代の土器の破片も出土するので、それは自分の作業服のポケットに入れて、土産物として持ち帰る。

 午後、日本の家族に電話をした。先の手紙で妻が、8月に家族と教会員でキブツを訪れると書いてきたためだ。諸事情により子供達は連れて来ない方が良いと伝えた。

 6/29(水)庭の除草作業、体調が今一つ優れないので、この日の作業は午前中に終わらせてもらった。毎日へブライ語文法の学びを続けているが「ヒーレク」という言葉に出合った。「部分、分け前」という意味である。

 私はすぐにこれは使徒パウロが彼の手紙でしばしば用いている「分、部分」(ギリシャ語のメロス)と同じ意味ではないかと思った。キリストの体である教会、私たちはそれぞれが分担してその働きを担っている。神はそれぞれに一部分を分け与えてキリストの体なる一つの教会を形成させておられる、と教えている。(ローマ 12:3-8、コリントI 12:12-28、エフェソ 4:16)。

 一人では体は完全な形ではない。一地方教会だけでもキリストの体は完全ではない。それぞれが互いを必要としているという正しい自覚と謙虚さが不可欠なのだ(ローマ 12:3、ヨハネ 17:22,23)。

再びキブツ生活(1)

 6/24(金)、5:57起床キブツでの日常生活に戻ったが、旅の疲れのためか朝起きるのが辛い。今朝も作業開始直前の目覚めだ。ベッドから飛び起きて隣室のヒレルを起こし、作業に向かつた。今日は日没から安息日なので仕事は午前中で終わる。

 バナナ畑で切り倒した株の芯抜きとトレーラーのペンキ塗りをした。朝、バナナ畑に隣接する畑に数人のアラブ人が働きに来ていて、耕された畑から石を除く作業をしていた。

 ヨハナンの話によると、彼らに支払う日当は数人一纏めで頭領(ブローカー)に渡すのだそうだ。全員分1日で60シェケル(2200円)で、一人一人にいくら渡っているのか知らないという。

 パレスチナ地域では10シェケル(370円)というから、キブツで働くと6倍の俸給になり、喜んで働きに来てくれるそうだ。しかしユダヤ人を雇えば、この何倍もの日当になるのだという。

 キブツでの労働ボランティアには生活用品一式付きで一ヶ月お小遣いとして100 シェケル(3700円)が支給され、キブツ内の店でのみ使用できるクーポン券 10シェケル分がもらえる。これで結構充分暮らしてゆけるのだ。

 今日は午後 3時からキブツデイということで近くのキブツシェフィイムに行くことになった。住民とボランティアの有志が大型バスに乗っていく。大プールが二槽、大すべり台が7~8基、波を起こすシステムもあり、本格的な施設がある。

 安息日は入場料38 シェケル(1400円)、平日22 シェケル(800円)もするが今日は無料開放日(キブツ構成員のみ)なのだ。

エルサレム独り旅(53)終

 テルアヴィブバスステーションで乗換えてバデラまで行く。急行バスでなく、道路も混んでいたので予想外に時間を費やし、バデラ到着が17時45分、そこで再度乗換え、最寄のバス停キヴァッド・ハヴィーバーで降りてキブツまで歩く。

 途中キブツに戻る乗用車が通りかかったので同乗させてもらって 3 日ぶりの帰宅となった。何もなくてもやはり自室はくつろげる。べッドに腰をかけて今回のエルサレム行きを思い返してみた。

 ヒンノムの谷、キドロンの谷、ゲッセマネの園、オリーブ山ベトファゲ、ベタニヤ、ベツレヘムのボアズの野を自分の足で歩けたこと。ベツレヘムのベイト・サフールにはアラブ人のキリスト教会があり、多くの兄姉が聖日礼拝に集まっているのをこの目で見る事が出来た事。

 エルサレムのアラブ人の子供や青年たちの心がとても荒れていること。オリーブ山を越えてベタニアまで歩いて1時間で行けるが、とても急な坂道が多かったことなど十数項目を日記に書き留めた。

 しかし見る事が出来なかった所も多くあり、ヘロデ王家の墓、エンカレム、旧市街の城壁の上を歩くこと、ヘブロンやベテル、シロも行ってみたい所であった。しかし無事に帰って来られたことを主に感謝した。

エルサレム独り旅(52)

 クムランでも死海対岸のモアブの山々、ピスガの峰辺りをカメラに収めた。死海は蒸発する水蒸気のためにいつも対岸が霞んで白っぽく見える。15 分でクムランを発って次に向かったのはエリコの食堂であった。ここで昼食を摂ってこの荒野ツアーは終了するのだ。エリコについては先に述べたので省略する。

 ヤッフオ通りのシオン・スクェア(KIKALZION)前の宿に着いたのは午後2時半だった。すぐに荷物をまとめてチェックアウトし、最寄のバス停から乗車、エルサレム・セントラルバスステーションに向かった。

 イスラエルの路線バスは車内放送のサービスがないので注意を怠ってはならない。バスの前部から乗車した時に運転手に降車駅を告げ、着いた時に教えてくれるように頼んでおく。しかし運転手はそんな事にかまっていられないのか忘れてしまうのか、教えてくれた事は一度もなかった。

 おかげでカイザリヤでは一駅乗り過ごしてしまった。バスに乗車した時、大声で降車駅を告げたことが良かった。それを聞いていた乗客の婦人が私が気付かずに座席に座っているのを見て教えてくれたので急いでバスから飛び降りて事なきを得た。

 そしてそこから 3 時発のバスでテルアヴィブへ向かう。2階バスの上階からの眺望は最高だ。アヤロンの谷、エマオ、ロッド(ルダ)をカメラに収めた。

エルサレム独り旅(51)

 クムランへは主イエスは一度も訪れず、彼らは福音を聞くことなく、ローマに滅ぼされてゆきます。私たちは神の賜物と召しを軽んじてはなりません。自分が救いに導かれた教会、教団が先ず私が神に召された所です。その所にどのような欠陥があったとしても、そこが主によって私(あなた)が置かれた場所です。困難な問題がそこにあっても、それゆえにこそ、神が私をそこに召しておられると信じることが、神の召しを受け入れることです。

 自分の見た判断だけでいるべき場所を離れ、自分にとってより良い場所(教会、教団)へ移っても、そこに私に対する神の御心(祝福)はないと考えるべきです。場違いな所にいても、自分にとっては良く見えても、神の私へのご計画はそこには存在しないのです。

 エヴァが蛇に欺かれて一線を越えてしまったように、自分が洗礼を受けた数会を安易に去ることは、神の計画を乗り越えてしまうことです。進学、就職、結婚、転勤、病気、入院、被災などで転居した場合の転籍は仕方がありません。私はクムラン集団のことから、これらのことを学ばせて頂いたことを感謝しています。

 神を畏敬しつつ謙虚に歩み続けることは容易ではありません。自分にとってよりよく見える場所への誘惑は常に目から入ってくるのです。

エルサレム独り旅(50)

 「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」(ローマ11:29)「ただ各自は、主から賜わった分に応じ、また、神に召されたままの状態にしたがって歩むべきである。これがすべての教会に対してわたしの命じるところである。」(口語訳コリント第1、7:17、20、24)。

 後徒パウロは神がご自分の民に与えた賜物(能力、職分、持ち場)と召し(任職)とは取り消されることがない(存続しつづける)ことを明確に示した。ユダヤ人として召された(生まれた)人、既婚者が信者となった後の婚姻関係。奴隷で信者となった人々の立つべき信仰姿勢について述べている箇所である。

 今のままの状態で主にお仕えすることが、それらの人々への主のみこころ(ご計画)である、と。ユダヤ人として祭司家系に生まれ、主の聖所で仕えることが神の律法によって定められてしまっている者たちが、現在のエルサレム神殿も大祭司たちも腐敗し尽されているという理由でエッセネ派の祭司たちは、召された持ち場を捨てて荒野のクムランに下り、そこで新たな清い共同体を作り、神の律法に仕えて生きる道を選んだのである。

 それでも他の多くの祭司にちはエルサレムにとどまり、律法が命じている日々の神殿での務めを忠実に執り行っていたのである。その一人がサカリヤである。神がメシアの到来の福音を告知したのはクムランではなくエルサレムであった(ルカ1:5~17)。

 このことは、私たちに、とても大切なメッセージを伝えているように私は思っている。主が私を召して下さった所(教会、教団)にとどまって主にお仕えすること、これが主のみこころ、原則なのだ。

エルサレム独り旅(49)

 クムランは20世紀最大の考古学的発見とされている。600巻にも及ぶ死海文書と称される聖書写本などが発掘された所として有名な場所である。発掘品にはほぼ完全な形のイザヤ書(2巻)と詩篇(1~151編)も含まれている。

 この写本発見を契機に洞窟周辺から多くの住居跡も発掘され、この住民はクムラン宗団と呼ばれている。イエス様の時代に聖書に出てくるファリサイ派とサドカイ派の他にエッセネ派もあった事がヨセフス(1世紀頃のユダヤ人歴史家)の書物によって知られていた。

 このクムラン宗団がエッセネ派だというのが現在では定説になっている。サドカイ派はエルサレム神殿に仕えている祭司団の人々であったが当時の政権と癒着し腐敗しきっていたグループであった。イスラエルの貴族階級で富裕で利権を守るために様々な汚職・犯罪を繰り返し行い主イエスを殺してしまう。

 一方、エッセネ派は同じ祭司家系でありながらエルサレム神殿を支配する祭司たちとは一線を画し、神の前に聖別された生き方を貫徹しようと、神殿に訣別し荒野のクムランで新たな共同体を形成した人々であったことが判明している。

 しかし彼らも1世紀終り頃にローマによって滅ぼされたが多くの貴重な文書を洞窟に隠して後世に残したのであった。しかし、神は分離したクムランにではなく、エルサレムの祭司ザカリヤにみ使いを遣わし(ルカ 1:5-20)、洗礼者ヨハネを遣わされたのであった。

エルサレム独り旅(48)

 ゲートからダビデの滝まで徒歩で 30分、戻る時間を30分とすると残りは 30分。この時間をどう過ごすか、が思案のしどころである。ここでゆっくり休んで滝を見ているか。上空を鷹らしい鳥がとんびのように上昇気流を利用して大きく羽を広げて々とゆっくり浮かんでいた。

 滝と鳥のウォッチングも良いが、日差しがきつい。左側にある高い丘を見上げると、そこを登って歩いている人が見えた。その道は滝の上に続いている。ここまで来たのだから出来ることなら滝の上を見てみたい、というのが本音である。

 そこはまさしくサウル王から逃げ回ったダビデと家来たちが歩いたであろう場所だからである。僅か30分だから片道15分しかない。どうみても 15分では上まで登り切れないように見えた。その上、少し前にマサダを登ったばかりで、この日差しである。結局この滝を見ることで満足する外なかった。

 次に私達は死海文書が発見されたクムランの遺蹟に向かった。エンゲティから北へ30km、エリコから南へ 15kmの位置にある。エルサレムから東へ 30km 少々だからそれ程離れてはいない。死海北部の西岸にあるが、ここでの見物は15分だけ、土産物店を見るだけだ。

エルサレム独り旅(47)

 この「ユダの荒野」ツアーは参加者に当日の行き先や、タイムテーブルなど一切告げられていないので、どこを見るのか、いつまでそこに居るのか、行って見るまで分からないのだ。エンゲディ国立公園での滞在時間は約一時間半、ガイドはつかず完全自由行動である。公園ゲイトを潜って死海を背にして西の方向に歩いて行く。左側は金網のフェンスがあり、その向こう側に木が所々に生えていて、長い角が後ろに反り返ったガゼルが数頭私の方を見つめている。

 それを横目に見ながら緩やかな登りの道を大きな石と丈の高い草を避けながら歩いてゆく。ここは雨期には水が流れて死海に注ぐワジ(水無川)だ。直ぐ下には水分が含まれているので草が繁っているのだ。

 更に歩いて行くと右側が岩壁になり、その上部に所々洞窟のような穴が開いているのが見える。そしてこの辺りから足元に水の流れが見られる。今は乾期なのでこの流れは途中で土中に浸み込んで死海にまでは届かない。

 かってダビデが主君サウル王の手を逃れてこの場所に身を隠したことがサムエル記上に記されている(24章)。ここは古くからオアシスとして知られていて、古くから栄えた町があり、その遺蹟も発掘されている。

 今はキブツエンゲディがあるだけである。真青な空の下、後方を振り返ると彼方に青い死海が見える。更に歩いて行くと目の前に大きな滝が出現する。「ダビデの滝」と呼ばれているもので30分ほどの道のりだった。